貴方は、だれですか? / わたしの存在意義は、主様です / どこにもいない、見つからない
題の文だけ視点変更があります。
楽しんでいただければ喜びます。
気がついたとき、わたしはどこかに横たわっていました。ざあと吹き荒ぶ風が緑の匂いを運び、耳元の草が音を奏でる。それを、他人事のように聞いていました。
なぜなら、わたしは目を開けることができなかったからです。瞼の外から入ってくる光で、夕方であることはわかりました。でも、それだけ。それ以外は、何もわかりませんでした。
そのとき、瞼の向こう側が僅かに陰りました。
「こんなところで寝たら、風邪引くよ」
呆れたような、困ったような、少年の声。わたしを見下ろしているのでしょうか?
静かで落ち着いたそれは、心からわたしを案じているようでした。だからこそ、わかりません。
貴方は、だれですか?
「聞こえないほどぐっすり眠っているの? 夜眠れなくなって辛いのは なのに」
辛いのは、なんでしょう? そこだけ聞き取ることができません。けれど、心が少しだけ、きゅうと締め付けられるようでした。
少しして、少年は諦めつつも私を起こす努力をし始めました。
「起きて、 。早く帰らないとマザーに怒られる」
マザー。
その言葉を聞いた瞬間、体中に怖気が走りました。すぐに、此処から逃げ出したいと思ってしまうほどの衝動。どうしてかは、わかりません。
ただ、とても怖かったのです。ここにいてはいけないと思ったのです。このままでは死んでしまう、殺されてしまうと、〝わたし〟が泣き叫んでいました。
でも、身体は動きませんでした。指先一つ、瞼を震わすことさえも、できませんでした。
「 」
目覚めているのに、聞き取れない。
眠ってなどいないのに、動けない。
嫌だ、このままでは殺されてしまう。
わたしが、死んでしまう。
誰か、だれか、だれかだれかだれか――!
だれでもいい、たすけ、て
「君を、独りにしないよ」
絶対に、護るから。
突然聞こえた覚悟の籠った声に、思わず息を呑みました。
動くことのできないわたしの声が、聞こえるわけがないのです。だから、これはただの偶然。けれど、力強いそれに安堵したのも事実でした。
張りつめていた何かが解されるような、不思議な感覚。そうしたら、変な力が抜けたのか、身体が動くことに気付きました。
「帰ろう、 」
わたしの髪を梳いた少年が、また何かを囁く。わたしはそれに導かれる様に瞼を開きました。
―――――
ゆっくりと開いた視界に映ったのは、柔らかい若草色の何かでした。正常に働かない思考のままそれに手を伸ばし、毛の長いそれを幾度か撫でて理解しました。
これ、昨日主様が下さった絨毯ですね。ふかふかで、気持ちいいです。
ごろんと転がり、横向きから仰向けに。そのままの格好で瞼を閉じました。
真っ暗な視界で再生されるのは、夢で聞いた誰かの声。そして、最後に一瞬だけ見えた、燃えるような赤。
あの人は、何方でしょう? 主様は金髪ですから、違うと思うのですが。けれど、他に思い当たる人はいませんし。それにマザー……いえ、こんなことを考える必要はありませんね。時間、です。
目を開けて虚空をぼんやりと見つめていたわたしは正確な体内時計に従って身を起こし、簡単に身支度を整えました。見苦しくない程度に髪を梳き、軽く身体を解します。傍に立てかけておいた剣を腰に佩き、大きく深呼吸をしました。では、今日も一日頑張りましょう。
とはいえ、わたしの仕事場所はすぐそこ、この部屋の扉の向こうなのですが。正しくは違いますけれど、間違ってもいません。
とんとんと軽く扉を叩き、取っ手を捻ります。重厚でありながら軋むことなく開くそれに、初めて見たときは感動したことを思い出しました……いえ、そんなことはどうでもいいのです。
踏み込んだ扉の向こうは、わたしの部屋がいくつ入るのかわからないほどに広い。勝手知ったるそこを歩き、ベッドの手前で足を止めました。
基準となるベッドの大きさを知らないから何ともいえないのですが、絶対に普通ではない巨大なそれ。その中央に身を委ねている主様に声をかけました。
「主様」
「……うぃーど?」
「あさ、です」
