三食
その日、白河さんがいつもと違ったのは、部屋に入ってきた瞬間からだった。
靴を揃えて脱いで、鞄を置いて、台所に向かう。そこまではいつも通りだ。でも台所に向かう途中で、一度こちらを振り返った。いつもは振り返らない。台所に向かったら台所に向かう。それが白河さんのやり方だ。目的地が決まったら、そこへ向かう。余計な動作をしない。だから、振り返った、というだけで少し気になった。
白河さんがこちらを見ている。何かを言おうとしている。その間が、いつもの白河さんより少し長かった。
「今日は、作ったことがない料理をしてもいいですか」
聞き方が、いつもと違った。
「今日は何を作りますか」ではない。「してもいいですか」という許可を求める聞き方だ。白河さんが許可を求めるのは珍しい。いつもは冷蔵庫を確認して、自分で決めて、作り始める。でも今日は違う。許可を求めている。しかも「してもいいですか」という聞き方は、少し遠慮が入っている。白河さんが遠慮する場面を、あまり見たことがなかった。
なぜ今日に限って許可を求めるのか、少し考えた。作ったことがない料理だから、失敗するかもしれない。だから事前に断っておく、ということかもしれない。あるいは、作ったことがない料理に挑戦することが、白河さんにとって少し特別なことで、だから確認したかったのかもしれない。
以前、「作ったことがないものはわかりません」と言っていた。そのときの白河さんの声が、少し頭に残っている。完璧な白河さんが、わからないと言った。それが今日の「してもいいですか」という言葉と、なぜかつながった。
どちらにしろ、断る理由がない。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
白河さんは少し間を置いてから、そう言った。ありがとうございます。料理の許可をもらって、ありがとうございます、と言う。その律儀さが、やっぱり白河さんらしかった。断られると思っていたわけではないだろうに、ちゃんとお礼を言う。そういう人だ。
白河さんはカバンから、小さなメモを取り出した。何かが書いてある。罫線入りのメモ帳の一枚を切り取ったような紙だ。びっしりとは書いていないけれど、何行かにわたって文字が並んでいる。買い物リストのようだ。それを確認してから、冷蔵庫を開けた。中を見て、メモと照らし合わせて、また冷蔵庫を閉めた。
「少し買い物に行ってきます」
「一緒に行く」
「いいです」
「でも——」
「すぐ戻ります。一人で大丈夫です」
それだけ言って、白河さんは出ていった。ドアが閉まって、廊下に足音がして、階段を降りていく音がする。やがて聞こえなくなった。
一人になった部屋で、さっきのやりとりを頭の中でなぞる。
作ったことがない料理をしてもいいですか。
その言葉が少し引っかかっていた。白河さんは料理が得意だ。作ったことがあるものは、トレースしたように完璧に作れる。お粥も、肉じゃがも、豚汁も、全部おいしかった。でも作ったことがないものはわからない、と以前言っていた。そのわからない、という言葉を、今日の挑戦と重ねて考えると、少し違う見え方がしてきた。
白河さんは今日、失敗するかもしれない、とわかった上で来ている。
わかった上で来ている。それが何を意味するのか、うまく言葉にできないけれど、なんとなく、今日の夕飯が楽しみになった。失敗するかもしれない白河さんの料理が、なぜか楽しみだった。
◆
白河さんが戻ってきたのは、三十分ほど後だった。
スーパーの袋を一つ持っている。中を覗くと、ごぼう、にんじん、ひじき、小松菜、油揚げ、それから調味料がいくつか入っていた。ごぼうは泥つきのまま入っている。にんじんは大きめのものが一本。ひじきは乾燥のもので、小さな袋に入っている。
「何を作るの」
「きんぴらごぼうと、ひじきの煮物と、小松菜の煮びたしです」
三品だった。
しかも全部、渋い。きんぴらごぼうにひじきの煮物に小松菜の煮びたし。おばあちゃんの家の食卓に並びそうな三品だ。それを全部作ったことがない、という白河さんがいる。なぜこの三品を選んだのか、理由を聞いてみたかったけれど、今は聞かないことにした。白河さんが選んだのだから、何か理由があるのだろうと思った。
