表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕の部屋に入り浸る学園一の天使様  作者: 無課金道楽おじさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/4

肉じゃが

 放課後、お礼を言えなかった。


 結局、言えなかった。午後の授業が終わって、ホームルームが終わって、クラスメイトが帰り支度を始める中で、白河さんの席の方を何度か見た。でも、そのたびに何かが邪魔をした。白河さんが荷物をまとめている。白河さんが席を立つ。白河さんが教室を出る。そのどのタイミングでも、声をかけることができなかった。


 声をかけるための言葉が、出てこなかった。


 昨日から考えていた。何を言えばいいのか、ずっと考えていた。授業中も、休み時間も、昼休みも、ずっと頭の片隅で考えていた。「昨日はありがとう」では足りない。「全部ありがとう」では言葉が大きすぎる。「お粥おいしかった」では的外れな気がする。「手紙読みました」では報告みたいだ。「Tシャツありがとう」では逆にお礼を言われた側みたいで変だ。何を言っても、何かが違う気がして、言葉を選んでいるうちに白河さんはいなくなった。


 僕は一人で教室を出た。


 廊下を歩きながら、今日もだめだったな、と思う。二日連続で言えなかった。明日こそ言おう、と思うけれど、明日も同じことになるんじゃないかという予感がある。言葉が見つからないままでいる限り、明日も同じだ。


 昇降口で靴を履き替えて、校門を出る。十月の夕方の空気は少し冷たい。昨日一日寝ていたせいか、その冷たさが妙に気持ちよかった。体に残っていた微熱が、少しだけ和らぐ気がする。深く息を吸うと、夕方の空気が肺に入ってきた。金木犀の匂いがどこかからしている。秋の匂いだ。こういう匂いも、昨日は全然感じなかった。一日外に出なかったから当たり前だけど。


 帰り道を歩く。


 学校から家まで、歩いて三十分以上かかる。一人暮らしを始めてから毎日歩いている道だから、もう体が覚えている。考えなくても足が動く。コンビニの場所と、信号の数と、曲がる角だけを把握して、あとはぼんやり歩くことの多い道だ。今日もそうやって歩いていた。頭の中はまだ「なんと言えばよかったか」の答え探しが続いている。


 住宅街に入ったあたりで、後ろから声が聞こえた。


「朝比奈くん」


 振り返ると、白河さんが小走りで近づいてきていた。


 制服姿で、鞄を肩にかけて、少し息が上がっている。走ってきたのか。白河さんが小走りをしているのを見たのは初めてだった。学校での白河さんはいつも静かで、急いでいる様子を見たことがなかった。廊下を歩くときも、階段を降りるときも、いつも落ち着いた動作だった。それが今、少し速い足取りでこちらに向かってきている。


 ということは、追いかけてきた、ということだ。


 校門を出てから、住宅街に入るまでに数分はかかる。それだけの距離を、追いかけてきた。なぜ追いかけてきたのか。考える前に、白河さんが追いついた。


「待ってください」


 追いついてきた白河さんは、少しだけ肩で息をしながら、でも表情は変わらず言った。


「同じ方向なので」


「……そうなの」


「はい」


 それだけ言って、白河さんは僕の隣に並んで歩き始めた。説明はそれだけだった。同じ方向なので。それ以上でも以下でもない。でも、走ってきてまで追いついた、という事実が、その一言と微妙に噛み合わない気がした。同じ方向なら、別に急いで追いかけてこなくても、そのまま歩けばいずれ一緒になる。それなのになぜ走ってきたのか。


 聞こうとして、やめた。


 聞いてしまうと、また「理由があるから」という答えが返ってくる気がした。その理由がもっともらしい理由である気がした。だから聞かないことにした。


 二人で並んで歩く。


 沈黙だった。でも、不思議と気まずくない。白河さんが隣にいる。それだけで、沈黙の質が変わる気がした。一人で歩くときの沈黙とは違う。誰かと一緒に歩いているのに何も話さない、という状況は、普通は少し居心地が悪いはずだ。沈黙を埋めなければという義務感が生まれて、何か話さなければと焦る。でも白河さんと歩くと、そういう感じがあまりない。白河さんが静かな人だからかもしれない。沈黙が白河さんにとって自然なことだから、こちらも自然でいられる。


