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一期一会 タクシードライバーが紡ぐ

一期一会 〜タクシードライバーが紡ぐ、扉の向こう側〜

作者: Y.

挿絵(By みてみん)

はじめに

タクシーの仕事では、日々さまざまな人と出会います。

時に笑い、時にトラブルもありますが、どれも”一期一会”。


一瞬の”刹那”が、ふと心に残り、

それが、やがて”永遠”になることもある。


そんな思いを物語にしてみました。

どうぞ最後までお付き合いください。

 ________________________________________

本作は、2010年頃のタクシー乗務体験をもとにしたフィクションです。

地名・時間・登場人物・描写はすべて物語上の演出であり、実在のものとは関係ありません。


一部に、現在の基準では不適切、コンプライアンス違反、あるいは迷惑行為と受け取られる可能性のある表現が含まれますが、

あくまで一つの物語としてご理解いただければ幸いです。

 ________________________________________

タクシーは、私たちの暮らしに欠かせない交通手段です。

しかし、その勤務形態や給与体系、業務の実態については、意外と知られていないかもしれません。


そこで、本文に登場する業界用語や、一般には馴染みのない言葉を以下にご紹介しておきます。


用語説明

タクシー業界編

タクシー:正式名称は「一般乗用旅客自動車運送事業」、道路運送法に基づく許可事業です。

違反があれば、営業停止・車両使用停止・懲戒処分を受け、最悪、事業許可の取消となることもあります。


営業圏:タクシーが営業できる地理的エリアのこと。

東京都23区のタクシーは、「東京23区・武蔵野市・三鷹市」で営業可能です。

これを「特別区・武・三地区」と呼ぶこともあります。

区域外の営業は営業違反です。


実車:乗客を乗せて賃走中の状態。お客さまを探している状態は「空車」です。


回送:車庫に戻る(帰庫)、給油、食事や休憩など、営業できない状態のこと。

正当な理由もなく回送にすることは「偽装回送」となり、違反行為です。


無線配車:配車依頼による無線連絡。配車された車は「迎車」となり、指定された場所へ向かいます。

かつては電話でタクシーを呼んでいましたが、現在はアプリ配車が主流です。


流し:お客さまを求めて走行しながら営業すること。

お客さまのご要望であっても、法令遵守の観点から、駐停車禁止場所や交差点内、バス停での乗降はお断りするのが原則です。


付け待ち:お客さまがいそうな場所に車をとめて待機すること。

ただし、駐車禁止の違反や迷惑駐車とされ、問題視されることもあります。

また、駅のタクシー乗り場で待機することを「駅づけ」と呼ぶことがあります。


乗車拒否:正当な理由もなくお客さまからの乗車をお断りすることはできません。

正当な理由としては、「行き先が遠方で100kmを越えるなど帰庫時間に間に合わない」や、「酔客などによる目的地の指定ができない、または安全運行に支障をきたす恐れがある場合」などがあります。


表示器:外からタクシーの空車、賃走、高速、迎車、支払、貸切、回送の状態がわかるように表示器スーパーサインを付けています。

また、屋根には「行灯」と呼ばれる屋根灯を付けています。

空車の状態が一番目立つように灯火しており、実車中になると消灯するのが一般的です。

緊急時、タクシーになんらかの緊急事態が起きている場合、行灯は「ピンク点滅」、スーパーサインに「SOS」と外部からわかるようになっている車もあります。


法人タクシー:タクシー会社に所属して運行するドライバーによるタクシー。

勤務時間や営業圏、勤務形態などは会社の方針に従っており、車両も会社所有のものを使用します。


個人タクシー:一定の経験と条件を満たしたドライバーが、自分で営業許可を取得し、自家用の車両で営業するタクシー。

自分で働く時間や営業スタイルをある程度自由に決められるのが特徴です。

東京都内には複数の個人タクシー協同組合があります。

そのひとつに、東京個人タクシー協同組合(東個協)があり、行灯の見た目から「デンデン虫」と愛称がついています。

そして、複数組合で使われている「提灯」の行灯もあります。

組合に所属していない個人タクシーも存在し、「カマボコ」と呼ばれています。


相番あいばん:タクシー一台を二人以上で共有すること。

夜日勤ナイト」と「昼日勤(昼勤)」で車両を交代します。

前の乗務員が帰庫しなければ出庫できないため、帰庫時間は厳守です。


隔勤:隔日勤務「出番・明番あけばん・出・明・出・明・公休……のサイクル」で勤務すること。

タクシー乗務では一般的な勤務形態です。


ロング:業界用語で「長距離乗車」のこと。

ありがたいお客さまですが、復路はほぼ空車となるため、「諸刃の剣」となります。

100kmを超えるような超ロングは「おばけが出た」と表現することもあります。

反対に、短距離乗車(初乗り料金)は「ワンメ」、それが続く状況は「短走たんそう祭り」と呼ばれます。


下道したみち:一般道のこと。

「下道」に対して、高速道路は「うえ」と呼ぶことがあります。


乗車禁止(乗禁):「銀座乗車禁止時間」の略で、平日22時?翌1時の間、タクシーは迎車を含めて専用乗り場でしか乗車できません。

時代遅れとの声もありますが、これがないと銀座の通りはタクシーで埋まってしまいます。

東京にはほかにも、「羽田空港」「赤坂」「東京駅乗り場以外」などに乗車禁止の規制があります。


銀座クラブ用語編

ママ:クラブの女性経営者または接客責任者。


チーママ:ママの下で働く副店長的存在。


大箱:店舗が広く、銀座七丁目に多い高級クラブ。


黒ストッキング(黒スト):銀座の高級クラブにおける「黒ストッキング禁止」は、単なる服装規定ではなく、文化・価値観・女性像を象徴する重要な要素でした。

伝統的に好ましくないとされてきた歴史があります。

これは、お客様を楽しませ、華やかな雰囲気を演出するという銀座のクラブ文化の精神に反すると考えられてきたためです。

しかし、近年では価値観が多様化し、ファッションの一部として受け入れられるようになっています。


移籍:ホステスやママが別の店に移ること。


その他(本文中の内容と現状が異なる事)