「全部一度に作るの?」
「はい。効率がいいので」
「大変じゃない?」
「……やってみないとわかりません」
やってみないとわかりません。その言葉が少し新鮮だった。いつもの白河さんは、やる前から大体のことがわかっている。でも今日は、やってみないとわからない。それが、今日の挑戦の本質なのかもしれない。
白河さんはそう言って、台所に向かった。手を洗って、エプロンをつけて、メモを台所の棚に立てかける。さっきカバンから出していたメモだ。棚に立てかけて、見やすい位置に置く。それから材料を並べた。ごぼう、にんじん、ひじき、小松菜、油揚げが、台所に整然と並んでいる。
その光景を見ていると、なんとなく緊張している白河さん、というものが伝わってきた。いつもより動作が少し慎重だからかもしれない。一つ一つ確かめながら動いている。メモを何度も確認している。いつもはメモなんて使わない。全部頭に入っている。でも今日は違う。作ったことがない料理だから、メモが必要だ。そのことが、白河さんにとっての「初めて」の重さを感じさせた。
白河さんがごぼうを手に取った。泥を洗い落として、まな板の上に置く。包丁でごぼうの表面を削ぐように皮を取る。こそぎ落とす、という感じだ。その動作は丁寧で、無駄がない。斜め切りにし始めた。
そこまでは順調だった。
でも白河さんが切り終わったごぼうを水に浸けようとしたとき、少し手が止まった。メモを見る。また手が止まる。眉間に少し力が入っている気がした。
「どうしたの」
「……アク抜きの時間が書いてありません」
「え」
「レシピに、水にさらすと書いてあるんですが、何分さらすかが書いていなくて。レシピのサイトによって書いてあることが違って、どれを参考にしたのか今になってわからなくなってしまって」
白河さんが、少し困った顔をした。困った顔、というのも珍しかった。いつもは無表情か、何かを考えているような顔か、そのどちらかだ。困った顔は、あまり見たことがない。こういう表情もするのか、と思った。
「十分から十五分くらいじゃないかな」
「根拠はありますか」
「……なんとなく」
「なんとなくで料理はできません」
白河さんはそう言いながら、スマホを取り出して調べ始めた。少しして、「十分から二十分と書いてあります」と言った。そのまま水を張ったボウルにごぼうを入れて、タイマーをセットした。十五分。中間を取った。その判断は合理的だと思う。
そのやりとりがなんとなくおかしかったけれど、笑わなかった。笑ったら余計なことになる気がした。前回で学べたことだ。
ごぼうがアク抜きされている間、白河さんはひじきの下処理を始めた。乾燥ひじきをボウルに入れて、水で戻す。十分ほどかかるらしく、タイマーをまたセットした。今度はスマホのタイマーが二つ動いている。ごぼうとひじきが同時にカウントされている。
次に小松菜を洗う。流水でよく洗って、水気を切って、まな板の上に並べる。それも問題なかった。
順番に、一つひとつ、確認しながら進めている。いつもの白河さんの料理は流れるように進む。でも今日は少しずつ確認しながら進む。立ち止まって、メモを見て、また動く。その違いが、はっきりとわかった。でも、だからといって遅いわけじゃない。確認しながらでも、動作に無駄がない。それが白河さんらしかった。
◆
問題が起きたのは、三品を同時に進め始めてからだった。
きんぴらごぼうはフライパンで炒める。ひじきの煮物は鍋で煮る。小松菜の煮びたしは別の鍋で茹でてから出汁に浸ける。それを同時に進めようとすると、コンロが二口しかない。フライパンと鍋を同時に使えば二口埋まる。三品目の鍋を置く場所がない。
白河さんが少し固まった。
台所に立ったまま、コンロを見て、フライパンを見て、鍋を見て、また台所全体を見回した。何かを計算しているような目だった。
「コンロが二口しかないので、同時に三品は難しいです」
「順番に作ればいいんじゃない」
「……そうですね。想定が甘かったです」
