真白の手の魔女と三人の兄弟
あるところに仲の良い兄弟がおりました。
長男のジャンヴィエ、次男のフェヴリエ、三男のマルス。
三人はいつものように仲良く森へと出かけていきます。
森の奥で、彼らは白い鳥を見つけました。
泉のほとりに舞い降りたその鳥は、とてもとても美しい鳥でした。
雪のように白い羽毛。頭には立派に長い冠羽が虹色に輝いています。
三人は美しい鳥に息を飲み、その鳥を捕まえようと手を伸ばしました。
すると、不思議なことにその鳥が口をきいたではありませんか。
「やめて! やめて! やめてちょうだい!」
「わぁ、鳥さんが喋ったよ」
マルスは驚いて二人の兄の後ろに隠れました。
「怪しい鳥だな」
フェヴリエは身構えます。
「まて、まずは言い分を聞こう」
ジャンヴィエは、この世にも奇妙な鳥の言葉に耳を傾けました。
「私は鳥ではないのです。こんな姿をしていますけれどね。私はとても力の強い魔女なのです。
遠い南の海から凍てつく北の大地に向かうために白い鳥の姿をしているのです。
ですが、その途中で力尽きてしまいました。
お優しい三人の兄弟さん。どうかお願いです。私に力を分けてはいただけませんか?」
白い鳥はそう言って、頭に立った冠羽をくらせて頭を下げました。
確かに、玉虫色に輝く瞳はとても疲れているようですし、純白に見えた羽毛はどこかくすんでいるようです。
三男のマルスはポケットを探りました。
そこに入っていたのは、お気に入りの木彫りの馬です。今にも走り出しそうです。
とても気に入っていたのであげるのは忍びなかったのですが、鳥はとても辛そうです。
「白い魔女さん、これできみの力になる?」
すると、木彫りの馬を受け取った鳥の羽毛が、きらりと一筋輝きました。
「乗り手たるおぼっちゃま。あなたの優しさが私の力になりましょう」
次男のフェヴリエもポケットを探りました。
そこに入っていたのは、とっておきのパチンコです。とても素敵なパチンコで、狙った場所にびしりと石を飛ばせます。
とても気に入っていたのであげるのは忍びなかったのですが、鳥はまだとても辛そうです。
「白い鳥の魔女さん、これもきみの力になるかな?」
すると、パチンコを受け取った鳥の瞳の中に、チカチカと星が弾けました。
「射手たるおぼっちゃま。あなたの勇気が私の力となりましょう」
長男のジャンヴィエもポケットを探りました。
しかし、なにも入っておりません。
マルスの木彫りの馬も、フェヴリエのパチンコも、もともとはジャンヴィエのものでした。けれどジャンヴィエはそれらを弟に分けてしまったのです。
ジャンヴィエの手の中にはなにもありません。けれど、鳥はまだ辛そうです。
「白い鳥の良き魔女さん、ぼくはなにも持っていないけれど、これできみの力になるだろうか?」
ジャンヴィエは鳥の前に跪くと、その頭にすらりと生えた純白の羽に心をこめて口付けをしました。
すると、口付けを受けた取った鳥はばさりと大きく羽ばたきました。
三人の献身が白い鳥に力を与えたのです。
白い鳥は純白の羽を太陽のように輝かせています。頭の上に立った羽は、すっくと大空を指しています。
純白の羽を大きくはばたかせ、鳥は大空へと飛び立っていきます。
再び北の空へと向かう前に、三人の上を大きく一周しました。
「ありがとう、ありがとう、ありがとうございます!」
鳥は歌います。
「いつか必ず、私はあなたがたにこのご恩を返しに戻ってまいります」
三人の兄弟が見守る中、真白い鳥は大空へと消えていきました。
それから数年後。
三人の兄弟は大人になってもとても仲が良いままでした。
三男のマルスは国一番の立派な駿馬の乗り手です。
次男のフェヴリエは国一番の立派な狩人です。
長男のジャンヴィエはどうなったか、ですって?