カイエン:ポルシェ社のSUV。

実際に東京でタクシーで使用されている。

が、パナメーラは同じく、ポルシェの4ドアスポーツセダン。

はおそらく、タクシーでは使われていないと思われる。


八重洲線:首都高速道路・八重洲線(KK線)。

日本橋川周辺の景観改善のため、現在は廃止されました。


小松川ジャンクション:現在、開通しており、中央環状線(C2)から千葉方面(首都高7号小松川線)へ向かうことが可能になっています。

首都高速に関しては、2018年以降至る所で改修工事が行われています。

第0夜「序夜」

個人タクシーをやりたくて、この仕事を始めた。

理由は単純だ。


“車の中”という、自分だけの城にいられるから。

そこには、ちょっとした自由がある。


それに、運転が好きだし、地図を眺めるのも苦にならない。

振り返れば、曖昧で漠然とした動機だったけれど、それでも足を踏み入れた。

いや、「踏み入れてしまった」のかもしれない。


気がつけば、もう七年が経っていた。

それでも、後悔はしていない。


いまは夜専門の勤務──いわゆる“ナイト”と呼ばれる夜日勤。

繁華街を回り、終電を逃した会社員やホスト、ホステス、クラブのママさんたちが主なお客さまになる。


夕方5時に出庫し、帰庫は明け方の9時。

この14時間が、勝負の時間だ。


七年もやっていると、自分なりの“好きな場所”、言い換えれば“漁場”みたいなものもできてくる。

まずはそこを目指して車を走らせるのだが、その道中、お客さまから手が挙がることもある。


ありがたいことだが──つまりは「思い通りにならない」ということでもある。


なかには、行き先を限定したくて“回送”にして走るドライバーもいる。

──だがこれは、本来は営業違反だ。


思いもよらぬ場所へ“飛ばされる”。

初めての街、初めての道。

同じ目的地でも、道順は一つじゃない。


道路状況も、日によって、時間帯によって、刻々と変わる。

それを「新鮮だ」と思えるようになると、少し楽になる。


毎晩が冒険で、そこにこの仕事の醍醐味がある。


とはいえ、七年も続けていれば、“初めて”という場所は減っていく。

逆に、「またここか」という送り先が増えてくる。


もっとも、同じといっても町名くらいの話で、正確な行き先まで一緒なんてことは、常連でもないかぎり滅多にない。


「運転が好きで、地図を見るのも好きなんです。天職ですかね」

そんなふうに笑って答えると、車内の空気が少し和む。


たったそれだけで、会話が生まれることもある。


好きな漁場──それはあくまで個人的な感覚だが、客層がよく、比較的ロングが狙える場所。

昼の営業と違い、夜はお客さまの数が減り、代わりにライバルが増える。


特に、夜の時間帯は個人タクシーが大量に出てくる。

だからこそ、“効率よく”“勝負になる”お客さまを拾えるかが重要になってくる。


「運だよ」と言う人もいるが、そうとも言い切れない。

場所と時間、そして流すべきか付けて待つべきか──その判断がすべてだ。

その判断こそが、運を呼び込む。


それでも、どんなに空車が並んでいようと、「必ず誰かを乗せられる場所」がある。


それが、“銀座”だ。


銀座は、自分に“技”と“自信”をくれた場所だ。

常連もできた。

けれど、それ以上に、ここには他の街とは明らかに違う空気がある。


“粋”を大切にする街──そう言っていいだろう。

赤坂や神楽坂、日本橋人形町も粋な街だが、銀座はどこか少し特別だ。


たとえば、歌舞伎町や六本木がギラギラと輝くネオンと、騒々しく無秩序な熱気に包まれているとしたら、

銀座は、しっとりとした柔らかな明かりが静かにきらめき、夜の闇に奥ゆかしい華を咲かせているような街だ。


そして何より──

「見栄を張ってこそだぞ」

そんなことを、教えてくれた街でもある。


銀座のホステスやママたちは、出勤も帰宅も、たいていタクシーを使う。

乗る場所もそれぞれ決まっていて、ドライバーたちはそれを狙って流したり、付け待ちしたりする。


同じお客さまを何度か乗せることもある。

そういうときは、名刺を渡すようにしている。

常連になってもらえるように、さりげなく売り込む。


とはいえ、タクシーの仕事は不安定だ。

だが、それもまた面白い。


名刺一枚が縁をつなぎ、思わぬ出会いにつながることもある。


銀座からの帰り道、多くのお客さまはお釣りを受け取らない。

「見栄は張らなきゃね」

そう笑って言った常連のひとことが、忘れられない。


──見栄張ってなんぼ。見栄を張れなくなったら終わり。

それが銀座の美学なのかもしれない。

それこそが、粋、なのかもしれない。


毎日、決して同じ展開にはならない仕事。

それを「新鮮だ」「毎晩が冒険だ」と思えるようになるまでには、時間がかかった。


信じられないかもしれないが、110番通報、交番や警察署への立ち寄り──

そんなことが、決して珍しくないのだ。


幸い、重大事件に巻き込まれたことはないが、

無賃乗車、寝て起きない、目的地が違う、料金が高すぎる──いわゆる“トラブルの宝庫”。


もちろん、それは“エピソードの宝庫”でもある。

ときには、自分が引き金を引いてしまうこともある。


怪談よりも、背筋が凍るような出来事だってある。


なかでも、いちばん厄介なのが「酔って寝込まれたお客さま」。


酔っているうちに乗せてしまった場合、まずやるべきは目的地の確認。

「どちらまで?」と聞いて、ちゃんと返事が返ってくれば、まだいい。


住所が出てくれば、ナビに打ち込み、ルートの確認をしておく。

出発前に「この道でよろしいですか?」と尋ね、うなずいてもらえれば安心──

と言いたいところだが、酔客の「うん」なんて、まったく信用ならない。


「○○の近くまで行ったら指示するよ」

そんな曖昧なセリフに乗せられて出発すると、だいたいロクなことにならない。


いざ着いてみたら、寝ている。

お声がけして起きたと思ったら、

「いや、もっと先だよ。まっすぐ、まっすぐ!」


その言葉に従って走っていれば、たいていの場合“通り過ぎる”。


「なんで通り過ぎた!」

あるいは「ここは、どこだ!」と、逆ギレされる。


最悪、起きない。

そうなると、警察沙汰だ。


──泥酔客相手の「まっすぐ」と「ここは、どこだ?」ほど怖い言葉はない。

これはもう、タクシー業界の“あるある中のあるある”だ。


目的地がはっきりしていても、高速を使うかどうかで料金は大きく変わる。

酔っているお客さまは「急いで帰りたい」と高速OKを出してくれても、

領収書を見た途端に、「高い!」が常套句。


「どこ通った!?」と詰め寄られることもある。


だからこそ、“相場感”が必要だ。

主要な目的地や中間地点については、記録し、記憶するようにしている。

(……もっとも、酔客には通用しないことも多いが)


忘れられない出来事がある。

ある日のこと、お客さまにこう聞かれた。


「今日の試合、どうなった?」


普段ラジオを聞かない自分には、答えられなかった。


基本的に、接客では野球や贔屓チームの話題は避けている。

かつて、自分が客として乗ったタクシーで、友人と野球の話をしていたとき、

「降りろ!」と運転手に怒鳴られたことがあったからだ。


そのときの乗客も、どうしても試合結果が知りたかったようで、

「ラジオをつけろ!」と声を荒げた。


慌ててスイッチを入れると、応援しているチームは負けていた。


(……最悪だ)


案の定、不機嫌になり、矛先はこちらへ向かう。


「タクシードライバーたるもの、朝は新聞、昼はラジオで世の中を知っとけ!」

延々と説教がはじまる。


何を言っても怒る。黙っていれば、それもまた怒る。


──針のむしろとは、まさにこのことだった。


とはいえ、無事に目的地へ着けば、精算して、降ろしてしまえば終わりだ。


(二度と会うことはない)


