御粥
初めまして、あるいはよろしくお願いします。
この作品は、学園一の天使様と呼ばれる女の子が、地味な男子の部屋に入り浸る話です。
恋愛というより、まず「なぜ彼女はここにいるのか」という謎から始まります。
甘々・じれったい・ハッピーエンド確定です。
ゆっくり読んでいただけると嬉しいです。
熱が出たのは、おそらく賞味期限切れのコンビニ弁当を食べた数時間後の夜のことだ。
最初はただ喉が腫れて痛いだけだと思って、そのまま無視して寝たのが運の尽きだったのかもしれない。風邪くらいで大げさに騒ぐ性格でもないし、そもそも病院に行くような気力も体力も、一人暮らしの高校一年生には備わっていなかった。自分の体の不調に鈍感なのは昔からで、母親によく「あなたは壊れるまで気づかない」と言われていた。今になって、その言葉の意味が少しわかる気がする。
数時間も眠れずに夜中に目を覚ますと、やけに天井との距離が近いし、目の前がぐらつく。視界が揺れているのか、自分が揺れているのかも判別できない。体が自分のものじゃないみたいだ。腕を持ち上げようとしても、鉛でできた義手を動かしているような感覚がある。
体を起こそうにも全身が鉛のように重くて動かない。腕一本持ち上げるだけで、信じられないほどの体力を消費する気がした。
ぎりぎり寝たきりのまま手元のゼリー飲料を口に含んで、飲んだか飲んでないかもわからないまま、そのまま意識を手放す。
そして、再び悪夢から飛び起きるように重い体で目が覚めると、すでに朝になっている。カーテンの隙間から白い光が細く差し込んでいて、それが朝だと教えてくれる。体はまだ重い。頭の中に霧がかかったみたいで、まともに考えることができない。昨日のことを思い返そうとするけれど、断片しか出てこない。コンビニ弁当の匂い。喉の痛み。天井。それだけだ。
今まで熱でぶっ倒れて学校を休んだことはあるけれど、ここまでひどいのは経験したことがない。体の節々が痛いし、目を開けているだけで光が刺さるように感じる。
何をしたらいいのかわからない。
そもそも、考える時間も脳もない。
とりあえずスマホを手に取って学校に欠席の連絡を入れる。画面を見ているだけで目が痛い。文字を打つのも億劫で、最低限の言葉だけ打って送る。送信ボタンを押して、そのままベッドに倒れ込む。
食欲はまったくない。体が何かを求めている感じもしない。ただ、口の中が乾いている気がして、なんとなく冷蔵庫の方へ目を向ける。当然、立ち上がる気力はない。昨日の夜、ベッドの横に置いておいた賞味期限ぎりぎりのゼリー飲料が一本だけ残っている。
それを少しずつ口に運びながら、ぐったりと仰向けになって天井を眺める。朝から何もしていない。何もできない。何もしなくていい。それだけが、今の僕にとって唯一の救いだった。
天井には何もない。何もないのに、他に見るものもない。
そうやって一日が過ぎていく。光の色が白から黄色に変わって、それからオレンジ色になる。時間が経っているのはわかるけれど、体はちっとも楽にならない。むしろ夕方になるにつれて、熱が上がっている気がする。解熱剤を飲もうとしたけれど、台所まで歩く気力が出なかった。コンビニに行けばよかったとか、もう少し早く寝ればよかったとか、後悔らしきものが頭の端をかすめるけれど、それを考え続けるエネルギーもない。
カーテンの隙間から差し込む光がオレンジ色に変わった頃、夕方の五時を過ぎたあたりで、チャイムが鳴る。
動きたくない。体が重すぎる。
宅配の予定もないし、こんな時間に訪ねてくる人間に心当たりもない。一人暮らしを始めて数ヶ月、この部屋に誰かが来たことは一度もなかった。友人と呼べる存在もまだいないし、親は遠方だ。緊急連絡先に書いた母親の顔を思い浮かべるけれど、わざわざ連絡するほどのことでもないと思って、やめた。
居留守を使おうと、そのまま仰向けのままじっとしている。息を殺して、天井を見つめる。聞こえないふりをするのは得意だ。
しばらくして、声が聞こえる。
「朝比奈くん」
女性の声だ。