それは……
深い森に囲まれた砦の町、レクタングル。
石造りの町並みの中、響くのは金属を叩く硬い音。
ジャンヴィエは赤々と燃える炉の横、金床の前に座り、重い鉄鎚を振り下ろしていた。
赤く焼けた鉄を大きな鋏で固定し、それを叩く。叩く度に飛び散る火花が古びた革のエプロンに新しいコゲ目をつくった。
幼い頃には、天使のようにかわいらしい、と言っても良かった彼は、今では伸びに伸びた身長も相まって、泣く子も黙る青年になっていた。
毎日燃える炉の前に座っているせいで顔は赤らみ、白かった柔肌は黒く硬く変わった。火花から目を守るために、常にしかめっ面のような表情。同じ理由で口もおいそれとは開かない。
毎日重い鉄鎚を振るっているので、彼の腕も背も、信じがたいぐらいに逞しくなっている。
彼の二人の弟も立派な青年になっていた。
三男のマルスは馬の調教師になった。若くして名馬を何頭も育てあげている。
次男のフェヴリエは砦の守備隊になった。そこで彼の弓に敵うものは誰もいない。二百歩も離れた木の幹にとまる虫など、彼以外の他に誰が射抜けるだろうか。
長男のジャンヴィエは砦の鍛冶職人をしている。
弟たちとは違い、ごく普通の鍛冶職人である。
特に蹄鉄をつけるのがすこぶる上手いとも、矢じりを作るのがとても上手いわけでもない。
穴の開いた鍋や薬缶を修復するのは上手いほうであるのだが、それはジャンヴィエの基準からであって、標準の鍛治職人の基準から見れば……なんとも言い難いのだ。
「兄貴はさ、そっち方面に祝福受けたわけじゃないじゃんか」
兄の鍛治の腕前に対し、次男のフェヴリエは平然と評す。
「そうだよね。だってジャン兄さんはチューだもんね」
三男のマルスは大きく頷いた。
「鍛冶の技がダメだからって、落ち込むことねぇって」
「この前付けて貰った蹄鉄、すぐに取れちゃったんだけど、気にすることないよ!」
「兄貴の作った矢じりはバランスが悪いって評判だけど、それは全部オレが使うから。砦一番の弓の名手が使えば、どんな矢だって狙い通りさ!」
「……おまえら」
カーン、と鉄槌を金床に打ち付けたジャンヴィエは、重々しく弟たちに向けて口を開いた。
「なに?」
「なんだよ?」
「持ち場に戻れ」
兄の威厳で命じるも、弟ふたりはどこ吹く風。
「オレ、何週間ぶりかで兄貴の声聴いたわ」
「折角ジャン兄さんの顔、見に来たのに」
「可愛い弟ふたりが会いにきたっていうのに、お茶も出してくんないの?」
仕方なく、ジャンヴィエはふたりを無視して再び鉄鎚を振るう作業に戻る。
カーン、カーン、とテンポよく響く音を背景に、フェヴリエとマルスは喋り続ける。
「あ! 僕、お土産あったのに持ってくるの忘れちゃった」
「土産?」
「うん、兄さんがつけてくれて、すぐ外れちゃった蹄鉄。知ってる? 蹄鉄ってお守りにもなるんだよ?」
「……マルス、お前それただの嫌味にしかならねぇよ」
「ええッ!?」
「だって、『付け直して』って依頼じゃないんだろ」
「え、でもほら、お守りに」
「なんのだよ」
「幸運の」
「それより『仕事運向上』とかのお守り見つけてやろうぜ」
「えー? 『恋愛運』とかの方が良いよ」
「あぁ、アプリルちゃんね」
ガキン、とジャンヴィエの手元が狂った。
「これって祝福のおかげだよね。この出会いって」
「そーだよなー。兄貴、あのあと1ヵ月も寝込んでたもんな。それに見合う祝福もらわないと、割りにあわないもんな」
「でも全然発展しないよね。やきもきしちゃうよ」
「確かに。早く義姉さんって呼びたいよなぁ」
「うん」
「……いいからどこかへ行けッ!」
ドカーン、と金床に鉄鎚を力任せに叩きつけると、形造られるのを待っていた鉄がひどく歪んだ。
散々な目にあった。
そんな日は早々に寝てしまうのが良い。うん。それが良い。
早々に床についたジャンヴィエであったのだが。
がさごそと、部屋の中を何者かが這い回る音で目が覚めた。
ねずみか、と思って身じろぎもせずに、暗闇の中にそっと薄目を開く。
暗い部屋の中、窓の隙間からうっすら月の光が差し込んでいる。その部屋の中でちょこまか動く影は、どう見てもねずみなどではなさそうだった。
「寝とるかの?」
「寝とるだろ」
「寝とるな」
「寝てますな」
「目ぇ閉じとりゃ、そりゃ寝とるってもんじゃろな」
ねずみなどより、よほど大きい。
「こいつか?」
「こいつじゃろ」
「こいつじゃな」
「こやつですな」
「ここに寝ておるとなりゃ、そりゃこいつってなもんじゃろな」
ちょこまかと横になったジャンヴィエの周りを走り回る小柄な影。サイズこと違うが、人のような姿をしているようだった。
子供などより、よほど小さい。
「どうしたもんかの」
「どうするんじゃ」
「どうしようかの」
「どうしてやろうか」
「どうもこうも、そりゃどうにかせにゃな」
ジャンヴィエのふとんのまわりをバタバタと走り回り、顔を覗き込み、ふとんをめくり、ぴょんぴょんと飛び跳ねるなど、姦しいその人影。
こんなに大騒ぎをして、俺が起きないとでも思っているのか?
