手紙
目が覚めたのは、六時を少し過ぎた頃だった。
最初に気づいたのは、光だった。カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいる。白い、やわらかい光だ。昨日の夕方に見たオレンジ色とは全然違う。あのときは夕暮れの重さがあった。日が沈んでいく感じ、時間が終わっていく感じ、そういうものが光の色に滲んでいた。でも今の光は違う。軽い。新しい。空気ごと入れ替わったみたいに、部屋が明るく感じる。
頭が重い。でも、昨日よりは少し軽い気がする。昨日の夜中は頭を動かすだけで痛くて、視界がぐらついて、自分が揺れているのか世界が揺れているのかわからなかった。それに比べると、今は少しましだ。熱が少し下がったのかもしれない。体の節々の痛みも、昨日ほどじゃない。手を握ってみると、昨日みたいに鉛みたいな感覚はなかった。指が動く。腕が持ち上がる。少しだけ、体が自分のものに戻ってきた気がする。
ベッドの上でしばらくそのまま天井を見上げていた。
昨日も天井を見ていた。一日中、ほとんど天井しか見ていなかった。でも昨日の天井と、今朝の天井は少し違う気がする。同じ天井なのに。何が違うのか、うまく言葉にできない。光の角度が違うのか、体の感覚が違うのか、あるいは——昨日と何かが変わったのか。
昨日のことを、頭の中でゆっくりなぞる。
白河さんが来た。チャイムが鳴って、居留守を使おうとして、でも声が聞こえて、ドアスコープを覗いたら白河さんが立っていた。プリントを持って、まっすぐ前を向いて。部屋を掃除してくれた。コンビニに買い物に行って、お粥を作ってくれた。防犯上の理由で泊まっていった。眠る前に「おやすみなさい、朝比奈くん」と言っていた。暗くなった部屋で、壁の方を向いたまま、その声を聞いていた。
そして今——
静かだ。
部屋が、やけに静かだ。
昨日の夜は、同じ部屋の中に誰かがいた。その気配があった。暗闇の中で、背後から誰かの呼吸が聞こえるような、そういう感覚があった。音がしているわけじゃない。でも、誰かがいる、という感覚がたしかにあった。一人暮らしを始めてから、あんな感覚は初めてだった。人の気配というのは、意識しなければわからないものだと思っていたけれど、意識しなくても感じるものなのだと知った。
それが今はない。
空気が違う。部屋の静けさが、いつもの静けさと少し違う気がした。いつもの静けさは、最初からそこにある静けさだ。誰もいなくて当たり前の、ただの静けさだ。でも今朝の静けさは、何かがなくなった後の静けさだ。そういう違いがある気がした。気のせいかもしれないけれど。
起き上がって、部屋を見回す。
布団が、きれいに畳まれている。
昨日白河さんが敷いた布団が、押し入れに戻されることなく、でもきちんと畳まれて、部屋の隅に置かれている。畳み方が丁寧だった。端がきっちりそろっていて、まるで旅館の布団みたいだ。四隅が直角になっている。こんなに丁寧に畳まれた布団を、僕はあまり見たことがない。実家にいたときも、こんなふうに畳んだ記憶はない。母親はもっとざっくりしていたし、僕はさらにざっくりだった。寝起きに自分の布団をあんなふうに畳める自信が、今の僕には到底ない。どうせ起きたらぐちゃぐちゃのまま放置する。それが僕の朝だ。ずっとそうだった。
白河さんは、もういなかった。
当たり前だと思う。朝に気づいたら帰っていた、というのは想定の範囲内だ。むしろ、起きたらまだいた、という方が驚く。泊まっていくと言ったって、いつまでもいるわけにはいかない。制服のまま泊まったのだから、着替えに帰る必要もある。朝の支度もある。学校がある。それはわかっている。わかっているのに。
なぜか部屋がいつもより広く感じた。
一人暮らしを始めてから何ヶ月も経つのに、今更この部屋の広さに気づいたみたいだった。六畳一間、台所付き。最初に内見したとき、一人で住むには十分だと思った。荷物も少ないし、友人が来るわけでもないし、広い必要がなかった。実際、十分だった。狭いと感じたことはなかった。
