全部、終わった / 主様が、いますから
「――では、そのように伝えておきます」
感情の見えない声が響いて、一瞬後には何も残っていなかった。それを一瞥し、深く椅子に背を預けた。
「……彼女達は、ちゃんと任務を果たしてくれたみたいだね」
「彼女達、ですか?」
「……それじゃあわからないか」
斜め後ろに控えていたウィードの疑問に悲しくなる。けれど、それを隠すように笑みを浮かべた。
「ウィードだよ。綺麗な黒髪と、空色の髪の二人」
「ああ、わたしのことだったのですね。そういえば、最近見かけませんでした」
納得がいったように声をあげるウィードを見上げる。その瞳には疑問なんて何一つなくて。おかしいはずなのに、慣れてしまったのか何とも思わなくなった自分に苦笑した。
自分を〝ウィード〟と認識するこの子の瞳は、私が『〝ウィード〟である』と紹介した人物以外を〝ノイズ〟として映し出す。もし、この場で私がこの子を他の名前で呼べば、今まで認識していたウィードが即座にノイズとして映るのだろう。だってそれは〝自分ではない〟。今のあの子が『〝ウィード〟を認識することができる』のは、『あの子が〝ウィード〟と呼ばれている』からだ。人格を形作る記憶を消して植えつけたそれは、奥深くに刻み込まれてしまっている。再び人格を消せば治るかもしれないが、確実という保証はない。それに、根本的な解決とはならない。
歪な、壊れた人形。ユラディスタの、負の遺産。
「でも、これで終わる」
小さな呟きは、誰にも聞き取れない。それでいい。これは、私の自己満足でしかないのだから。
―――――
「主様」
数えるほどしかあったことのない父に呼び出され、嫌々ながら赴いた王の間。そこに、彼女は居た。
「主様」
自分よりも小さな女の子。その腰には似合わない剣を佩いていて、彼女もウィードなのかと思った。
けれど、違和感。私は小さい頃からウィードに囲まれて育ったから、多くの彼等と接してきた。だから、わかる。彼女の雰囲気は、他のウィードとは異なっていた。
なんだろう、と思ったそれは、王を見上げた彼女によって簡単に解決した。
「主様、そこにノイズがいるのです。殺してもいいですか?」
たどたどしい口調で紡がれた内容に変な声が漏れそうになって、無理矢理抑え込む。
彼女が指さしているのは私で、ということは私がノイズ、なのだろうか? 数多の中の一人とはいえ、王子である私を殺すとは。
けれど、彼女はそれに疑問に思っている様子はなかった。
「ノイズを見ると頭が痛くなるのです。それに、煩いです。殺せば動きませんし、静かになります」
まるで、嫌いだから殺す、とでもいうように淡々とした声音に背筋が粟立った。
この子は、壊れてる……!
「主様」
少女の指は外れない。彼女の催促をどうでもよさそうに聞いていた王は、ふとこちらを向いた。
塵芥をみるような感情の籠らないそれは、とうの昔に慣れた。何人いるかも憶えていない子どものことなど、どうでもいいのだろう。
王が軽く手をあげると、傍らに控えていた騎士が少女を蹴り倒した。
「――さて、これでわかったと思うが、これは失敗作だ」
「……失敗作、ですか?」
「さよう。それなりに腕はあるが、口答えばかりする。煩くてかなわん。お前が処分しておけ」
そのまま騎士に蹴り飛ばされた少女は、それなりにある階段を転げ落ちた。呆然と王を見上げた彼女は、酷く困惑しているようだった。
「あ、あるじさま?」
「失敗作、儂はお前の主ではない。呼びたいなら隣にいる奴を呼べ」
汚いものをみるように吐き捨てた王は、鷹揚に手を振る。
それが退室の合図だと理解した瞬間、少女の腕を掴んで早々に歩き出していた。ここでのろのろしていたら、余計な怒りを買うだけだと身を持って知っているからだ。
退室の挨拶だけはして、全く抵抗しない少女を引き連れる。遠く離れた自室まで歩く間、彼女は一言も話さなかった。
自室に辿り着くと、張りつめていた緊張が切れたようにベッドに倒れ込んだ。
「はぁ……疲れた」
倒れたまま顔だけを動かして少女をみる。彼女は、ベッドの傍に佇んだまま私を見つめていた。なにを言えばいいのか、と少しだけ考えながら身を起こす。
ふと浮かんできた、『ノイズ』という言葉。まずはこれかな。