おかしいと思う。こんな時間に、女性が来ることなどない。宅配でもない。知り合いでもないはずだ。この部屋の住所を知っている女性など、思い浮かばない。そもそも、この部屋の住所を知っている人間が、家族以外にいるのかどうかも怪しい。
それなのに、ドア越しにはっきりと僕の名前を呼んでいる。
ふと、思う。
朝比奈くん。そう僕を呼ぶのは、今の学校では——たった一人しかいない。
確信を得る。それなのに体は動かない。動かしたくない。熱のある体に鞭を打つ理由が、今の僕には見当たらない。第一、クラス委員がわざわざ欠席した生徒の家まで来るだろうか。プリントを届けに来るだけなら、ポストに入れて帰ればいい。それなのに名前を呼んでいるということは、何か用があるということだ。
でも、結局、重すぎる体をゆっくりと起こして、壁に手をつきながらふらふらと玄関まで歩く。一歩ごとに頭が揺れる感覚がある。廊下が思ったより遠い。自分の部屋がこんなに広かったのかと、少し驚く。
ドアスコープを覗く。
制服姿の女子が、プリントを数枚持って、まっすぐ前を向いて立っている。
白河さんだ、とわかる。熱のせいで頭が働かないのに、それだけははっきりわかった。
鍵を回す。指先に力が入らなくて、少し手間取る。それでも何とか回して、ドアを開ける。
「……朝比奈くん。体調のほどはいかがですか? 今日配られたプリントを持ってきました」
白河さんはドアが開いた瞬間にそう言った。表情は変わらない。プリントをこちらに差し出して、受け取るのを静かに待っている。
体調のほどはいかがですか。
その言葉を、熱っぽい頭の中でゆっくり繰り返す。丁寧すぎる言い方だと思った。まるで教科書から抜き出してきたみたいな、妙に整った言葉だ。普通なら「大丈夫?」とか「具合どう?」とか、そういう言い方をする。それなのに白河さんは「体調のほどはいかがですか」と言った。
なぜそんな言い方をしたのか、今の頭では考えられない。ただ、その言葉の輪郭だけが、熱っぽい意識の中に妙にくっきりと残った。
プリントを受け取る。四枚ある。数学と英語と、あとは学校からのお知らせが二枚。紙の感触だけがやけにはっきりしている。
受け取りながら、改めて白河さんを見る。
——白河雪乃。
暗めの茶色いストレートの髪が、肩よりも少し下まで伸びている。
ライトブラウンの瞳は、感情を映さないくらい静かだ。
小柄で華奢なのに、なぜか近づきがたい。顔立ちは整っていて、凛としているというか、隙がないというか——そういう顔だ。
成績も運動も学年トップクラスで、誰に対しても丁寧で、笑顔も完璧で、学園一の天使様と陰で呼ばれているのも頷ける。
ただ、完璧すぎるせいで、誰も本当の意味では近づけていない気がした。
少なくとも、僕はそう思っていた。
乱れた様子は一切なく、長い髪もきちんと整っていて、廊下の薄暗い蛍光灯の下でも妙に存在感がある。どう考えても、この場所に似合わない人物だった。
顔を見られている気がして、なんとなく居心地が悪い。熱で顔が赤くなっているのは自分でもわかっているし、頭も髪もひどい有様だろうと思う。朝から何もしていないし、着替えもしていない。こんな姿を、よりによって白河さんに見られている。
視線を逸らす。
「……プリント、届けに来てくれてありがとう」
顔を逸らしたまま言う。お礼を言うのが精一杯だった。これだけ言えれば十分だろうと思う。あとは白河さんが帰って、僕がベッドに戻る。それだけだ。
白河さんは黙っている。
返事が来ない。
どういたしまして、と返ってくるはずだった。それで終わりのはずだった。でも、何も聞こえない。どうしたのかと思ってそちらを向く——白河さんの視線は最初から僕の顔ではなく、ドアの向こうの部屋をまじまじと見ている。
僕を見ていたわけじゃなかった。
つられて振り返ると、コンビニのレジ袋が三つ、床に直に置かれたままになっている。教科書が何冊か、開きっぱなしで重なっている。飲みかけのペットボトルが二本、どちらも蓋が開いたままだった。脱ぎっぱなしの靴下が、なぜかソファの上にある。部屋の隅には、まだ捨てていないコンビニの割り箸が数本転がっていた。
