五話
カルンの驚いた顔は続かなかった。トマナが声をかけて直ぐ、それは初めて会った時のような、おしとやかな笑みに変わる。それがあまりにも演技のように見えて、トマナは少しだけ面喰った。
「こんばんは――?」
こんな状況でこんばんはも何もないだろう、とトマナは思う。カルンは冷静そのもの――流石に口の中に確かに見えた牙をヘスソスの首筋から離してはいる――だが、こんな状況を冷静に切り抜けるとも考えているまい。
「吸血鬼――か?」
襲われることも覚悟で、トマナは聞く。
そもそも、吸血鬼とは何か、という話だが。いうなれば獣人とも亜人とも魔物とも違う生命体――当然、人間とも――その名も魔人、というところだろうか。魔物と獣の区別は何か魔的な力を持つか持たざるかだが、魔人と人との区別は機構そのものから通常の人の枠組みから大きく踏み外している。だが、魔法使い、なんていうなればその典型でもあり、吸血鬼のような魔人はそれにある一つの条件が付随する。
希少価値。
個体数の少なさが、魔人の条件の一つだ。魔人を見たことがある、という人間は二重の意味で少ない。そもそも見つけられないと、見つけたとしても殺される。の二つだ。魔人とは一般的に人間自体を敵と見なしていることが多く、出会って即殺し合い、な場合が殆どである。それに付随するかのように、個々の戦闘能力も決して低くはない、というより人間と比べたら遥かに高いのだ。
たとえ旧知の仲だとしても、出会うことは死を意味する。
その上吸血鬼かどうかを知られていないという優位性を吸血鬼であろう存在から奪おうとしているのだから――と言っても、行動から真偽は明白であったが――その死はとても高い確率でトマナに迫りそうなものである。
「実はそうなんだよなぁ。つい先日まではうまく隠せていたんだけどねぇ。血もあんまり困らなかったし」
トマナにとっては拍子抜けだった。襲ってくるかと思い、背中のクロスボウまで手にかけていたのである。それが、ゆっくり世間話とは。世間話など、魔人とは無縁の存在にあるように思える。
「じゃぁ、脱走の原因も?」
それに乗るしかない自分が嫌だ、とまでトマナは思っている。ここで何らかの反抗をすれば、殺されるのは当然の結果になるのだ。魔人など、一介の人間如きで勝てるとは思えない。
「うん。流石に修道院長さんにばれたのはまずかった……ビダーヤ教的に吸血鬼はアウトなんだよなぁ。
まぁ、十七年も隠し通せた自分を褒めるべきだと思ったよ」
「どうやって、」
「そんな難しくはないからな? 同年代の子が居ないわけじゃないし。飴と鞭を使い分ければ、言わせないように吸血するなんて造作もないから、さ。まぁ、同年代よりもお姉ちゃんたち二人の目をかいくぐるのが一番難儀だったかな」
トマナの言葉が終わるより先に重ねられる言葉。予想されていたのであろうか。
そして、お姉ちゃんとはきっとファナルとシェルのことだろう。彼女らは幼いころから修道院で遊びあった仲らしい。年齢は少しばかり上下するが、それでも何か雰囲気や波長というものが合ったのだろう。今日でも彼女たちは時々会う仲である。
こんな出来事が起きなければ。
「じゃぁ、ファナルさんとシェルは知らなかったんだな――?」
元々カルンとトマナは旧知の仲である。吸血鬼という一点さえ頭の片隅に置いておけば、前酒場で話したようにとまではいかずとも、友人と話すような調子で話すのはトマナにとってそう難しいことでは無かった。
「そうだね。まぁ、薄々私が何か隠しているのは気づいていたと思うよ。シェルはアレにしても、ファナルは勘が鈍い奴じゃないし、曲りなりにも親友を自称していた仲だからね。隠し事があったからと言って親友じゃないっていうのは、違うけどさ」
自嘲するような響きである。そして、更にカルンは言葉をつづけた。
「それで、これだけ饒舌なことから少しくらいは気づいているのかもしれないけどさぁ――」
ゴクリ――と、トマナが生唾を飲み込んだことを咎める者は、この場を見たと仮定して全世界の何処にもいないだろう。それほどまでに、今のカルンの顔はゾクリと背筋を震えさせる要素に満ちていた。舌なめずりがついていたのだから、なおさらだ。更に、トマナはその下べらの隅に白く先はとがった牙を見てしまった。並みの精神力を持ち、吸血鬼を知っている人なら失禁してもおかしくはないだろう。
「お腹空いているんだよね。さっきのご飯も、途中だし。吸っていい? 害はないからさ」