真っ白なシーツに美しい金糸を散らしている主様は、少ししてから目が覚めたことを知らせるように手を振りました。それを確認してから、同じベッドに横たわっているわたしに声をかけます。
「起きてください」
「ん、……おはよう」
気だるげに身を起こしたわたしに、落ちていた服を手渡します。
それを巻きつけるようにして身に纏ったわたしは、今日の予定は、と問いました。
「主様の護衛です」
「いつも通りね。本日は仕事が多いみたいだから、気をつけて。わたしは数日間、城を空けるから」
「了解です」
「主様をよろしくね」
軽く手を振って部屋から出ていくわたしを見送り、揺れる長い黒髪を羨ましく思いました。
わたしの髪色は平凡な茶色で、目の色も同じ色。わたしの中にも十五人ほど同じ配色をしているくらい、とてもありふれたものなのです。だから、わたしのような全てを飲み込んでしまうような黒に憧れてしまうのは、仕方のないことです。……さて、考え事は止めましょう。ここからは気が抜けないのですから。
聞こえてきた独特なノック音に思考を引き戻します。扉を開けると、様々なものをもったわたし達が入ってきました。変なものが混ざっていないか全員をチェックして、小さく頷きます。いつも通り、ですね。
確認を終えたわたしが主様の傍に控える間にも、わたし達はてきぱきと動いていました。主様の洗顔のお手伝いをしたり、目覚ましのハーブティーを入れたり。さすがわたしです。わたしには到底できませんね。
「ウィード」
「はい」
ベッドに腰掛けたままの主様に呼ばれ、小さく答えます。主様はハーブティーに視線を落としていました。
「ウィードは、私を憎んでいるかい?」
「質問の意味が解りません」
「……ごめん、本当に」
唐突に謝られても、本当にわからないのです。同じように戸惑うわたし達と顔を見合わせ、主様に向き直りました。
「わたしの存在意義は、主様です」
「……知っているよ」
悲しそうに笑う主様に、わたしの顔まで歪んでしまいました。
時々、主様はこの質問をします。そして、その答えにいつもこの表情をするのです。
なにが、主様をそのようにするのですか? わたしが主様を憎むなんて、あるわけがないのに。わたし達は皆、主様を慕っているのですから。
ご自身の隣を叩く主様に従ってベッドに腰を下ろすと、主様はわたしの手を掬い上げました。
「この手が、いつもわたしを護ってくれるんだね」
ありがとう、ともう片方の手で優しく撫でられ、少しの間思考が止まりました。元に戻ったときには手が離されていて、思わず身悶えたくなりました。さすがに自制しましたが。けれど、どうしてちゃんと意識を保っていられなかったのですか、わたし。こんな機会、そうそうあるわけではないのに。
そんな内面を知らない主様は、部屋に控えているわたし達にも頭を下げました。
「いつも、ありがとう」
頭をあげてください、主様。
部屋にいるわたし全員がそう思ったことでしょう。わたしが思うのですから、絶対です。わたしは、わたし達は自分の意志で主様に仕えているのです。ですから礼など、必要ないのです。けれど、そのような主様を好ましいと感じることも事実です。
ようやく頭をあげた主様に全員で安堵の息を吐き、わたしの内の一人が主様からカップを受け取ります。立ち上がり、お召し物を着替える主様の少し後ろに控えたわたしは、主様が小さく零した言葉に首を捻りました。
これ以上、君達のような被害者は出さないから、とはどういう意味でしょうか? ……わからないことを考えても、わかるわけないですね。忘れてしまいましょう。
―――――
綺麗に磨かれた壁や溢れんばかりの食事を見るたび、煌びやかな衣服を身に纏うたび、自分がどうしてこんなところにいるだろうと考えてしまう。本当は今もあの孤児院にいて、死ぬ間際の夢を見ているだけではないかと何度思ったことか。それをリズに告げたら、醒めない夢は現実だ、と返されたのは記憶に新しい。
だから、これは幸せな夢なのだろう。空きっ腹を紛らわすように水を飲むこともなければ、その水の所為で腹を下すこともない。隙間風に吹かれ、冷たい雨に身体を震わせながら身を寄せあうこともない。ぼろぼろの衣服を繕うこともなければ、穴の開いた大きさの合わない靴を履くこともない。