我ながら、なかなかひどい有様だ。
普段から特別きれいにしているわけじゃないけれど、二日間寝たきりだと輪をかけてひどくなる。言い訳を探そうとしたけれど、どう見てもひどいものはひどい。
「朝比奈くん」
「うん」
「ご飯、食べれてますか」
コンビニの袋を見れば、答えはわかると思うけれど。それでも聞いてくるのは、確認したいからなのか、それとも別の何かがあるのか。熱っぽい頭ではうまく考えられない。
「……食べてる」
「コンビニ弁当だけですか?」
「……はい」
「今日は?」
一瞬、答えに詰まる。今日は、と言われると、正直に言いにくい。
「……ゼリー飲料、一本」
言ってから、少し後悔した。それを聞いた白河さんがどんな顔をするのか、見たくなかった。でも、嘘をつく理由もなかった。
白河さんはしばらく黙る。何かを言いそうで、言わない。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ、何かを考えているような間だ。部屋の中を見回して、冷蔵庫のある台所へ視線を向けて、また戻ってくる。その一連の動作が、妙に落ち着いていた。
それから、小さく息をつく。
「……入ってもいいですか」
「え」
「入ってもいいですか」
繰り返す。全く同じ声のトーンで、全く同じ無表情で。まるで「ペンを貸してもいいですか」と聞くみたいに、あまりにも自然な声だ。拒否することを想定していないような、そういう聞き方だった。
断る理由が、特にない。体が重くて、頭が痛くて、何かを考えるのが億劫だった。入ってどうするつもりなのかも聞けなかった。聞くだけの余力がなかった。
「……どうぞ」
白河さんは靴を揃えて脱いで、部屋に入ってくる。ためらいがない。まるで何度も来たことがある場所みたいに、落ち着いた足取りで部屋の中に入って、そのままコンビニのレジ袋を一つ手に取る。中を確認して、静かに言う。
「捨てていいですか、これ」
「いいけど」
「ゴミ袋はどこですか」
「台所の下」
白河さんは台所へ向かって、引き戸を開けて、ゴミ袋を一枚取り出す。広げて、口をしっかり持って、部屋の中を歩き始める。レジ袋、ペットボトル、割り箸、脱ぎっぱなしの靴下。一つひとつ確認しながら、黙々と集めていく。迷いがない。どれを捨てるべきか、瞬時に判断しているように見えた。
気づいたら、白河さんは掃除を始めている。
プリントを届けに来ただけのはずの白河さんが、僕の部屋でゴミを集めている。
止めるべきかとも思うけれど、止める言葉が出てこない。申し訳ないとも思うけれど、体がそれを表現するほど動かない。ありがとうと言うには、まだ何も終わっていない。せめて何か言えればよかったけれど、何も言えないまま、僕はただそこに突っ立っていた。
白河さんが一瞬こちらを見る。
「座っていてください」
熱でふらついたまま玄関の前に立っている僕を見て、そう言った。
言われるままにベッドに腰を下ろして、その背中を眺める。
白河さんは静かだ。何かを言うわけでもなく、ため息をつくわけでもなく、ただ黙って動いている。学校では誰に対しても丁寧に言葉を選んでいる印象があるのに、今は一言も話さない。それでも、不思議と圧迫感がない。むしろ、この静けさの中にいると、少しだけ楽になる気がした。
その静けさが、不思議と不快じゃない。
なぜ白河さんがこんなことをしているのか、やっぱりわからない。プリントを届けに来ただけのはずだ。それなのに部屋の中に入って、ゴミを集めている。理由を聞けばよかったけれど、聞くタイミングがわからなかった。というより、聞いていいのかどうかも、わからなかった。
◆
片付けが終わった頃には、部屋の中が別の場所みたいになっている。
