一話
毛むくじゃらの肥えた、それでも筋肉は隆々とついているオークの腕が振り下される。その先に居たのは、明らかに大きさが不釣り合いな大きめの麻の服に身を包み、顔以外の露出が極端に少ない黒髪の若者、ザーグだ。だが、彼は俊敏にその布に隠された足を動かした。それと同時に、体を大きく反らす。毛むくじゃらの、オークの腕はそのまま地面に衝突した。地震かと勘違いするほどに地面が揺れる。
開けた草原、そこの中心から数十秒ほど歩けば入ることが出来る森。そこで繁茂している木々の葉がザザァ――と揺れ、十数枚が地面へはらり落ちた。
「縛れ!」
その森から少しだけ草原側。フードを深くかぶり顔は見せず、魔術師が着るような暗色のローブで身を包んだ人間――名はヘスソスという――が、右手に持った杖を光らせながら叫ぶ。杖には数十の文字が躍るように光っていた。
直後、毛むくじゃらかつ筋肉隆々、顔は粗雑な作りで口からはよだれが垂れている醜悪な怪物、オークの体に固まっているのか固まっていないのかわからない白色に光ったロープのようなものが巻きついた。
「GU、GYAAAAAAAAAAAAA!」
オークの野太い悲鳴が開けた草原に響き渡る。それは草原すらも越え、木にとまっていた小鳥を何匹か羽ばたかせるほどの絶叫であった。
次いで、光がパッとオークの頭上、地球の天辺に上った太陽との間の木すらも悠々と越える高さで点灯した。
「いよっしゃぁ!」
それは合図だったようで、ローブを着、杖を持った人間から見てオークの向こう側に居る男――この草原に居る人間の中では唯一動きやすそうな軽装、その身にあった麻布の服に、革の胸当てと、申し訳程度の頭を保護するこれまた革の兜というより帽子を被った、トナマという男が、手に持っていたクロスボウに矢をつがえながら声をあげた。
オーク、身を縛られて動けない。ザーグはその腹に一発だけ、思い切り拳を入れた。ぐぼぉ、とオークが白目を剥きながら口から何かを吐き出そうと身をよじる。
醜い姿だ、とでも言いたげに唾を一つザーグは吐き出す。そして、もし誤射でもあったらたまらない。人間には異常とも思える脚力でその場から離脱し、ヘスソスの方へ向かった。
トマナは当然のように矢の装填を終え、照準をきちりとオークの頭部へと合わせている。
一瞬だけ、あたりに静寂が満ちた。風のざわめきだけが耳にはいる、決着寸前の程よい緊張感。
引き金が引かれた――
トマナは反動でその身を大きく後方へと仰け反らせた。だが、矢は確かに直進している。オークの頭のど真ん中へと。
発射した本人は矢を視認してからニィ――と上唇を少しだけ上げた。ヘスソスは既に腕組みをして、見守っている。流石に、杖を手放すようなことはしていないが。その隣で、夏の暑さと急激な運動で汗を噴水のように出しているザーグは息を整えている。ゆっくり、すぅ、はぁ――
と、息を吐いた丁度その時と、矢がオークの頭の奥深くへ入り込む瞬間は重なった。ジタバタと動かされていた毛むくじゃらの身体は一瞬で動きを止め、ドサッとその場に崩れ落ちた。
ふぅ――
トマナが大きく息を吐いた瞬間、日々の糧を得るためにオークを狩りに来ていた冒険者三人組は大きく安堵する。それも、何時もの狩りの風景であった。
大きな麻袋を担いだ三つの影。シルエットだけ見ればその姿はサンタクロースだと見間違うかもしれない。笑い声が聞こえ、明るい雰囲気だが疲れは隠しきれないようで、歩く速度は行きと比べて多少落ちていた。太陽は行きの時とは逆の方角に傾いていて、橙色に塗られている。それに照らされた彼らが歩いている街道沿いの植物は茜色に染まっていた。
「よっしゃ! 城門が見えてきたぁ!」
そう叫んだのはクロスボウでオークを仕留めたトマナである。よく彼ら三人組を観察すると、麻袋の大きさが微妙に違うのが分かる。その中で、彼の麻袋は一番大きかった。
「いやぁ、オークの肉はうめぇからなぁ。今から楽しみだ……」