「ねえ、君はさっき『ノイズ』って言ったよね? それって――」
「ノイズはノイズですよ? それを教えてくれたのは主様です」
遮るように返されたそれは、空気のように通り過ぎて、慌てて引き戻した。
「え、ちょっとまって。主様って誰のこと?」
「? 主様は主様です」
至極当然のように指さされたのは私で。さらに困惑するだけだった。
「どういうこと? 君の主様は王だろう? それに、私のことを『ノイズ』と言ったじゃないか」
「わたしが主様とノイズを見間違えるはずありません。だって、主様はぶれないんです。見ていても気持ち悪くならないし、声だって聞き取れます……えっと、主様は体調が優れないのでしょうか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……少し待って」
困惑しつつも口を閉じた彼女から視線を外して、内容を整理してみる。
まず、大前提として彼女は『主様』と『ノイズ』を見分けることができる。で、『ノイズ』はぶれるらしい。見ていると気持ち悪く、声を聞きとることができない。
ここまではいいとして、次は『ノイズ』と呼ばれた私が『主様』と呼ばれたことについて。さて、どういうことなのか全くわからない。というより、『ノイズ』とはなんだ?
思考を巡らせながら、何気なく少女を見つめて――僅かにはだけた服の隙間から覗く青に息を呑んだ。
「これ……さっきの、だよね。痛かっただろう」
労わるように痣に触れると、少女はきょとんとしていた。
「どうして、そんなことを言うのですか?」
「どうしてって……」
「だって、わたしは主様の道具です。主様がどう扱ったとしてもいいのです」
「……まさか、」
嫌な予想が脳裏を過って、それを振り払うように少女の服に手をかける。性別のことなんて、頭の片隅にも残っていなかった。
少女が抵抗しないことをいいことに、上半身を露わにする。現れた身体は、予想通りだった。
「酷過ぎる……!」
元の色がわからないほどに全身を覆う痣。治りきっていない、斬られたような跡も指の数じゃ足りない。長袖に隠されていた腕も同様で、綺麗な顔だけが場違いだった。
「どうして、」
「主様」
傷跡をなぞる手を止めるように、少女の手に掴まれた。
「わたしはウィードです。主様を護る剣なのです。これは、わたしが主様を護るためについたもの。わたしが未熟だった、それだけなのです。それに、」
私の手を離して自身の身体を抱きしめるように腕を回した少女は、熱に侵されたような顔で笑う。そして紡がれた言の葉に声を失った。
「これは全て、主様に与えられたものなのです。わたしの大切な、大切な宝物」
「っ、」
「痣も、跡も、この身体に刻まれる全ては、主様からの贈り物なのです。主様が、わたしのことを忘れないという証――あれ? 忘れないって、なんのこと……?」
最後のそれは、聞き逃してしまいそうなほどに小さい。でも、一瞬だけ少女の身体が震えて、茶色の瞳が困惑するように泳いだ。
「わすれ、ない? わすれられた? 誰に? だれ、だれです……?」
少女の困惑した独り言だけが響く。本人にもわかっていないのか、答えを探すように視線が惑う。
その姿は、親を見失った幼子のようだった。
「――錯乱状態か」
それはウィードの極一部が陥る、副作用のようなもの。何気ない切っ掛けで、忘れていた何かを思い出してしまう症状。そのような状態のウィードを、一度だけ見たことがある。それは、私が七歳の時に教育係として宛がわれていた妙齢の女性だった。
優しい彼女は本に出てくる母のようで、本当の母を知らずに育った私は酷く懐いていた記憶がある。その彼女を殺したのは、私だったけれど。
『ウィードは、お母さんみたいだ』
何気なく告げたそれが、彼女にとっての切っ掛けだった。
『おかあ、さん? なにいっているの……? わたし、わたしは―――いやああぁあああああぁああああっ!』
彼女の記憶は完全に消えていなかった。代わりに、彼女の時は十五歳で止まっていた。彼女は、私を弟だと思い込んでいただけ。私の言葉が、彼女の時を動かしてしまった。
弟とは似ても似つかない私を見て、知らないうちに大きくなっている自分の身体を認識して。錯乱した彼女は、そのまま身を投げた。その時の彼女を、大地に咲いた真っ赤な花を、一生忘れないだろう。そして、
