おかえりなさい
暇、です。
柔らかくて巨大なベッドの上をころんころんと回りながら移動して、べしゃっと床に落ちました。
「……ひま、です」
俯せから仰向けに。綺麗な天井を見つめて、ほう、と息を吐きました。
一年前のノイズとの戦闘で、わたしは負傷しました。意識を失っていたので詳しくは知らないのですが、両足の健をずたずたに切り裂かれたのだと主様は仰っていました。
数ヶ月が経って、立てるようになりました。歩けるようになりました。でも、走ることはできませんでした。これから先も、治ることはないのでしょう。けれど、主様はわたしを処分しようとはしませんでした。
「走れない護衛なんて、いらないというのに……」
最後に剣を振るったのは、歩けるようになってすぐでしたっけ? あれ以来、主様はわたしに剣を持たせてくれません。
わたしは護衛なのです。主様の剣なのです。でも、今のわたしは剣を振ることはおろか、お傍に控えることすらできません。それなのに、どうして――
窓のない部屋を照らす光から逃げるように腕で目を覆うと、手首の枷に繋がる鎖が小さく音を発てました。
詳しくは解りませんが、主様が嵌めた枷はわたしを護るためらしいです。たしか、この部屋から出ると、わたしは〝危険性あり〟として処分されてしまうといっていました。処分って、誰にでしょう? 主様の邪魔になるのなら喜んで処分されますのに、主様がそれを望まないので仕方ありません。
護衛としても役立たずなのに、逆に枷になってしまうなんて。死んでも償えないではないですか。……主様の命令があるまでは死にはしませんけれど。
この部屋が選ばれたのは、外に繋がっている扉が一つだからでしょうか。周囲の音からして地下のようですし、この部屋には主様以外誰も来ないのです。わたしすらもいないので、暇すぎです。
それに最近気づいたのですが、あの日の夢を見なくなりました。わたしを見下ろしている、太陽の様な髪を持つ少年の夢。もうずっときいていない彼の声を脳裏で再生すると、いつの何か一年前に戦ったノイズの声になっていました。
それはやはり、彼が夢の中の少年がそのまま大きくなったような姿をしていたからでしょうか。それとも、帰ろうと告げた声音がひどく優しかったからでしょうか。
「両方、かもしれませんね。ただの夢かもしれませんけれど」
だって、あの時の記憶は曖昧なのです。現実と夢が混ざってしまったのかもしれません。せめて顔さえ覚えていればと思うのですが、逆光なんですよね。少年も、彼も。
憶えているのは、暖かな炎の髪だけ。でも、現実ならばいつかは逢えると信じています。だって、わたしの瞳に映ったのですから。
ノイズでも、わたしでも、主様でもない誰か。それまで、わたしは気長に待ちましょう。だけど、たぶんその日は来ないと思うのです。だって――
「フォリン、横になるならベッドの上にしろ」
「申し訳……えっと、ごめんなさい、主様……あと、おかえりなさい」
幾つもの鍵が開けられる音がして、唯一の扉から主様が入ってきました。わたしは身体を起こすと、床に座り込んだまま主様を見上げました。
本当は綺麗に身なりを整えて「お帰りなさいませ」と言いたいのですが、そうすると主様の機嫌が悪くなるのです。逆に、少しでも砕けた口調だと嬉しそうに微笑んでくださいます。
その二択なら、断然後者です。主様も嬉しい、わたしも嬉しい。そのためなら、戦うことしかできないわたしでも頑張れるのです。まずは会話からですね。努力あるのみです。
「ただいま。食事を持ってきた」
「では、お茶をいれますね」
「頼む」
主様が持ってきた大きめの水差しを受け取り、暖炉の横のテーブルに置いてある薬缶に二人分の水を入れます。それを暖炉の火で加熱している間に、近くの棚から袋を取り出してティーポットに入れました。
湯が沸いた頃を見計らってポットに注ぎ、足にも嵌められている枷の鎖を踏まないようにして主様が席についているテーブルの上に置きました。
「本当は、こういうことを担当するわたしが行うべきだけど……」
言い訳のように告げながらカップを温めて、ポットの中身を注ぎます……あまり美味しくないですね。
味見として口に含んだ紅茶は、渋みと酸味が手を組んで踊っているかのようでした。やはり、適材適所だと思います。早急にわたしを呼ぶべきです、と進言すると、主様はふいとそっぽを向いてしまわれました。
「呼ばない。どんなに苦くても、不味くても、腐っていても、たとえ毒だとしても、俺はフォリンの入れたものが飲みたいんだ」
「……ありがとうございます?」
これは、喜ぶべきなのでしょうか? さすがのわたしでも、腐っているものは出しません。毒なんて言語道断です。主様はわたしをなんだと思っているのですか。
とはいえ、主様はわたしの入れたお茶を残したことはありません。それがどのようなものであっても、最後まで飲んでくださるのです。だからこそ、今度こそはもっと美味しい紅茶を入れようと頑張れるのですけれど。
紅茶が入れ終わったら、主様と食事です。酷く手の込んだ料理の数々は、剣しか握ったことのないわたしにとって未知の作品です。壊したくない、でも壊さないと食べられない。大分経つのに、まだ慣れません。
葛藤しながらもそれに手を付けようとした時、扉の向こうから小さなノックが聞こえました。
主様は先に食べていろ、とわたしに言いましたが、そんなことできません。ナイフとフォークを置いて主様を待ちます。
主様が開けた扉の向こうには、ノイズがいました。わたしと主様の時間を邪魔するなんて、殺してやりたいくらいです。
でも、仕方ありません。何故か、数ヶ月前から主様と接触するノイズが一気に増えたのですから……あれ? ではわたし達はどこにいるのでしょう? ……?
