母の家計簿には、毎月ぼくの名前があった
母の部屋は、思っていたより片付いていた。
団地の三階、二K。台所の流しには洗った湯呑みが一つ伏せてあって、カレンダーは先月のまま止まっていた。母は几帳面な人だった。死ぬ日の朝まで、きっとそうだったのだろう。
「押し入れ、あたしもう見たから。あとは兄さんの好きにして」
妹の和美が、ゴミ袋の束を床に置いて言った。
声に、棘があった。当然だと思う。母が倒れてからの三年、通院の付き添いも、入院の手続きも、最期の夜の病室も、全部和美がやった。ぼくは葬式に来て、喪主の挨拶を読んだだけだ。
その挨拶の原稿も、和美が書いた。
*
ぼくが母と口をきかなくなったのは、二十歳のときだ。
父が出ていったあと、母は再婚しようとした。相手の男は酒を飲むと声が大きくなる人で、ある晩、まだ中学生だった和美の腕をつかんだ。ぼくは男を突き飛ばして、殴り返された。
母は、ぼくに言った。
「謝りなさい、慎吾。あんたが先に手を出したんだから」
口の端から血が出ていた。母は男の背中をさすっていた。
半年後、母はその男と別れた。けれど、あの晩のことを、ぼくに一度も謝らなかった。ぼくも訊かなかった。家を出て、働いて、自分の金で夜間の学校を出た。
家を出た最初の月、母から現金書留が届いた。
三万円と、便箋が一枚。
『ごはん、ちゃんと食べなさい』
ぼくは封も切り直さずに、そのまま送り返した。表に、マジックで「要らない」と書いて。
それきり、二十四年。
年賀状も、電話もなかった。ぼくが結婚したことも、母は和美から聞いたはずだ。
*
押し入れの下の段に、段ボール箱が一つあった。
ガムテープに、母の字で「家計簿」と書いてある。開けると、市販の家計簿が二十冊以上、年ごとに輪ゴムで束ねて入っていた。
母らしいと思った。一円単位で、毎日つけていたのだろう。
いちばん古い一冊を取り出した。
ぼくが家を出た年のものだった。
ぱらぱらとめくって、四月のページで手が止まった。
食費、光熱費、日用品。母の細い字が並んでいる。その下の、「その他」の欄に、こう書いてあった。
慎吾へ 30,000 送った
次のページ。五月。
慎吾へ 30,000 送らず
返された。もう送らない。でも書く。
ページをめくる指が、うまく動かなかった。
六月のページを開いた。
慎吾へ 30,000 送らず
七月。
慎吾へ 30,000 送らず
八月も、九月も、十月も。
ぼくは段ボールの中の家計簿を、全部床に出した。年ごとに一冊ずつ開いて、どのページにも同じ行があるのを確かめた。
慎吾へ 30,000 送らず
二十一年分。
最後の家計簿は、母が倒れる前の月で終わっていた。字が、少し震えていた。それでも、その行はあった。
*
「何それ」
和美が、台所から顔を出した。
ぼくは黙って、家計簿を一冊差し出した。和美はページを見て、眉を寄せて、それから大きく息を吐いた。
「……やっぱりね」
「知ってたのか」
「知らないよ。でも、あったよ、これ」
和美はエプロンのポケットから、通帳を一冊出して、ぼくの膝の上に放った。
ぼくの名義だった。
表紙は日に焼けていた。開くと、毎月同じ日付に、三万円ずつ入金されていた。最初の入金は、ぼくが現金書留を送り返した翌月。最後の入金は、三年前。
残高は、七百五十六万円。
家計簿の、三万円かける二百五十二か月と、同じ数字だった。
「押し入れの、家計簿の箱の下にあった。兄さん宛ての遺言はないけど、名義が兄さんだから、兄さんのものだよ」
和美の声は、平らだった。
「あたしには、通帳なんてなかったけどね」
*
和美は、母の介護のために仕事を辞めていた。