「二度と、見たくないんだ」
いつの間にかがたがたと震えだしている少女に近づいて、脅えないように優しく抱きしめる。
「大丈夫だよ。君がそれを望むなら、」
私は、忘れない。
「……あ、るじさま」
「……うん。私は君の〝主様〟。君は〝私の剣〟だよ、ウィード」
「は、い」
背中を撫でていると、荒れていた呼吸が静かになっていく。しばらくして聞こえた小さな寝息を合図に「ウィード」と声をかけた。
「お呼びでしょうか?」
「調べ物を。この子……新しく入ったウィードに関係することについて。できるだけ急いで」
「御意」
言葉少なく歩き去ったウィードを見送り、腕の中にいる少女の髪を梳く。王から聴いた限り、この子は戦闘用として作られている。それなら、ろくに剣を握ったこともない私よりもずっと強いだろう。それなのに、力を込めたら壊れてしまいそうなほどに脆く見えた。
「――あーあ……処分なんてできそうにないよ」
初めて王に逆らうことになるな、と頬に残る涙の跡を、身体に走る傷跡を辿った。
でも、後悔はしないと思う。逆に処分してしまったら、自分の中の大切なものが壊れてしまう気がした。
少しして、足早に戻ってきたウィードに目を瞬いた。
「予想以上に早いね。問題でもあった?」
「ウィードの作製者は見つかりませんでした。そのかわりに、これを」
脈絡なく差し出された本を受け取り、開く。それは、この子が『ウィード』になるまでの記録。
「――そういうことか」
ざっと目を通して、王の言葉を思い出した。
『失敗作、儂はお前の主ではない。呼びたいなら隣にいる奴を呼べ』
これが合図。おそらく、この時『主様』が王から私に移ったのだ。『ノイズ』であった私が見えるようになったのは、『主様』になったから。
記録には、この子は『自分』と『主様』しか認識できないと記載されていた。今までのウィードの中で最も歪な存在――本当に?
はっと、顔を上げた。目の前で直立不動のウィードを見上げて、腕の中の少女を見下ろして。
「――違う」
ウィードが使われ始めたのは、私が五歳のとき。それまでに仕えてくれていた人はどうだった?
衣服を着ていない少女に、身体を隠す物を渡すくらいはしただろう。気を落ち着けるための飲み物を用意するくらいはしただろう。寝てしまったなら、寝室を用意するくらいはしたはずだ。
こんな風に、命令をきくまで立っているような、そんな者はいなかった。
どうして今まで、気付けなかった。
この子が歪なんじゃない
『〝ウィード〟という存在自体が歪』なんだ
「……気付かなければ、よかったのかな?」
はは、と乾いた声で笑って、でも、と否定した。
私はこれでも王族だ。時間はかかるだろう。『ウィード』のためといいながら、『ウィード』の手を汚させるだろう。それでも、『ウィード』はおかしいと思うから。矛盾だろうと、偽善だろうと、やり遂げてみせる。
穏やかな寝息をたてる少女を優しく撫でて、立ち上がる。寝室へと足を進めながら「そうだなぁ……」何でもないように呟いた。
「まずは、手始めに」
王を、殺そう。
―――――
「――全部、終わった」
「主様?」
傍できょとんと私を見上げるあの子に微笑みかけて、前に向き直る。歩を進めるたびに鎖を引き摺る音が鳴った。
下は向かない。私は自分の望みを叶えただけ。やましい事などない。でも、できるなら――
「君の未来を、見たかったな」
「?」
「なんでもないよ」
戦うことしかわからないこの子は、この先のことを知らないし、理解できない。でも、それでいい。
ゆっくりと、地面を踏みしめながら歩く。最後だからか、傍に居る青年は急かす様なことはしなかった。
今まで負けたことのないあの子に土をつけた、真っ白な髪の男。あのときの光景を脳裏で再生して、ふと思った。彼の言葉は、この子のことを知っているようだった。ということは。
「少し、訊きたいことがあるのだけど」
「なんでしょうか」
硬い声に苦笑して、別に何かをしたいわけじゃない、と告げた。
「君の名前は、テオ?」
「……」
「ははっ、本当についてる」
無言だけど、その瞳は肯定していて。心の底から込み上げてきた笑みのままに空を見上げた。