「どうした、フォリン」
首を捻ったまま考えていると、いつの間にか戻っていた主様が訝しげな顔をしていました。
「すまない、リズがウィードを寄越すとは思っていなくて……先に食べていてもよかったのに」
「いえ、大丈夫です。考え事をしていました」
「考え事?」
「はい。先程のノイズを見て思うところがあったので」
「……そうか」
もうお前には、ウィード達は見えないんだったな、と主様は複雑そうに言った。
「うぃーど? それがノイズの名前?」
「そうだ。でもフォリンには関係ない」
「は、はい……そう、ですよね。ごめんなさい」
「いや、フォリンは悪くない……食事をはじめよう」
突き放すように、拒絶のように言った主様に謝ったのですが、主様はうやむやに返してナイフとフォークを手に取りました。
わたしも食事をはじめたのですが、いつもは様々なことを話してくれる主様が無言なので、とても気まずい。だって、一日中この部屋にいるわたしに話すことなんて一つもないのです。球を持っているのは常に主様、投球がなければわたしにできることは何もないのですよ。
そんな楽しくない食事を終えてしばらくした頃、ずっと無言だった主様が急に大きく息を吐き出しました。ベッドの上で膝を抱えていたわたしは、突然の行動にびくっと跳ねて、それを見た主様は小さく笑いました。
「驚かしたのは主様ですよ!」
「別に驚かす気はなかったんだ――なあ、フォリン」
席を立った主様がわたしに近づいて、とんと肩を押す。重力に従って仰向けに倒れたわたしに覆いかぶさるようにベッドに乗り上げた主様は、わたしの頬に手を沿えました。
「俺の姿、見えるか?」
「……?」
「答えてくれ」
主様は、いったい何を言っているのでしょうか?
一瞬本気でそう返そうと思ったのですが、間違った答えを返したら主様が壊れてしまうように感じて、一度口を閉じました。そして「見えていますよ」と返しました。
「主様の瞳も、眉も、鼻も、口も、髪も。主様は、ノイズみたいにぶれたりしない。わたしの目はすごいのですよ。主様がどこに居ても、たとえノイズに囲まれてしまっていても、絶対に見つけることができる――主様が望む限り、ずっと傍にいますから」
「……ああ、そうだな」
真っ直ぐわたしを見下ろしていた主様は、安心したように目元を緩めました。
フォリン、と呼ぶ主様の姿が、夢の中の少年に、そして一年前のあの人に被ります。髪色なんて、似ても似つかないのに。それでも同じに見えてしまうのは、
主様の声が、あの人に酷く似ているから
髪を梳く手つきが、少年のように優しいから
だからたぶん、夢なのです。少年も、あの人も、全部、夢なのです。主様の声から生み出してしまった、わたしの妄想でしかない。少年も、あの人も、現実にはいないのです。
でも、もしも。もしも現実なのだとしたら。
掻き抱くようにまわされた主様の腕の中で、わたしは身を任せるようにゆっくりと目を閉じました。
「お前はそのままでいい。他には何も望まない」
あの夢が現実で、
「俺をその眼に映してくれるだけで。俺の傍に居てくれるだけで。それだけで、いいんだ」
あの少年が、あの人で、
「お前が俺を忘れても、ずっと護るから」
あの人が主様なら、いいと思うのです。
これで終わりです。
記憶を取り戻すパターンと悩んだのですが、やっぱりこれが自然かなと。
題名の『糸』は赤い糸から連想しました。
活動報告に感想等書く予定です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。