二話
フェーデ王国の国土の南端、周囲を山、森、谷に囲まれこれ以上の開拓が厳しい場所にエレの街は在った。太陽も既に落ち、天空の支配者が月や星々へ代替わりした時刻、大量のカンテラに彩られた城門の中の空間はいかにもガラの悪そうな人間の笑い声でひしめき合っている。付近に亜人の大規模な集落があると言われているこの街、肉や皮を求めた冒険者――即ち、往来で馬鹿騒ぎをしている返り血や汗や土や泥に塗れた人間が増えるのは当然だ。亜人という一種の資源のおかげか、この街は予想以上に発展している。冒険者が多い故なのかは不明だが、フェーデ王国の国教であるビダーヤ教が根付かないこの街を国自身は目の上のたんこぶに思ているという噂が流れているほど、この街は経済力が発達していて、冒険者が多いのだ。経済力が発達していない人の住むところ――即ち国へ口応えができない街や町や村など、国は搾取の対象としか思っていない。だからこそ、経済力を持つこの街を邪険に思うのだ。
そんな街のある一角。ほかの場所よりも冒険者が比較的多く、衛視や職人、それにわずかばかりの聖職者はあまり近寄らない所。荒くれ者特有の喧騒が支配される中、三人の男の姿があった。
からん、と鈴の音が鳴る。
「らっしゃぁい!」
そんな威勢の良い酒場のオヤジの叫び声も、すぐさま席についているのかすら定かではない冒険者や一部の好き者が放つ怒鳴り声にも等しき雑談でかき消される。
ドアを開け、鈴を鳴らしたトマナはその雑談に勝るとも劣らない叫ぶような声を思い切り張り上げる。
「おやっさんっ! オークの肉焼いて!」
城門の前で衛視と駄弁っていた時より明らかに小さい袋を酒場のオヤジへと放り投げる。其れは放物線を描きそうだ。トマナの後ろには、肩で息をしているヘスソスが。ザーグはただ無表情。
「いしょっしゃぁ! 腕がなるぜぇ! 適当に座っとけや、小僧ども。おぉい、酒を持って行ってやれぇ。一番安もんだがなぁ! オークに免じて俺のおごりにしといたるわぁ!」
酒場のオヤジは右手で袋を捕獲。そのまま開ける。トマナたちと大して年は変わらぬであろうオヤジの娘と思わしき女性が発泡している透明な液体三つをトレイの上に載せてあたふたと走る。トマナは堂々と周りの荒くれ者に劣らぬ筋肉を誇りながら空いていたテーブルにドカン、という擬音が付きそうな調子で座る。ザーグはこれまた無言でそれに続くが、発泡酒への期待はあるようでじぃ、と看板娘が持ったトレイを見ている。それに遅れ、ぜぇ、ぜぇ、というすぐさまかき消される音を発しながらヘスソスは椅子に座った。
両手をテーブルの真ん中へと伸ばし、顔をそこに埋めた。
「あぁ……座れることのなんと幸福なことか」
恍惚極まる表情でそのようなことを言うのだから、ザーグは笑わずにはいられない。高級な、油抜きをしたトロルの皮で作られた椅子でもなく、ただそこらへんに生えている木を無骨に切り取ったようなモノである。安酒場なので不平不満は言えないが、少々痛い、とザーグは思っているのだ。臀部まで機械で作られているわけではないので、痛いものは痛い。こんな椅子で満足しているヘスソスを、多少うらやましくも思えるほどだ。
どう見ても、国の庇護を多大に受ける魔法学院で育っていたようには思えない。
「おまちどうさまですっ」
そんなことを考えているうちに、トレイが木のテーブルの上に置かれた。ヘスソスは一瞬でテーブルの上から撤退するも、衝撃からか飛び散った泡が頬に付き、何とも嫌そうな表情をした。
「気にするな。それくらい」「いや、ちょっと冷たくてびっくりしただけさ。酒の席に水を差すつもりは毛頭無いよ」「なら、良い」
「ニーニャちゃん! 一緒に呑まないっ!?」
トレイが離れ、フリーになった白く可憐な看板娘――ニーニャ――の手をすぐさま握り、傍からは真剣に見える目――ザーグとヘスソスは当然のこと、ニーニャですらもそれは多くの人間に使われたことを知っている。この酒場を利用した女冒険者の殆どがこの目で見つめられたのだから――を、ニーニャの眼へ向けた。
「い、いえっ 私は仕事がっ」
それでも強く断れないのは温和な性格ゆえか。
「俺の娘に手ぇ出してんじゃねぇ! ナンパ魔がぁ! オークの肉を焦がしちまうぞ!」
