6
風が温い。
アクトスの頬を撫でる風はひどく湿気を帯びており、息が詰まるようだった。不愉快なその空気は、風上に大勢の人間がいるということを匂わせる。重苦しい空気を切り裂きながら、アクトスはただひたすら走る。走る。
アクトスは必至で歯を食いしばり走った。向かう先で生死をかけた戦いが繰り広げられている。その事実に、まだ理性も感情も追いついてはいない。ただ必死で、いかなければという想いだけで走っていたアクトスだったが、それはすぐに驚愕に変わる。なぜなら、いつのまにか並走しているミリサに気づいたからだ。
「は!? なんでお前がいんだよ!」
「いいじゃないですか、別に! 私は副隊長の側付きですよ? 側付き! ならどっから現れたっていいんです!」
「なんだそれ! わけわかんねぇよ!」
「わかってください!」
「じゃあ、わかった。お前はストーカーだ、ストーカー! きもい! うざい! 死ね!」
「ひどい!」
二人は一見、軽口をかわしつつも、表情は明るくない。王国防衛隊が敵襲を受けている。耳だけではなく目でもそれを確かめたく、矢のように野営場所に向かっていった。
空をみると、暗闇の中にいくつか煙のようなものが立ち上っているのが見える。何が燃えるのか。そんなのはわかりきっている。
「くそっ! こんなはずじゃ……。こんなわけないのに! こんな大人数で固まってんのに――攻めてくるやつがあるかよっ」
走りながら、それでも言わずにはいられない。自分の予想を超えた敵の行動にアクトスは思わず悪態をつく。が、それを聞いていたミリサは冷たく言い放った。
「でも現に敵はいます。やるしかないんです」
「わかってる!」
アクトスの叫びはまるで駄々をこねる子どものよう。しかし、そうでもしないと、アクトスは何かに押しつぶされそうな気がしていたのだ。
そうこうしている間に、ようやく野営場所が見えてきた。それをみて、アクトスとミリサは目を見開く。
すでに、王国防衛隊と盗賊とみられる賊とは交戦中だ。寝泊まりをしていたテントはいくつか炎を上げている。金属がぶつかり合う音と怒声が響き、初めて相対する戦場を前にしてアクトスの足は不意に止まる。
膝は震え、歯は先ほどからカタカタとぶつかり合っていた。
「副隊長?」
ミリサがアクトスの様子の変化に気づき問いかけるも返答はない。どこか一点を見つめているアクトスは、目の前に倒れている盗賊の死体をじっと見つめていた。鼻腔をくすぐる血の匂いは、容易に吐き気を連れてくる。
「うっ――」
口元を抑え、うずくまるアクトス。そんなアクトスに駆け寄ろうとしたミリサだったが、瞬時に細剣を引き抜いて中空へと振るう。
カンッ!
甲高い金属音が響き、うずくまるアクトスの後ろで何かが倒れる音が聞こえた。その音と重なるように数人の人間が駆け寄ってくるのがわかる。アクトスが振り返ると、そこには、月明かりに浮かび上がる、三人のシルエットが佇んでいた。
「うわあっ!」
振り向きざま、思わず尻餅をつくが、シルエットは「今だ!」と言わんばかりに大きな剣を掲げて振りおろす。
「させません!」
が、そこに立ちはだかるのはミリサだ。ミリサは、その体を盾にし、細剣でなんとか大きな剣をしのぐ。立て続けに、横なぎ、振り下ろしと別の二人からも追撃を受けるが、後ずさりながらそれさえも凌ぐ。
「立って!」
「ぁ――」
「早く立って――――死にますよ!」
ミリサの現実を突きつける叫び。その叫びを聞いて、アクトスはあわてて腰を上げた。が、いまだ脚は震えたままでありうまく力が入らない。がむしゃらに動かした脚は何とかアクトスの体を大きく後ずさせることに成功し、ミリサはほっと息を吐く。
そしてミリサはアクトスには背を向け、前にいる三人へと堂々と向き合った。細剣をシルエット達に突きつけ、腹から声を張り上げた。
「王国防衛隊、二番隊副隊長側付き、ミリサ・ヤーナ! 参る!」
その叫びは天を貫き、そしてアクトスの心を震わせた。
◆
ミリサの叫びにシルエット達は少しだけ身じろいだが、すぐさま気を取り直したのか、一斉に向かってきた。月明かりが目の前の三人を照らし一瞬だけ姿が見える。皆、男であり服や汚らしく粗野だ。これが、近頃このあたりを荒らしている盗賊だというのは容易に想像がついた。
一番前の男が剣を振り上げる。大振りのためか、それを容易くかわし、すり抜けたミリサは後ろの二人に相対する。
