21 久しぶりの自分の屋敷にて
久し振りに見る自分の屋敷。
空けていたのはほんの数日ばかりだというのに、なぜか妙に懐かしく戻ってきたなと思える。
だが、胸に刺さったままの棘が抜け落ちたわけではない。
今でも色鮮やかに思い出すのは、去られた女の影。
笑った時にえくぼが窪むのが愛らしかった。
――やはりそう易々と忘れ去る事は不可能か……
こうなる事はわかっていたとばかりに襲ってきたのは、抉るような痛み。
それでも逃げずに屋敷の敷地内に足を踏み入れたのは、昼間の衝撃の出来事のせいだろう。
だがほんの少しばかりでも、心にそんな事を考えるほどの隙間が出来た事は喜ばしい。
石畳を歩きながら玄関扉まで向かうと、手も触れていないのにそれが勝手に開き中へと招き入れられる。
「お帰りなさいませ、旦那様」
いつものように老執事であるマダンが出迎えてくれた。
「今戻った」
そう告げればマダンの酷く安心した表情に罪悪感が襲ってくる。
自分の事で精一杯で周りの事が見えていなかった。
心配かけたのだがマダンは何も言わず、いつものように羽織っているコートと荷物を受け取った。
それに俺は「もう大丈夫だ」と小声で呟くように告げ、妻の居場所を尋ねた。
「部屋におります」
「わかった。三階には誰も近づけるな」
俺達の私室のある階を人払いするように告げると、玄関ホールの脇にある階段を昇って部屋へと向かう。
――あれは本当にスッピンなのか? 特殊なメイクではないのか? 人間、あんなに顔が変わるものだろうか……
ぐるぐると頭を駆け巡るそれに意識が全て持っていかれる。
ややこしいのが増えた。
愛していた女の駆け落ちで心を痛めていたのだが、あのスッピンに持っていった。
何か浄化作用でもあるのだろうか。あなどりがし、夜光蝶の素顔。
しかし化粧前は可愛い系なのに、化粧後は妖艶。
ウサギと豹は実は同一でしたと言われているようなもんだぞ?
そもそも、なんであいつはあんな恰好を?
……だめだ。考えてもわからない。
そんな事を考えていると、あっという間にセラフィの部屋の前へと辿り着く。
「今帰った。おい、話を聞かせろ」
ノックもせずにセラフィの私室の扉を開けば、化粧で完全武装した女がソファに座り優雅に紅茶を飲んでいた。
スッピンなら、茶や可愛らしい小物も釣り合うが今は夜光蝶。
妖艶さを醸し出しているため、ワイングラス片手に……という方がしっくりとくる。
「……お帰りなさい。せめてノックぐらいして頂けると嬉しいのだけれども。レダ、ベリル様にもお茶を」
その命を受け壁際で控えていたレダは腰を折ると、そのまま退出した。
先ほどのスッピンの時には砕けた口調だったのだが、今はいつものように戻っている。
「それで? 説明しろ。俺はどうしてメイド服マニアになっているんだ?」
セラフィの反対側の席へと腰を下ろして早々口火を切る。
はっきり言って、メイド服になんてこだわりは一切無い。
それなのに本人の知らぬ場所にて、なぜかそんな性癖がある事にされなければならないのか!
それなりに重要な案件でなければ割に合わない。
「えぇ。その前に、私の最大の秘密誰かに言いましたか?」
「なんだよ? お前の秘密って?」
「ス・ッ・ピ・ン!」
「あぁ。しかし凄いよな、本当にあれは。あんなに衝撃を受けたのは、生まれて初めてだ。なんというか、もう人間というものは何だろうか? そんな哲学的な事まで考えさせられたぞ」
まるで顔だけを取り換えたかのような、インパクト力。
潜入捜査で使えそうな技術力にただただ感服。
今度何かあったら依頼してみるか……?
どれぐらいの経験を積んだらそうなれるのだろうか? どれだけ研究したのだろうか?