大げさではなく、本当にそう思う。床に散らばっていたものが消えて、教科書が一か所にまとめられて、ペットボトルがきちんと捨てられている。所要時間は、たぶん十五分もかかっていない。白河さんは無駄な動きが少ない。どこに何を置くか、迷う素振りがない。片付けに慣れているというより、物事を処理する順番が最初から頭の中にあるような、そういう動き方だった。完璧、という言葉が頭に浮かんで、すぐに消えた。学校でもそうだけど、白河さんのやることには無駄がない。
「朝比奈くん」
片付けを終えた白河さんが、また振り返る。さっきと同じ無表情だ。疲れた様子もなければ、達成感があるような様子もない。ただそこにいる、という顔だ。でも、なぜかその顔が、さっきより少しだけ近い気がした。部屋が片付いたせいで、距離感が変わったのかもしれない。
「なに」
「冷蔵庫、見てもいいですか」
「……どうぞ」
白河さんは台所へ向かって、冷蔵庫を開ける。中を確認して、三秒ほど黙る。おそらく中身はほぼない。昨日食べたコンビニ弁当の残骸と、使いかけの調味料が少しあるだけのはずだ。それから静かに扉を閉める。閉め方も丁寧だった。
「ほぼ空ですね」
「うん」
「買い物、行けてないですか」
「熱あるから」
「そうですね」
責める感じは一切なかった。ただ、状況を確認しているだけ、という言い方だった。それがかえって、何かを指摘されるよりずっと堪えた。
白河さんはしばらく台所に立ったまま、何かを考えているようだ。腕を組むでもなく、ぼんやりするでもなく、ただ静かにそこに立っている。表情からは何も読み取れない。でも、何かを決めようとしているような、そういう空気がある。その空気が、妙に落ち着いていた。焦っていない。迷っているわけでもない。ただ、考えている。
「……少し待っていてください」
そう言って、白河さんはカバンを手に取る。慣れた動作でカバンを肩にかけて、玄関へ向かう。
「え、どこ行くの」
「すぐ戻ります」
それだけ言って、玄関へ向かう。靴を履いて、ドアを開けて、振り返らずに出ていく。廊下に出た足音が遠ざかっていって、やがて聞こえなくなる。
部屋に一人残される。
静かだ。さっきまで白河さんがいた台所の方向を、なんとなく見る。ゴミ袋がきれいにまとめられて、台所の隅に置かれている。冷蔵庫の前に立っていた場所に、もう誰もいない。当たり前のことなのに、妙に広く感じる。それまで気にならなかったのに、一人になった途端に、この部屋がやけに広いことに気づく。
すぐ戻ります、と言っていた。
その言葉を、頭の中で繰り返す。戻ってくるということは、また来るということだ。どこに行ったのかはわからない。コンビニか、それとも別の場所か。でも「すぐ」と言った。だから、そう遠くには行っていないはずだ。
なぜそこまで考えているのか、自分でもわからなかった。
そもそも、なぜ白河さんはここまでするのか。
プリントを届けに来た。それはわかる。クラス委員だから、という理由もわかる。でも、部屋に入って掃除をして、冷蔵庫を確認して、どこかへ買い物に行って、また戻ってくる——それはクラス委員の仕事じゃない。どう考えても、そうじゃない。
じゃあ、なぜ。
答えが出ないまま、ベッドに横になって、天井を見上げる。熱はまだ下がっていない。頭が重い。でも、さっきよりは少しだけ、頭の中がはっきりしている気がする。部屋が片付いたせいかもしれない。空気が変わった気がする。
考えようとするけれど、熱のせいで思考がまとまらない。ぼんやりと白河さんのことを思い浮かべているうちに、意識が少し遠くなっていく。
◆
目が覚めたのは、台所から音がしたからだ。
小さな音だ。何かが鍋に触れるような、水が流れるような。規則的で、穏やかな音だ。最初は夢の中の音だと思っていたけれど、だんだんはっきりしてきて、目を開ける。
頭はまだ重い。でも、さっきよりは少し楽な気がする。どれくらい眠っていたのかはわからない。カーテンの隙間からの光が、さっきより暗くなっている。外はもう夕暮れを過ぎているのかもしれない。
台所を見る。
白河さんが、コンロの前に立っている。
戻ってきていた。