──とは言っても、タクシーを始めたばかりのころは、こういう出来事を長く引きずった。

営業所に戻ってから、思わず愚痴をこぼす日もあった。


それでも、

新聞を読み、ラジオに耳を傾け、

お客さまの言うとおり「世相にアンテナを張っている」先輩ドライバーもいた。


「景気を知りたければ、タクシードライバーに聞け」──

そんな話を聞いたことがある。


景気が悪くなれば、真っ先にタクシーを使う人が減る。

チップなんて、夢のまた夢だ。


人の流れが滞れば、そのまま売上に直結する。

ニュースよりも早く、街の温度が肌でわかる。


ドラマにあるような「前の車を追ってくれ!」というセリフ。

あれは作り話ではない。

自分も、実際にあった。


芸能記者か探偵か、捜査関係者かはわからないが、追跡や尾行に付き合わされたこともある。


“芸能人”や“著名人”をお乗せすることもある。

そのときには、また別の緊張感がある。


車内で交わされる会話、行き先──すべてに、ドライバーとしての秘匿義務がある。


とくに複数人を乗せた場合、

「誰とどこへ」という情報を記憶にとどめると、ロクなことにならない。


実際、同僚の一人がある芸能人を降ろした直後、次に乗ってきたお客さまにこう聞かれた。

「今の、〇〇さんだった?」


軽くうなずいたつもりが、そのときの会話が週刊誌に載ったという。


それ以来、見聞きしたことは、できるだけ「その場で忘れる」ようにしている。

(……とはいえ、なかなか忘れられるものではないが)



タクシードライバーは、「話し相手」であると同時に、

「沈黙のプロ」でもあるべきなのだ。


──それが、この仕事の妙。


一度きりの経験でも、忘れられないエピソードは数えきれないほどある。

そして今夜は、どんな夜になるのだろう。

________________________________________

第一夜「巡り合い」

挿絵(By みてみん)

今夜は、どんな夜になるのだろう。

期待と不安の繰り返し。毎日似ているようで、同じ夜は一つもない。


そんなことを考えながら、いつも通り17時に車庫を出た。


銀座を目指して流していると、17時半ごろ、小洒落たマンションの前に和服の女性が一人立っていた。


(タクシー待ちか?)


減速して近づくと、手が挙がった。


(ビンゴ。タクシー待ちだ)


和服に髪もきちんと整えられ、営業モードは万全。

(どこの店だろう。錦糸町? いや、銀座だったらうれしい……)


そんなことを思いながら、車を寄せた。


「ありがとうございます。どちらまでお送りいたしますか?」

「銀座。小菅から高速に乗って」と女性。


(えっ……意外だ)


この辺からなら、下道で入谷まで走って首都高に入るのが普通。


(小菅から乗るなんて、距離より早さ重視か?)

「お急ぎですか?」と尋ねる。

「別に急いでるわけじゃないけど、その方が早いでしょ」


(……ん? なんとなく、聞き覚えのある声だな)


「はい。渋滞がなければ、小菅ルートのほうが断然早いです」

「銀座のどのあたりでしょうか?」

「電通通りまで。わかる?」

「はい」


(まだ外堀通りを“電通通り”って言う人がいる)


「じゃ、向かって」

「では、小菅から高速に乗って、新橋で降りて“御門通り”から電通通り、というルートでよろしいですね」


こちらも少しプロっぽく通り名で返してみた。

(見栄かな)


「うん、それでいいから。車、出して」


それから、しばらく淡々とした会話が続いた。


(どうしても、声が気になる……)


ルームミラーで顔を確認しようとするが、彼女はスマホをいじっているのか、俯いたままで表情が見えない。

お客さまをチラチラ見るのはマナー違反。今は運転に集中することにした。


両国ジャンクション。いつもは混む場所だが、今日はスムーズ。

ギアを一速落とし、なるべくブレーキを使わず、滑らかに走らせる。

(乗り心地がちがうのだ)


新橋で高速を降り、御門通りへ。

「このまま電通通りまで進んでよろしいですか?」

「先の信号、越えたあたりで止めて」

「はい」


(並木通りを越えた、銀座八丁目あたりか)


「こちらでよろしいですか?」

「うん。ここでいいわ」


精算を済ませると、彼女は静かに降りていった。

このあたりは古くからの店と新しいラウンジが混在する、銀座の狭間。

(和服ってことは、ママさん?)


雰囲気からすると、大箱のママっぽかった。

(……それにしても、どこかで聞いた声だった)


ふと見上げると、通りの看板が目に入った。

(そういえばこの道、ソニー通りの延長だけど、名前を知らないなぁ)


話のネタにもなる。機会があれば、誰かに聞いてみよう。


今日は最初の営業で、目的地・銀座に直行できた。

しかも割増し前。この収入はありがたい。


さあ、乗禁までの時間、もう一本いけるか。

気を引き締めて、再びハンドルを握る。

流して拾うか、付け待ちするか。

(悩みどころだ)


とりあえず流しながら、同伴客や出勤ホステスたちの動きを観察する。

(あれ? 今夜は静かだな)


同伴や飲みに来る客は少なく、歩いているのはホステスやママさんばかり。

帰る人の姿は、まだ見えない。

(しょうがないなぁー)


流しをやめて、東電前の付け待ちに切り替えた。

ここは、ロング狙いの個人タクシーが多く集まる場所だ。

中には短距離客を乗せない車もある。そんな乗車拒否を避けて、あえて法人タクシーを選んでくれるお客さまもいる。


しかし、ただ時間だけが過ぎていった。

銀座に出入りする車と人の波をぼんやり眺めながら、ひたすら待つ。


乗禁になる前にお客さまが現れてくれれば──と焦り始めた頃、

スーツ姿のサラリーマンが近づいてきて、窓をノックした。


ドアを開けると、

「いい? 行ける?」と、ぶっきらぼうに聞かれる。

「はい、ありがとうございます。どちらまででしょうか?」

「近いけど、ごめんね」


(なんで謝るんだろう……)

「いえいえ、大丈夫ですよ。ご乗車ありがとうございます」


笑顔で応じると、

「砧二丁目まで」

(ぜんぜん近い距離じゃないじゃないか)


「高速、用賀でよろしいですか?」

(あっ、聞き方が雑だった。焦りが出たな……)

「当たり前だろう!」

(よかった……)


基本、下道で行くのが原則。高速利用は了解を取らなければトラブルの元になる。

「用賀で降りたら環八ね」

「かしこまりました」

ハンドルを切り、霞ヶ関から首都高速3号渋谷線に入る。

用賀出口を目指して進むが、電光掲示板には「高樹町から三軒茶屋まで渋滞」と表示されている。


「お客さま、『この先渋滞』の表示がありますが、いかがなさいますか?」


「うーん……」としばし考える。

下道が空いている保証もない。


「ナビ、渋滞どう?」


「渋谷から先、真っ赤ですね」

完全に詰まっている。


「そっか、じゃあ渋谷で降りて、淡島通りで行こう」  


「かしこまりました」


渋谷で高速を降り、淡島通りへ。幸い渋滞はない。


「このまま道なりに進んで、城山通りから経堂方面でよろしいですか?」


「この辺、詳しいの? 足立ナンバーだったけど」


「いえ、世田谷はなかなか難しいですね」と照れ笑いを浮かべながら、

「以前、道に迷って、なかなか抜け出せなかったことがあって」


「道は細いし、一通ばっかりだもんな」


軽く笑い合いながら車を進める。


「そういえば、世田谷方面のタクシーって、城北の方へ行くの嫌うらしいですよ。くねくねしてて、方向が分からなくなるって」


「へぇ、そんなもんか」


「ええ、ナビがなかったら、ほんと迷子になりますよ」


そんな話をしているうちに、環八との交差点が近づいてきた。


「交差点、どうしましょう?」


「そうだな──信号が青ならそのまま突っ切って、赤なら手前で止まってくれ」


「承知しました」


信号は赤。車を止めて、料金を案内する。


「じゃあ、これ使える?」


サラリーマンがタクシーチケットを差し出した。


「はい、お使いいただけます。恐れ入りますが、金額と日付のご記入をお願いします」


「そっちで書いてよ」


「ダメですよ。これ、小切手みたいなものですから」と冗談ぽく、機嫌が悪くならないように促した。


しぶしぶ記入しながら、ふと後部座席に目をやった彼が、


「あれ、忘れ物だろう。これ?」と指輪を差し出してきた。


(えっ?……)


