九話
薄暗い部屋――カンテラの灯りは細々と灯り、周囲の壁と、埃が塗れた床を少しばかり照らしている。それは一つではなく、部屋全体を明るくしようと試みたのかいくつか置かれているが、一つあたりの光量が十分とは言えないため、部屋全体にその灯りが行きわたっているとは言い難い。
そんな部屋の中央に、木の机が一つ。書類は乱雑に積まれており、処理された形跡は見当たらない。灯りも完全に届いているとはいいがたく、部屋の中では比較的暗い方だ。
その書類の上に、黒髪の頭が一つ、ごろんと乗っている。胴体と切り離されているわけではなく、すー、すー、と寝息をたてている。
ちゅー、と、ネズミが一匹部屋の隅の穴から這い出てきて、鳴いた。
次の瞬間。
ガラっ、とドアが勢いよく開けられる。ほこりがぶわぁっと舞い、ネズミが飛び上がった。そしてまた穴の中に這い戻る。
「隊長っ!」
黒髪を逆立てた貫禄が少し出てきたばかりの青年が入ってきた。ほこりはその全身に当たっているが、気にすることは無い。それほどまでに、焦っていた。
机の上の黒髪は動かない。随分熟睡しているようだ。
青年は机に駆け寄る。少しくたびれた革の服は着たままで、隊長と呼ばれた男は眠っていた。目の下には隈。
「隊長っ、起きてください!」
肩の上に手を置き、ゆさゆさと揺らしながら起こそうと試みる。
「ん……っ?」
呻きが漏れた。黒髪の下で紙が少しだけ浮く。
「報告があるんですよ! しかもかなり急で、尚且つ特大な奴が!」
青年――革の服に光っている金属のワッペンを胸につけ、レイピアを腰に帯剣していることから、おそらく軍人だろう――は興奮した様子である。切羽詰った、とはまた違っていた。
「眠いんだよ……少しくらい休ませてくれや。そろそろ年が冥府から来ちまったようでな――出世のチャンスなんて何も見当たらないこんな片田舎だからか、死神さんの活動速度は早くてなぁ……」
ふわぁ、と欠伸をしながら長ったらしいセリフを言った。
「そんなよくわからないことを言ってないで、報告を聞いてくださいよ!」
「あぁ、聞く、聞くから十秒待ってくれ。起きた直後ってのは中々に堪えるものがあるのさよ――」
「隊長の命令なら仕方ないですね――」
興奮を抑えるかのように胸に手を置き、すー、はー、と深呼吸をした。
そして、そのまま十秒。
「よしっ、何だ、要件は」
先ほどまでとは明らかに違う声色。仕事用、とでも言うのだろうか。聞くものが威圧感を感じるようなものになっていた。
「はいっ この街の教会の司教――クレーエが、騎士と他数名の手勢を集めて領主――チェーニの館を襲撃する、という情報がリークされまして」
その発言は興奮した様子で発せられていた。いくら数年間隊長――名前はエクシトという――の威圧を受けてきたとは言え、完全になれきったわけではなく、委縮するところが少なからずある。その中でも、委縮せずにさらにはあおるような調子で言えた報告はかなり珍しい。青年――パソス――が入隊してから数えても、片手の指で足りてしまうだろう。
「なっ! それは本当かっ!?」
聞いたエクシトの驚き様も並の物ではなかった。四十過ぎの年齢――既に髭は白く染まり始め、顔のしわもそれなりの貫禄を帯び始めているその姿からも取れるように、この男は比較的落ち着いた性格である。その彼が驚くのも、部隊長に就任した後のみで考えれば相当少ないのではないだろうか。尤も、血気盛んな若者の頃にはとてもではないが落ち着いているとは言えない、やんちゃな性格だったらしいが、それは貴族軍人ではない軍人の大半が当てはまるであろう。
「はいっ! ですから、早急に動ける衛視をかき集め、編成して防御に当たったほうがいいと――」
「当然だっ! 人を呼べ! 編成をするために呼びかける――そうだな、ザハルに、一応領主にも教えてやろうと思うから、サイルでも呼べばいい!」
エクシトの出世への願望は人並みだ。だが、人間という種そのものが――聖人君子でもない限り――欲望に満ち溢れているものである。出世欲だけがその例外に成り得るなど、当然ない。勿論、ほかの欲望が出世欲に勝る場合は多くあるが、彼の現在の場合は特段そういうことは無く、純粋に欲望が発揮されていると言って間違いはない。
