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僕の部屋に入り浸る学園一の天使様  作者: 無課金道楽おじさん


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4/4

豚汁

 翌朝、目が覚めると七時半だった。


 少し急がないといけない時間だ。のんびりしていると遅刻する。一人暮らしを始めてから、朝の支度をぎりぎりまで引き延ばす癖がついていた。実家にいた頃は母親が起こしてくれていたけれど、今は誰も起こしてくれない。直そうとは思っているけれど、直らない。たぶん来週も同じことをしている。


 布団から出て、昨日着ていたシャツを床から拾って、においを確認してそのまま着る。鞄に教科書を詰めて、冷蔵庫を開ける。白河さんが補充してくれたスポーツドリンクを一本手に取って、鞄に入れる。これが今日の朝食代わりだ。


 白河さんが見ていたら「ちゃんと食べてから来てください」と言いそうだな、とふと思って、それが妙にリアルに想像できたことに少し驚いた。


 靴を履いて、ドアを開ける。


 廊下に出た瞬間、隣のドアが開いた。


 白河さんだった。


 制服姿で、鞄を肩にかけて、鍵を閉めているところだった。動作が丁寧だ。鍵穴にしっかり差し込んで、回して、抜いて、ちゃんと閉まったか確認してからカバンにしまう。白河さんのすることは、いつもそうだ。急がない代わりに、止まらない。


 カバンにしまい終わって、こちらに気づいて、少しだけ目が合う。


 朝の白河さんは、学校での白河さんと少し違う気がする。同じ無表情なのに、少しだけ違う。廊下という空間のせいかもしれないし、学校じゃない場所で見ているからかもしれない。どこで見ても白河さんは白河さんなのに、場所によって少しだけ違って見える。そういうことが、最近わかってきた気がする。


「おはようございます」


「……おはよう」


 タイミングが合いすぎている、と思った。


 三日連続で、こんなにちょうどいいタイミングで重なっている。偶然にしては出来すぎている。僕がぎりぎりの時間に出てくることを、白河さんは知っている。隣に住んでいるのだから、生活音でわかるのかもしれない。朝のアラームの音とか、冷蔵庫を開け閉めする音とか。


 あるいは——合わせてきたのかもしれない。


 白河さんが何かをするときには理由がある。もっともらしい理由が。でも、その理由がもっともらしすぎて、本当の理由が見えない。


 どちらかは、わからなかった。


 二人で並んで階段を降りる。白河さんの足音は軽い。僕の足音はそれより少し重い。段差を降りるたびに、二種類の音が交互に聞こえる。同じリズムで。


 廊下を抜けて、アパートの外に出る。朝の空気は冷たくて、息が少し白くなった。十月も半ばを過ぎると、朝晩の冷え込みが本格的になってくる。


 白河さんは制服の上に薄いカーディガンを羽織っていた。紺色の、シンプルなカーディガンだ。カーディガンのボタンが、二つだけ留めてある。全部留めていない。その小さな「きっちりしていない部分」が、妙に目に入った。白河さんにしては珍しい気がして、でもそれがまた自然で、だから目に入ったのかもしれない。


 僕は何も羽織っていない。思ったより寒くて、ポケットに手を入れた。


 住宅街の道を歩く。犬の散歩をしている人が何人かいて、遠くから自転車の音がする。金木犀の匂いがまだどこかに残っている。もう十月なのに、まだ匂う場所があるらしい。季節が進んでいる。


「昨日、ちゃんと眠れましたか」


 白河さんが前を向いたまま言った。


 体調を心配しているのか、それとも挨拶の延長なのか、いつも判断がつかない。でも聞いてくれている、ということはわかる。昨日も聞いてくれた。今日も聞いてくれた。続いているのは、気にかけているからなのかもしれない。