 白河さんの歩くペースは、僕とちょうど合っていた。速くもなく遅くもない。小柄なのに歩幅がしっかりしていて、隣を歩いていて歩きやすい。こんなことを気にしたのは初めてだった。誰かと並んで歩きながら、歩調が合っているかどうかを意識したのは、いつ以来だろう。


 数分歩いて、ようやく口が動いた。


「昨日、ありがとう」


 言ってから、これだけか、と思った。昨日からずっと考えていた言葉が、結局これだった。昨日、ありがとう。シンプルすぎる。足りない。掃除のことも、お粥のことも、朝食のことも、手紙のことも、Tシャツのことも、全部が入っていない。「昨日」という一言に全部を押し込んでしまった。でも他に言葉が出てこなかった。


 白河さんは少し間を置いてから、


「体調はどうですか」


 と返した。お礼への返事じゃなかった。でも、なぜかそれが自然だった。お礼に対して「どういたしまして」と返さないのは白河さんらしかった。代わりに体調を聞いてくる。心配していたから来たのだから、体調を聞くのが自然な流れなのだろう。


「だいぶ良くなった。朝食も食べた」


「バナナは食べましたか」


「食べた。スポーツドリンクも飲んだ」


「そうですか」


 白河さんは前を向いたまま言った。表情は変わらない。でも、確認したかったのだろうな、とわかった。用意したものをちゃんと使ってもらえたか、確認したかったのだろう。それが目的の一つだったのかもしれない、と思う。一緒に帰ることにしたのは、体調を確認したかったからかもしれない。そういう理由なら、白河さんらしい。


「お粥、おいしかった」


 今度は自分から言った。昨日も言ったな、と思う。「おいしい」と口に出したのは昨日が最初で、今日も言っている。褒め言葉が「おいしい」しか出てこない。でも本当のことだった。今朝、電子レンジで温め直して食べたお粥も、昨日と同じくらいおいしかった。白河さんが作ったお粥は、温め直しても味が落ちない。それもすごいと思う。


「……そうですか」


 白河さんはまた同じ言葉で返した。でも今度の「そうですか」は、少しだけ昨日と声のトーンが違う気がした。何が違うのかは、うまく言えない。昨日の「そうですか」より、少しだけ柔らかい気がした。気のせいかもしれないけれど。


 しばらく二人で歩いた。


 同じ方向、というのは本当だった。僕の帰り道をそのまま歩いている。白河さんが知っているはずのない道を、白河さんは迷わず歩いている。なぜ知っているのか、と思ったけれど、昨日来たのだから知っていて当然だ。昨日、この道を歩いてきたのだから。学校から逆方向だと言っていたのに、わざわざ来た。そのことを今更ながら思い出した。


 夕方の住宅街は、少しずつ人が増えてくる時間帯だった。仕事から帰ってくる人、犬を散歩させている人、スーパーの袋を持った人。その中を、制服姿の二人が並んで歩いている。特に目立つわけではないけれど、誰かに見られたらどう見えるのだろう、とふと思った。クラスメイトとして、近所の人として、あるいはもっと別の何かとして。考えてみて、あまり意味のないことだと思ってやめた。


 スーパーの看板が見えてきた。


 白河さんが足を止めた。


「少し寄っていいですか」


「……スーパー?」


「はい。夕飯の食材を」


 夕飯の、食材。その言葉を頭の中で繰り返す。夕飯の食材を買う、ということは、また作るつもりだということだ。昨日みたいに。昨日は「すぐ戻ります」と言って出ていって、お粥を作った。今日は自分から、夕飯の食材を買いに行くと言っている。


 昨日より、一歩進んでいる気がした。


 でも、その一歩が何を意味するのかは、まだわからなかった。


「……どうぞ」


 それだけ言うと、白河さんはスーパーの自動ドアに向かって歩き始めた。僕も、なんとなく後をついていった。当然のように、足が動いた。止まる理由がなかった。


 ◆

 スーパーの中は、夕方の買い物客でそれなりに混んでいた。


 仕事帰りらしい大人や、小学生くらいの子どもを連れた親、学校帰りと思われる制服姿の子たち。白河さんと僕も制服姿なので、特に目立つわけでもない。でも、二人で並んで買い物をしている、という状況は、僕にとってはかなり珍しかった。