今日はまだ、銀座まで乗せた和服の女性しか乗っていない。

出庫前に車内は確認済み。相番もいない。


指輪の内側には刻印で「Sachiko」。


(絶対、彼女のものだ)


急いで会社に電話をかける。


「もしもし、忘れ物の問い合わせって何かありました?」


「いや、来てないけど。忘れ物って?」


「はい。17時半ごろにご乗車いただいた方かと思います。後部座席に指輪が一つありました」


「領収書は渡したの?」


「ええ、お渡ししました」


「じゃあ、問い合わせが来たら連絡します。でもさ、ダメだよ。ちゃんと車内確認しなきゃ」


(最後の一言、なんでいちいち嫌味を言うかな)


胸の内でつぶやきながら電話を切った。


とりあえず営業を再開するにしても、さて、どこを目指そうか。

ここは砧二丁目の交差点。


──新宿方面に流すか、渋谷に向かうか。

あるいは、もう一度銀座へ戻るか。

乗禁まで、あと1時間半は営業できる。


幸い、上りの高速は流れているようだ。


(やっぱり銀座だな)


高速代は自腹だけど──そう腹を括った。


用賀インターから首都高に乗り、汐留で降りる。

普通なら用賀から銀座なら霞ヶ関で降りるところだが、あえて汐留を選ぶ。


御門通りへ一本で出られるし、何より銀座八丁目が得意な漁場。

新橋方面にもすぐ振れるのがいい。


銀座八丁目の交差点に差しかかったところで、小洒落たマダム風の女性が手を挙げた。

手には紙袋。銀座で買い物を終えた帰りだろう。


「ありがとうございます。どちらまでお送りしますか?」


「砧四丁目までお願いします」


「はい、かしこまりました。ご指定の道はございますか?」


「お任せします。早くて安い道でね」


(ツッコミどころ満載だ)


お客さまには関係ないが、こっちはさっき自腹で用賀から戻ったばかり。

なのにまた砧?

──しかも「早くて安くてお任せ」って。


渋滞にハマって、いつもより料金が高くなったとか言われたら困る。


「そうですね、空いていれば高速で霞から用賀まで乗って、そうでなければ三茶で降りて世田谷通りでって感じでしょうか」


(この流れなら高速に乗るつもりでいけるな……)


「ゴールの砧四丁目ってどのあたりですか?」


「じゃあ住所言うからナビに入れて」


「はい、かしこまりました」


教えてもらった住所をナビに入力する。


「ではナビの案内に従って進めさせていただきます」


ナビは「霞ヶ関から用賀まで高速利用」のルートを示していた。

ナビの設定は通常「距離優先」だが、割増時間中だけ「有料優先」に切り替えている。


今回は切り替えを忘れていたが、結果的に「有料優先」設定で助かった。


「じゃあ、それで」


了承は取れた。


けれど用賀まで高速を使うと、それなりに料金は上がる。


(まあ、トラブルにはならないと思うけど、ちょっと気にはなる)


少し自分のズルさを気にしながらも、「了解済みだからOK」と自分に言い聞かせてアクセルを踏んだ。


「タクシー、長いの?」


「え? 経験ですか? いえ、まだ始めたばかりで」


「そうなんだ」


会話が少し途切れる。


この手の質問にはいつも「新人」を演じることにしている。


「いるのよね、道知らないのに知ったかぶりして結局迷うタクシー」


「そうですね」


「私はね、とりあえずお客さまに行き先を確認してナビに入れるのが一番だと思っています──って、それがルールですよね。でも慣れてくると面倒になるんでしょうかね」


笑って場を和ませる。


実際、住所確認はマストだ。

ゴールがどこかわからないまま走るとトラブルの元になる。


用賀まで高速を使うと料金が上がるのは承知の上だったが、言うべきか迷っていた。


が幸いなことに、渋滞はまだ解消していない。


「高速、ちょっと渋滞していますね。渋谷で降りて一般道の方が早いと思いますが、いかがでしょう?」


「そうなの? 運転手さんにお任せしてるから、どうぞ」


「ありがとうございます。ではナビに従って行かせていただきます」


結果的にトラブルもなく無事にお送りできた。


一息つくと、そこはさっきも通った砧二丁目の交差点。

一日に何度も同じ場所に呼ばれる。

タクシー乗務でのあるあるだ。


(今日はどうやら……“世田谷の日”……らしい)


高速は時間によって料金が上がることはない。

それはドライバーにとってあまりありがたい仕組みではない。


一方、一般道は距離と時間で料金が加算される。

つまり渋滞でもある程度は売上になる。


けれどお客さまは急いでいるからタクシーを使う。

渋滞に巻き込まれればイライラするのも無理はない。


そしてそのイライラは、背中越しにじわじわ刺さってくる。


(ほんと、渋滞は嫌だ)


もう銀座に行っても乗禁の時間。

さて、どうするか。これから長い夜になりそうだ。


(……流れに身をまかせるか、自分を信じるか……)


________________________________________

第二夜「指輪」

挿絵(By みてみん)

今日も夕方5時、いつも通りに営業所を出発する。

これは変わらない。


しかし違うのは、和服のママに忘れ物の「指輪」を渡すため、必ず17時30分前後にあのマンション前を流すことが日課になっていたことだ。


まだ営業所に問い合わせはない。

会えれば、実車で銀座に行けるだろう。

警察に遺失物として渡すのは一週間後だ。


普通は営業所で保管となるが、手渡しするため、許可を得て持ち出している。


価値は分からないが、リングに名前が刻まれていた。

きっと誰かからのプレゼントだろう。


(渡さなきゃ……)


それを口実に常連になってもらえたらありがたいのだから。


(今日はどうだ?……)


普段はタクシーを呼んでいるのだろうか?

この前、手が挙がったのはたまたまか?


そんなことを考えながら流す。


付け待ちしたいが、マンション前では変だろう。


──三日が経った──。


ついにママが出て来るのを見つけた。

手は挙がっていないが、急いでママさんの近くに車を止め、ドアを開ける。


ママさんは少し驚いたようだが、


「何?!いきなり、乗れって?」


と言いつつも、笑顔で乗車した。


今日も和服姿。

着物の価値は分からないが、雰囲気だけで良いものなのだろうと感じた。


足袋の上から、少しだけ素肌が見えていた。

それを繕う所作は、気品のような感じがする。


普通のお客さまとは違う、「何か」は感じた。


顔はもちろん綺麗だが、素顔が全く分からない。

まるで「お人形さん」のようだ。


毎日、髪を結い、化粧し、着物を着る。

そして出勤はタクシー。


住んでいる世界の違いを感じた。


「はい!探していました。指輪お忘れでしたから、三日ほど」


「見つかってよかった」という安堵よりも、「あなたに会いたかった」という下心をごまかすように、平静を装いつつ言った。


「ふーん、ここに忘れていったんだ」


(あれ? そっけない)


「わざわざ、ありがとね」


「いいえ。ちゃんと返せたので、安心できました」


「……」


(名前の刻印があるのに、大切な物ではないのだろうか?)