「うん。白河さんは?」


「……問題なく」


 それだけ言って、また沈黙になった。でも気まずくない。


 朝の沈黙は夜の沈黙より軽い気がした。無理に何かを話さなくていい。黙っていても、隣に誰かがいる。その感覚だけがあれば十分だ、と思う。


 こういうことを、最近思うようになった。


 一人暮らしを始めた頃は、静けさが当たり前だった。でも最近は、誰かがいる静けさ、というものがあることを知ってしまった。同じ静けさでも、一人の静けさと、誰かと一緒にいる静けさは違う。そのことを、白河さんと一緒にいるようになってから、少しずつ実感している。


 白河さんと並んで歩くことが、少しずつ自然になっている。昨日より、ほんの少しだけ。最初に一緒に帰った日と比べると、随分変わった気がする。気づけば歩幅が揃っていた。意識していないのに、自然に白河さんのペースに合っている。人と歩幅が揃う、ということが、こんなに自然に起きるのだと知らなかった。


 学校に近づくにつれて、同じ制服姿の生徒が増えてきた。学校が近づくにつれて、白河さんの空気が少し変わる気がした。廊下を歩いていたときの白河さんと、今の白河さんが、少しだけ違う。気のせいかもしれないけれど。


 昇降口で靴を履き替える。


 白河さんはいつも通りの無表情で教室に向かっていった。その背中が、廊下の人混みに紛れて見えなくなった。


 学校の白河さんと、廊下で一緒に歩いていた白河さんが、ここで別の人になる。教室に入ると、背筋を伸ばして席につく、完璧な白河さんになる。そういう切り替えが、白河さんには自然にできているらしかった。


 僕には、その切り替えがうまくできない気がした。朝に一緒に歩いてきた事実が、教室に入っても頭の隅に残っている。白河さんの席を、自然と目で探してしまう。見つけると、少し安心する。その感覚が何なのか、うまく言葉にできない。


 自分の席に座って、鞄からスポーツドリンクを取り出して、一口飲む。甘い。窓の外を見ると、空が青い。今日は天気がいい。それだけで、少し気分が上がった。


 いつも通りの一日が始まった。


 ◆

 放課後、白河さんが部屋に来たのはいつも通りの時間だった。


 授業が終わって、ホームルームが終わって、帰り道を歩いていると、どこかのタイミングで白河さんが隣にいる。今日は昇降口を出たところで並んでいた。どこから来たのかはわからない。気づいたらいた。


 こういうことが、最近増えてきた。気づいたら隣にいる。気づいたら並んで歩いている。気づいたら一緒に帰っている。白河さんがいつどうやって隣に来るのかを、僕はいつも見ていない。後から気づく。そういうことが続いている。


 アパートに着いて、しばらくするとノックの音がする。


 最近は、チャイムを押さずにノックをするのが白河さんのやり方になっていた。コンコン、という控えめな音が二回。力加減が毎回同じだ。それだけで白河さんだとわかる。白河さんの音だ、と体が覚えてしまっている。音で人を認識するようになったのは、一人暮らしを始めてから初めてのことかもしれない。


「どうぞ」


 ドアが開いて、白河さんが入ってくる。


 靴を揃えて脱いで、鞄を所定の位置に置いて、台所に向かう。一連の動作に迷いがない。最初に来たときは、ゴミ袋はどこかとか、冷蔵庫を見てもいいかとか、一つひとつ確認していた。今はもう確認しない。全部把握している。この部屋のどこに何があるか、白河さんの方が僕より詳しいかもしれない。


 引っ越してきたのは白河さんなのに、まるで最初からここにいたみたいな動き方をする。いや、最初からここにいたかのように、というのは少し違うかもしれない。白河さんはここに住んでいるわけじゃない。でも、ここに来ることが自然になっている。白河さんにとって、この部屋は来る場所として定着している。そういう感じだ。それが何を意味するのかは、うまく考えられない。


「今日は何を作りますか」


「なんでもいい」


「なんでもは困ります」


 毎回同じやりとりだ。


 僕が「なんでもいい」と言って、白河さんが「なんでもは困ります」と返す。それでも白河さんは毎回何かを作る。「なんでもいい」という答えを受け取った上で、自分で考えて決める。その判断が毎回きちんとしていて、毎回おいしい。