 一人暮らしを始めてから、誰かと一緒にスーパーに来たのは初めてかもしれない。実家にいたときは母親と来ることがあったけれど、一人暮らしを始めてからは完全に一人だった。スーパーは一人で来て、必要なものだけ買って、さっさと帰る場所だった。誰かと一緒に来る場所という認識がなかった。


 白河さんは迷わず野菜コーナーへ向かった。


 足取りに迷いがない。どこに何があるかを知っているような動き方だ。初めて来たスーパーのはずなのに、なぜそんなに迷わないのだろう、と思う。慣れているのか、それとも事前に頭の中で段取りを組んでいるのか。どちらにしろ、白河さんらしい動き方だった。


「何が食べたいですか」


 振り返らずに聞いてくる。こちらの答えを待っているのか、もう決めているのか、どちらかわからない。聞いてくれているのはありがたいけれど、聞かれると答えるのが難しい。


「……なんでも」


「なんでもは困ります」


 即座に返ってきた。表情は変わらないけれど、少しだけ声のトーンが強い気がした。なんでも、という答えが気に入らないらしい。気持ちはわかる。料理をする側からすれば、なんでも、は何も言っていないのと同じだ。


「じゃあ、肉じゃが、とか……」


 言いながら、なぜ肉じゃがが出てきたのか自分でも少し不思議だった。好きな食べ物が肉じゃがというわけでもない。ただ、なんとなく思い浮かんだ。実家で母親がよく作っていたからかもしれない。秋になると作っていた記憶がある。今日の空気が少し実家を思い出させた、のかもしれない。


「作れます」


「本当に?」


「作ったことがあるので」


 きっぱりと言って、白河さんはじゃがいもを手に取った。一つひとつ確認している。形を見ているのか、重さを確かめているのか、芽の出具合を見ているのか。その所作が、昨日お粥を作っていたときと同じだった。無駄がない。迷いがない。選ぶべきものが最初からわかっている人の動き方だ。


「手伝う」


 思わず言った。隣に立って一緒に選んでいる、という状況を、なんとなく楽しみたかったのかもしれない。


「いいです」


「でも——」


「選ぶのは私がします」


 きっぱりと言った。じゃがいもをかごに入れながら、こちらを見もせずに言った。拒絶、というより、そういうシステムです、という言い方だった。選ぶのは私がする。それは確定事項だ、という雰囲気がある。食材を選ぶということに、白河さんなりのこだわりがあるのかもしれない。昨日、お粥の材料をコンビニで選んできたのも、白河さん一人でやっていた。


「……わかった」


 僕はかごを持つことにした。白河さんが選んだものを受け取って、かごに入れる係だ。役割が決まると、少し楽になった。やることが明確になると、立っている意味が生まれる。


 白河さんはじゃがいもを三つ選んだ。次に玉ねぎを二つ。にんじんを一本。それから精肉コーナーへ移動して、牛肉を選んだ。薄切りの牛肉で、少し悩んでから、二パック取った。


「二パックいる?」


「一パックだと足りないので」


 足りない。つまり、二人分のつもりだということだ。昨日のお粥は一人分だった。今日は最初から二人分を想定して選んでいる。その違いを、なぜか少し大事なことのように感じた。


 どれも迷わない。でもちゃんと一つひとつ確認している。産地を見ているのか、鮮度を見ているのか。僕はよくわからないまま、受け取ってかごに入れ続けた。


「糸こんにゃくはありますか」


 白河さんが言った。


「……肉じゃがに入れるやつ?」


「はい」


「たぶん、あると思う。買ったことはないけど」


「一緒に探しましょう」


 白河さんが少し歩いて棚を確認し始めた。僕もなんとなくその横を歩きながら、棚を見る。豆腐コーナーのあたりに、糸こんにゃくがあった。いくつか種類があって、どれがいいのかよくわからない。


「あった」


「どれですか」


 白河さんが近づいてきて、棚を見た。少しの間、並んでいくつかの商品を見る。ちょうど、肩が並ぶくらいの距離だった。白河さんが近い、と思ったけれど、言わなかった。


 白河さんが一つ選んで手に取った。


「ありがとうございます」


 その「ありがとうございます」が、妙に自然だった。昨日のメモの「ありがとうございました」とは少し違う。距離が近い気がした。同じお礼の言葉なのに、今日の方が少しだけやわらかい。