助け舟を出したのはオヤジだった。今日は脅す材料があるから随分と楽だ。しつこくニーニャに迫るその姿はこの酒場の風物詩として多くの酒飲みの目に焼き付いている。ニーニャだけに限らない、というところもまた印象を強める一因になっている。
だが、今日は違うのだ。オークの肉とは、肉の癖に――と料理人に眉を顰めさせるモノである。焼けにくく、焦げやすい。その丁度中間か少し焦げ目に寄ったあたりを見極める技術がどうしても必要になってくるのだ。其れゆえか、自分で料理を頼んだオークの肉を焦がされてもそれに対してキレないといったことが冒険者の中で不文律だったりする。
この場所で酒場のオヤジが焦がしても、それを糾弾できる権利は誰も持ち得ないのだ。
「えぇー。そりゃないよオヤジさんっ! 俺のニーニャといちゃいちゃにゃんにゃんするというドリームがぁ!」
「おめぇなんかにニーニャをやるわけねぇだろぉ! 黙って酒でも呷ってやがれ、肉はあとから出してやらぁ」
「酒よりも一夜の迸るパトスが俺の生きる道だ! 情熱の赴くままに世界を動かそうとして何が悪ぃ!」
「酒、うめぇ」
椅子の上に立ちながら右手を握り、大声で持論を捲し立てているトマナの横でのんびりと座りながら酒を口に運んでいるザーグ。既にグラスは三分の二ほどに減っている。一気に飲まないだけまだましか。そんな彼の呟きが耳に入ったのか、トマナは下を向いた。
「ザーグ、お前さんも酒なんてただの液体にその身を奪われていないで、女体を味わう世界に俺と一緒にダイブしようとは思わないのか。めくるめく官能の世界へ――」
「酒池肉林という言葉がある。これから、権力者は肉も女も愉しむものだ。俺は取敢えず酒を究める。お前は女を究めておけ」
「なるほどっ!」
「君は実に馬鹿だなぁ。初めからりょうほ――」
ヘスソスの言葉は続かなかった。女を楽しむつもりなど毛頭ないザーグの文字通りである鉄拳が顔面に炸裂したのだ。無論、加減はされていあるだろうが。下手な知恵を馬鹿に教えて被害を被るなど御免だ。
「馬鹿と言ったから正義の鉄槌だな。うむ」
納得しながらニーニャの方に向き直――れなかった。既に給仕の仕事に戻っていたからだ。彼女はあたふたと色々な料理を運んでいる。
「ちくしょぉ!」と、怒鳴るトマナの前に「はいよ」とオヤジからオークの肉が差し出された。
少しだけしか焦げていないその見た目は良く食欲を誘っていて、アクセント程度に垂らされた調味料もそれに加担する。何ともおいしそうだった。
いまだ酒をいっぱいも飲んでいないヘスソスが、痛みに耐えながら一枚目を手に取る。
夜は、まだ長い。オークの肉は、ホクホクと湯気を出していた。
同じエレの街。賑やかな喧噪の酒場とは裏腹に、そこは静まり返っていた。キャンドルが隣に立て掛けられたガラスの窓は神聖なるウサギからの光が映り込んでいた。窓から望む景色は日付の変わる直前だというのに明かりで満ちていて、月明かりすら侵食するかのよう。これも仕事が無いときは夜に動き朝に寝る冒険者が多い街柄ゆえか。
その窓の内側、室内にある樫の木で作られたテーブルの上には雑多な書類が積み重なり、傍らのこれまた樫の木による椅子すらも座るところがあると思えない。そこに無理矢理腰を落としているかに見える中肉中背の男は絹の服で身を包んでいる。名をチェーニと言う、エレの街の新任領主であった。前任者の栄転の後である。栄転したからと言って、前任者が善政を布いたとは限らないが。
「まだ司教のやつはしつこいか」
外から風が入り込む隙間も無く、キャンドルの灯りの中で静かにしていたのはこの男のほかにもう一人。これまた男である。チェーニの補佐官であり、スセソルと名乗っていた。彼は机の前、領主と扉を結んだ直線状から少しばかり外れた所に立ちながら幾枚かの紙を右手に握り、それを眺めている。その姿はかなり様になっていて、また、チェーニが全く緊張感を持っていないことから、古くからの付き合いらしかった。領主の言葉に、はい、と返事をしてから言葉を続ける。
「前は押しかけるだけだったんですが……上に報告すると、脅しも混ぜ初めまして。確かに領主は布施を納めることが多いですが、強制ではないものをせっつかれる謂れは無いんですけどね。ベゾウロ様が宗教者に助けられた過去も持っていませんし、この街が良く治まっているのは宗教の権威と言う見栄しかないものではなく、確実な腕ですから」