目が覚めると、包まっているシーツは染みひとつない清潔なもの。部屋は隙間風どころか常に適温に保たれていて、控えている侍女が着替えを持って入ってくる。その服もあの頃からしたら想像もつかなかった代物だし、穴どころかほつれ一つで処分される。食事は何をどうしたらそうなるのか、わけが分からないほどに手が込んでいて、それでも食材の味を損なうことはない。それが、テーブルを埋め尽くすほどに広がるのだから、幸せなはず、なのに。
「テオ? そんな険しい顔をしてどうした?」
「……リズ」
横の通路から歩いてきたリズが俺の顔を覘き込んで首を傾げる。それから逃げるように顔を背けた。
「さては、また考えてんだ? もう、受け入れなよ。夢だろうと現実だろうと、変わらない」
「そんなこと、わかっている」
「わかってないよ」
呆れたリズの口調に、強く手を握り締める。同時に、剣を握り過ぎて傷だらけの掌を思い出し、周囲のものを壊してしまいたい衝動に駆られた。
わかっている。原因も、理由も、なにもかも。全部、解っている。けれど、受け入れられない、受け入れたくない。
俺がしたことは、契約を優先した、ただそれだけ。それがなんだ、全てが後手に回っただけだ。そんな悠長なことをしている場合じゃなかったのに。
歪んだ表情を隠すように片方の手で顔を覆う。その弾みで流れた白銀が忌々しく、強く目を閉じた。
『テオ! あのね――』
十年以上昔に聴いた声が、今でもふとした瞬間に蘇る。あの腐った掃き溜めのような人生の中で、唯一鮮やかに色づいていた記憶。襤褸を纏いながらも、日々の中に幸せを見出していたあいつの姿が、忘れられない。
「――ここは、夢の中だ。俺が作り出した、幸せな、ゆめ」
着ている服は襤褸なんかじゃない。出される食事はいつも豪勢で、腐っているものが出てきたことなんて一度もない。風も、雨も吹き込まない、清潔な自分だけの部屋。
幸せだ。幸せなんだ。しあわせ、じゃないと。しあわ、せ……なら、どうして――!
「俺の傍に、あいつがいない――!」
食い物も、服も、部屋も、あの日から手に入れた全てを手放しても、あいつがいればそれだけで幸せなのに。あいつ以外は、なにもいらないのに。どうして、あいつだけがいない。
「いい加減、諦めなよ」
「……い、煩い! 黙れっ!」
近くの壁を力いっぱい殴りつけ、リズの声を掻き消すように叫んだ。視界を遮る白銀の隙間から睨みつけたリズは、感情の読めない表情をしたまま口を開いた。
「君が探し始めて何年経ったと思う? もう、足掻くのはやめて現実を受け入れたら?」
「黙れと言っているんだ! リズヴェルト!」
「それはそっちだ、テオドール。いい加減、目を醒まして。テオの探している女の子は存在しない。存在しないものは、決して見つからない」
「っ、ちが――!」
「否定できないよね? それなのに、まだ探し続ける気? 十年? 二十年? それ以上?」
「……いない、わけない。あいつは……あいつは、生きていた! この命は、あいつが拾い上げた。だから、あいつは生きていたはずなんだ……! それなのに、どうして見つからない!? 俺はあいつを護ると決めたのに!」
マラディス国の今の家に引き取られてから四年後。待って、待って、待ち焦がれて。迎えに行った孤児院に、あいつはいなかった。
いない、どこにもいない。どれだけ探しても、どこを探しても、見つからない、記録がない、存在しない。あの孤児院の中に、あいつの名前だけがない、あいつの持ち物だけがない、あいつの付けた傷がない、あいつのことだけを誰も憶えていない――あいつが生きていたという事実が、ない。
「なんで、だ? あいつが俺を生かそうとしたから、俺は生きているんだ。それなのに、あいつがいない。どこにもいない、見つからない。あいつが俺の作り出した妄想なら、俺はどうして生きている?」
孤児院にいた誰もが、あいつのことを知らないという。そんなはず、ない。あいつはあの孤児院で生きていた。生きていた、はずなんだ。
俺を生かした小さな手も、溶けてしまいそうなほどに涙でぬれていた茶色の瞳も、太陽みたいな笑顔も。一度だって忘れたことはない。それなのに、皆口をそろえて俺の妄想だという。この場に存在する俺こそが、あいつが生きていた証明であるはずなのに。
どこにいるんだ、フォリン――