そんな事まで考える始末。スッピンは結構奥が深かった。
「それは置いておいて下さい。それよりも、誰かに?」
「いや。お前に憧れと夢を持っている男達の心を、むざむざと打ち砕くわけにはいかないからな。それに、俺も未だに信じられない部分もある」
そう告げれば、セラフィに複雑そうな顔をされた。
「そうですか。では、他言無用で」
「わかったと言いたい所だが、理由次第だ。なんせ、俺はメイド服マニアにされているんだからな」
「……今から理由をお話致しますわ」
セラフィは長い瞼を伏せ震わせたながら、膝の上で添えている両手をきつく握りしめるとゆっくりと息を吐き出す。
どうやら込み入った話があるのは事実らしい。俺は大人しく耳を傾ける事にした。
「実は、イアちゃん――友人の行方がわからなくなってしまったのです。針鼠の歯車という、店をご存じですか?」
「あぁ、確かロシェ国料理店だよな。教会から少し先に行った所にある」
「えぇ。祖父母の行きつけの店で、私も良く忍んで通っていましたの。それが縁でイアちゃんとも仲良くさせて頂いて……身分違いの方と結婚する予定でしたので、噂では反対され駆け落ちではないか? という噂もあります。ですが、決して店に黙って辞める子ではありません。駆け落ちするにしても、一筆残していくはずです。ですから、心配で白竜騎士団へと潜入したのですわ」
「そうか」
やっと事情を理解することができ、腑に落ちた。
王都の……民の管轄は白竜騎士団。
だからセラフィは白竜邸へやってきたのだろう。
捜査資料目当てに。しかし、度胸があるというか、なんというか。
――……まぁ、そういう理由ならばメイド服の件は目を瞑るか。
「わかった。俺の隊は今回の件に関与してないが、捜査資料を見ておく。何かわかったら、後で報告しよう」
「ありがとうございます」
テーブルに額が触れそうなぐらいまで深く頭を下げるセラフィを目にしながら、俺は意外だと思った。
城下町に友人がいることもさることながら、まさかその友人のためにあんな行動に出るとは想像もできない。見た目と中身は違うと改めて感じてしまう。
「しかし、なぜ化粧をする必要があるんだ? 別にみてくれは悪いわけではないだろうが」
セラフィのスッピンは、夜光蝶の時と違い華やかではない。
むしろ正反対の人形のような愛らしさ。菫のように素朴で可憐。
騎士たちに囲まれていたのも理解出来る。
「それは……」
深く沈んだ声と共に、纏っている空気もがらりと変化。重く息苦しい。
セラフィは薄暗い洞窟に取り残された子供のように、不安げな表情をしたまま瞳を揺らしている。
「大丈夫だ」とつい手を伸ばし抱きしめてしまいたくなるぐらいに、消え入りそうで儚げだ。
どうやら他人が気軽に触れてはならない領域らしい。
そのため、俺は「そうか」と一言だけ言葉を発しそれを終わらせる。
「夜光蝶だと、口調も変わるんだな」
「えぇ。感情的にならなければこのままですわ。化粧は仮面のようなものですから」
「あぁ、なるほど。夜会の時は指輪の件で口が悪くなったのか」
「そうです。この指輪は、お爺様からお婆様への愛が注がれている結婚指輪。祖父母の遺品はこれだけですので。だから馬鹿にした貴方は許せず、感情を押さえ込めなくて……」
懐かしむように指輪を見詰めているセラフィを見て、俺はその想いを嘲笑った事に対して自然と謝罪の言葉が口から出る。
「……悪かったな」
「え?」
「指輪の件、馬鹿にして。水面下で進められた結婚でイラついていたんだ。しかも、あの夜光蝶と。だが、それは別としてその指輪はお前にとって心の拠り所になっていると知った。それに、お前の件も誤解していた。てっきりあの男達を手玉に取っている侯爵夫人そっくりの容姿だから、そう思ってしまったんだ」
「それは仕方ありませんわ。だって、そのように演じていましたもの。夜光蝶はお母様のように夜会で男性達を虜にし、掌で転がす女。それが自分を守るたった一つの方法でしたし……」
そう言ってやや困惑気味に微笑むセラフィに対して、俺は訝しげに片眉を跳ねさせた。
――自分を守るとはどういう意味だ? 母親に似た女を演じなければならない理由は一体……もしかして、夜光蝶はこいつにとって足枷になっているのか。あぁ、そう言えばこいつの口から両親について聞いた事がないな。
そうぼんやりと頭の片隅をよぎった時だった。ノックの音が響き渡ったのは。