顔中に張り付いた汗を上書きするように涎を垂らしながら、そんなことを口にする。金属製で複雑な機構のクロスボウ、ずっしりとした重みを感じる麻袋の中身――オークの各部位。決して軽いとは言えない荷物である。それでも三人の中でも一番軽い足取りに見えるのは、重い荷物と一緒に夢と希望も背負っているからであろうか。
「君はよくそんな元気でいられるな。城門も見えてきたことだし、一休憩しないか……」
と、ローブ姿のヘクソスが息を荒らげながら言った。彼の荷物は一番小さい。既に杖を三本目の足にしながら歩いている。ローブの顔の部分から汗が滴って、整備された街道の上に舞った砂の上に一粒落ちた。はぁ、はぁ、という息の根はひどく大きく聞こえる。
「これだから魔法使いは。机上で元素を計算してばっかいるからだ」
黒髪の精悍な顔をしたザーグが持っている荷物の大きさは二人の中間程度だ。顔に汗は何も見えず、軽々と荷物を運んでいる。だぼだぼとした大きい服に隠された足取りは軽いわけではないが、一定のペースは保っている。この三人の中で唯一、行きとペースが変わっていないかもしれない。
「サイボーグで人間と疲れ方が違うという、反則みたいな奴に言われたくないね。大して鍛えても……」
ないくせに、という言葉は続かなかった。鈍色の手刀が一瞬でヘスソスの目の前に迫る。少し遅れて、ザーグの持っていた荷物が地面に落ちる音が聞こえた。砂が少しだけ、空に舞う。
「そのサイボーグに危険な役目をさせ、のうのうと詠唱しているのは誰だ?」
機械の腕を持つ人間の目は笑っていなかった。ただ、真剣な表情でヘスソスの横顔を見ているだけだ。手刀は首に添えられているが。だが、ヘスソスに同じた様子は見えない。歩いたら打たれる――勿論、鈍色の手刀で、だ――ので、動きは止まっているが、表情は能面の様で、平静そのものであった。皮肉を皮肉で返しただけのつもりだったのだ。それに実力行使をされては、興が削がれるというものだ。
「その詠唱が無かったら、ザーグクンはあんなに早くオークの糞野郎を仕留められるのかい? 機械の所為で、脳までイカレたのか?」
手刀は退けられない。緊迫は終わらない。
「君たち二人は一人ではオークを殺せない。俺は時間をかければ一人で殺せる。それだけだ」
「俺みたいな魔法使いにでも会ったら、君は無防備な姿を晒すしかないんだろうがね。どうだい? 一回、そのシミュレーションでもしてみる?」
勝ち誇ったように、ヘスソスが顔の角度を傾け、ザーグを見下す。ギリっ――という歯ぎしりの音が聞こえる。トマナは一人で陽気に歩いている。
チッ、という舌打ちの後、鉄の手は肌色の首から離れた。ザーグはいたって冷静に、少しだけ砂で汚れた麻袋を手に取る。
ヘクソスは、手刀が自分の首の内部へと入らないことをわかっていたのかもしれない。ザーグは、詠唱により自分の義肢の制御が奪われないことがわかっていたのかもしれない。
それは両者に益が無い。ただの憂さ晴らしだ。そんなもの、勝ち戦の後にする阿呆が何処に居るだろうか。
「うーん……?」
二人の児戯とも言える諍いに何もかかわらず、ただ歩調を進めていたトマナが目を凝らしている。
「どうした?」「ファナルさんを見つけた!」「……聞いた俺が馬鹿だったかもしれない。いや、馬鹿だった」
トマナは走り出した。何処にそんな力があったのか、誰にもわからない。彼にすら、わからないのかもしれない。だが、そのような理解不能の力を出すほどに彼のナンパ癖は特出していた。何か、人生の大切なものを対価に差し出しているかと疑うほどに。
「ファナルさぁああああああああああん! 俺です! トマナです!」
その速さはまるで獣人が獲物の人間を追い回すかのようだった。違っている点は、獣人が複数もしくは多数で単数もしくは少数の人間を追いかけるのに比べ、こちらは追いかける人間も、追いかけられる――本人はまだ存在に気づいていないだろうが――人間も単数だということか。それほどの速さをオークの肥えた腹が入っている麻袋を持ちながら出しているのだから、彼の基礎的な体力や脚力にも驚愕する。