スセソルの服は絹だが所々汚れていて、手入れは完ぺきではない。だが、汚らわしさは無い。外の騒がしい所を数歩でも歩けばスセソルよりよほど薄汚れた服を着ている人間が数人とは言わず歩いているだろう。
雑多に紙が積み上げられた机の上に、新たな紙が一枚補佐官から出された。それは請求書であって、司教のクレーエの名前が確かに書かれている。
「全く。厄介だな。宗教の自由は保障されているはずじゃなかったのか。俺はあんな自然崇拝の念を自分の精神に刻みたくないんだが」
領主はその紙を眺め、落胆したようにはぁ、と一つため息を吐く。司教であるクレーエは当面の生活費としての布施のみならず、領主にビダーヤ教への改宗まで強要しようと目論んでいることが、請求書の文面からわかる。わざわざ改宗して厳しい戒律へと自分の身を投げ入れる必要を感じていないチェーニであったから、それは鬱陶しかった。わなわなと震えた右手は今にも請求書を破りたいと願っている様に見える。請求書に法的な拘束力はないのだ。別に破っても罪に問われることは無い。ただ、司教と仲良くしないとビダーヤ教系の貴族の恩恵が受けられないのだ。
「国教と言っても、トップの家系の信仰を定めたものですし――そんなの陛下一人の考えで塵と消えます。権力的にはさほど大きくないですし、政治に入り込んでいるのもまだ勢力的には小さいんですけれどね」
「保障されていない権利でも脅しになりえるか。一枚分の手札にはなっているのだから」
何枚もの請求書を跳ね除けてきた二人であったが、流石に面倒になってきている。布施を与えるほどの余裕がエレの街にあるわけではない。冒険者が多いということは治安が悪くなる傾向にある、ということだ。それを未然に防ぐためにほかの街よりは多く治安維持に財布を割かなければならないのだ。そんな中、数の少ないビダーヤ教の司教に金を恵む余裕があるわけはない。リターンが少なすぎるのだ。そんなこともあってか、前任者は巨額の布施を司教であるクレーエ個人に与え、上への便宜を図ってもらっていたのかもしれない。そう勘ぐるほどにクレーエの生活は豪華だったと聞いているし、初期の請求書は受け取って当然のような文面だったのだ。
「そうですね。本当に、困ったことです」
「一枚でも手札があれば良いのに……例え俺が青い血筋では無かったとしても、実力でこの地を収める地位を得たのだ。見てくれを宗教色に整えた金の亡者どもに地盤を崩されてたまるか」
チェーニは世襲貴族では無かった。西の方の戦争で戦果を挙げ、貴族の地位を得られたのである。世襲貴族は微妙にそれを疎ましく思い――世襲ではない貴族を出さないは出さないで市民からの批判が多いので、仕方がないことだが――僻地でなおかつ統治が比較的困難なエレの街へ左遷したのだ。丁度椅子が空きそうだという理由もあったが。
「そういえば、修道院の一人娘が行方不明だとか。それが手札にはなりえませんかね?」
スセソルとしては請求書をこれ以上受け取るのはごめんだ。
「一応、使ってみるか? うまく事を運べば対抗できるか」
「そうですね――とりあえず、冒険者でも動かしてみますか。態々街の中に隠れるなんて余程の馬鹿か灯台下に隠れることが特段に上手い人くらいでしょう」
「外に行く自殺願望者と――」
「いえ、外だって安全を保障しようと思えばできます。そりゃぁ、城門の中と比べれば雲泥の差がありますが。命を落とす冒険者の九割五分以上が若造で成りたてと聞きますしね」
「となるとやはり、外か」
「その線が高いんじゃないでしょうか。幸いここ最近は商人が来ていませんし、旅立ってもいないらしいのでその荷車に入るのは無理です。何度か王都へ巡礼に言っているでしょうから、馬車を使おうとしても人相が割れていて厳しいと思われます。結局、一番探すべきなのはこの街の周辺かと」
「だが、誰に頼む?」
態々一市民を探すために街の軍隊を使うことは難しい。それを二人ともよくわかっているのだ。
「そういえば――」
スセソルは脳の中で記憶を探るように右手の人差し指をくるくると回転させる。
「ビダーヤ教嫌いの冒険者三人組がいると聞きます。ですが、そこまで過激とは聞かないので、丁度いいのでは」
数秒間だけチェーニは顎に指を当てて考えたが、冒険者の知識など何もないことに気づくと、「それで行くか」と答えたのであった。