「銀座で、よろしいですか?」


彼女は大笑いしながら、


「強引だねぇー、勝手にドア開けて、拉致?」


こちらも負けずに、


「いいえ。ご自身で乗って来られたから、拉致じゃないです」


と言うと、さらに彼女は面白そうに笑いながら、


「お金ないわよ」


「はい、大丈夫です。忘れ物させてしまったので、今日は無料でお送りしますから」と冗談めかして言うと、


「あら、気前いいわねぇー、かっこつけるじゃない」


「今日だけですけどね」と少し照れてしまった。


「あら、次があるの?」


「あるかもですね、それは分からないですけど。『見栄張ってなんぼ、見栄を張れなくなったら終わり』というのを教わりましたから」


「ヘェ?そうなんだ。どこで?」


「銀座です」


そんなやりとりをしつつ、銀座へ向かう。


これは銀座まで自腹になるが、良しとしよう。

指輪も渡せたし、どこかで取り返せるに違いない。


海老で鯛を釣る、じゃないが、きっと何か良いことがあるはずだ。


この仕事は歩合制。営業すればすべてが収入。

多少の自腹は「次への投資さ」と考えるようになっていた。


この前と同じく、信号を越えたあたりで声をかける。


「こちらで、よろしいですか?」


「ええ、ここでいいよ。今日はありがと。じゃぁ、これ」


と、一万円札をグローブボックスの上のトレーにそっと置いた。


「しっかり、お稼ぎー」


と、お釣りも受け取らずに笑顔で少しだけ手を振りながら歩いていった。


(名刺、渡せなかった……)


どうして営業をかけなかったんだろう。

指輪も返したし、もう大義名分がなくなった。


(なら、“このお金を返す”を理由に、再チャレンジかな……)


引きずっていても仕方ない。

銀座に来たのだから、ここで営業だ。


(切り替え、切り替え)


今夜は続々と実車のタクシーが街を流れ、背広姿の人たちが銀座の街にあふれている。


まだ夜の7時前だというのに、既に帰る人もちらほら。


これは忙しい夜になりそうだと期待が膨らむ。


いつものように、まずは銀座の路地から流す。


並木通りのビルから、大勢のママさんやホステスに見送られて紳士たちが出てくる。


きっと自分の車か、タクシーで帰るのだろう。

店の前にそっと横付けする。


この時間の並木通りは、両端に黒塗りの高級車がずらりと並んでいる。

迷惑だが、結果的に道の真ん中に止まることになる。


でも後ろが空車のタクシーなら、クラクションは鳴らさない。

皆、事情を知っているからだ。


この「牛歩戦術」は、乗禁が解けた後によく使われるが、この時間帯でも案外通用することを知っていた。


案の定、黒服がこちらのドアを叩く。

後ろのタクシーも、内心は期待しているだろう。


何しろ、紳士たちが数人。

全員こちらに乗れば、おそらく「経由便」。


言葉は悪いが、積み残した分は後ろのタクシーが拾える。


先頭が主役。ロングの可能性も高い。


(まぁ、これはあくまでも可能性の話で、行き先を聞いてメーターを入れるまで分からない。だから“運”という人も多い)


すかさずドアを開けると、スーツ姿の紳士一人が静かに乗り込んできた。


「ありがとうございます。どちらまでお送りいたしますか?」


「うーん……遠いけど、いいかな?」


(きたー!……)


心の中でガッツポーズを決めつつも、そこは平静を装う。


「はい。大丈夫です。行き先をお願いします」


「浦和」


「埼玉の浦和ですね。駅を目標でよろしいですか?」


「ああ、いいよ」


「ご指定のコースはございますか?」


「高速使っていいから、さっさと駅向かって」


「かしこまりました。では、土橋から高速に乗ります。少し戻るかたちになりますが、よろしいですか?」


「ああ、いいよ」


──銀座から浦和。

時間はまだ夜の7時過ぎ。


この距離なら、今夜の流れはつくれたようなものだ。


(返すつもりの一万円、もう“戻ってきた”……)


営業で稼ぐこの仕事、自腹も必要経費。

そう言い聞かせていたが、実際に回収できると、やはりうれしい。


ハンドルを切って、首都高速に向かう。


道は空いていた。

こんなにスムーズなのは久しぶりだ。


南浦和の出口が見えてくる。


バックミラーでちらりと後部座席を確認する。


よし、寝ていない。


「高速を降ります。駅のほうへ向かいますが、武蔵浦和駅側から回ってよろしいですか?」


「おっ、さすが。近道知ってるねぇ。よく来るの? こんなとこ」


「ありがとうございます。たまにですが、このルートは以前お客さまに教わりまして……

ナビだと表示されないらしいですが、“渋滞しないから早くて、結果的に安いし時間も読める”って」


とっさに口に出たのは事実ではなかった。


(いや、本当は)


この道は何度も何十回も通っている。


ナビなんかより、自分の体が覚えているルートだ。


だけど今は、それを言う必要もないし、偉ぶるつもりもない。


むしろ新人を演じるくらいでちょうどいい。


駅前のロータリーで静かに車を止め、ドアを開ける。


「ありがとうございました。到着です」


お客さまは軽く会釈をして降りていった。


メーターの数字とレシートを見て、ひと息つく。


(よし。帳尻は合った)


時計を見ると、まだ十分に銀座へ戻れる時間。


これなら、もう一山狙えるかもしれない。


(銀座へ戻ろう)


今夜は、はじまったばかり。

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第三夜「仕掛」

挿絵(By みてみん)

指輪を返したあとも、マンション前を流すことが日課になった。

マンションの一角を、今夜もゆっくりと周回する。

まるで、店の前を流しているようなものだ。

いや、彼女がまた姿を見せる保証なんて、どこにもない。

側から見れば──不審なタクシー。いや、ストーカーだ。


もう指輪は返した。会話も済んだ。

彼女と銀座に向かえる確率なんて、限りなくゼロに近い。

それでも、来てしまう。

(あの“声”が気になってしょうがない……もう一度、乗ってほしい……)

今日は、これが最後。あと一回で引き上げよう。


そう決めた矢先、彼女が現れた。

マンションのエントランスから、すっと姿を見せる。

和服姿。出勤に違いない。


信号が青に変わる。手が──挙がった。

こっちを見ている。まっすぐ、この車を。

反対車線には他のタクシーはいない。間違いない。自分だ。


スピードを上げて寄せ、彼女の前に停まる。

ドアを開ける。

「はい、ありがとうございます」


冷静を装いつつ、偶然を装いながら、

「銀座……」の一言を遮るように、

「あんた、毎日、何やってんの? 今日だって、三回はうちの前走ったでしょ?」


(……バレていた)


「はい。お乗せしたくて」

正直に答えて、名刺を差し出す。

「名刺、お渡ししてもよろしいですか?」


彼女は、名刺に目もくれずに笑った。

「窓から見えてたわよ」


「えっ……で、今日は何故?」


「面白いから」


そして、

「私ね、流しのタクシーが好きなの。だって、“一期一会”でしょ」


その言葉が、やけに、こころに響いた。


たしかに、タクシーの多くは一期一会だ。

偶然が交差し、何も残さず、ただ過ぎていく。


(名刺を渡しても、ゴミ箱行きかな)


一瞬の沈黙のあと、彼女が言った。

「呼んだら来るの?」


意外だった。


「はい。お電話いただければ必ず。出られないときは折り返します」


「じゃあ、名刺ちょうだい」


弾む気持ちを抑えながら、名刺を渡す。


──“一期一会”が楽しいって言ったすぐあとに、“呼んだら来るの?”って、矛盾してないか?