その動きはすばやく、その辺にいるような賊では反応できるものではない。驚きからか動きの止まった後ろ二人の男達から声が漏れた。その隙を見逃すわけもなく、ミリサは細剣を目の前の影の喉元へと突き刺す。噴き出す血。崩れ落ちる影。
その影を飛び越えてきたのは一番後ろにいた男だ。仲間の体を踏み台にして飛び上がり、すでにミリサ目がけて剣を振り下ろしている。
「くっ――」
その剣を、やっとの思いで体を横にずらしやり過ごした。風圧でミリサの前髪が舞う。否。わずかに剣がかすっていたのか、前髪が数本空へと舞いあがった。
ミリサは、自身の目の前を銀色の刃が通り背中にじっとりと汗が滲んだ。感じた恐怖を捨て去るかのように、ミリサはすかさず細剣を男に突き立てる。
「はあぁぁぁっ!」
が、その細剣は男の腕でさえぎられ命には届かない。目の前の男はミリサ目がけて振り下ろした剣を下から切り替えす。たまらず、ミリサは後ろへと飛びのいた。
「はぁっ、はっ、はっ、はっ――」
荒く息をするミリサ。それと相対するのは、今だ地に足を着けている男二人だ。互いに、じりじりと距離を詰めていく。
今の攻防をみて、アクトスは驚きで呼吸すら忘れていた。いかに、有象無象の盗賊が相手と言えど、互いに命を奪い合うこの状況で、三人を相手に立ち回るミリサの腕前はやはり相当のものだ。そして、自分はこうして腰を抜かしたまま見ているだけ。だんだんと最初に感じていた恐怖と驚きは薄れ、この現実を覆せない自分に、アクトスは心底嫌気がさしていた。
だが、そんなアクトスを余所に、再び戦いが始まる。今度は先手はミリサからだった。
ミリサは目の前の二人に向け細剣を幾度となく突く。が、いくらその突きが素早くとも、二人を抑え込めるほどの速さはない。片方の男は一瞬の隙をみて、ミリサの突きをかいくぐった。一歩の踏みだしとともに、下から切り上げられる剣をミリサは利き手とは逆の小手で防ぐ。その衝撃で体は横に振られ体勢を崩した。
「ミリサっ!」
アクトスの叫びとどちらが早かったか。もう一人の男が踏みだし、今度は真上からミリサ目がけて剣が振り下ろされる。このタイミング。体勢を崩したミリサにかわす術などない。男は勝利を確信して、力いっぱいその剣を振り下ろした。
その刹那――。
剣を振り下ろした男の喉元から何かが生える。言葉にならないうめき声を出しながら男が膝を折ると、生えていた何かは途端に引っ込み、もう一人の男の胸から同じものが生えた。できた穴からはやはり鮮血が吹き出し、黒い夜を赤く染め上げる。
一瞬のうちに、二人の男が地面へと沈んだ。何が起こったか理解できないアクトスはただ、口を開いて茫然と眺めることしかできない。
「ふぅ……」
崩れた男達の後ろから現れたのは、まさに先ほど、男達に斬られるところだったミリサだった。ミリサの顔は歪み、汗をひどくかいてはいるが傷はない。しっかりとした足取りでアクトスのところへと歩み寄ってくる。
「副隊長。大丈夫でしたか?」
何事もなかったかのようなミリサを見つめながら、アクトスはあることを思い出していた。それは、アクトスが掘っ建て小屋でミリサに襲われたあの時。あの時のミリサの動きは尋常ではなく、今と同じように消えたようにも見えた。目の前で男達を葬ったその動きは、あの時と似ている。
「恩恵か?」
アクトスが尋ねると、ミリサは一瞬顔をゆがめたが、すぐに崩すと小さく笑顔を作った。
「はい。でも、盗賊相手に切り札使わなきゃならないなんて……まだまだ修行不足です」
そう言って笑うミリサの表情には、少しだけ悲しさもみえる。
「いや。しかし、それなら最初から使えばもっと楽に戦えただろう? なぜだ? なぜ最初から使わない」
「えっと、それは――」
何やら話ずらいのか、口ごもっているミリサの後ろに何かが光る。
「危ないっ!」
ミリサと話していたアクトスは視界に入っていたそれに気づき、咄嗟にミリサの腕を引いてその反動で立ち上がった。よろめいたミリサを抱きかかえるようにしたアクトスは、背中に衝撃を受ける。
「う゛――」
そのままずるずると崩れ落ちるアクトス。地面に伏したアクトスの背中には二本の矢が刺さっていた。
「副隊長!」
倒れたアクトスに駆け寄るミリサだが、すぐさま視線を矢の飛んできただろう方向に向けた。すると、再びどこかで何かが光る。それが、月明かりに照らされ矢先だと気づきたころには、もう矢はミリサを目がけて飛んできたところだった。