透き通るような蒼穹。いい天気だ。
「本当は、少し心配していたけど。でも、大丈夫みたいだね」
この子には、君が居る。
いまだに事態が飲み込めていない少女の頭を撫でた。
「私がいうべきじゃないのかもしれない。それでも、言いたいんだ。この子を、護って」
「言われるまでもない」
「頼もしいなぁ」
即答された言葉に心が温かくなる。でも、それも終わりだ。足を止めて振り返る。そこにいるのは、この前出会ったばかりの青年と――
「酷いことばかり、させてしまったね」
「? そんなことありません。わたしはウィードですから」
「君はずっとそうだ。八年前から、ずっと」
「八年? 十一年の間違いではありませんか?」
「……そうだね」
真面目な顔で訂正を入れる少女を抱きしめる。途端にわたわたと慌てる姿を目に焼き付けた。
この子が歩んでいく時間の先に、私はいない。それは悲しいけれど、仕方のないこと。人をウィードにしてしまった罪と、ウィードにさせてしまった罪を、償わなければならないから。
特にこの子には酷いことをしてしまった。それはこの子にしかできないからだったけれど、それは結果論でしかない。
「ごめんね」
王族を殺すことができるウィードは、〝王族を認識できない〟この子しかいなかった。私が王になるために邪魔な王とその子ども、そして王族の血を引く傍系。総勢二十九人を殺させた。
「弱くて、ごめん」
私を狙う暗殺者、城に侵入した密偵、私の邪魔をする貴族。数えるのが嫌になるほど殺させた。ウィードを解放するために、ウィードであるこの子の手を汚させた。
「矛盾ばかりで、ごめん……だけど、これで最後だから」
この子以外のウィードは、上だと認めた者に絶対服従。この国の王は無慈悲なことはしないから、彼等は大丈夫。私を手伝ってくれた二人はとっくに城を出た。彼女達も大丈夫。
「最後は、君だ」
「わたし、ですか?」
ぽかんとした顔で見上げてきた少女を解放して、そうだよ、と髪を梳いた。
「私は君と出逢えて幸せだった。起こった出来事を考えたらそうじゃないかもしれないけれど、それでも幸せだったんだ。君と出逢えなければ、ずっと一人で誰にも知られずに死んでいたかもしれないし、私も先王と同じ道を辿ったかもしれない。今の私がいるのは君がいてくれたからだ。とても……とても、満ち足りた人生だったよ。だけどね、それは君の幸せじゃない。だから、終わりにしよう?」
優しく頬を撫でて、今までで一番綺麗な笑みを浮かべた。
「命令だよ、ウィード」
「はい。なんでしょう?」
「命令は二つ。一つ目の命令は、二つ目の命令の後に実行するように――悪いことは言わないから」
制止しようとした青年を抑えて、少女に言う。それに綺麗な返事を返した少女を褒めるように軽く抱きしめた。
「一つ目、目の前のノイズを殺すこと」
「っ!」
「了解しました。二つ目は何でしょう?」
無邪気な笑顔を向けてきた少女を解放して、一歩離れる。そして、慈しむように目を細めた。
「二つ目、私は君の〝主様〟じゃない。〝主様〟は、君の隣にいるよ」
「?」
ぱちり、と瞬きした少女はこてんと首を傾けた。そのままくるり、と首を回す。隣に立つ白髪の青年を見あげて、再び視線が私を捉えた。
「ノイズを発見しました。命令を遂行します」
私を見つめる瞳は、初めて会った時と同じ。それが少し悲しくて、同じくらい嬉しかった。
呆然としている青年を見つめて、笑う。
「この子を、よろしくね」
そして、剣に手をかけたあの子を受け入れるように大きく手を広げた。
私は君の本当の名前を知らないけれど、隣の彼が知っているから。
だから、君は解放されていいんだよ。
ウィードも、私のことも、全部忘れて。
戦いも、人殺しも、もうしなくていいんだ。
私は十分幸せだったから、次は君の番。
約束だよ。
―――――
目の前のノイズを殺す。
それは、わたしにとって呼吸をするように簡単なことでした。……簡単でした、のに。
「……っ」
それなのに、どうして。どうして、こんなに――
「――ぁ」
強く、強く胸元を掴みました。だって、痛い、痛いのです。締め付けられるように、痛いのです。今まで、数えきれないほどノイズを殺してきたのに――あれ?