薄目で彼ら(?)を見ながら訝しく思うジャンヴィエ。
明らかに人外のものに取り囲まれているというのに、彼は冷静だった。
「鼻をつねってみるかの」
「耳をねじってみるか」
「髪を引っ張ってみるべ」
「顔引っかいてみようかな」
「目ん玉あるとなりゃ、そりゃ指つっこんでみるもんじゃろな」
「ちょっとまて」
堪らずジャンヴィエはがばりと飛び起きた。
ぴたり、と動きを止める小柄な影。
今まさに、ねじくれた小枝のような指をジャンヴィエの両目に突き立てようとしていた人影はころりと転がり落ちた。
それを、むんず、と掴んだジャンヴィエ。
薄いふとんをぐるりとまとめて袋にし、その中に詰め込んだ。
「え?」
「お?」
「は?」
「へ?」
「んまぁ、そうとなりゃ、こうなるもんじゃろな」
次々と、猫ほどの大きさの彼らを簡易袋に詰め込むと、ぎゅっと口を結んでしまった。
「これで良し」
ぱんぱん、と手をはたくジャンヴィエ。
「……眠い」
そして彼は再び寝台へ、夢の中へと戻っていってしまった。
もごもごと動く袋は部屋の隅に置いたまんま、ばたりと倒れて寝息を立て始める。
だが、そうは問屋がおろさなかった。
「ジャンヴィエ」
柔らかな女性の声とともに、突然、部屋の中が昼間よりも明るくなる。
「愛しいジャンヴィエ。起きてくださいな」
ばさり、という羽音とともに懇願されても彼は目を開けない。ごろりベッドに丸まったまま。
「わたくしの先触れ、小人たちをどうぞ解放してやって下さいませ」
「……」
「ジャンヴィエ」
それでも頑として起きるつもりのなかったジャンヴィエ。その様子を感じ取ったのか、部屋を満たす光量はしだいにその強さを増していく。
「起きてくださいな」
声音こそ柔らかいが、有無を言わさぬ光が閉じたまぶたの上から突き刺さる。
「お・き・て・く・だ・さ・い・な」
両手で顔を覆っても、とうとう耐え難いほどの光量となり、ジャンヴィエはしぶしぶ体を起した。
「おはようございます。ジャンヴィエ」
起きたからだろうか。光量が弱められた部屋の中で、いくらかその声は得意げに聞こえた。
「……まだ夜中だぞ」
眠いし眩しいし、で痛いぐらいの目玉。それを無理矢理開かせると、彼の目の前にはあの鳥がいた。
大昔にジャンヴィエら三兄弟が助けたあの白い鳥である。
あのころも、いまから思えば押しの強い鳥であったが、この真夜中に、小人という前座を伴って、無理矢理訪問してくるとは、鳥の傍若無人ぶりはなんら変化がないようだった。
「眠い……」
「そのようですわね」
その途端、ジャンヴィエの頭の上から真水が降ってきた。
「わッ!?」
タライいっぱいほどの水。
ほぼ全身濡れ鼠になったジャンヴィエ。
思わぬ出来事に、さすがの彼の眠気も飛んだ。
ぽたぽたと、髪の先からおおきな雫が落ちる。
「お目覚めですか?」
小首を傾げる鳥。
その声音にも悪意の欠片も感じ取れはしなかったが、それがかえって腹立たしい。
幼い頃にであったその白い鳥。
あの頃よりも、その鳥は圧倒的に美しい。
雪のように美しい白い羽。冠羽は真珠のように七色に光っている。玉虫色の瞳は幾千の星を閉じ込めたように輝いている。
……だからといって、どうして腹が立たないことがあろうか。
「いや、ない」
反語である。
だが鳥が悪びれた様子は少しも感じられない。鳥だからなのか。
ジャンヴィエはタンスからボロ布同然のタオルを引っ張り出し、ざかざかと髪と体を拭いていく。ベッドも当然濡れてしまった。
砦の洗濯係りの女たちに、あらぬ誤解を受けないだろうか。
面倒だな。
ジャンヴィエは濡れたシーツ、マットレスをベッドから引き剥がし、壁に立てかけた。
これで幾分かは乾くだろう。