 会計を済ませるとき、白河さんが財布を出した。


「いい、僕が払う」


 言いながら、昨日のお粥の材料代も払っていなかったことを思い出した。昨日は熱でぼんやりしていて、気づかなかった。今日は自分が払うべきだと思った。


「食べるのは朝比奈くんですから」


「白河さんも食べるでしょ」


 少し間があった。白河さんが財布を持ったまま、こちらを見た。一瞬だけ、何かを考えるような目をした。その目が、いつもの静かな目とは少し違った。何かを計算しているような、あるいは何かに気づいたような、そういう目だった。


「……では、半分ずつ」


 珍しく、折れた。


 白河さんが折れるのは初めて見た気がした。「寝ていてください」も「選ぶのは私がします」も、白河さんの言ったことは最終的にそのまま通っていた。それが今日、半分ずつ、という妥協案を出してきた。


 なぜか少し嬉しかった。


 ◆

 部屋に戻ると、白河さんはすぐに台所に立った。


 鞄を置いて、手を洗って、エプロンをつける。昨日と同じ白いエプロンだ。今日も持ってきていたのか、と思ったけれど、聞かなかった。聞いたところで「持ってきていました」と返ってくるだけだろうし、それはそうだろう、と思うだけだ。でも、エプロンを持ってきているということは、料理をするつもりで来たということだ。最初から、そのつもりだったということだ。


 白河さんが台所に立つと、部屋の空気が変わる気がした。昨日も感じたことだけど、今日も同じだ。誰かがそこにいる、という存在感が部屋を満たす。エプロンをつけた白河さんが、包丁を手に取る。まな板を出す。じゃがいもを洗い始める。その動作が、部屋を「誰かが住んでいる部屋」に変えていく。


 僕はローテーブルの前に座って、それを眺めていた。


 昨日と同じ構図だ。白河さんが台所に立っていて、僕がローテーブルから見ている。昨日との違いは、今日は熱がないことと、昨日より少しだけ近い気がすることだ。距離は同じはずなのに、何かが近い。それが何なのかを考えていると、白河さんが包丁を動かし始めた。トントントンという、規則正しい音がする。


「手伝う」


 また言った。昨日から数えると、何度目だろう。手伝うと言うたびに止められている。でも言わずにいられない。黙って見ているのが、なんとなく申し訳ない気がする。


「寝ていてください」


 また言われた。今日は熱がないのに、と思ったけれど、白河さんの言い方に「でも」を挟む余地がなかった。昨日と全く同じトーンで、全く同じ温度で言われると、逆らおうという気が起きない。なぜだろう、と思う。命令されているわけじゃない。強制されているわけじゃない。ただ、そう言われると逆らえない。


「熱はもうないけど」


「回復期は無理をしないほうがいいです」


「……それは知ってるけど」


「では座っていてください」


 寝ていてください、から座っていてください、に変わった。少し交渉が通った気がして、なんとなく嬉しかった。昨日より一段階、距離が縮まった気がした。寝ていてください、と言われなくなった。それだけのことなのに、なんだか前進した気がする。


 台所から、包丁の音が続いている。じゃがいもを切る音、玉ねぎを切る音、にんじんを切る音。それぞれ音が違う。じゃがいもはしっかりした音で、玉ねぎは少し湿った音で、にんじんはかたい音だ。そんなことを考えながら聞いていると、少し目が重くなってきた。昨日から体力が戻り切っていないせいかもしれない。でも眠らなかった。この音を聞いていたかった。昨日も同じことを思った気がする。


 しばらくして、いい匂いがしてきた。


 醤油の匂いと、何か甘い匂いが混ざっている。みりんか、砂糖か。それに牛肉の匂いが重なって、部屋全体がその匂いになっていく。肉じゃがの匂いだ、とすぐにわかった。実家で母親が作っていた匂いに少し似ている。一人暮らしを始めてから、この匂いを嗅いだことがなかった。コンビニの肉じゃがとは全然違う。もっと複雑で、もっと深い匂いだ。


