閑話【1】焼きたてクッキーの昔話
賢者はいつだって粗食だった。粗食を強いられていた、と言っても過言ではない。貴族の家に生まれたとしても、貴族の家に嫁いだとしても、まともな食事を取った記憶はあまりない。それでいいと思っていた。食べる物があるだけマシだ、と。
シアン・サルビアは恵まれていた。侯爵家の食事は、決して豪勢ではないが、ひと品ひと品が漏れなく絶品で、毎日、シアンに幸福感を与えてくれる。賢者にはもったいないと思えるほど、転生人生の中で最も豪華な食事だった。
シアンの口はなんでも美味しく感じられる。そのおかげで食事を楽しむことができるが、特に甘いものが好きのようだった。夕食後のデザートがいつも楽しみで、その楽しみが一日の締め括りとして至高であった。
ある日、シアンとブルーは珍しく時間が空いていた。何をしようかと廊下を歩いていたとき、何やら良い香りが漂って来た。その匂いに、ブルーが目を輝かせる。
「メイド長がお菓子を焼いてるんだわ! もらいに行きましょ」
「うん」
侯爵家のメイド長は、お菓子作りを趣味としていた。時折、厨房の一角を借りて使用人に振る舞うためにお菓子を作っているのだ。メイド長のお菓子はお茶の時間に出されることのない特別なお菓子で、シアンとブルーがもらいに行くのはよくあることだった。メイド長のお菓子は絶品なのだが、素人が趣味で作っている物で侯爵家に出せるほどの品質ではない、と言って遠慮しているのだ。それでも、サルビア家の子どもはメイド長のお菓子が逸品であることを知っていた。
厨房に顔を覗かせると、メイド長がオーブンの前でカトラリーを磨いている。肺いっぱいに甘い香りを吸い込むシアンとブルーに、メイド長は穏やかに微笑んだ。
「シアン様、ブルー様、ごきげんよう。もうすぐクッキーが焼き上がるところですよ」
「今日はクッキーなのね! あたし、メイド長のお菓子はクッキーが一番好きよ」
「まあ、ありがとうございます。わたくしも、一番に得意なのがクッキーなのです」
周囲にいた侍女たちがシアンとブルーに椅子を持って来る。メイド長の焼きたてのお菓子を食べることができるのは、時間が空くことのある子どもたちの特権だった。大人たちはこのあいだも忙しく仕事をしているだろう。
「ねえ、焼き上がるまで、またお話しして」
ブルーがそう言うと、メイド長はカトラリーを整理する手を止めて、そうですね、と優しく微笑んだ。
「では、今日は小さなお菓子屋さんのお話をしましょう」
シアンとブルーは、メイド長の焼きたてのお菓子を食べるのも好きだが、焼き上がるまでのあいだにメイド長が短い物語を語ってくれる時間も好きだった。このゆったりとした時間がまた、シアンに幸福を感じさせてくれるのだ。
+ + +
昔、ある小さな町に貧しい家がありました。その家の子どもは、隣町まで出稼ぎに行っていました。朝から晩まで忙しく働き、子どもが家に居られる時間はほとんどありませんでした。
それでも、たまの休みになると、母親が子どものためにクッキーを焼くのが習慣でした。
母親が焼くクッキーはとても美味しく、子どもはそれだけが楽しみでした。
ある日、子どもはそのクッキーを他の人にお裾分けしようと思いました。絶品のクッキーを楽しむのが自分だけであることが惜しいように感じたのです。
まずは、自分が働いている仕事先の人たちにお裾分けしました。すると、そのクッキーの美味しさが仕事先の人たちのあいだで忽ち噂になりました。そのクッキーを食べてみたいと、子どもに頼みに来る人が出て来るほどでした。
子どもはそれが嬉しくて、母親が焼いたクッキーを度々、仕事先に持って行くようになりました。子どもの家は貧しく、そう多く材料を用意することができません。子どもがクッキーを持って行くと、まるで取り合いのようになりました。