でも今朝は、広い。
同じ部屋のはずなのに、何かが足りないせいで広く見える。何が足りないのかはわかっている。でも、その答えをちゃんと言葉にするのが、なんとなく億劫だった。言葉にしてしまうと、何かが決まってしまう気がした。だから、ただ広いな、と思うだけにしておいた。
台所を見る。
昨日白河さんが立っていた場所に、今は誰もいない。当たり前だ。でも目がそこに向いてしまう。コンロの前。木べらを持って、鍋をかき混ぜていた場所。湯気が細く立ち上っていた場所。「おはようございます」と振り返らずに言った、あの場所。
今は誰もいない。コンロもきれいに拭かれている。鍋は洗われて、水切りかごに伏せてある。シンクに何も置かれていない。排水口のあたりまで、きちんと片付いていた。昨日まで散らかっていた台所が、別の家の台所みたいになっている。いつからこんなにきれいだったのかと錯覚しそうになるけれど、当然ながら昨日の朝までは全然こうじゃなかった。賞味期限切れのコンビニ弁当の容器とか、飲みかけのカップ麺の跡とか、そういうものがあちこちにあった。白河さんが来なければ、今もそのままだったはずだ。
ローテーブルの上に、何かが置いてある。
近づいて見ると、小さく折り畳まれた紙だった。ノートを破ったのか、白い罫線入りの紙だ。丁寧に四つ折りにされていて、表に「朝比奈くんへ」と書いてある。
筆圧が強い。字が整っている。癖がなくて、でも温度がある字だ。教科書みたいに整っているのに、どこかちゃんと人間の字だとわかる。機械が印刷した字じゃない。誰かが手で書いた字だとわかる。白河さんらしい、と思った。授業中の白河さんのノートを見たことはないけれど、たぶんこういう字で埋まっているんだろうと想像できる。几帳面で、丁寧で、無駄がなくて。
「朝比奈くんへ」という文字を、少しの間見ていた。
誰かに手紙を書いてもらったのは、いつ以来だろう。メッセージアプリじゃなくて、実際に紙に書かれた手紙。実家を出るとき、母親が餞別と一緒に手紙を入れてくれたのが最後かもしれない。あれは読んだのか読まなかったのか、今となってはよく覚えていない。
開く。
制服のまま泊まってしまったので、一旦帰ります。
朝食は食べられそうなものを用意したので、食べてから学校に来てください。
借りたTシャツも必ず新品をお返しします。
——白河雪乃
読んで、少しの間、そのまま紙を持ったまま立っていた。
「食べてから学校に来てください」。
声に出して読んでみた。自分の声が、静かな朝の部屋に吸い込まれていく。読んでみると、改めて不思議な一文だと思う。
おはようございます、でもない。お大事に、でもない。ゆっくり休んでください、でもない。学校に来てください、だ。来てほしい、ということだ。来ることを前提にしている。回復したら来てほしい、ではなくて、食べてから来てください、だ。食べれば来られる、という判断がそこにある。
心配しているのか、それとも単純に学級委員として出席を促しているのか。白河さんの無表情が思い浮かんで、どちらなのかわからなかった。でも、どちらでもいいか、とも思う。どちらにしろ、学校に来てほしい、ということだ。それはわかった。そしてなぜか、その一文が、朝の始まりとしてちょうどいい重さを持っていた。
「借りたTシャツも必ず新品をお返しします」。
そこまで書かなくていい、と思った。返さなくてもいい。新品じゃなくてもいい。そもそも返してもらうつもりもなかった。着古した白いTシャツで、特に思い入れもない服だ。あのまま持っていってくれても構わなかった。でも白河さんは律儀にそれを書いた。必ず、という言葉まで使って書いた。
必ず、か。
必ず、という言葉を使う人は、必ずやる人だと思う。そうじゃなければ必ず、とは書かない。少なくとも僕はそう思う。白河さんが必ず、と書いたのなら、白河さんは必ずやるつもりなのだろう。几帳面というか、真面目というか。言ったことを守ろうとする人なんだな、とわかる。やっぱり白河さんらしい、と思う。