「白河さん」


「なんですか」


「なんで、そんなに料理が上手なの」


 少し間があった。白河さんが鍋をかき混ぜる手を止めずに、少し考えているような間だった。


「上手かどうかはわかりません」


「上手だと思う。昨日のお粥も、今日も」


「……作ったことがあるものは、ちゃんと作れます」


「じゃあ、作ったことがないものは?」


 また間があった。今度は少し長い間だった。鍋の音だけがしている。火が通っていく音だ。


「わかりません」


 正直な答えだと思った。作ったことがないものはわからない。それだけのことなのに、なぜかその答えが好きだった。完璧な白河さんが、わかりません、と言った。完璧なのに、わからないことがある。そのわからないことを、ちゃんとわからないと言う。そういうところが、白河さんという人の一部なのかもしれない。


「作ってみたいものはある?」


 自分でも驚くほど自然に聞いていた。


 白河さんが少しだけ振り返った。こちらを見た。表情は変わらない。でも、予想外の質問だったのか、少しだけ間があった。


「……考えたことがなかったです」


 それが答えだった。作ってみたいものを考えたことがなかった。作れるものを作ってきた。それだけだった。その答えが、なぜかとても白河さんらしくて、少し切なくなった。なぜ切なくなったのかはわからなかった。


 ◆

 肉じゃがは、三十分ほどで完成した。


 白いお椀ではなく、今日は深めの皿に盛られた。じゃがいもがほくほくしていて、牛肉がやわらかくて、糸こんにゃくが絡んでいる。汁が少し残っていて、その色が濃くていい色をしている。見た目だけで、おいしいとわかる。ご飯も一緒に炊いてくれていた。いつの間に米を研いでいたのか、気づかなかった。


 白河さんはローテーブルの向かいに座った。今日は自分の分もある。昨日はお粥を一人分しか作らなかったけれど、今日は二人分だ。スーパーで白河さんが「一パックだと足りないので」と言って二パック選んでいた、あの牛肉が、今ここに並んでいる。それだけで、ローテーブルの上の景色が変わった。向かいが空いていない。誰かが向こうにいる。


「いただきます」


「いただきます」


 二人で言った。タイミングが揃っていた。それだけのことなのに、なんとなく笑いそうになった。笑わなかったけれど。笑わなかったのは、なんとなく笑ってしまうと何かが変わる気がしたからだ。今のこの状態を、もう少しこのままにしておきたかった。


 一口食べる。


 やわらかい。甘い。醤油の味がじゃがいもに染みていて、牛肉のうまみが汁に出ている。ご飯と一緒に食べると、さらにいい。実家の肉じゃがと少し違う味だけど、どちらがおいしいかと聞かれたら、正直甲乙つけがたい。それくらい、おいしかった。台所でしていた匂いを、今度は口の中で感じている。


「……おいしい」


「そうですか」


 三度目だ。「おいしい」と「そうですか」のやりとりは、これで三度目になる。昨日のお粥で一度、今日の朝に電子レンジで温めたときに心の中で一度、そして今。白河さんは毎回同じ「そうですか」で返す。でも毎回、少しだけトーンが違う気がする。今日の「そうですか」は、三回の中で一番柔らかかった。気のせいかもしれないけれど。


 食べながら、向かいの白河さんを見る。白河さんも食べている。いつもの無表情で、でも箸が止まらない。自分で作ったものを、黙々と食べている。その様子が、学校での白河さんとは全然違う。学校での白河さんは、いつも静かで、余計なことをしない。でも今の白河さんは、ご飯を食べている。ただそれだけなのに、なぜか普通の人みたいで、でもやっぱり普通じゃなくて、そのどちらでもある感じがした。


「白河さんも食べるじゃん」


「食べます」


「昨日、帰りに何か食べるって言ってたけど」


「……食べました」


「何を」


 少し間があった。白河さんが箸を持ったまま、少しだけ視線を下げた。


「コンビニで」


 コンビニで。


 あれだけ僕のコンビニ食を心配していた白河さんが、コンビニで食べた。冷蔵庫がほぼ空なのを見て、コンビニ弁当だけですかと聞いてきた白河さんが、自分はコンビニで食べた。思わず笑いそうになった。今度は少し笑った。