いつの間に戻ってきたのか、気づかなかった。ローテーブルの上に、白河さんのスマホが画面を伏せて置いてある。それがいつからそこにあったのか、わからない。眠っている間に戻ってきて、何かをして、今は鍋の前に立っている。その間のことを、僕は何も知らない。
白いシンプルなエプロンを、制服の上から着けている。どこから持ってきたのかはわからないけれど、よく似合っていた。制服にエプロンという、普通に考えればちぐはぐな組み合わせなのに、白河さんが着けると不思議と違和感がない。
鍋に向かって、木べらでゆっくりかき混ぜている。湯気が細く立ちのぼっていた。部屋の中に、かすかに何かの匂いがする。食べ物の匂いだ。この部屋でそういう匂いがするのは、初めてかもしれない。
「……おはようございます」
こちらが目を開けたことに気づいたのか、白河さんが振り返らずに言う。視線は鍋に向いたままだ。それでも気づくのは、何度もこちらを確認していたからなのかもしれない、と思う。それとも、物音がしたから気づいたのか。どちらにしろ、白河さんは振り返らない。
「……おはよう」
我ながら間抜けな返事だと思う。おはよう、じゃない。夕方だ。でも、白河さんがおはようございますと言ったから、おはようと返してしまった。
「少し眠れましたか」
「うん。……何作ってるの」
「お粥です」
胃のあたりが反応する。ゼリー飲料一本しか口にしていなかったせいか、急に空腹を意識する。体が何かを求めているのを、今日初めて感じた。
「……材料、どこで」
「近くのコンビニで買ってきました。米と、梅干しと、卵と」
「それで作れるの」
「作れます」
迷いなく言う。疑問を持つ余地もない、という声だ。
起き上がろうとしたら、
「寝ていてください」
振り返りもせずに言われる。どこに目がついているのだろう、と思う。背中越しに、こちらの動きがわかるのだろうか。
「……でも」
「熱があるんでしょう。寝ていてください」
有無を言わせない、という感じではない。ただ、当然そうすべきだという声だ。なぜか逆らえなくて、また横になる。逆らう体力もなかった、というのもあるけれど。
天井を見上げながら、台所の音を聞く。鍋がことことと鳴っている。木べらが時々縁に当たる。水音がして、また静かになる。規則正しい音だ。
こういう音を、この部屋で聞いたことがない。
一人暮らしを始めてから、台所から聞こえてくる音といえば、電子レンジの回転音か、コンビニのレジ袋が擦れる音くらいだった。誰かがそこに立って、何かを作っている音じゃない。
誰かが、僕のために料理をしている音だ。
不思議と、嫌じゃない。むしろ、それを聞いているうちに、少しだけ体の力が抜けていく気がする。肩の力が抜けて、ベッドに沈んでいく感覚がある。眠ってしまいそうになる。でも、眠らなかった。眠りたくなかった。この音を聞いていたかった。
◆
「できました」
白河さんがそう言うのは、それから十分ほど経った頃だ。コンロの火が消えて、鍋の音がなくなって、代わりに食器が動く音がする。
小さな盆に、白いお椀が一つ。梅干しが一粒、中央に乗っている。湯気が静かに立ち上っている。シンプルだけど、それがかえって丁寧に見えた。お椀の置き方も、スプーンの並べ方も、何気ない動作なのに、一つひとつがきれいだった。
白河さんはそれをローテーブルの上に置いて、隣にスプーンを並べる。
「食べられそうですか」
「うん」
ゆっくり起き上がって、ローテーブルの前に座る。お椀を両手で持つと、温かい。その温かさが手のひらから伝わってきて、思ったより気持ちよかった。熱があるのに、温かいものが心地よく感じる。
一口、食べる。
薄味で、やさしい味だ。胃に染みるような、そういう味だ。コンビニのお粥とは何かが違う。同じような材料のはずなのに、何が違うのかはわからない。
「……おいしい」
思わず口に出る。感想を言うつもりはなかったけれど、出てきてしまった。言ってから少し恥ずかしくなったけれど、本当のことだった。
白河さんは何も言わない。でも、ローテーブルの向かいに静かに腰を下ろして、こちらを見ている。食べているのを確認しているような、そういう目だ。監視というより、見守っているような、そういう目だった。その視線が、不思議と重くなかった。