手紙を折り直して、ローテーブルの端に置く。捨てられなかった。捨てる理由もないけれど、なんとなく、捨てたくなかった。
冷蔵庫を開けてみる。
ドアを開けた瞬間、思わず少し固まった。
昨日まではほぼ空だったはずの冷蔵庫に、いくつか食材が入っている。ラップをかけたお椀が一つ。中を見ると、昨日のお粥の残りのようだ。白河さんが作ったお粥だ。隣に、スポーツドリンクが二本。その横に、バナナが三本。バナナはまだ黄色くて、食べ頃の色をしている。冷蔵庫の扉の内側に、小さなメモが貼ってある。「電子レンジで温めて食べてください」と書いてある。
それも白河さんの字だった。
昨日眠っている間に、こんなことまでしていたのか。お粥を残して冷蔵庫に入れて、スポーツドリンクとバナナを買い足して、メモまで書いた。どのタイミングでやったのだろう。お粥を作り終えた後か、それとも僕が眠った後か。どちらにしろ、眠っている僕の横で、そういうことをしていたということだ。気配もなかった。全然気づかなかった。
冷蔵庫のドアをそっと閉める。
なぜか、乱暴に閉めたくなかった。
またローテーブルの前に座る。手紙をもう一度見る。「食べてから学校に来てください」。
行くか、どうするか。
熱はまだ完全には下がっていない。体温計で測ってみると、三十七度二分だった。微熱というやつだ。学校のルールでは、三十七度五分以上は出席停止だったと思う。だから、行けないことはない。でも万全かと言われれば万全じゃない。頭がぼんやりする感じが残っているし、長時間座っていると疲れそうだ。正直に言えば、もう一日休んでもよかった。体はそれを求めていた。
でも、白河さんが言っていた。学校に来てください、と。
それが決め手になったのかどうかは、自分でもよくわからなかった。ただ、お粥を温めようと立ち上がりながら、なんとなく今日は行こうと思っていた。白河さんの手紙を読んで、そう思った。それだけのことなのかもしれないし、それ以上の何かかもしれない。今は考えないことにした。
電子レンジにお椀を入れて、ラップをふわっとかけ直す。白河さんのメモ通りに温める。五百ワットで一分半。チンと鳴って、取り出す。お粥の匂いがする。昨日と同じ匂いだ。部屋の中に広がって、昨日の夕方を思い出させる。
ローテーブルの前に座って、お椀を両手で持つ。温かい。昨日と同じ温度だ。手のひらに熱が伝わってくる。
一口食べる。
やわらかくて、やさしい味だ。昨日と同じ味なのに、なぜか今日の方が少しだけ染みる気がした。
向かいに誰もいないからかもしれない。
ローテーブルの向こう側が、空いているからかもしれない。昨日はここに白河さんが座って、食べているのを確認するような目でこちらを見ていた。監視というより、見守っているような目だった。その視線の重さが、今日はない。向かいの空間が、ただの空間として存在している。昨日はそこに白河さんがいたのに。
その視線がないことに、なぜか気づいてしまった。
気づかなければよかった、と思う。気づいてしまったら、なくなったことがわかってしまうから。でも気づいてしまったものは仕方がない。
お粥を少しずつ食べながら、部屋を見回す。片付いている。昨日白河さんが掃除してくれた状態が、そのまま保たれている。当たり前だ。昨日から今朝にかけて、僕は何もしていない。ただ寝ていただけだ。でも、こんなに部屋が片付いている朝は、一人暮らしを始めてから初めてかもしれない。
食べ終わって、お椀を台所に持っていく。洗いながら、窓の外を見る。空が青い。雲が少ない。いい天気だ。十月の朝の空は、やけに高くてきれいだと思う。こういう空を、ちゃんと見たのはいつ以来だろう。毎日この窓から外は見えるはずなのに、空を見た記憶があまりない。昨日は一日中天井を見ていた。今日は空が見える。それだけで、少し違う気がした。