常人ならば顔が視認できないような距離を、一分以内で行く様相など、飛脚のスカウトが存在するならば一発で冒険者であることによる自分への偏見の目を無くすことができただろう。もし、その状況に彼が直面したとしてもその選択をするとは限らない――彼は飛脚で生涯を終えることを良しとしないだろうから。
そして、番兵の衛視がちらりとそのトマナに目をやる。その衛視、女であり、見た目は整っているといって差し支えない。さらりとのばされた栗毛の頭髪に、大き目で少しきつそうな目。鼻は多少高いか、口は小さい。衛視としての長年の経験か、雰囲気は重厚だが、見た目だけで考えるなら美女だ。
「生きて帰ってこれたか。まぁ、お疲れ、トマナ」
声は凛々しかった。だが、威圧感も孕んでいた。城門の番に就くほどの信頼を職場で勝ち得ている彼女である。その声質は職業病と言っても問題あるまい。
「死んじまったらファナルさんの見目麗しい御姿を二度と拝見することができませんからね!」
「はは、中々に口が上手い。私を褒めて出るのは――無いな。うむ」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。もうファナルさんと話すことができるだけでも俺はっ」
「そういえば、残り二人はどうした? あの豆粒か?」
ファナルは太陽が落ちかけている地平線の方を見る。豆粒のような点が二つ、ちょくちょくと歩いてきている。トマナもつられてじっとそちらを見た。
「そうですねぇ…… あと五分、ってところでしょうか」
「なんというか、君のそういう痒い所に手が回る能力は貴重だな」
「冒険者なら、ですけどね。こうした都会とか、土壌がしっかりしている田舎とか、僕には不適当なところが多すぎます」
「冒険者をやっているんだからいいじゃないか。君たちのおかげで私たち衛視が魔物や獣、それに獣人を排除する手間が割と省けているんだ。大きな声では言えないが、オークの肉も不味くはないしね」
と、会話をしていたところだった。ぬっ、という擬音がつくような様子で、ファナルの後ろから小柄な少女が出てきた。ファナルと同じような、衛視用の鎧――最低限の自衛用で、軍用や冒険者の前衛で攻撃を止めるような役割に使われる鎧には遠く及ばず、部分部分を守るもの、を着ている。衛視という市民と一部の過激派に対する装備など、そこまで必要ではないのだ。きっちりとした重い鎧を着てしまったら、仮に事件が起きた時の機動力が落ちてしまう。それは大きな問題なのである。
そして、その小柄の少女である。髪は茶色に寄った栗色。それを二つ結びにしている。顔の幼さも相まって、少女という印象は何処か拭いきれず、衛視としての威厳は欠片も見当たらない。どちらかというと、今を生きる街娘といった方が適当であるように思える。首には十字架のネックレスがかけられていて、腕には人が神に向かって祈っているような様子が刻まれているブレスレットがついていた。
その少女を見た瞬間、トマナは眉を顰め、口をへの字に曲げ、目を細め、苛立たしげに左手を口に添えた。
「亜人の肉なんて食べちゃダメです! お姉さまが穢れてしまわ――」
ファナルが少女――というより、部下の口を塞いだ。モグモグと、声がファナルの綺麗な手の中で籠る。
「シェル、」
ツインテールの衛視の名前は、シェルと言うらしい。
「君が神を信じることに、干渉するものはそんなにいない。精々、今私の目に映っている君以外の一人と、そのお仲間さんくらいだ」
その一人――トマナは、睨みつけるようにシェルを――いや、そのブレスレットやネックレスを見ている。
「だけどね、ビダーヤ教の教義を、他人に押し付けることは、その干渉するものを増やすことになる。それでいい思いをするのは敬虔なるビダーヤ教の宗徒くらいだよ。君みたいなね」
「で、でもっ!」
訴えかけるように、真摯な目をファナルに向けるシェル。その姿は、ファナルの言葉にも出た敬虔なるビダーヤ教の宗徒そのものだ。それに苛立ちを覚えながらも、無分別に殴りかかったりはしないだけ成長したものだと、自分でトマナは思う。