だからといって、頭の回転が悪くなっていたり盲目的になっていたりすることはなく、しっかりとした指示を出すあたりは年の功というべきであろうか。こういう時の立ち回りに失敗して権力を失う人間の例は歴史にも、話でもいくらでも聞くことができる。
「は、はいっ!」
彼は返事をし、来たときよりもさらに勢いよく部屋を出て行った。このような経験を若年の時――と言っても、既に二十台の半ばにさしかかっているが――に学べたことはパソスの今後の人生に対して貢献するであろう。
ばたん、と、扉が閉まる。ゆらりと灯るカンテラの光に、待ったほこりが再度映る。
「ふむ、これは面白くなりそうだ――さて、どう動くかね」
エクシトは椅子から立ち上がり、右手を首に添えた。そのにやりとした瞳は悪巧みをしているようにも、純粋に状況を楽しんでいるようにも見えた。
ステンドグラスが妖しく光る。その光源はステンドグラスの真ん前に堂々と置かれている主祭壇の両翼に灯るロウソクだった。
「明日――だな」
呟いたのは祭服を着ている一人の初老の男だった。彼こそが、クレーエであった。髭は黒よりも白が完全に勝っていて、顔のしわもだいぶ目立つ。
「祭服とは――だいぶ、やる気の様ですな」
その近くに、また一人の男。絹の普段着で、クレーエよりは年が若く見える。禿げ始めた頭と少しぽっちゃりとした体形は、あまり肉体労働をやっていない中年そのものであった。その顔は、苦笑しているようにも、下卑た陰謀を謀っているようにも見え、とても無気味だった。だが、一つ言えることは――善人には、見えないということだろうか。
「やる気もやる気。当然だとも。最初からこんな信仰の薄い街には嫌気がさしていたが、前の領主は信奉者で、熱心にミサに参加してくれてたからまだマシだったのさ」
「ふむ――だが、今回の領主は、ということか」
納得したように中年の男が頷く。彼自身は、ほかに生業を持っていた。鍛冶屋、である。冒険者が多いというエレの街の特性上、鍛冶屋はとても多い。冒険者の大半は武器を駄目にする速度が並の騎士に比べて大分早い。剣――もしくは他のさまざまな武器を振るう頻度が違うからだ。そんな街で武器の販売から修理、更には改造や個人注文までこなせる鍛冶屋が増えるのは当然のことだった。
男自身は、鍛冶の多くを弟子に任せ、オーダーや難度の高い修理を時々やる程度であったが、それでも若い時からだいぶ稼いできた彼であった。
詳しくは割愛するが、その独特の製法で作られた珍奇な形状な武器は使いこなすことこそ難しいものの、一部のマニアから変な情熱を持つ冒険者――騎士に比べ、冒険者にこの手の人間はだいぶ多い――から、更には一部の何かが欠けたひたむきな冒険者に愛用され、若い時から自分の工房を持っていたほどである。リピーターからの評価は、異様に高かったらしい。尤も、一回で店を去った冒険者や衛視、それに旅行や視察のついでによった騎士からの評判はすこぶる悪いが。
「そうだ! 就任時の挨拶は無い時点で嫌な予感はしていたが、前領主が施してくれた寄付もすべて打ち切りにしちまった! まぁ、それはまだいいとしよう、私の生活からしたらそれはそれは大問題だが、食っていけない程ではないからな!」
世界の終りでも見たかのように両手を仰ぎ、悲嘆にくれながらわめき散らしていた。その姿は何かに執着している、頭が少し萎んだ老人の姿である。
「なのに、なのにだ、あの糞領主はお祈りに一回もきやしねぇ! フォーゴ様をはじめとする数々の神様に申し訳が立たないったらありゃしない――」
絶望したように仰いだ手を地につけた。金に汚いというもっぱらの評判はあるが、この司教は純粋にビダーヤ教に傾倒しているようだ。
それをみた鍛冶屋は、落胆の表情を見せた。地を見ている司教からは、見えないだろうが。
――盲信的すぎる。
それが率直な印象だった。鍛冶屋が敬虔なビダーヤ教徒であることは確かだ。だが、それは飽く迄日々の支えと、非常時に縋るものである。
だが、この目の前の男はどうか。
縋った男の末路がこんなに惨めでいいのか。
「だからこそっ」
奮起するように立ったその様は、演技しているように見えた。
「私は大いなる異教徒を導くのだ! たとえ、武力行使をしても」
