過去話 消える、消えていく / 誰かの手記
マザーに連れられて孤児院の外に行くと、初めて見る人がいた。男の人が着ているのは、継ぎ接ぎのない綺麗な服。こんなの、孤児院に来てから初めて見た。
「これか」
「はい――あの、実は……」
「なんだ」
「この子は、すでに引き取りに関する話が進んでいるのです」
きまり悪そうに答えたマザーを、思わず見上げた。引き取りの話なんて、全く聞いたことないよ!?
ですから、と続けようとしたマザーを遮ったのは、男の人の拳だった。
「っ、マザー!」
「お前はこっちだ」
「放して!」
お腹を殴られたマザーが地面に倒れ込んで、駆け寄ろうとしたわたしは、男の人に腕を掴まれた。ぎりぎりと握り締める手が痛い。引き離そうとしたけれど、逆に引っ張られた。
無理矢理引き摺られる。踏ん張ろうにも、地面から足が浮いてしまえばどうしようもなかった。思わず振り返ると、何とか立ち上がったマザーが顔を歪めながら何かを叫んでいた。
ただでさえ聞き取れない声が、さらに遠ざかる。それは、テオと出逢った場所から引き離されるということを目の前に突き付けた。
テオは引き取られていく前日、わたしを独りにしないと言ってくれた。今はいないけど、あそこにいればいつかは迎えに来てくれるって。
それが多分、マザーの言っていた引き取りの話。だから、わたしはどうしてもあの場所にいないと――!
「後始末はさっさとしておくか。悪いな」
唐突に耳元で聞こえた男の人の声と、伸ばしたわたし手の横を通り過ぎた光線。それは、すぐに無数の矢になって孤児院と近くの樹に吸い込まれていった。
何をしたの、と首を捻って……ああ、そういう、こと――
「……あはっ、あはははははははは――!」
乾いたそれが自分の声だと気づいたのは、喉が痛くなったから。それでも、勝手に溢れてきた涙をそのままに、わたしは嗤い続けた。
テオとわたしが競争した時に折れてしまった樹の枝が、孤児院の皆で身長を刻んだ壁の傷が、駄目元で植えたら生えてきてしまったポムの芽が――消えていく。わたしが生きてきた全てが、目の前で跡形もなく消えていく。
連れて行かれるわたしに手を伸ばしていたマザーが、興味を失ったように視線を逸らして――
消える、消えていく。わたしが消えていく。皆の記憶から、消えて…い、く――テオの、記憶からも?
「あはは、は――うわああぁあああぁあぁあああっ! テオっ! テオ、てお……! 嫌だ、忘れないで! 忘れないでよ! お願いだから! 嫌だ、独りはいや、いや――!」
「黙れ」
男の人の膝がわたしのお腹に入り、息が詰まる。そのまま地面に蹲り、胃の中のものをぶちまけた。胃の中にはほとんど何もなくて、吐き出したのはほとんど液体だけ。
それでも身体が痙攣して吐き出そうとしていると、男の人の足が私の脇腹に食い込んだ。
「ぎゃ! げほっ、…い、た……」
「教えてやろう」
髪の毛が鷲掴まれ、無理矢理顔を上げさせられる。ぼろぼろの視界の中で見えた男の人は、無表情だった。
「これから〝お前〟は〝主様〟のために生きる。〝主様〟は〝お前〟のことを絶対に忘れない。お前が死ぬ、その時まで」
「あるじ、さま……わすれない?」
あるじさまは、わたしを忘れないの? 絶対に?
お父様のように、マザーのように、テオの、ように?