「何回も言っているだろう。君にとって宗教が絶対だとしても、すべての人間にとって絶対なわけじゃないんだ。無為に反感を買うこともあるまい。精々教祖様や司教様のパレードとか、聖誕祭とか、教会の中か、お仲間の中だけにしなさい。衛視だって殺されないわけじゃないんだからね」
後半は半ば諭すようになっている。ファナルは何回同じような言葉をシェルに言ったのか、覚えてすらいない。それでも、彼女が自分への崇拝と神への信仰を、両方とも高い水準で持っていることをファナルは理解していた。それは今までの実感からであり、シェルの言動からでもある。
シェルは不貞腐れたように唇を尖らせた。昔なら、「そんなことを言っているとジャンナに行けません! 私とお姉さまの安住の楽園が!」と叫んでいたのだから、これでも大幅な進歩だと言っていいだろう。それでも、トマナの憮然とした顔は崩れない。こちらも、シェルに殴り掛からないだけましと言うべきか。
「こんなところでどうかな? トマナ君」
幼いころから親しく遊んでいたシェルの今後を心配する目を彼女に向けるのを止め、ファナルはトマナの方に向き直った。衛視――更には下っ端で、大した権力も持たないファナル、並びにシェルが冒険者相手に問題を起こすのは拙い。多くの試験を突破する代わり、安定した生活が得られる衛視と、誰にでもなれる代わりに、命の保証などどこでもなく、更には給料が得られるかどうかも自分の運と実力次第の冒険者。仲が悪くなるのは、当然のことだろう。
尤も、それは上層部や全体的に、の話であって、例えばトマナとファナルのように険悪ではない仲を築いている冒険者と衛視だって多く存在する。それでも、自由人を自称する冒険者に衛視の宗教家が宗教を強制したとなっては、抗議が出てもおかしくない問題なのだ。
「別にいいですよ……俺だって腹の内ではこのちびっ子を良く思ってませんけど、それは、このちびっ子の所為じゃないですし。それでも、好くことはありませんけどね」
「それでも、シェルの発言は衛視としては拙かった」
「いつものことですし、衛視でも、衛視じゃなくても――たとえば、陛下だとしても宗教を強制されたら俺は苛立ちますし、心の中では抵抗を感じて、まぁ、最低でも国を出るでしょう。でも、ちびっ子の発言には強制力がないですしね」
「すまない。この場を借りて詫びる」
シェルも、何時もよりことが大きくなったのを自覚したのか、居心地の悪そうな表情を浮かべている。
「別に謝ってもらったところで宗教的なものが消えるわけでもないですし、悪いのはちびっ子じゃないと俺は思ってますから、謝らなくてもいいですよ」
「そうか……」
太陽は半分と少しだけが地面の下に埋まった。
ことことと、石で詰められた街道を靴底で踏む音が四つほど。ほかでもない、ザーグとヘスソスであった。ヘスソスは既に歩みの確かさすら失われていて、ふらふらと、横に揺れながら何とか前へ進んでいる様子であった。それの隣についているザーグが何とも鬱陶しそうだ。口喧嘩――日常茶飯事の皮肉の言い合いで、態々喧嘩と言うほど大きなことではないが、をした後でもこうして一応は見ているのだから、彼も本心ではヘスソスのことを悪く思っていないのだろう。
前を見る気力すら失われているようで、愛用の杖に体重を預けながら下を向いているヘスソスではなく、まだ悠々とした雰囲気で周囲を見渡す余裕があるザーグが城門前の三人の間に漂う微妙な空気をそれとなく察する。
「衛視さん、通りたい」
ぶっきら棒に、小さめの声色でザーグは言った。
「あ、通るのは大丈夫です。街の住人だというのはわかっているので」
ファナルの言葉を聞くやいなや、ザーグは「行くぞ、トマナ」と言って、そそくさと城門の中へ歩き始めた。トマナは軽くファナルに会釈してから、それについていく。
「ふ……二人ともっ。待って……く、れ……」
杖に体重を任せたまま、重石のように動かないヘスソスは、三十秒ほどその体勢で動かなかった。その後、シェルの呆れた様な視線を背中に受けながら、とぼとぼと城門の中に入っていったのである。