武力行使が前提でないことが、せめてもの救いか。それでも、すぐに動かせる騎士に加えて、魔術師中心の冒険者のグループに依頼を出しておく様からして、どう考えても武力でかたをつけるつもりだろう。一応は交渉から入りました、とでも言うつもりだろうか。尤も、建前は重要だが。
「わかってくれるよなっ!」
と、途端に鍛冶屋の方へと振り向いた。いきなりだったので、少し驚き、後ろへと仰け反ってしまった。
少しだけ、驚いた表情で固定させておこうと、鍛冶屋は画策する。
協力を要請する気としか、思えない。確かに鍛冶屋は熱心にこの教会に通っていた。敬虔なビダーヤ教徒なら当然の行動である。
だからと言って、この司教に身も心もゆだねているわけではない。少々、神様の威信と自分の意向を取り違えている傾向があるように思える。
ついて行ったところで、成功するだけの保証もない。自分は飽く迄、珍妙な武器を作るだけの、敬遠なビダーヤ教徒である。
「ところで、君も――」
余韻を残しながら、言葉は濁された。これで十分だと、双方が分かっているのだ。
「――いや、俺は止めとくよ」
「なっ!」
今度はクレーエが驚く番だった。
「残念ながら、明日は武器の注文が多くてね。そっちを手伝える状況じゃないんだよ」
「――――そうか、なら仕方がない」
クレーエは鍛冶屋の腕を見た。それは何度も槌を振るったことで、だいぶ筋肉がついている腕だった。
「じゃぁ、俺はお暇させていただきますぜっと」
鍛冶屋の後ろ姿に、何か不安なものをクレーエが感じた。それを否定することは、その場に誰かが居たとしても、誰もができなかったことだろう。
司教――クレーエは少しの間、ぼぉ、と入口の扉を見つめた。その扉は何十年も前からその場所にあるらしく、木は腐食していて、削られていたであろう装飾も今では見るも無残な姿になっている。
「司教様――?」
がちゃぁ、と、香部屋の扉が開き、一人の修道女――修道服を着ているのだから、おそらく修道女だろう――が、出てきた。非常に可憐な顔をしており、年は二十に満たないくらいであろうか。あどけなさを少し残した顔立ちは、年齢を低く見られそうであった。
クレーエはその声で振り返る。そして、修道女の顔を見た瞬間ぱぁ、と笑顔が広がった。
「アルマじゃないか! 祈祷は終わったのかい?」
「はい。今回の計画に加護があるように、フォーゴ様に祈ってまいりました。フォーゴ様は気さくな笑顔を私に見せてくださり、笑いながら、信じるものの道には必ず我らからの幸福があると言ってくださいましたよ」
うやうやしく修道服の裾を両手で持って、一礼した後に修道女――アルマは言葉を発した。微笑を浮かべながら、だ。
「お前も、しっかりとフォーゴ様をはじめとする神様に祈れば、ちゃんと加護はもらえるからね。毎朝のお祈りを忘れずにして、何かが起こった時にはしっかりと祈祷をするんだよ」
クレーエは慈しむような笑みを浮かべた後、ぽんっ、とアルマの頭に萎びた右手を置いた。その右手の薬指には指輪、手首には十字架を着けていた。
「はい。勿論です」
「ところで――」
クレーエは笑みを絶やし、真剣な顔になる。アルマにとっては、時々、何か重大なことを頼まれたりするときによくする表情だ。
「アルマは、今回の市街戦には参加するかね?」
その質問に、数瞬回答を迷った。だが、彼女の心の内は既に決まっているのだ。何を迷うことがあろうか。
「――行こうと、思います。クロスボウの腕を使えば、司教様の助けにもなるでしょうし」
「そうかそうか!」
クレーエは手を叩きながら快活に笑った。
「ありがとう。私も、アルマをあまり危ないとこにはいかせたくないが――ことがことだからな。大丈夫だ。私だって魔法学院に通ってたことがあるし、修練も積んでいる。今回の戦で何も怖がることなどありはしないさ」
「はい――司教様は、お強いですから。頑張りましょう」
「ありがとよ……」
この後のことは、語るべきではないと思う。見る人が見ればおぞましい何かがこの教会の中で行われていたことは事実だが、それを真実の愛と肯定する人もいるだろう。ただ、言えるものは数分後にろうそくの明かりが消え、暗闇の中から声が漏れていたということだけだ。