「なんでもいい」と言うのが、少し甘えている気がすると、最近思う。本当は何か言えばいいのに、言わない。言わなくても白河さんが決めてくれるから、言わない。それは少し甘えているのかもしれない。でも言葉にできるほど食べたいものがないのも本当だし、白河さんが選んだものの方がたいていおいしいのも本当だから、結果的には毎回これでいい気がしている。


 今日は冷蔵庫を開けて、中を確認して、豚汁を作ると決めたらしかった。台所に立って、静かに動き始める。玉ねぎを切る音、豚肉をほぐす音、出汁を取る音。煮立つ匂いが部屋に広がってくる。根菜の甘い匂いと、みその匂いが混ざって、部屋全体がその匂いになっていく。


 台所で白河さんが動いている。その音と匂いを聞きながら、僕はローテーブルの前でぼんやりしていた。


 最近、これが一番落ち着く時間かもしれない、と思う。白河さんが台所で料理をしていて、僕がローテーブルの前でぼんやりしている。何もしていない。何も話していない。でも、一人ではない。その状態が、なぜか一番楽だ。なぜかはわからない。


 晩ご飯を食べ終わったのは、七時を少し過ぎた頃だった。


 豚汁とご飯と、昨日の残りの小鉢が一品。豚汁は根菜がたくさん入っていて、体が温まった。十月の夜は冷えるから、汁物が嬉しい。特に今日は朝から何も食べていなかったので、体がありがたがっている感じがした。いつもより多く食べた。白河さんが「お代わりはありますか」と聞いてくれて、お代わりをした。一人暮らしを始めてから、お代わりをしたのは初めてかもしれない。


 白河さんは向かいに座って、黙々と食べていた。


 食べている白河さんを見ていると、学校での白河さんとは少し違う気がする。学校では完璧で近寄りがたい白河さんが、今はご飯を食べている。ただそれだけなのに、なぜかこちらの方が本当の白河さんに近い気がした。今の方が自然な気がする。何かを演じていない気がする。それがなぜなのかは、うまく言えないけれど、そういう感じがした。


 白河さんが豚汁を一口飲んだ。少しだけ、息が出た。熱かったのかもしれない。そういう、小さな人間らしい仕草が、白河さんにもある。当たり前のことなのに、それを見ると少しほっとする。なぜほっとするのかは、わからない。


 食器を白河さんが台所に下げている間、僕はローテーブルの前でぼんやりしていた。


 今日の白河さんの料理も、当然のようにおいしかった。毎日来て、毎日何かを作って、毎日帰っていく。その繰り返しが、少しずつ当たり前になっている。当たり前になっているのに、ありがたいという気持ちは薄れない。むしろ、毎日食べるたびに少しずつ積み重なっている気がする。感謝が積み重なっているのか、それとも別の何かが積み重なっているのか、うまく言葉にできないけれど、何かが増えていく感じがあった。


 押し入れのそばを通ったとき、ふと思い出した。


 そういえば、あれを買ったままにしていた。


 夏に実家に帰ったとき、地元の商店街の雑貨屋で見つけて買ったものだ。その雑貨屋は昔からある店で、観光客向けの土産物と地元向けの日用品が混在した、ちょっと不思議な品揃えをしている。子どもの頃から知っている店だ。入ると独特の匂いがする。木の棚と、古い店の匂いが混ざった、あの匂いが今でも覚えている。


 その棚の隅に、そのおもちゃがあった。見た瞬間、なんとなく手に取っていた。家族が遊びに来たときに驚かせようと思って買ったのに、結局使う機会がないまま押し入れの奥にしまったままになっていた。


 笑わせようとか、面白いことをしようとか、そういうつもりは全然なかった。ただ思い出しただけだ。なんとなく手が動いて、なんとなく取り出した。これが白河さんに見せるためだったかと言えば、そういうわけでもない。ただ、押し入れの近くを通ったときに思い出して、取り出した。それだけだ。