「っ、!」
ぼう、としていた意識は、首元に走った痛みに引き戻された。わたしの首元から戻した男の人の手に握られていたのは、赤に塗れた小さな剣。
直後、わたしの身体は地面に転がっていた。起き上る気も起きず、ずきずきと痛む首をのろのろとした動作で押さえる。そこは予想通りぬるりとしていた。
切られた、みたい。どうして? わたしを切ったところで、なにが――
「……まるで運命のようだな」
「え?」
見上げた男の人は無表情のまま。だけど、そこに滲む、ほんの少しの何か。男の人の手にある小さな入れ物は、無色に近い澄み渡る空の色をした液体で満たされていた。
「いままで多くの適応者を見てきたが、その中で最も高い適応反応……お前の役職は一つしかない」
男の人はわたしを見下ろし、血に塗れた短剣をわたしの目の前の地面に突き刺さした。
「お前の役職は『護衛』。〝主様〟を害するすべてを退ける一振りの剣。〝自分〟と〝主様〟、お前はそれだけがわかればいい」
鋭利な金属に伝う血が、地面を染めていく。黒く、暗く。
それが何故か、わたしのように思えた。
―――――
大陸歴四八六年 レランシアの月 第一週 水の日
全てを投げ出したかった。
これ以上、こんなことを続けていたくなかった。
でも、〝ウィード〟を知っている俺は、逃げられない。
だから、これは運命なのだろう。
茶色の髪と目をもつ、いたって普通の少女。
深い蒼色の〝薬〟を透明といっても過言ではない色に変えてしまうほどに、異常な適応を持つ可哀想な子。
選択肢は『護衛』か『騎士』の二つ。
それを決定付けたのは、あの強い依存性だった。
〝候補者〟の目の前で記憶の削除を行うのは、人との繋がりを求める強さを確認するため。
それが強いほど、〝主様〟への忠誠が高くなるから。
それに対して、あの子の豹変は今まで見たことがないほどだった。
テオ、と呼ばれたのは少年だろうか。
彼はあの子にとってのなんだったのだろう。
もう、あの子のことを憶えてはいないだろうが。
それはともかく、あの少女は誰かに強く依存する。
その性質は〝護衛〟に適任だった。
〝護るべき者〟として多くの人を認識する〝騎士〟ではなく。
〝自分〟と〝主様〟のみを認識する〝護衛〟。
〝ウィード〟の中で最も壊れた存在。
いままで『〝護衛〟の作り方』は知られていたが、実際に作るのは初めてになる。
やっとだ。
やっと、解放される。
大陸歴四八六年 リーレンスの月 第三週 風の日
あの子、あいつでいいか。
あいつは、いまだに基礎訓練中だ。
剣を握らせるのは、まだ早い。
そして、今の〝主様〟は俺ということになっている。
上に引き渡すまで、何年かかるのだろうか。
大陸歴四八七年 ロクランの月 第四週 土の日
本日から剣の訓練を並行して始めた。
意外と呑み込みが速いが、まだ基礎の基礎だ。
確実にすべきだろう。
ゆっくり進めていこう。
大陸歴四八七年 コルセルの月 第一週 火の日
最近、どうすればいいのかわからない。
大陸歴四八八年 エズルヴァの月 第四週 月の日
訓練を開始して、もう二年になる。
そろそろ頃合いだろう。
数日後に、あいつの記憶を消す。
そうすれば、完全ではないが思い出しても夢のようにおぼろげになるはず。
そのまま、全てを忘れてしまえばいい。
誰も憶えていない自分は、いないのと変わらないから。
忘れてしまえば、これ以上苦しまなくて済む。
だから、独りで泣かないでくれ。
大陸歴四八八年 レランシアの月 第二週 土の日
記憶を消してから数日が経過した。
自我が安定していないのか、俺を無条件に信頼しているように感じる。
あいつの記憶を消したのは、俺なのに。
時々、罪悪感に押し潰されそうになる。
俺を、信じるな。
大陸歴四八八年 トーフェルの月 第二週 光の日
今更だが、俺はあいつの名前を呼んだことがない。
正確には知らないからだが。
だから、いつも適当な名前で呼ぶ。
これも〝ウィード〟の一環、ただ、それだけだ。
あいつの本当の名前を知りたいなんて、思うわけがない。
あいつはもう、自分の名前を憶えていないのに。
大陸歴四八九年 グランツェの月 第四週 闇の日
毎日訓練浸けだったからか、あいつの上達が速い。
このままいけば、今年中には別の訓練を追加することになるだろう。
気が重い。
大陸歴四八九年 レランシアの月 第一週 月の日
訓練を始めてから三年が経った。
もう、次の訓練を始めないといけない。