三年間。その間の収入は、パートの数万円だけだったと、葬式のあとで義弟から聞いた。和美本人は、何も言わなかった。
その和美の前で、ぼくは、七百五十六万円の通帳を膝に乗せていた。
「……要らない」
口から出たのは、二十四年前と同じ言葉だった。
「母さんの金だ。和美が受け取れ。介護してたのは和美だろう」
「あたしの名前じゃない」
「名義なんか、どうにでもなる」
「ならないよ」
和美は、ぼくの前にしゃがみこんだ。母に似た目で、ぼくを見た。
「兄さん、また送り返すの? 今度は誰に? 母さん、もういないんだよ」
ぼくは、何も言えなかった。
「母さんね、病院でも言ってた。慎吾は意地っ張りだから、受け取らないだろうねって。でも書くのはあたしの勝手だからって。笑ってた」
和美は立ち上がって、台所に戻った。
流しの水の音がした。
*
ぼくは、家計簿をもう一度開いた。
今度は、「その他」の欄ではなく、全部の欄を読んだ。
母は、贅沢をしない人だった。二十一年分のどの月にも、外食はほとんどなかった。服は年に一枚か二枚。化粧品は、同じ品番を同じ値段で、半年に一度。
その中で、ひとつだけ、繰り返し出てくる品目があった。
ホットケーキミックス 198 贅沢
「贅沢」と、わざわざ書いてある。
年に一度か、二度。日付を見ると、どれも五月の、同じ週だった。
ぼくの誕生日の週だった。
子どものころ、誕生日の朝は、ホットケーキだった。父がいたころも、いなくなってからも。母は朝早く起きて、焦げないように弱火で、何枚も何枚も焼いた。ぼくが三枚食べると、母は「贅沢な子」と笑った。
母は、ひとりで焼いていたのだ。二十一年間、毎年。
食べる人のいない台所で。
*
あの晩、母はぼくに謝らなかった。その代わりに、二十一年間、送らない三万円を書き続けた。
謝り方を知らない人の、それが謝り方だったのかもしれない。ぼくは、受け取り方を知らなかった。
*
ぼくは、最後の家計簿を開いた。
母が倒れる前の月。「慎吾へ 30,000 送らず」の行の、その下が、空いていた。
鞄からボールペンを出した。
母の細い字の下に、ぼくの、癖のある字で書いた。
慎吾 受け取りました。
それから、通帳を閉じて、台所へ持っていった。
「和美」
妹は、振り返らなかった。
「これ、母さんの介護費の精算だ。三年分。兄さんが払うべきだった分。受け取ってくれ」
「……兄さんのお金でしょ」
「そうだ。だから、ぼくが払う。母さんからもらったぼくの金で、ぼくが和美に払う。それなら、母さんの書いたとおりになる」
和美の背中が、少し震えた。
「屁理屈」
「母さんの子だからな」
和美は、ようやく振り返った。泣いてはいなかった。怒ってもいなかった。ただ、少し疲れた顔で、笑っていた。
「全額は受け取らない。半分。残りは、兄さんが持ってて」
「……分かった」
「それとね」
和美は、流しの下の戸棚を開けた。
ホットケーキミックスの箱が、一つ入っていた。賞味期限は、まだ先だった。
「今年の五月も、あたしに買ってこさせたの。病院のベッドから。焼けなかったけど」
*
母の台所で、ホットケーキを焼いた。
フライパンは、母が使っていた鉄のものだった。ぼくは火加減が分からなくて、最初の一枚を焦がした。和美が笑って、弱火にした。
「母さん、いつも弱火だったでしょ」
「覚えてる」
「覚えてるなら焦がさないでよ」
二枚目は、きれいに焼けた。
換気扇の音だけが、台所に低く続いていた。窓の外で、団地の向こうの空が薄い橙色になっていた。
和美が、皿を二枚並べた。
母の湯呑みを、もう一つ並べた。
「贅沢な子」
和美が、母の口真似で言った。
ぼくは、ホットケーキを三枚食べた。