 押し入れを開けて、奥の方を探す。段ボールの隙間に突っ込んであった。引っ張り出すと、ビニール袋に入ったままの状態で出てきた。一度も使っていない。袋を開けて、中から取り出す。手のひらに乗るくらいの大きさだ。軽い。スイッチはどこだっけ、と確認しながら持った。底の方に小さなスイッチがある。


 台所で食器を洗い終わった白河さんが戻ってきた。


 手をタオルで拭きながら、こちらを見た。台所からローテーブルの前まで歩いてくる。その動作が、いつもの白河さんの動作だ。無駄がない。でも急いでいない。一定のペースで動いている。それが白河さんらしい。


「なんですか、それ」


 白河さんが、手を拭き終わったタオルを畳みながら言った。おもちゃを見ている。興味があるのか、ないのか、表情からは読み取れない。ただ、何かを持っているこちらを見ている、という感じだった。確認している目だ、と思った。


「夏に買ったやつ。家族が来たときに驚かせようと思って」


 それを白河さんに向けて、スイッチを押した。


 ぴこぴこ、という間抜けな音がして、小さな光が点滅した。安っぽい動きで、動く方向もぎこちない。まっすぐ動かない。少し傾きながら、よたよたと動く。大人が見て笑えるような類のものじゃない。子どもが喜ぶか微妙なラインの、ただのおもちゃだ。値段も安かった。三百円くらいだったと思う。買ったときも特に面白いと思って買ったわけじゃない。なんとなく手に取ったら、なんとなくかごに入っていた、という感じの買い方だった。今考えると、なぜ買ったのかよくわからない。でも買った。それだけのことだ。


 白河さんが、それを見ていた。


 表情は変わらない。無表情のまま、ぴこぴこよたよた動くおもちゃを見ている。やっぱり面白くなかったか、と思い始めた頃。腕を下ろして、スイッチを切ろうとした、その瞬間。


 一秒。二秒。


 クスッ、と。


 音にもならないような、ほんの一瞬だった。


 口元が、わずかに動いた。上がった、という感じじゃない。ほんの少し、緩んだ。目が、少しだけ細くなった。まぶたが少し下がって、目尻に小さなしわができた。それだけだった。一瞬で、本当に一瞬で、次の瞬間には無表情に戻っていた。


 でも、確かに見た。


 白河さんが、微笑んだ。


 僕はしばらく、おもちゃを持ったまま固まっていた。


 何が起きたのか、頭が整理しきれなかった。白河さんが微笑む場面を、今まで一度も見たことがなかった。学校での白河さんは完璧な笑顔を見せることはある。クラスメイトに話しかけられたとき、先生に何かを言われたとき、誰かに挨拶されたとき。でもあれは作られた笑顔だ。丁寧で、きれいで、完璧で、でも作られている。温度がある笑顔じゃない。社交的な笑顔だ。礼儀としての笑顔だ。


 さっきのは、違った。


 作っていない笑顔だった。意図していない笑顔だった。口元が緩んで、目が細くなって、それが一瞬だけあって、すぐに消えた。消えたのは、自分で気づいて戻したのかもしれないし、気づかないうちに元に戻ったのかもしれない。どちらにしろ、あれは白河さんが意図したものじゃなかった。


 それが、なぜかずっと頭の中に残った。


 作られた笑顔は何度も見た。でも今のは違う。今のは、白河さんが思わず出てしまった笑顔だ。制御できなかった笑顔だ。完璧な白河さんが、一瞬だけ制御できなかった。たった一瞬、ほんの少しだけ。でもそれが、今まで見たどの白河さんよりも、記憶に残った。


「……失礼しました」


 白河さんが、少しだけ視線を外して言った。


 声のトーンが、いつもと少し違った気がした。いつもの白河さんの声は、平静で揺れがない。でも今の「失礼しました」は、少しだけ低かった。いつもより少しだけ、速かった。恥ずかしいのか、それとも自分でも驚いているのか、それとも全然別の何かなのか、わからなかった。わからないけれど、いつもと違う、ということだけはわかった。