少し考えてから、白河さんはひじきの煮物から始めることにしたらしかった。煮物は時間がかかるから先に仕掛ける、という判断だ。その判断は正しいと思う。料理をほとんどしない僕でも、それはわかった。
ひじきと油揚げを鍋に入れて、出汁と調味料を加えて、火にかける。白河さんがメモを確認しながら、調味料の分量を量っている。醤油を小さじで量って、みりんを量って、砂糖を量る。一つひとつ丁寧に量っている。いつもの料理では、白河さんは目分量で作る。計量スプーンを使わなくても、感覚でちょうどいい量を入れられる。でも今日は全部量っている。初めての料理だから、感覚が信用できないのかもしれない。その慎重さが、なんとなく好きだと思った。
ひじきが煮えてくる頃に、きんぴらごぼうを炒め始めた。アク抜きしたごぼうとにんじんをフライパンに入れて、ごま油で炒める。ここでまた少し手が止まった。
「どうしたの」
「……火加減が書いていません」
「中火じゃないかな」
「根拠は」
「……なんとなく」
「また根拠なしですか」
白河さんはまたスマホを確認した。中火から強火、と書いてあったらしく、少し火を強めた。ごぼうとにんじんが炒められていく音がする。パチパチという音と、ごま油の香ばしい匂いが台所から漂ってきた。いい匂いだ、と思った。
でも少し経ってから、白河さんが「……少し焦げました」と言った。
フライパンを覗いてみると、ごぼうの端がほんの少しだけ焦げている。本当にほんの少しだけど、白河さんにとっては失敗らしかった。眉間に力が入っている。
「これくらい全然大丈夫じゃない?」
「想定通りではありません」
「でもいい匂いがするよ」
「……焦げた匂いがします」
「香ばしい匂いがするってこと」
「……焦げは焦げです」
白河さんは少し眉間に力を入れたまま、炒め続けた。調味料を加えて、絡めて、火を止める。その間もメモを何度も確認していた。完璧主義なのだろうと思う。想定通りじゃないと、納得できない。それが白河さんという人だ。
きんぴらごぼうが完成した頃に、ひじきの煮物も煮えた。最後に小松菜の煮びたしを作る。小松菜を茹でて、出汁に浸ける。これは比較的順調だった。でも白河さんは「出汁の濃さが想定と違います」と言っていた。どう違うのかは教えてくれなかった。
三品が揃ったのは、いつもより少し遅い時間だった。
白河さんが三つの小鉢に盛り付けていく。きんぴらごぼう、ひじきの煮物、小松菜の煮びたし。それぞれを丁寧に盛り付けて、ローテーブルに運んできた。ご飯と味噌汁も作ってある。味噌汁はいつも通りの手際で作ったから、こちらは問題ないはずだ。それも一緒に並べた。
並んだ小鉢を見ると、見た目はきれいだった。盛り付けは上手い。問題は味だ、ということを白河さんは知っている。向かいに座った白河さんが、三つの小鉢を少し見ていた。眺めているというより、確認している目だ。
「……全部、失敗です」
白河さんが、座りながら言った。食べる前から宣言している。
「食べてみないとわからないじゃん」
「想定通りではありませんでした。きんぴらごぼうは焦げましたし、ひじきの煮物は煮詰まりすぎた気がしますし、小松菜の煮びたしは出汁の濃さが違います」
「そんな細かく気にしてるの」
「細かくではなく、事実です」
「それが失敗かどうかは食べた人が決めることじゃない?」
白河さんが少し黙った。反論できなかったのか、それとも考えているのか、わからなかった。しばらくして、
「……いただきます」
「いただきます」
◆
まずきんぴらごぼうを食べた。
ごぼうのしゃきしゃきした食感が残っていて、甘辛い味が絡んでいる。端が少し焦げている、と白河さんは言っていたけれど、食べてみると全然わからない。むしろその少し強めの火加減が、香ばしさになっている気がした。おいしい。というより、かなりおいしい。こういう渋い料理を、こんなにちゃんと食べたのは久しぶりかもしれない。
次にひじきの煮物を食べた。ひじきと油揚げが出汁に馴染んでいて、甘辛くて深い味がした。煮詰まりすぎた、と白河さんは言っていたけれど、その分味が濃くて、ご飯と合う。これもおいしい。