お椀を水切りかごに伏せる。白河さんが昨日伏せた鍋の隣に置く。白河さんの鍋と、僕のお椀が、並んでいる。なんとなく、その並びを少し見た。
着替えを出す。
制服を着ながら、ふと気づく。白河さんは今、どこにいるのだろう。昨日の制服を着て家に帰って、着替えて、それから学校へ向かう。それが今朝の白河さんのルートだ。学校から逆方向の僕の部屋まで来て、泊まって、朝食を用意して、手紙を書いて帰った。それからまた学校へ向かっている。
改めて計算してみると、なかなかすごいことをしている。
昨日の授業終わりから換算すると、学校からここまで三十分以上歩いて、部屋で数時間過ごして、泊まって、朝に帰って、着替えて、また学校へ向かう。往復で一時間以上。しかも病人の世話をしながら。体力的にも、時間的にも、かなりのことをしている。
なんでそこまでするのか、という疑問が、朝の静かな空気の中でもう一度浮かんでくる。
プリントを届けに来て、掃除をして、お粥を作って、泊まっていって、朝食まで用意して、メモを書いて、手紙まで書いた。そのどれもが、当然やるべきこととしてやっているように見えた。ためらいがなかった。迷いがなかった。後悔している様子もなかった。
それが、ほぼ話したことのない、クラスメイトの男子の家での話だ。
どう考えても、普通じゃない。
でも、白河さんは普通じゃないことをしている自覚があるのかどうかも、わからなかった。あの無表情からは、何も読み取れない。感情があるのかないのかも、正直わからない。ただ当然のようにやって、当然のように帰っていった。「そうすべきだからそうした」という動き方だった。
理由を聞けばよかった。なぜここまでするのか、直接聞けばよかった。でも、昨日も思ったけれど、聞いてしまったら何かが終わる気がした。理由を聞いて、答えをもらってしまったら、それで完結してしまう。まだ完結させたくない、という気持ちが、どこかにある気がした。
なぜそう思うのかは、自分でもわからない。
鞄を持って、玄関へ向かう。靴を履きながら、ローテーブルの上の手紙をもう一度見る。「食べてから学校に来てください」。
食べた。だから行く。
それだけのことなのに、なんとなく約束を守った気分だった。誰かと約束して、それを守って学校へ行く、というのは、なんだか久しぶりな気がした。一人暮らしを始めてから、誰かと何かを約束したことがあっただろうか。考えてみると、あまり思い浮かばない。
ドアを開けて、廊下に出る。鍵をかける。ドアが閉まる音がする。
昨日、この廊下に白河さんが立っていた。
プリントを持って、まっすぐ前を向いて。制服姿で、髪が整っていて、薄暗い蛍光灯の下でも妙に存在感があった。あの場所に、今は誰もいない。廊下はいつも通り静かで、となりの部屋からかすかにテレビの音がするだけだ。
階段を降りながら、なんとなくその場所を一度振り返った。
誰もいない。当たり前だ。
◆
学校に着いたのは、ホームルームの十分前だった。
昇降口で靴を履き替えながら、体の具合を確認する。歩けている。頭もそこそこ動いている。微熱があるせいか、少しぼんやりした感じはあるけれど、致命的ではない。授業を聞くくらいはできるだろう。廊下を歩いていると、昨日寝たきりだったせいか、足が少し重い。筋肉が落ちた気がする。たった一日でそんなに変わるものでもないけれど、体感としてはそう感じる。
廊下を歩いて、教室に向かう。
教室の引き戸を開けると、少しざわざわした空気が流れてくる。朝のホームルーム前の時間特有の、まだ完全に起きていないような、でも徐々に動き始めているような空気だ。何人かがこちらを見た。昨日休んでいたから、少し目立つのかもしれない。「大丈夫?」と声をかけてくれたクラスメイトが一人いた。名前はたしか田中だったか、中田だったか。まだ全員の名前を覚えきれていない。高校に入ってまだ数ヶ月で、僕は人の名前を覚えるのが得意じゃない。顔は覚えていても、名前が出てこないことが多い。