「……?」
ノイズを、殺した。そう、ノイズを殺したのです。これは、ノイズ……ノイズ?
ほ ん と う に ?
「――何を、考えているのでしょう」
これは、ノイズです。だって、姿が見えない。わたしが見ることができるのは、わたしと主様だけ。だから、見えないこれは、ノイズなのです。
もう一度、ノイズを見つめます。それはぶれて、定まらない。ほら、だから、これはノイズ。わたしが主様を護るために手に入れた、絶対に信じられるもの。昔はもっと見えていた気がしますが……見えていた?
自分の心の声に、疑問。昔って、いつ? 見えていたって、どれくらい? あれ? でも、確かに見えていたはずなのです。
わからない、わからない。頭の中がごちゃごちゃで、なにがなんだか――
『――すまない』
「……っ、」
誰かの、声。誰の、こえ?
ざあ、と視界が歪みます。目の前の世界に重なる、何かの世界。それは、今とほとんど変わりませんでした。
隣にいるのは主様。目の前に倒れているのは、ノイズ。ノイズの身体から溢れ出す、真っ赤な液体。思わず剣に視線を落とすと、それと同じものが滴っていました。
……そうだ、このノイズは、わたしが殺したのです。だって――
『これが最後の訓練だ』
訓練、です。わたしが〝護衛〟になるために必要な訓練なのです。だから、わたしは従いました。
『俺を、殺せ』
それが、命令だったのですから。命令には、従わなければ――命令? だれの? わたしに命令を出せるのは、主様だけ。それなのに、
俺を、殺せ?
そのような命令、きけるはずがありません。だって、わたしは〝護衛〟なのです。主様を護るために剣なのに、主様を害することができるわけありません。
現に、主様は生きています。死んでいるのは、ノイズです。ノイズ、なのに。どうして――
命令に逆らった記憶がないの?
主様の言葉を忘れるはずがありません。忘れられるはずがありません。それなのに、記憶がないのです。それならば、最後の訓練は、なんだったのですか?
わたしが殺したのは、だれですか?
目の前にいるノイズは、だれですか?
「――あれ?」
ぽたり、と頬に何かが落ちて、我に返りました。手で拭うと、僅かなに濡れています。雨、でしょうか?
首を捻りながら空を仰ぎ、雲一つないそれに目を瞬きました。
ぽたり、ぽたり。雫が落ちてくる。やっぱり、雨なのでしょうね――ああ、このままでは、主様が濡れてしまう。
「主様、雨が降ってきたようです。はやく建物の中に――」
「……もういい」
振り返って見上げた主様の顔は辛そうに歪んでいて、何故、と目を瞬きます。それに合わせるように、頬が濡れました。
「主様、命令は終了致しました。ですから、雨に濡れてしまう前に「もういい!」
ぐい、と引っ張られて、気付いた時には主様の腕の中にいました。いきなり、どうしたのでしょう?
「主様……?」
「もう、いいんだ。これ以上、苦しい思いをする必要なんてない……!」
苦しい、なんて。そんなことないのです。だって、
「主様が、いますから」
わたしの主様は、ここにいます。
「――ああ、俺がお前の主様だよ」
ぎゅう、と強く抱きしめられて、息が詰まります。その動きに合わせるように、主様の髪がさらりと流れていきました。それは、雪のような白銀。……こんな色、でしたっけ?
そんな思考から引き戻したのは、主様の焦がれるような声でした。
「ずっと、傍にいる――二度と、放さない」
それを聞いて、わたしは考えることを止めました。だって、わたしは考える必要がないのですから。主様がいて、わたしがいる。それだけでいいのです。
胸の痛みは、いつの間にか消えていました。
後二話。
ワンクッション入れて、エピローグです。