小松菜の煮びたしを食べた。出汁の濃さが想定と違う、と白河さんは言っていたけれど、食べてみると出汁がしっかり染みていて、小松菜の青い味と合っていた。これもおいしい。
三品全部食べて、全部おいしかった。
おいしかった、というより、ちゃんとした料理だった。失敗、という言葉が全然合わない。こんなに整った味がするのに、何が失敗なのか。白河さんの基準が高すぎるのか、それとも僕の基準が低すぎるのか。たぶん両方だ。
「……全部おいしいよ」
「焦げています」
「食べてみるとわからないって」
「出汁の濃さが——」
「ちょうどいいと思う。ご飯に合う」
「……ひじきは煮詰まりすぎています」
「それも味が濃くておいしいよ」
白河さんは少し間を置いてから、自分でも食べ始めた。きんぴらごぼうを一口食べて、少し考えるような顔をした。何かを確かめているような顔だ。ひじきの煮物を食べて、また少し考えた。小松菜の煮びたしを食べた。
しばらく黙って食べていた。
「……想定とは違います」
「でも?」
「……でも、おいしくはあります」
言い方が複雑だった。おいしい、と言いたいけれど、失敗だということも認めたい。その両方が混ざったような言い方だった。おいしくはある、という言い方が、白河さんにしては精一杯の評価なのかもしれない。
「それって成功じゃないの」
「……おいしくはありますが、想定通りではありません。成功とは言えません」
「基準が厳しすぎない?」
「……基準が甘いと思います」
どちらが、という言葉は省略されていたけれど、僕のことを言っているのだろう。白河さんはそう言って、また食べ始めた。黙々と食べている。箸が止まらない。失敗だと言いながら、食べている。おいしくはある、と言いながら、食べている。その様子がなんとなくおかしくて、でも笑わなかった。
食べ終わった頃には、三品の小鉢が全部空になっていた。
「全部食べたじゃん」
「……残すのは失礼なので」
「それだけじゃないでしょ」
「……」
白河さんは何も言わなかった。視線を少し外して、空になった小鉢を見ていた。三つの小鉢が空になっている。失敗だと言っていた料理の小鉢が、全部空だ。
しばらくして、ぼそっと言った。
「……また挑戦します」
それだけ言って、食器を台所に持っていった。
また挑戦します。
失敗だと言いながら、また挑戦すると言う。失敗だと言いながら、全部食べた。失敗だと言いながら、おいしくはある、と言った。
白河さんの「失敗」は、僕の「成功」と同じ場所にある気がした。それどころか、白河さんの失敗は、僕が一人でコンビニ弁当を食べていたときより、ずっとおいしい。
◆
食器を洗い終わった白河さんが戻ってきた。エプロンを畳んで、カバンにしまう。いつも通りの動作だ。でも今日は、いつもより少しだけ時間がかかっている気がした。エプロンを畳む手が、少し遅い。何かを考えているのかもしれない。今日の料理のことを、まだ頭の中で整理しているのかもしれない。
「おやすみなさい、朝比奈くん」
「おやすみ。また作ってね」
白河さんが少し手を止めた。カバンのファスナーを閉めかけた状態で、一瞬だけ、こちらを見た。
「……また作るんですか」
「うん。また食べたい」
「……失敗でしたよ」
「おいしかったから」
白河さんがまた少し黙った。何かを言いかけて、やめたような間があった。
「……きんぴらごぼうと、ひじきの煮物と、小松菜の煮びたしをですか」
「全部」
「……今度は失敗しません」
きっぱりと言った。失敗しません、ではなく、今度は失敗しません、だ。今日は失敗だったということは認めている。でも次は失敗しない、と言っている。それが白河さんらしかった。負けを認めた上で、次は勝つと言う。その清々しさが、なんとなく好きだと思った。
ドアが閉まった。
廊下の足音が隣のドアの前で止まって、鍵を開ける音がして、また閉まった。壁一枚向こうに、白河さんがいる。今日も、昨日も、たぶん明日も。
ローテーブルの上に、空になった三つの小鉢が並んでいる。白河さんが「失敗」と言った料理の、空になった小鉢が。
全部、おいしかった。
白河さんの失敗は、なぜかいつもおいしい。
そのことを、しばらくぼんやりと考えていた。