「……気に入った?」


「いいえ」


「でも笑ったじゃん」


「……笑っていません」


 白河さんは真顔でそう言った。


 笑っていません。でも、笑っていた。微笑んでいた。あれは確かに微笑みだった。口元が緩んで、目が細くなった。あれを微笑みと言わずに何と言うのか。でも、白河さんは笑っていません、と言っている。真顔で。迷いなく。


 笑っていません、と言い張る白河さんの顔を見ながら、なぜかおかしくなってきた。さっきの一瞬を見たのは僕だけだ。白河さんは笑っていないと言っている。でも僕は見た。その認識のズレが、なんとなくおかしかった。でも笑うと余計なことになる気がして、笑わなかった。笑いをこらえていた。こらえながら、白河さんを見ていた。


 言い返そうとして、やめた。


 なぜかそれ以上追いかけたくなかった。今のあの表情は、白河さんが意図していなかったものだと思う。意図していない表情を、こちらが指摘して追い詰めると、次からは出てこなくなる気がした。そういうものだと思う。大事なものは追いかけすぎると逃げる。そういう経験則が、どこかにある。だから、追いかけない方がいい。


 追いかけない、という判断が、なぜか自然にできた。


 自分でも少し驚いた。こういう判断が自然にできるようになったのは、いつ頃からだろう。白河さんと話すようになってから、何かが少し変わっているのかもしれない。白河さんのことを考えるようになってから、何かの判断の仕方が変わっている気がする。うまく言えないけれど、そういう気がする。


「……わかった」


 それだけ言って、おもちゃをローテーブルの上に置いた。


 ぴこぴこという音がまだ続いていたけれど、しばらくして止まった。電池が切れたのか、それとも自動で止まる仕様なのか。止まった後の静けさが、さっきより少し深い気がした。おもちゃが動いていた間の、あのよたよたとした音が、突然なくなった。その落差が、静けさをより静かに感じさせた。


 白河さんはカバンを手に取って、帰る準備を始めた。いつも通りに。エプロンを丁寧に畳んで、鞄にしまって、靴を履く。動作に迷いがない。さっきのあの一瞬がなかったみたいに、いつも通りだ。完璧に、いつも通りだ。


 白河さんは切り替えが早い。それともそもそも、あの一瞬をそれほど気にしていないのかもしれない。気にしていないから、いつも通りにできる。あるいは、気にしているけれど、いつも通りにできる。どちらなのかは、わからない。


 どちらにしろ、僕には関係ない。


 関係ない、と思いながら、さっきの一瞬がまだ頭の中にある。消えない。消えないのは、なぜだろう。さっきから考えているけれど、答えが出ない。ただ、消えない。


「おやすみなさい、朝比奈くん」


「おやすみ」


 ドアが閉まった。


 廊下に出た足音が、隣のドアの前で止まった。鍵を開ける音がして、ドアが開いて、また閉まった。白河さんが自分の部屋に入った音だ。壁一枚向こうに、白河さんがいる。今日もそうだ。昨日もそうだった。明日もそうだろう。


 壁一枚という距離が、遠いのか近いのか、最近よくわからなくなってきた。物理的には近い。でも何かが遠い気がすることがある。いや、遠いというより、わからない、という感じかもしれない。


 部屋に一人になる。


 ローテーブルの上に、おもちゃが置いてある。ぴこぴこした、安っぽいおもちゃが。夏に買って、一度も使わないまま押し入れに入れていたおもちゃが。三百円くらいで買った、よたよた動くだけのおもちゃが。


 これを買ったのは正解だったのかもしれない、となんとなく思った。理由はうまく言えないけれど、そう思った。正解かどうかは、結果で決まる。今日の結果を見れば、正解だったと言えるかもしれない。あの一瞬があったのだから。


 笑わせようとしたわけじゃなかった。


 なんとなく思い出して、なんとなく取り出しただけだった。


 でも、微笑んだ。


 クスッと、一瞬だけ。


 その一瞬だけが、頭の中に残った。


 しばらく経っても、まだ残っていた。

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