たぶん。
その作業をしている間、ジャンヴィエは現実を無視していた。だが現実はジャンヴィエがその仕事をやり終えるまで、待っていたように口を開いた。
「さあ、小人たちを解き放ってくださいませ」
自分の要求が拒否されるとは微塵も疑わない鳥の態度に、ジャンヴィエはげんなりとする。
「待て」
「なんでしょう?」
はー、と息を吐く
ひとつひとつ、整理していこう。
「まず、小人になにをさせようとしたんだ?」
「ジャンヴィエを魔法使いにするように頼みましたけれど」
「なんだと」
「命の危険を感じれば、眠った力が目を覚ますかと思いまして。例えば崖から落とすとか。水攻め、火攻めにしてみるとか。はたまたナイフで突き刺すとか。けれど、ジャンヴィエにひどいことをするのは大変忍びなかったので、十分に手加減するように言ったのですけれどね」
手加減ありがとう。
「というか、どうして魔法使いに?」
「わたくしが魔女だからですわ。お付き合い、結婚などを考えると、同等の力を持つ方でないと」
「……は?」
お付き合い?
「すばらしい愛を、そして恋人を、と考えますと、わたくし以上の女性はいないようだという結論に達しましたの」
「いや、鳥だし」
すると、鳥はばさりと大きく翼を広げた。
風がふわりと巻き起こり、キラキラとした粒子が鳥を包む。
それが収まったとき、そこにいたのは大変美しい妙齢の女性だった。
髪は足まで届くほどに長く、クセがないプラチナブロンド。透けるように白い肌。光を受けてキラキラと輝く玉虫色の瞳。頬は薄く桃色に染まり、ふっくらとした唇はバラのよう。
ジャンヴィエが今まで見たなかで、間違いなく一番美しい女性であった。
「これでも?」
真白の魔女に挑むように問いかけられ、ジャンヴィエは息を飲む。
「なんで、愛を」
「キスをいただきましたから」
にっこりと笑う。
鳥であった魔女はジャンヴィエにするすると近付いた。だが彼は、それと同じ分だけ後ずさる。
それを見咎めた魔女は、ちらりと目配せしただけで、ジャンヴィエの動きを止めてしまった。
「マルスには動物の心を聞き取る才能。フェヴリエには射抜く力。いただいたものにあわせて、わたくしから贈り物をさせていただきました。それは彼らふたりがもともと持っていたものをほんの少し、強めてさしあげたにすぎません。
そして、あなたからはキスをいただきました」
魔女は甘い息をジャンヴィエに吹きかける。
「キスをいただいたお返しに、わたくしは愛を差し上げますわ」
動けないジャンヴィエの横に寄り添う魔女。
「だ、だがオレには……」
彼の心に過ぎるのは、砦に住む娘の姿。
「心に留めた方がいらっしゃるのでしょう。でも、その方はわたくしよりも美しい?」
「いや……」
「わたくしよりも素敵な声をもっていて?」
「いや」
「わたくしよりもあなたを愛しているのでしょうか?」
「それは」
「それは、ジャンヴィエにも分かりませんわね」
ふふふ、と笑う魔女。
その顔はまるで聖女のように清らかに見えたが、ジャンヴィエの心は冷え冷えとしたものに包まれていた。
「あなたはきっと、わたくしを好きになります。あなたを誰よりも幸せにして差し上げましょう」
魔女の宣誓は誓いというより呪いのように、ジャンヴィエの心に深々と突き刺さった。
「呪いじゃ」
「呪いだの」
「呪われたな」
「呪いか」
「こうとなりゃ、呪いってなもんじゃろな」
「黙れ」
アプリルがレクタングルにやってきたのは、十年以上昔の話だ。
地方貧乏貴族の末娘である彼女は行儀見習いとしてさらに田舎のこの場所へとやられたのだ。厄介払いをされた、とも言える。
毎日のように泥や草の汁で薄汚れていた幼い少女は、何年かするうちに輝くばかりに成長していた。