「ありがとう、だいぶ良くなった」
そう返して、自分の席に座る。
鞄を机の横にかけながら、自然と視線が動いた。
白河さんの席を、探していた。
意識してそうしたわけじゃない。気づいたら探していた。視線が勝手にその方向へ向かっていた。窓際の前から三番目。白河さんはすでに座っていた。背筋が伸びていて、教科書を開いて、静かに下を向いている。周りのざわざわした空気の中で、一人だけ別の時間に存在しているみたいだった。
隣の席の子が何か話しかけているのが見えたけれど、白河さんは短く返事をして、また教科書に目を落としていた。話しかけた子がどんな顔をしたかまでは、遠くてわからなかった。拒絶されているわけじゃないはずだ。白河さんはちゃんと答えていた。ただ、それ以上を引き出す隙がない。そういう空気がある。
昨日と何も変わらない白河さんだ。
制服もきちんとしている。髪も整っている。家に帰って着替えてきたのだから当たり前なのだけど、昨日エプロンをつけて僕の部屋の台所に立っていた人と同一人物とは、やっぱり思えない。
台所に立って、木べらを持って、鍋をかき混ぜていた人。振り返りもせずに「寝ていてください」と言った人。電気を消して「おやすみなさい」と言った人。朝早く起きて、朝食を用意して、手紙を書いて、布団を畳んで帰った人。
それが、窓際の前から三番目に座って、教科書を開いている白河さんと、同じ人だ。
どうしても、うまくつながらない。
昨日、同じ部屋で眠っていたとは思えない。
視線を感じたのか、白河さんが顔を上げた。こちらと目が合う。
一秒。
白河さんはすぐに視線を教科書に戻した。表情は変わらなかった。何かを言うわけでも、頷くわけでも、微笑むわけでもない。ただ、目が合って、それだけだった。
でも、それだけで十分な気がした。なぜかはわからない。
来た、ということが伝わった。伝わったかどうかも、本当はわからないけれど、なんとなくそう感じた。手紙に「学校に来てください」と書いた人が、こちらを一瞬見て、また目を逸らした。たったそれだけのことなのに、何かが完結したような気がした。食べて来い、と書いた。食べてきた。来い、と書いた。来た。それが、あの一秒の視線の中にあった気がする。
熱のせいで感覚がおかしくなっているのかもしれない。でも、そう感じた。
授業が始まる。
ノートを開きながら、手紙のことを思い出す。「食べてから学校に来てください」。学校に来たら白河さんに一言お礼を言おうと思っていたけれど、あの一秒でなんとなく言いそびれた。タイミングを逃した、というより、何を言えばいいのかわからなかった。おはようでもないし、昨日はありがとうでも何か違う気がするし、手紙読みましたというのも変だし。普通の挨拶ができない。昨日のことがある分、普通の挨拶をするのが難しい。
まあ、いいか、と思った。
休み時間に言えばいい。
一限目の授業が終わって、チャイムが鳴った。休み時間だ。白河さんの席を見る。白河さんは席を立たなかった。文庫本を取り出して読んでいた。どんな本かまでは遠くてわからない。表紙が見えない角度で持っている。
近づきがたい空気がある。
いや、いつもそうだ。白河さんの周りには、いつもそういう空気がある。誰も踏み込めないような、透明な壁みたいなものが。近くの席の子たちも、白河さんに話しかけていなかった。嫌われているわけじゃない。そういう空気じゃない。ただ、距離がある。みんなが自然と距離を置いている。白河さん自身は何もしていないのに、周りが勝手に距離を保つ。そういう人だ。
僕も、昨日まではそういう一人だった。
二限目が始まった。
先生の声を聞きながら、ノートにペンを走らせる。頭がぼんやりしているせいで、板書を写すのが精一杯だ。内容が頭に入ってくる感じがしない。文字を書いているけれど、意味として処理されていない。まあ、今日はそれでもいいか、と思う。来ただけで十分だ。来い、と書いてあった。来た。それで十分だ。