──それに。窓から、ずっと見ていたなんて。


信号で止まったタイミングで名刺を渡した。

「すみません、片手で失礼します」と差し出すと、


「登録してよ。今、ワンギリするから」


電話が鳴った。

「名前は指輪で知ってるでしょ」


「…サチコさん?」不安げに答えた。


「そう。でもそれ、本名よ。お店では“ユキコ”だけどね」


(ユキコ……は、聞き覚えがあるなぁ。そしてこの声……ユッコママ?)


(ミラー越しに改めて顔を確認するが、似てるような気はするが……)


「本当はわざとだったの」


「えっ!」


「あんたならきっと届けに来ると思ってたら、案の定ね」


確かに忘れ物は事務所に渡せばそれで終わりのはず。


「あんた、本当に分からないの?」


「ちょっと待ってください。なんとか思い出せそうなんで……」


(でも、実は記憶にある顔とはちがう……)

(“ユッコママ”って、確か以前、立ち食い蕎麦をご馳走してくれた、常連のママだった)


「どう?思い出した?」


(顔は違う気がするけど……一か八か……)


「立ち食い蕎麦をご馳走してくれた、“ユッコママ”」


お店を辞めて実家に帰ると言っていた、あの常連のママの名前を言った。


「あら?そんなこともあったかもね。がっかりね、何度も乗っているのに」


「いや、“ユッコママ”はちゃんと覚えていますよ。今も連絡を待っていますから」


そう言って、自分の携帯に登録されている“銀座 ユッコママ(そば)”を見せた。


(さっきの着信番号とは違う番号だった。)


「声は似ていると思ったけど、顔が……」


すると、少し、すねた感じで


「失礼ね。老けたって?」


「いいえ、逆です。なんていうか、“お人形”みたいで……」


「まぁ、思い出したなら許してあげる。じゃあ電話するからね」


そう笑顔で言い、いつもの場所で降りていった。


(自宅は恵比寿だったんだ……顔じゃなくて自宅が違うって言えばよかったかな……)


何も知らなかった銀座の話を、いろいろと教えてくれた“ユッコママ”。


そんな人と、こんな形で再会するなんて世の中、ほんとうに不思議な縁があるものだ。


なんだか、ドラマにでもなりそうだな──。

ちょっと陳腐かもしれないけど、“運命のいたずら”って、こういうのを言うのかもしれない。


また振り回されることになるのかもしれないけど──。

それでも、やっぱり嬉しかった。

これから、毎日が少しだけ変わる。

そんな予感が、確かにあった。

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第四夜「泥酔」

挿絵(By みてみん)

話は3年ほど前に遡る。


銀座の朝5時。

ほとんどの店はもう閉まっているが、飲み直す人や、店じまいのママ、ホステスたちがまだ少し残っている時間帯だった。


その朝も、着物姿の女性が、かなり酔った様子でやってきた。

黒服に抱えられながら車の前に止まり、誰かがドアを開け、その女性を放り込むようにして乗せた。


「ユッコママー!ごちそうさまでしたー」

残った人たちが手を振って見送っている。


だが女性は行き先を告げず、からむように言った。

「蕎麦食べよー、付き合え?!」


ある意味、乗せたくないタイプの客だ。

(やばい……)


「はい。いいですけど、どこですか?」

嫌だという気持ちが、声に出ていたかもしれない。


「よし、その先を曲がって、まっすぐ行けばあるから。行って、さっさと!」

着物姿なのにシートを蹴ったり、助手席を抱え込むようにして指差したり、命令口調で道を指示してくる。

(あー、やだなぁ……)


立ち食い蕎麦の店の横に車を止めると、

「お蕎麦屋さんに着きましたけど……」

「はい、ドア開けて。ついてきな!」


車を降りてママについていく。

この時間なら駐禁は大丈夫だろう。

売上もできたし、これで今日は上がることにした。


さっきまで抱えられていたママは、今はしっかりした足取りで歩いている。

乱れていた着物も、きちんと整えている。

(髪や化粧はボロボロだけどね……)

それでも綺麗な人だった。


ただ、よく言われるような“お人形”という感じとは、どこか違う。

(嫌という気持ちは、いつの間にか消えていた)


「ざる蕎麦二つちょうだい!」

(ここ、食券じゃないんだ?)


店員も慣れた様子で注文を受けていた。常連らしい。

すぐに、ざる蕎麦が二つ運ばれてきた。


「食べな」

「はい。いただきます」


二人で蕎麦をすする。

こうして店内でゆっくり食事をするのは久しぶりだった。

たいていは、コンビニで買った弁当を車内で食べるか、空車で高速を走りながらパンで済ませるか。

だからこうして椅子に座って食べるだけで、何だか“ちゃんとした”感じがする。


立ち食い蕎麦とはいえ、椅子もあり、出汁や蕎麦の香りがほっとさせてくれる。

(しかし、メーターは入ったまま……トラブるかなぁ……まあ、なるようにしかならないよなぁ)


食べ終えると、ママが言った。

「もう一枚食べる? 食べよ」

「はい、では頂きます」


もうどうにでもなれ、という感じで答えた。

(……面白い人だな……)


立ち食い蕎麦屋で、銀座のママさんと食事。

こんな経験、そうそうできるものじゃない。


銀座のママというと、いつも「凛」としたイメージなのに。

こんな姿もあるんだ。


会話になっているような、なっていないような時間を過ごし、二枚目の蕎麦を食べ終えた。


すると、

「これで払って」

そう言って財布を渡された。


他人の財布を開けるのは気が引けたが、仕方ない。

代金を出して支払う。


店を出るとすぐ、

「どうも、ごちそうさまでした」

「運ちゃんが蕎麦食べるの付き合うなんて初めてだよ。大体断るでしょ、仕事中なんで、とか言ってさ」

「そうですかねぇ。自分も初めてですけど、面白いから、まあいいかって」

「面白い?」

「ええ。面白いですよ。それに、お腹も空いていたし」


「運転手さん、お名前は?」

「あっ、ちょっと待っててください。名刺、あります。電話くださればすぐに伺えますから」


急いで車に戻り、カバンから名刺を取り出して渡す。

「番号言うから、こっちにかけて」


言われた番号に電話をかけると、

ママは鳴っている携帯をバッグから取り出し、名刺を見ながら番号を登録し、丁寧にバッグへしまった。

(あんなに泥酔していたのに、今は普通に会話できてる……すごいな、ママさんって)


「で、どちらまでお送りしますか?」

「恵比寿三丁目」

「はい、かしこまりました。恵比寿三丁目ですね」

「“かしこまりました”かぁー――こんな酔っ払い相手にも、ちゃんとしてるのね」

「そうですか?」


眠そうだったので、それ以上の会話はなかった。


「えっと、どこにお止めすればよろしいですか?」

「もう着いたの? 先の白いマンションのところで止めて」


マンション前に車を止め、ドアを開けると、

「じゃあこれね」

と五千円札を出された。

(足りない……蕎麦を食べてる間もメーターは動いていたのに)