砦の主であるウルスブラン子爵の下へと送られた彼女は、その奥方であるエフェメールの助手として、砦の家計を取り仕切る手助けをしなければならない。
だが、
「あまり向いていないみたいですから」
そう言って、アプリルは女中らと同じような仕事をして過ごしていた。兵士たちのための食事を作ったり、シーツを洗ったりもする。
穴の開いた鍋を、鍛冶屋さんに補修を頼みに行ったりもする。
「ジャンヴィエ、いいかしら?」
鍛冶場に顔を出したアプリル。赤金色の髪を揺らせて輝くような笑顔を見せるのは、視線の先に難しい顔をした青年がいるからだ。
短い黒髪。黒い肌。アプリルよりも二つか三つぐらいしか歳が変わらないはずなのに、いつも不機嫌そうな顔をしているせいで、もっと年上のように見える。
だがアプリルは知っている。
彼が優しいこと。
仕事熱心なこと。
そしてとっても傷つきやすいこと。
「またお鍋に穴が開いちゃったの」
軽い足取りで金床の前に座るジャンヴィエの前へと行く。
鍛冶場には数人の鍛冶職人がいる。その中で、ジャンヴィエは腕が確かな方ではない。むしろ一番下だと言っても良い。
それでもアプリルはいつもジャンヴィエに仕事を頼む。
腕が悪いなりに、自分に出来る精一杯の力で仕事を成し遂げる。その姿勢が好きだからだ。
「頼めるかしら」
「あ、あぁ……」
いつものようにしかめっ面のジャンヴィエ。いつものように言葉少ない。
だが、
「……?」
なんだか、悩んでいるような?
「ジャンヴィエ」
「なんだ」
「なにかあった?」
小首を傾げるアプリル。そっと、ジャンヴィエの手に触れる。
「相談して。力になれないかもしれないけれど」
真摯にジャンヴィエを見つめるアプリル。
その姿は、まるで聖女のように清らかに見えた。
繋がれた手は暖かい。ジャンヴィエはその白く、小さな手をそっと握り返していた。
「あぁ」
フェヴリエとマルスはたまたま、砦の中を弾むように歩くアプリルを見た。
彼女の手には大きなカゴ。布巾が掛けられていて、中には昼食が入っているのだろう。歩く方向からして、どうやら鍛冶場に行くようだ。
そうとなれば、邪魔するなんて野暮をする弟ふたりではない。
自分の兄の幸せな未来を垣間見るような光景に心温めていると、妖精のように軽い足取りのアプリルの華奢なつま先が、石畳にひっかかった。
「あ」
転びそうになるが、辛うじて踏みとどまるアプリル。
だがカゴの中身は宙にばら撒かれ、今朝焼かれたばかりのパンや、真っ赤に熟れたリンゴが泥にまみれようとする。
その寸前。
ぴたり、とパンとリンゴの動きが止まった。
「え」
何の気なしにその様子を見ていた、フェヴリエとマルスの動きも止まる。
アプリルの白い手に招き寄せられるように、パンとリンゴはするするとカゴの中に戻っていった。
何事も無かったかのように、カゴの中にはふたり分の昼食が納まった。きちんと布巾をかけ、アプリルは再び歩き出す。
彼女はちらり、とふたりの兄弟へと視線を流す。
その双眸は輝く星を閉じ込めた玉虫色。あの日、鳥の瞳の中に見たのと同じ色。
悪戯っぽく瞳を輝かせたアプリルは、にこりと端をあげた口の前に人差し指あてる。
「内緒、ね」
弾むように飛ぶように去っていくアプリル。
兄弟ふたりは顔を見合わせる。
「……どうする?」
「どうするって言われても。ジャン兄さんに言う勇気、ないよ」
「オレもない」
「でも、良いんじゃない。退屈はしないんじゃないかなぁ?」
「ポジティブだよな、おまえ、本当に」
彼らの兄は、自分がすでに包囲されていることを、魔の手に落ちていることに気付いていないのであった。
痛すぎるハイリターン。 了