二限目の休み時間も、白河さんは席にいた。今度はノートに何かを書いていた。予習か、あるいは別の教科の宿題か。手が止まらない。集中している。ペンを持つ角度が、きれいだ。なんとなく目が向いてしまう。声をかけられる雰囲気じゃなかった。というより、声をかけるために席まで行く勇気が出なかった、という方が正確かもしれない。
結局、お礼は言えないまま午前の授業が終わった。
◆
昼休み、購買でパンを買って席に戻ると、机の上に何かが置いてあった。
一瞬、何かわからなかった。
小さな紙袋だ。白い、シンプルな紙袋。どこかのブランドのロゴとか、派手な装飾は一切ない。ただの白い紙袋が、僕の机の上に置いてある。誰かが置いていった。誰が置いていったのか、考えるまでもない。
中を覗くと、新品のTシャツが入っている。きれいに畳まれたまま、タグもついている。タグをめくってサイズを確認すると、昨日貸したものと同じサイズだった。色も似た感じの白だ。というか、昨日貸したのと全く同じ商品に見える。同じブランドの、同じ色の、同じサイズ。わざわざ同じものを選んで買ってきたのか、それともたまたまなのか。わざわざ同じものを選んだとすれば、かなり几帳面だ。でも白河さんならやりそうだ、と思う。
いつの間に。
周りを見回す。白河さんの席はすでに空だった。どこかへ行っているのか、それとも購買か食堂に寄っているのか。教室の中を見渡しても、白河さんの姿はない。いつ置いていったのだろう。授業が終わってから購買に行くまでの間、ほんの数分しかない。その数分の間に置いていったのか。あるいは、昼休みになる前から持っていて、机が空になった瞬間に置いていったのか。どちらにしろ、見ていなかった。気づかなかった。
手際がいい、というより、僕が気づかなすぎる。
紙袋の底に、また小さなメモが入っていた。
お返しします。
ありがとうございました。
——白河雪乃
「お返しします」。
朝の手紙で「必ず新品をお返しします」と書いていたから、本当に返してきた。しかも昼休みに。昨日の今日で、もう返してきた。
朝に家に帰って着替えて、その際に新品のTシャツを用意して、学校に持ってきて、昼休みに置いていった。その一連の流れを、一日かからずにやり遂げた。朝の手紙で「必ず」と書いて、その日のうちに果たした。言ったことは守る。書いたことは守る。それが白河さんという人なのかもしれない。
律儀すぎる、と思う。
でも、そういうところが白河さんなのかもしれない。完璧、という言葉がまた頭に浮かんで、今度はすぐに消えなかった。学校での白河さんは完璧だ。成績も、立ち居振る舞いも、言ったことを守ることも。全部が完璧だ。
でも、昨日僕の部屋にいた白河さんも、ある意味で完璧だった。掃除の仕方も、お粥の作り方も、布団の畳み方も。全部に無駄がなくて、全部がきれいだった。完璧という言葉が、学校の白河さんにも、部屋の白河さんにも、どちらにも当てはまる。
じゃあ、白河さんのどこが完璧じゃないのか。
そんなことを考えながら、Tシャツをしばらく見ていた。
新品だ。タグがついていて、折り目がついていて、誰も袖を通していない。わざわざ買いに行ったのか、それとも朝に帰った後すぐに用意したのか。どちらにしろ、昼休みに間に合わせてきたのだから、急いだはずだ。Tシャツ一枚のために、急いだ。
なぜそこまでするのか、という疑問がまた戻ってくる。
Tシャツ一枚を返すためだけに、こんなに急ぐ必要はない。明日でも、来週でも、別に構わない。というより、返さなくても構わない。あのTシャツに思い入れはなかったし、返してもらうつもりもなかった。でも白河さんはこのタイミングで返してきた。「必ず」という言葉を使って約束して、その日のうちに守ってきた。
わからない。