「食べないの?」
「私はいいです」
「帰りに何か食べる?」
「……考えます」
考えます、という言い方が少し妙だと思う。白河さんの返事には時々、こういう少しだけ不思議な間がある。
お粥を少しずつ食べながら、部屋を見回す。さっきより片付いている。白河さんが戻ってきてから、また何か整えてくれたのかもしれない。当たり前のように、自然に。僕が眠っている間に。
「……ありがとう」
お椀を持ったまま言う。全部に対してのお礼だから、何に対してかを言葉にするのが難しかった。掃除のことも、お粥のことも、ここにいてくれたことも、全部まとめてそう言うしかなかった。
「何が」
「全部」
白河さんはしばらく黙る。視線がこちらに向いているのか、どこか別のところに向いているのか、判断がつかない。テーブルの木目を見ているような、でもそこじゃないような、曖昧な目だ。
それから少し間を置いて、
「食べ終わったら、すぐ横になってください」
それだけ言って、また視線を外す。それ以上は、何も言わない。
それでよかった、と思う。何か言われても、どう返せばいいかわからなかった。それに——白河さんがなぜここまでしてくれるのか、その理由を聞いてしまったら、何かが終わる気がした。理由を聞かない方がいい、と思った。なぜそう思ったのかは、自分でもわからなかった。
◆
お粥を食べ終わって、お椀をテーブルに置いた頃には、窓の外はすっかり暗くなっている。部屋の中の電気だけが、オレンジ色に光っている。
白河さんが食器を引き取ろうと手を伸ばすのを見て、ふと思う。
今、何時だろう。
スマホを確認すると、二十時を少し過ぎている。学校からここまで歩いて三十分以上、そこからずっとここにいるとなると、帰りも同じだけかかる。往復で一時間以上だ。しかも夜道を一人で歩くことになる。
しかも最近、このあたりは物騒だという話を聞いた。具体的に何があったかまでは覚えていないけれど、物騒だという印象だけが頭に残っている。昼間ならともかく、夜の一人歩きは、男でも少し気になる。
白河さんは小柄だ。華奢だ。夜道を一人で三十分以上歩かせるのは、さすがに気になった。
「……白河さん」
「なんですか」
台所で食器を洗いながら、白河さんが返す。水の音が止まらないまま、振り返りもしない。
「帰り、一人で大丈夫? 最近ここら辺、物騒だって聞くし、もう時間も遅いから」
少し間を置いてから、続ける。言いながら、自分でも少し驚く。こんなことを言うつもりはなかった。ほぼ話したこともないクラスメイトに、こういうことを言うのは越権行為かもしれない。でも、言ってしまった。
「……一応、部屋もう一つあるし、布団もある。泊まっていけば」
台所から音が止まる。蛇口が閉まって、水の音がなくなる。
白河さんが振り返らないまま、黙っている。
拒否されると思う。すぐに「結構です」と返ってくると思う。こんな提案を、ほぼ話したこともないクラスメイトの男子に言われて、受け入れる理由がない。自分で言っておきながら、少し無謀だったかもしれないと思い始める。いや、かなり無謀だったかもしれない。なぜこんなことを言ったのか、今更ながら考える。心配だったから、というのは本当だ。でも、それだけだったのかどうか、熱っぽい頭ではうまく考えられなかった。
でも、返事がこない。
十秒。三十秒。一分。
沈黙が続く。白河さんはまだ何も言わない。蛇口も閉めたままで、ただそこに立っている。背中越しに、何かを真剣に考えているのが伝わってくる。さっき台所で立っていたときと同じ空気だ。ただ、あのときより少し、時間がかかっている気がした。
十分ほど経った頃だと思う。体感としてはもっと長かった気がするけれど、実際にはそれくらいだろう。
白河さんがゆっくりと振り返る。無表情のまま、真っすぐこちらを見る。でも、さっきまでと少しだけ違う気がする。何かを決めた後の顔というか、一段階何かを乗り越えた後の、そういう顔だ。