害はない。それに疑いの目を向けるのは当然だ。誰だって言葉を無条件に信用することは難しい。おとぎ話で語られる勇者のような聖人とも見えるお人よしならば話は別だが、欲望や利益渦巻くのが普通の対話である。世間話だって、その例に漏れない場合が多いだろう。
「誰から――?」
「勿論。誰でも。トマナさんが誰を売っても、私は何も言わないから。首筋の傷も、目立たないようなところにしておくよ。吸いづらいのは、あんまり好きじゃないんだけど」
いまだ寝ている、ザーグとヘスソス。寝袋の中は呼吸と共に膨らんだり縮んだりを繰り返していて、ザーグの寝袋からはいびきすら聞こえそうだ。
その様子を見ているトマナの顔に不思議と苦悩はない、とカルンは見た。彼らパーティーの噂を時折は耳にしているが、仲が特段良いという話はあまり聞かない。パーティーとしての活動年数は人数が数人と少ない中では――若さも考慮して――比較的長い方に分類されるだろう。だが、口喧嘩や罵り合いという噂は絶えることなく、仲よく行動しているという噂は一年に一度聞けばよい方だった。カルンが思うに、どうせ生贄を選択しているのだろう。
「よし、じゃぁ俺の血を吸ってくれ! さぁ、早く!」
「――――え?」
思わず聞き返してしまった。吸血鬼に自分から血を吸ってくれと頼む人を世界中探して、何人いるだろうか。年少からの付き合いであった修道院の子供たちでさえ、彼ら彼女らの得になるようにして、さらに交代制にしてやっとなのであった。なのに、なのに、だ。この男は何故自分で――?
「だって、美少女が甘噛みしてくれるんだろ! これに飛びつかず何に飛びつくってんだよ! あ、吸血鬼にするのは簡便な。まだ俺は人間でいたいからさ」
吸血鬼にされる可能性があるのに、怖くないのか?
吸血鬼にかまれることがはたして甘噛みに分類されるかは、混乱する思考の中で考える暇も無かった。
「いいの――か?」
首筋を貫通して吸うのだから甘噛みではないと言うのも忘れ、思わず聞いてしまった。見なくてもわかる。今自分は阿呆みたいな酷い面を晒してるだろう。それも、期待に満ちた目を伴いながら。
「もちろんさ! そんな経験俺にはないからね! バッチ来い!」
両手両足を思い切り広げるトマナ。その姿では吸血するのも難しいだろうに、という考えは端からカルンの頭の中に浮かんでは来なかった。吸血鬼を恨んでいたビダーヤ教が滑稽に思えて、更にはその中で息をひそめるように生きていた自分が酷く馬鹿らしく思えて。
思わず、思考なんて無駄なモノは最早場外に弾きだされたようで。いつの間にか足がばねのように跳ね、人間としては異常な脚力でトマナへ向かって突っ込んでいた。
「ちょっ、おぁっ!」
慌てふためくトマナ。だがそれすらも眼中に入らず。
彼の右手を二つの華奢な手で掴んで減速。そのまま上半身を前へと突き出し、唇のあたりをそのまま彼の首へ。
カプリ――
その噛み方は吸血鬼としては余りにも可愛らしかった。深夜に森のど真ん中という状況でなければ二人のカップルがいちゃついているとみるものが大半だろう。トマナの右手が軽く悲鳴を上げているが、それすらもお構いなく。
じゅく、じゅく。
トマナの生き血がそのままカルンの体内へ流入する。カルンにとってその味は血の玉露といって何ら差し支えなく、思わず吸いすぎをトマナが心配するほどだった。
いくらうれしかったと言っても、そこら辺は流石に弁えて居たようで、トマナがふらりと倒れるといったことにはならず、首から唇と牙は話された。
唇からは髪の色と同じな真っ赤な赤が滴る。
それを可憐な右腕で拭った。
右腕に薄い赤色が広がったようにトマナには見えた。カルンはその右腕の先にある虚空のようなところへ視線をさまよわせた。
「ありがと……」
言葉がそれに続いた。それは蚊の鳴くような声の大きさだったが、トマナの耳にははっきりと言葉が聞き取れた。思わず赤面しそうになったほどだ。
「ん?」
だが、トマナは聞き返した。カルンが思わずいじらしく見えてしまったのが、その大きな理由であろう。先ほどまでと比べて大分ボリュームが落ちた声であったので、偽装も難しくない。
「感謝してるんだよ……」