パンを食べながら、「ありがとうございました」というメモの字を見る。昨日の手紙と同じ字だ。筆圧が強くて、整っていて、でも温度がある。たった二行なのに、なぜかその字をしばらく見てしまった。
こっちがお礼を言いたいのに、先に言われてしまった。
しかも「ありがとうございました」だ。過去形だ。全部終わった、という言い方だ。昨日のことは昨日のこととして、きれいに完結させようとしているみたいだ。掃除も、お粥も、泊まったことも、朝食も、手紙も、Tシャツも、全部まとめて「ありがとうございました」で終わらせた。
もしかして、白河さんにとっては昨日の出来事はもうおしまい、ということなのだろうか。それとも、また来るつもりがある、ということなのだろうか。
「また来るつもりがある」という考えが浮かんで、それが思ったより自然に浮かんだことに、少し驚いた。また来る、という可能性を、なぜか普通のこととして思い浮かべていた。来ないかもしれない、という可能性の方が現実的なはずなのに。
白河さんが教室に戻ってきたのは、昼休みが終わる五分前だった。
制服姿で、荷物を持って、いつも通りの無表情で席に座る。こちらを見ない。気づいていないのか、気づいていて見ないのか、わからない。でも、僕の机の上に紙袋があることは見えているはずだ。自分が置いていった紙袋が、まだそこにある。見えているのに、何も言わない。何もなかったみたいに、さっさと席についている。
荷物を机の上に出しながら、次の授業の準備をしている。その動作が淡々としている。紙袋を置いていったことが、白河さんにとってはそれほど大きな出来事ではないのかもしれない。言ったことを守った。ただそれだけ。やるべきことをやった。それだけのことかもしれない。
声をかけようとして、やめた。
何を言えばいいのか、うまくまとまらなかった。お礼を言いたいのに、何に対してお礼を言えばいいのかが多すぎて、言葉が出てこない。昨日の「全部」と同じだ。全部に対してのお礼は、全部、という一言にしかならない。でも、昼休みが終わる五分前に「全部ありがとう」と言いに行くのも、なんかおかしい。タイミングが違う。それに、あの無表情に向かって「全部ありがとう」と言いに行く勇気が、今の僕にはなかった、というのもある。
チャイムが鳴って、午後の授業が始まる。
先生が教室に入ってくる。ノートを開く。ペンを持つ。
窓際の前から三番目の席を、一瞬だけ見る。
白河さんは黒板を見ている。背筋が伸びていて、ペンを持って、ノートに何かを書いている。昨日と何も変わらない。学校での白河さんは、いつもそうだ。完璧で、静かで、誰も踏み込めない場所にいる。周りの誰も、昨日白河さんがどこにいたか知らない。昨日白河さんが何をしていたか知らない。
でも僕だけが知っている。
あの白河さんが、昨日、僕の部屋でお粥を作っていたことを。
エプロンをつけて、木べらを持って、振り返りもせずに「寝ていてください」と言っていたことを。
眠っている間に、冷蔵庫にバナナとスポーツドリンクを入れて、メモを書いていたことを。
布団を丁寧に畳んで、手紙を書いて、静かに帰っていったことを。
「おやすみなさい、朝比奈くん」と言って、電気を消してくれたことを。
その全部を、僕だけが知っている。
それがなんだか少しだけ、くすぐったい気がした。
机の横にかけた鞄の中に、畳まれた手紙が入っている。「食べてから学校に来てください」と書いてあった手紙が。捨てなかった。なんとなく、捨てられなかった。
そういえば、お礼をまだ言えていない。
放課後、言えるだろうか。言えたとして、何を言えばいいのだろう。全部ありがとう、では足りない気がする。でも、全部、以外の言葉が見つからない。
授業の板書を写しながら、そんなことを考えていた。
先生の声が遠い。ペンを動かしながら、なぜか昨日の台所の音を思い出していた。
鍋がことことと鳴っている音。木べらが縁に当たる音。水音がして、また静かになる音。
誰かが、僕のために料理をしていた音。
窓の外の空が、相変わらず青い。