「あら? 足りない分は、今度払うから今日はこれでね」


先にドアを開けてしまったのが失敗だった。

蕎麦をごちそうしてもらったとはいえ、残金を回収するすべもない。

(“今度”に次はないだろうな……電話、くるのかなぁ……)


まあ、お腹も膨れたし、面白いネタを一つ仕入れたと思うことにしよう。

「絶対に車で戻さないで」って感じだったし、それを考えれば、まあよしとするしかない。

(でも、本当に酔っていたんだろうか……)


さっきかけた番号を、

“銀座 ユッコママ(そば)”と登録した。

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第五夜「迎車」

挿絵(By みてみん)

ユッコママから夕方までに連絡がなければ、営業所から下道を使って銀座を目指す。

連絡があれば、指定の場所まで迎えに行く。


それが、今の自分の営業スタイルだった。


同伴のときは、必ず迎車で向かう。

「厄介」なのは、その時間だ。


「1時間以上前に連絡ください」とお願いはしているが、指定場所は都心の繁華街。

渋滞があれば遅れるし、早く着きすぎれば無駄な待機時間が発生する。


時間が読めないのは大きな悩みだが、どうにもならないことも多い。

以前の常連さんで、約束の時間にまだ余裕があると判断して営業を続けていたら、

時間に間に合わなくなったことがあった。

「すみません、遅れます」と連絡を入れたら、

「もういい!」と強い口調で言われ、それっきり連絡は途絶えた。

苦い経験だ。


営業中、着信が入ることも多い。

お客を乗せているときは出られないので、営業を終えたあと折り返す。

「今どこ?」か「何分で来れる?」が最初の言葉だ。


近くなら「〇分で行けます」、

遠ければ「〇〇にいるので〇〇分かかります」と答える。

すると決まって、


「じゃあいい」か「急いでね」のどちらかが返ってくる。

どの常連も同じだ。


外を見ると、空車のタクシーは掃いて捨てるほどいるはずなのに、

電話をかけてくるのは、近くに空車がいないからだ。

タクシー会社へ電話すれば車を呼べる。


特別な何かを持っていなければ、常連にはなってもらえない。

こんなに時間が読めない“不確実性の高い”仕事は珍しい。


だからこそ、ユッコママには心から感謝している。


ママは“自分のお客さまを送り出す最善手”を常に考えているだろう。

複数の“運転手カード”の中から、たぶん自分を選んでくれているのだ。


だから、多少無茶な要求でも、応えられるなら応えなきゃと思う。

もちろん無理はしない。

ユッコママは“無理”を言わない。

もしそれが、営業所に戻る時間に遅れたり、規則違反になるような依頼ならば、断るしかない。

中には、そうした無理を平気で求めてくる常連もいるが……。


金曜の深夜、もうすぐ0時。

実車中に携帯が光った。着信だ。

電話には出られない。もちろん音は鳴らないので、客は気づかないだろう。


(着信はユッコママからだった)


今は横浜へ向かっている。折り返しは早くても20分後になる。

すると、また画面が光った。別の常連からだ。


(サラリーマンのこの人は、たぶん銀座か歌舞伎町で飲んでいる)


送り先は板橋の自宅だ。

空車タクシーが見当たらず、電話してきたのだろう。


不景気とはいえ、このあと1、2時間は都心から空車が消える。


客を降ろしてすぐ、サラリーマンに先に電話をかけた。

後からの着信を先に連絡したのは、ユッコママの“手持ちカード”があるはずだと踏んだからだ。


(いつも迷ってしまう……)


サラリーマンは出なかったので、ママへ電話をかけ直す。

「何分で来れる?」

「横浜から向かうので、1時間はかからないと思います」

「わかった。着いたら連絡して」

それだけ言って電話は切れた。


このままだと乗禁が解除される前に着いてしまう。


(それだと予約乗り場まで来てもらうことになる……)


また電話が鳴る。

「1時にお店前に来て」

それだけ言って切れた。


乗禁解除の1時なら店前に行けるはずだ。

週末のこの時間なら、楽に行けるだろう。


時間に余裕ができた。

回送にして、少しスピードを落とし、束の間のドライブを楽しむ。

ランドマークタワーの光の柱。ベイブリッジの輝き。

羽田空港のオレンジの誘導灯。遠くに東京タワー、さらに奥には小さく見えるスカイツリー。

見慣れているが、この浮遊感は何度見ても飽きない。

車の窓を開けた。

──夜の潮風に包まれているような、このひとときが、いちばん心が落ち着く時間──。


時刻はまだ0時45分。


首都高銀座で降りて、街の様子を見ながら時間を潰す。

本当につかの間のドライブ気分だった。

あの静かな時間が嘘のように、街は煌めいている。


なによりお客さまは皆殺気立ってタクシーを探している。

見つけたら見境なく飛び出してくる、迎車にしていてもだ。

断ると、車を蹴ることもある。


(偽装迎車がいるのも分かっているからだ)


1時が近づき、“迎車”に切り替えて店へ向かう。

自分は偽装迎車ではない。ちゃんと呼ばれた車だ。


普段は溢れている空車タクシーが、今は一台もいない。

周囲のタクシーも迎車ばかり。

タクシーを探す人、諦めて歩く人。


(バブルの頃はこれが日常だったと聞く)


深夜1時の合図とともに、交詢社通りから並木通りへスムーズに進む。

こんなに楽にお店の前に行けるとは──。


電話をかける。

「今着きました」

「今行くから、少し待ってて」

向こうからはカラオケの賑やかな声。

待っていると、窓を叩く音がする。


「行けないの?」

「すみません、迎車です」

何度も繰り返すやり取り。


(分身の術でもあればいいのに……)


ママはまだ来ない。

15分ほど待つと、エレベーターの灯りがつき、ママ達が降りてきた。

迎車の場合、普通はドアサービスもするが、ここはお店のスタッフの役割。

ドアを叩き、「開けてー」と声をかけると半ドアに。

ホステスさんが客を車内へ案内する。


紳士客を先に乗せ、後部座席へずれてもらう。

続いてユッコママが乗り込んだ。


(経由……めずらしく、ママも帰宅だ……)


ドアを閉めると、外では見送りがある。

「ありがとうございます。どちらまでお送りしますか?」

と尋ねると、

「まずはママの家、恵比寿だよな」

「はい」と答えるママ。


「その先は後で言うから」

「はい、かしこまりました」

まず恵比寿へ向かい走り出す。


「最近はね、この車使ってるの」

「へぇ、初めて見る運転手さんだな」

「そうなの、前の人は連絡しても出なくなっちゃって」

「またお前、無理ばかり言って愛想つかされたんだろ」

話題はその後、世間話のような軽いものに変わっていた。


(……しかし、無理な要求とは何だろうか、それがずっと気になっていた)


ママのマンションに着き、

「今日はありがとうございました。おやすみなさい」と紳士に伝えた。

するとママは、

「大事な方だから、安全に送ってね」と言い残し車を降りた。


紳士は静かに、

「蒲田。ナビ入れて寝るから、着いたら起こしてくれ」

そう言って助手席側に体をずらし、寝る態勢に入った。


ナビを入れ、

「ナビ通りでよろしいでしょうか?」と声をかけると、

「そうだな、よろしく」

(ここから蒲田までは、すべて下道だ)


ナビ通りに進んでいるとママから着信が入った。

まだ送迎中なのはわかっているはず。


(どうしたんだろう……)


目的地に到着し、

「お客様、到着しました」と声をかける。

寝ているので何度か呼びかけると、

「おっ!着いたか」

「こちらでよろしいでしょうか?」

「おう、いいよ。ドア開けてくれ」

料金を精算し、ドアを開けてお客さまを降ろした。

「ありがとうございました」


ドアを閉めて静かに進行し、路地を曲がったところでママに電話をかけた。

「戻って来て」

「恵比寿ですか?」

「そう。うちに。銀座に戻るから」


(やっぱり空車がいないのか?)