それでも尚恥ずかしそうだったが、声の大きさは幾分か改善された。これは流石に聞き返すのは無理だな、とトマナは思う。最初から聞き返す気などなかったが、健気なカルンの姿を見て特に反対意見が頭の中で挙手されなかったらもう一度聞き返して怒らせていた可能性は十二分――いや、それ以上にある。残念ながらも、自分の自制心が保ててほっとした心境でもある。
このことからわかるように、トマナの頭の中から吸血鬼に対する――というより、この吸血鬼らしいカルンという少女に対する嫌悪感は急速に鳴りを潜めていた。普通の人間と変わらないどころか、何処の馬の骨ともわからない人間よりははるかに大きい親愛の情を抱いていたといっても過言ではない。
「そうか、どういたしまして」
屈託のない笑みを浮かべることができたのか、トマナに自信はない。だが、少しでもそれに近づけ、少女の不安を心の中から拭い去りたい、とは思った。
「これからも――吸っていい?」
今度は、上目使い。目はきょろきょろと、言ったり滑ったり戻ったり。不安なのだろう。吸血鬼の吸血とは、基本的に人間を襲って行う。吸血鬼に好き好んで血を吸われる人間など、本当に希少なのだ。それを快く受け入れてくれた存在にこれからも吸血をしてもいいかと尋ねたいのは当然だ。だが、断られたら
、という想像が頭の隅っこにこびりついて離れない。怖い。それが根本にある感情だろうとは自覚していた。これが自分のエゴイズムだというのもわかっているつもりだ。
「別にいいが――冒険者になるのか?」
それは重大と言って差し支えない問題だった。うら若き女性を血なまぐさい獣と魔物の世界に誘うなど、トマナにとって言語道断なことだ。だが、侍女を持つ冒険者など聞いたことも無く、それ以外の方策は特に思いつかない。
「問題ないと思う。いちおー、私だって魔人なんだし」
魔人は戦闘能力が高い。それは吸血鬼も例外ではないのだ。正直、一対一でトマナに後れを取るつもりは毛頭ないどころか十秒以内で瞬殺できるとまで思っているカルンであった。
「それなら――まぁ、別にいいかな。毎日噛んでくれるなんて、ご褒美以外の何物でもないし。俺にも運が回ってきたかなあ、みたいな感じだね」
「運は十分回っていたと思うけどねぇ。冒険者なのにあんなに女っ気があるなんて逆に珍しいよ? トマナくらい軟派っ気がある人も珍しくないのに」
少しの会話で冷静になったのだろうか、口調が普段の調子に戻り始めた。表情もどこか柔く見える。微妙に口の端が上がっているように見えるのは気のせいか。
「そうなのか……? いや、そうなんだろう、きっとそうだ!」
「そこで調子に乗っちゃだめだよー。全く」
出ばなをくじかれたような気分になるトマナだった。夜半すら優に超えた時刻であるのに、自分たちはどんな会話をしているのだろうか、と少し我に返った瞬間でもあった。
「まぁ、いい。俺が上昇傾向にあるのは事実! このままの調子で俺はっ!」
「プラス思考なのはいいんじゃないかなー。マイナス思考よりはよっぽどねー」
「うむ。このままいくぞー!」
と、トマナが大声を出し続けていた時だった。
「うるさい。いちゃいちゃするのは良いが、夜過ぎ。静かに」
単語をつなげたようなザーグの言葉、何時の間に起きていたのだろうか。「起きていたのか」と、トマナが言おうとした瞬間、手加減されていたとはわかる手刀の一撃が背中に加えられた。
「なっ!」
この声を出したのはカルンである。いきなり仲間に攻撃を加えることを想像できるはずもない。
「静かにしろ。――囲まれてる」
後半の言葉は、聞こえるか聞こえないかをギリギリ前者の線に転がるほどの小さな声であった。
囲まれているということに気づかれたことを知られるのは拙い。これは冒険者の常識で、少しでも相手に情報を与えないようにするために声の大きさを無理やりにでも下げさせたのも当然と言えよう。
「ヘスソス――もう一人の魔法使いは起こしてある。魔力を練ってるところだ。獣人は魔力を持ってないから気づかれることは無い」
「クロスボウは持っている……こちらは問題ない。――悪かった」
「大丈夫だ。倒すぞ」
「私は――」
カルンはあたふたと、スムーズに話を進めていく二人に対して戸惑っているようだ。
「問題ないよ。まだ三人組での連携しか取ってないからね。ここで人数を増やすと、いたずらに動きにくくなるだけだと思う。完全に邪魔にならないという判断か、ピンチの時には、頼むけどね」
「はい――」
「じゃぁ、行くか」
ザーグはなんでもなさそうに鉄の足を折り曲げて。
「獣人掃討、始まり」
思い切り伸ばした。