「なんですか」


「いや、別に」


「……急いでいたので」


 白河さんが、少しだけ視線を外して言った。急いでいた。何を急いでいたのか、聞いてもよかったけれど、聞かなかった。なぜか聞かない方がいい気がした。急いでいた理由を、白河さんがどう説明するのかを、今は聞きたくなかった。もっともらしい理由が返ってくるかもしれない。それを今日は聞きたくなかった。


 食べ終わった頃には、外がすっかり暗くなっていた。


 部屋の電気だけがオレンジ色に光っている。窓の外を見ると、近所の家の灯りがぽつぽつとついている。夜になっていた。一日が終わりに向かっている。


 白河さんは食器を台所に持っていって、洗い始めた。止めようとしたけれど、「座っていてください」と先に言われた。今日は「寝ていてください」じゃなかった。確実に一段階変わっている、と思う。


 洗い物の音を聞きながら、今日一日を頭の中でなぞる。放課後に声をかけられて、一緒に歩いて、一緒にスーパーで買い物をして、一緒に晩ご飯を食べた。全部、昨日の延長線上にある。でも昨日より少しだけ、近い気がする。距離が縮まったというより、お互いの場所が少し定まってきたような感じ、だろうか。うまく言えないけれど、そういう感じがした。


「では、帰ります」


 白河さんが、エプロンを畳みながら言った。


「送っていく」


「いいです」


「でも夜道は——」


「大丈夫です」


 きっぱりと言った。昨日の泊まる泊まらないのやりとりとは違って、今日は最初から決まっている、という雰囲気だった。止められない気がした。昨日みたいに十分間考える間もなく、最初から決まっていた。どこか違う、と思った。


「……じゃあ、せめて見送る」


 それには何も言わなかった。反対しなかった、ということだ。


 白河さんがエプロンをカバンにしまって、靴を履いた。ドアを開ける。廊下に出る。僕も後を追って廊下に出た。夜の廊下は少し冷えていた。昼間より気温が下がっている。


 白河さんが歩き始めた。


 でも、階段の方向じゃない。


 一歩。二歩。三歩。


 隣の部屋の前で、足が止まった。


 白河さんが鞄からカギを取り出した。ドアのカギ穴に差し込んだ。回した。ドアが開いた。


「……おやすみなさい、朝比奈くん」


 振り返らずに言って、中に入った。ドアが閉まった。


 僕はしばらく、そのドアを見ていた。


 隣の部屋のドアだ。昨日まで別の人が住んでいた部屋だ。昨日の朝、業者が荷物を出しているのを見た。新しい住人が来るのは知らなかった。それが白河さんだとは、当然知らなかった。


 昼休みのことを思い出す。白河さんが校門のところで、親から荷物を受け取っていた。Tシャツの入った袋だと思っていた。でも、あのときに一緒に何か伝えられていたのかもしれない。「隣の部屋、借りておいたから」という言葉が。


 だとすれば、昼休みに教室に戻ってきた白河さんは、Tシャツを渡しただけじゃなかった。隣に引っ越すことを決めた直後だった。「ありがとうございました」と書いたメモが、全部終わりにしようとしている言葉じゃなくて、全部続けることを決めた後の言葉だった可能性がある。


 そこまで考えて、頭が追いつかなくなった。


 どれくらいそこに立っていたのかはわからない。廊下の蛍光灯の音だけがしている。隣のドアは閉まったままだ。


 学校から逆方向、と言っていた。


 でも、隣。


 防犯上の理由で泊まると言っていた。


 でも、隣に引っ越した。


 食べてから学校に来てください、と手紙に書いた。


 壁一枚向こうに、白河さんがいる。


 答えが出ないまま、自分の部屋に戻った。ドアを閉めて、鍵をかけて、ローテーブルの前に座る。さっきまで二人で食べていた場所だ。白河さんが座っていた向かい側が、また空いている。でも今日は、昨日と少し違う気がした。


 昨日は、ただ「いない」だった。


 今日は、「隣にいる」だ。


 壁一枚向こうに、白河さんがいる。その事実が、何かを変えた気がした。何が変わったのかはわからない。でも、何かが変わった。


 部屋の静けさが、昨日とまた少し違う。


 昨日よりも、静かじゃない気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