けれど、やりたくない。
これ以上先に進んだら、あいつは戻ってこられなくなる。
人として、生きられなくなる。
だから、いつかはばれるだろう。
だけど、それまでは。
出来る限り、訓練を引き延ばすことにする。
大陸歴四九〇年 デンラシルの月 第三週 風の日
最近、上からの催促が激しい。
これ以上は引き延ばせそうにない。
大陸歴四九〇年 ラーレックの月 第一週 火の日
訓練が次の段階に入った。
生物を殺すことに罪悪感をなくさせる訓練。
初めは躊躇っていたが、精神的に追い詰めたら命令に従った。
従った、とは少し違うのかもしれない。
あれは、一時的に意識を切り離していたというべきだろう。
その後の悲鳴が、耳から離れない。
恨んでいい。
お前は、〝主様〟の命令に従っているだけだ。
全ての罪は、俺が背負うから。
大陸歴四九〇年 コルセルの月 第三週 月の日
あいつを〝ウィード〟と呼ぶことになった。
訓練は順調に進んでいる。
そろそろ、次の段階にいかなければならないだろう。
大陸歴四九〇年 リーレンスの月 第二週 水の日
〝薬〟の投与を開始した。
前から思っていたが、あれはえげつない。
人の言葉を理解できなくなるなんて。
〝ウィード〟には、〝護るもの〟と〝敵〟の明確な線引きが必要になる。
役職にもよるが、〝護衛〟であるあいつは〝ウィード〟と〝主様〟以外の言葉を理解してはいけない。
生物は、不思議だ。
同じことを繰り返すことで、それが当たり前になってしまうのだから。
それは、生き残るためなのだろうか。
ただ、これだけは解っている。
あいつは〝ウィード〟と〝主様〟である俺以外の人と会う度〝薬〟の投与が行われる。
そして、それを殺せと命令されるのだ。
人の言葉を、理解できなくなるまで。
人の言葉を話さないそれを、人だと思えなくなるまで。
そうして、刷り込まれる。
自分が認識できるのは、〝ウィード〟と〝主様〟の言葉だけ。
〝ウィード〟と〝主様〟以外は、人ではないのだと。
大陸歴四九一年 カルシーラの月 第四週 火の日
そろそろ〝薬〟の投与を減らすことにした。
今のところ〝ウィード〟は順調だといえるだろう。
〝薬〟の回数を減らして、あいつはどうなるのだろうか。
大陸歴四九一年 サラザンの月 第一週 土の日
気が動転している。
なんて書けばいいのか解らない。
あいつは、人の姿が認識できなくなっていた。
いったい、いつからなのか。
今まで何人もの〝ウィード〟を育ててきたが、初めてだ。
あいつの目には、人が小刻みにぶれて映っているらしい。
便宜上、それを〝ノイズ〟と名付けた。
絶え間なく歪み、聞こえる声は全て奇怪な音。
〝自分〟と〝主様〟以外の人がノイズとして映る世界は、どんなものなのだろう。
〝護衛〟としては今までの〝ウィード〟が霞んでしまうほどの成功といっていい。
侵入者や暗殺者がどれほど偽ろうとも、紛れ込もうとも、必ず見つけ出してしまうのだから。
人としては、これほど壊れたものはないといえるが。
これも全て、〝薬〟の所為なのか。
わからない。
ただ、訓練の所為か、あいつはノイズを酷く嫌悪している。
だから、〝ウィード〟や〝主様〟から逃れたとして、ノイズしかいない世界では、生きることもままならないだろう。
それに、あいつは〝主様〟を護るための能力しか持っていない。
それ以外は、全て奪われてしまった。
俺が、奪ってしまった。
あいつはもう、一人で生きられない。
大陸歴四九二年 エズルヴァの月 第三週 月の日
あいつと出逢ってから、来月で五年。
長いようで、短い時間だった。
……初めは、自分のためだった。
自分の目的を叶えるための、手段でしかなかった。
それが変わったのは、いつからだっただろうか。
それを考えたところで、どうにもならないのだけれど。
来月、〝ウィード〟を〝主様〟に引き渡す。
最後の訓練を終えて、あいつは完全な〝ウィード〟に、〝護衛〟になる。
それで、終わりだ。
あいつの本当の名前は、なんだったんだろう。
一度でいいから、呼んでやりたかった。
奪った俺が、いえることじゃないのに。
今まで、数えきれないほどの未来を壊してきた。
だから、これは逃げなのだろう。
それでも、あいつが完全な〝護衛〟となるための踏み台になれるなら。
あいつがこの先に進むための、きっかけになれるなら。
それだけで、いい。
だから、お願いだ。
最後は、
躊躇わないでくれ
次はテオドールの過去です。