それからしばらくして、その噂が仕事先の偉い人の耳に入りました。子どもは、母親が趣味で焼いたクッキーだったので、偉い人たちに配るのは気が引けていたのです。それでも、偉い人たちの要望を聞き、子どもは彼らにもクッキーをお裾分けするようになりました。
偉い人たちはそのクッキーを甚く気に入りました。このクッキーは商品にすることができる。偉い人は、町でクッキーの屋台を出すよう子どもに勧めたのです。
子どもは自信がありませんでしたが、母親のクッキーの美味しさを他の人にも知ってほしいと思うようになりました。そこで、勇気を振り絞って町で小さな屋台を出すことにしました。
それは瞬く間に噂になり、屋台にたくさんのお客さんが集まりました。子どもが休みの日にだけ開く屋台でしたが、クッキーはあっという間に売り切れるようになったのです。
その屋台の売り上げで、子どもの家族は町に引っ越すことができました。母親は毎日、クッキーを焼き、毎日、屋台を開くようになりました。
クッキーは町中の噂になり、売り切れ必至の屋台となりました。
ある日、子どもの仕事先の偉い人が、町の空き家を使って店を開いてはどうか、と子どもに勧めました。そのクッキーの美味しさを知っていたため、支援してくれることになったのです。
子どもの母親は、町で小さなお菓子屋さんを開きました。最初はクッキー専門のお店でしたが、母親はクッキーの他にも作れるお菓子がありました。子どもは、そのお菓子も出してみたらどう、と母親に伝えました。
母親はまず、マドレーヌを新しい商品として出してみました。町の人たちは新しいもの好きですから、新しい商品が出たこともさっそく噂になり、お客さんがお店に殺到しました。
母親は嬉しくなって、次々に新しいお菓子を出すようになりました。いつの間にか、そのお店は町で屈指のお菓子屋さんになっていました。
ある日、子どもの仕事先の偉い人が、もっと大きいお店にしないか、とまた支援を持ちかけました。けれど、子どもはそれを断りました。子どもは母親のお菓子をたくさんの人に食べてもらうことも嬉しかったけれど、家族で一緒に過ごす時間のほうが大事だったのです。
やがて、彼らはお菓子屋の売り上げだけで暮らしていけるようになりました。子どももお店を手伝って、家族と過ごせる時間が増えたのです。
こうして、母親の趣味から始まったクッキーが、この家族を幸せにしたのでした。
+ + +
「おしまい」
絵本を読み終えたように、メイド長は優しく締める。シアンとブルーは思わず拍手を贈っていた。
「良いお話ですね」シアンは言った。「子どもが欲をかいて大きい店にしていたら、失敗していた可能性もありますからね」
「家族が幸せになってよかったわ」と、ブルー。「きっととても美味しいクッキーだったんでしょうね」
「そうですね。さあ、クッキーが焼き上がりましたよ」
キッチンミトンを手に嵌め、メイド長がオーブンを開く。途端に厨房中に甘い香りが広がり、食器の整理をしていた侍女たちや、夕食の仕込みをしていた料理人たちが集まって来た。メイド長のクッキーは、いつも取り合いになるのだ。それでも、最初はシアンとブルーが一枚ずつ手に取る。それが子どもの特権だ。
「んー、美味しい!」ブルーが顔を綻ばせる。「こんなに美味しいのに、あたしたちと使用人にしか出さないなんてもったいないわ」
「わたくしが趣味で焼いているものですから」
メイド長は嬉しそうに微笑む。侍女や料理人たちもクッキーを頬張り、幸せなひと時を堪能した。
「お茶の時間に出してみたらどうですか?」シアンは言った。「きっと兄様たちもお気に召しますよ」
「どうでしょう」と、メイド長。「シアン様とブルー様が喜んでくだされば、わたくしはそれだけで充分ですわ」
「もったいない」ブルーが唇を尖らせる。「こんなに美味しいのに」
「ありがとうございます。わたくしの子どもも、このクッキーが大好きなのですよ」