「……実は、学校でも最近このあたりは危ないから外を出歩かないようにと言われていて」
一度、止まる。
白河さんの視線が、わずかに外れる。こちらを見ているんだけど、どこか別のものを見ているような、そういう目だ。視線の焦点が、少しだけぼやけている。何かと戦っているような、そういう間だった。それから一呼吸おいて、
「……反対を向いて寝ていただけるなら、泊まっていきます」
静かな声だ。条件をつけながらも、どこか観念したような、そういう言い方だった。言い終わった後、白河さんはすぐに視線を戻す。表情は変わらない。でも、耳の後ろがほんの少しだけ赤い気がした。熱のせいで僕の目がおかしくなっているのかもしれないけれど。
一瞬、頭が追いつかない。
自分から言ったくせに、いざ承諾されると心臓が妙な動き方をする。泊まっていけばと言ったのは僕で、白河さんは条件をつけてそれを受け入れただけで、別に何もおかしくないはずなのに。熱のせいで余計なことを考えてしまっているのかもしれない。でも、熱のせいじゃないかもしれない。どちらかはわからなかった。
「……わ、わかった。布団、出すね」
立ち上がろうとしたら、
「寝ていてください」
また言われる。今日何度目だろう、と思う。数えていなかったけれど、たぶん三回か四回は言われている。
「でも布団くらい——」
「場所だけ教えてもらえれば出します。あなたは寝ていてください」
有無を言わせない、ではない。ただ当然そうすべきだという声だ。今日何度も聞いた、あの声だ。逆らおうという気が起きない。
「……押し入れの中」
「わかりました」
白河さんは手を拭いて、迷いなく押し入れへ向かう。布団を一組引っ張り出して、慣れた手つきで広げていく。掛け布団を広げて、敷布団を整えて、枕を置く。一つひとつの動作が無駄なく、きれいだ。今日一日、白河さんの動きを何度も見てきたけれど、いつも同じだ。無駄がない。迷わない。
僕はベッドに横になって、その背中を眺める。今日だけで何度目だろう、と思う。白河さんの背中を眺めるのは、今日だけで何度目だろう。数えられないくらい見た気がするのに、見飽きない。
「できました」
白河さんが布団の端を整えながら言う。それからこちらを向いて、少し間を置いてから、
「……反対、向いてください」
小さな声だった。さっきより少しだけ、声のトーンが違う気がした。さっきまでの、当然そうすべきだという声じゃない。少しだけ違う、何かが混じっているような声だ。何かというのが何なのか、熱っぽい頭では特定できない。ただ、違う、とだけわかった。
「……わかった」
壁の方に向く。天井ではなく、壁を見る。壁には何もない。でも、背後に白河さんがいるのがわかる。気配、というやつだと思う。こんなに他人の気配を意識したのは、いつ以来だろうと思った。
しばらくして、布団に入る衣擦れの音がする。それから静かになる。
部屋が暗くなる。白河さんが電気を消したのだと気づく。オレンジ色の光が消えて、薄い暗闇になる。カーテンの隙間から、外の街灯の光が細く入ってくる。
「おやすみなさい、朝比奈くん」
「……おやすみ」
目を閉じる。
同じ部屋に、白河さんがいる。
それがどういうことなのか、熱っぽい頭ではうまく整理できない。でも、不思議と悪い気はしない。むしろ、さっきより少しだけ体が楽な気がする。お粥のせいかもしれない。部屋が片付いているせいかもしれない。それとも、誰かがそこにいるというだけの理由かもしれない。
どれが正解なのかは、わからない。
ただ、今夜だけは、一人じゃないと思う。
それだけで、十分だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
第1話は白河さんが初めて部屋に来る場面を書きました。
彼女がなぜここまでするのか、遥にはまだわかりません。読者の皆さんにはなんとなく伝わっているかもしれませんが、本人だけが気づいていない——そういう話です。
感想・評価をいただけると、続きを書く励みになります。
次話もよろしくお願いします。