再び“迎車”にして恵比寿へ向かう。


「マンションの下に着きました」とママに連絡する。

「忘れ物ですか?」

「まだ、やることがあるのよ」

「……」


(意味がわからなかった)


「私たちは夢を売っているの、わかる?」

「……」


(あの紳士はママを、“独り占めできた”という優越感を抱いて帰ったのだろう……)


店の前に着くと、

「じゃあ、また連絡するから」

そう言って車を降り、ママは店に入っていった。

料金はいつでもどこでも五千円。ワンメーターでもね。


少し空車はいるが、まだ人通りは多い。

メーターは“支払”表示のままで、様子を見る。


すぐに、ドアを叩く音がした。

「いい?乗れる?」

「はい、大丈夫です」

メーターを空車に戻し、ドアを開ける。

「はい、ありがとうございます。どちらまでお送りしますか?」


今夜もなんとなく振り回された……。

また明け方に電話が来るのだろう。

気にすることはないか、ユッコママの“無茶な要求”ってこの程度のことか?

しかし、前の運転手は一体何があったのだろう……。

収支度外視すれば、単調なタクシー業務も変化があって面白い。

(単調なんてことは、ないが……)

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第六夜「翻弄」

挿絵(By みてみん)

いつの頃からか、ユッコママはクラブに出ない日でも、頻繁に呼び出しがかかるようになっていた。

しかも、17時よりも早い時間に呼ばれることも珍しくない。


その点は幸い、相番がいないため自由に動けることもあって助かっている。


羽田空港やみなとみらい、中華街といった、店とは直接関係のない場所への送迎も増えてきた。


単なる送迎だけにとどまらず、一緒に食事をしたり、観覧車に乗ったりすることもある。

まるでママのプライベートに付き合っているような感覚だ。

半日まるまる営業にならない日も少なくない。

いったい何をしているのだろうか?と思うこともある。


(まあ、いいか。これも仕事の一環だ……いや、仕事なんだろうか?)


何より、“ユッコママの素顔”が垣間見られ、面白さやうれしさが先にくる。

もちろん、すっぴんの顔は見たことがないが、

“出勤時の凛とした姿”

“明け方の疲れ切ったボロボロの姿”

“オフのときの姿”

そのどれもが普段とは違う一面で、

どれだけの人がこのユッコママの本当の姿を知っているのだろう。

そう考えると、ちょっとだけうれしくなる。


ママが珍しく、プライベートなことを聞く時もあった。

「こんなこと、滅多に聞かないんだけどさ。

あんた、なんでタクシーはじめたの?」

「サラリーマンの頃、上司に連れられて銀座のクラブに行ったことがあって……

その帰り、“黒のカイエン”の個人タクシーで送ってもらったんです」

と、当時の懐かしい記憶が、ふっとよみがえる。


「カイエン? ポルシェの?」

「そう。しかも、女性のドライバーでした。落ち着いてて、格好よかったんですよ」

『銀座って、見栄と粋が紙一重で並んでる街でしょう?

そこに、もう一台、“矜持きょうじ”を停めたくて、

自分がどんな車で、どんな顔で、どんな背中で生きてるかを問われる場所なのよ。

……その問いに、私はこのカイエンで答えてるの』

「そんなこと、さらっと言ってのける人で……

あれが、忘れられなくて」


そして、笑いながら、

「いつか、“自分の城”を持ちたいなって。パナメーラで」

とつづけた。

すると、ママは笑って言った。

「で、あんたは、パナメーラなの?

じゃあ、デビュー戦は、まず私を乗せてね」


(……ユッコママ、意外と車詳しいのかも……)


ただ、最近は移動中の車内で、ママが愚痴をこぼすことが増えた。

こちらは聞くだけで何もできないが、それでいいらしい。

しかし、気になったのは――


その愚痴の内容が「お店」ではなく、銀座の街そのものに向けられていたことだった。

知らなかったが、銀座には“黒のストッキングは厳禁”という独特の文化があるらしい。


それが今では、注意するどころか、黒ストッキングを認める風潮に変わってしまい、ママは嘆いていた。

「時代かなあ……」

ママがぽつりと呟く。

「この前、新しい子が店に来たんだけど、黒のストッキングを履いていたの」

「黒はやめなさい」と言ったのに、

昔なら、お客さまも『今日は店の雰囲気が違うね』って言っていたのに……

「この前なんて『おっ!似合ってるね』だって……」

「そんなので銀座って言えるの? いいの?……」


(いいの?と聞かれても、答えに困る)


たとえば、新人ホステスの振る舞いが下品だったとき、

昔の常連はママにそっと耳打ちしてくれた。

「店の格が落ちるよ」と。


そして、ホステスやママさんも、お客さんを育てる。

それが“太客”。

昔は「みんなで銀座を育てる」そんな文化があったらしい。


だが今は、

「今、景気のいい人が一番大事」――そんな現実が優先されている。

ママは、「もうついていけない」と肩を落としていた。


時代は変わり、

知り合った頃の“ユッコママ”とは、どこか違う人になってしまった気がする。

──心配と、何もできないもどかしさだけが募っていく──


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第七夜「浦和」

挿絵(By みてみん)

タクシーを始めてから、もう2年ほど経っていた。

この頃はまだナイト勤務ではなく、朝出庫して翌朝帰庫する、いわゆる21時間勤務の隔勤だった。


2011年3月11日。

忘れられない日になった。


それは昼過ぎ、たまたま国会通りを流していたときのことだった。

(はじめは、車がパンクしたのかと思った)


道幅が広く閑散としていたのは、不幸中の幸いだった。

急いで車を路肩に寄せて止めた。

(バースト?…)


ハンドルは全く操作していないのに、車がこれまでにないほど激しく振られたのは初めてだった。


降りて確認しようとしたが、止まっている車が揺れている。

外を見ると、街路樹や街灯、信号機も大きく揺れている。


(あ!また揺れた!)


そこで初めて、これは地震だと気づいた。

しかも、かなり大きい。

何度も何度も、大きく揺れる。


しばらくして落ち着いたので、街の様子を見ようと回送表示に切り替え、溜池交差点から赤坂方面へ車を走らせた。


(右折して驚いた……)


ビルから人が続々と出てきている。

中にはヘルメットを被っていたり、カバンで頭を守っている人もいる。


まさに「なんじゃこりゃー!」が現実に起きていた。


このあたりのビルは全面ガラス張りが多い。

もし落ちていたらと思うとぞっとした。


しかし、この時点では本当に何が起きたのかよくわからず、不思議と冷静だった。

「ただ、大きな地震だった」という認識だけだった。


地下鉄赤坂駅前のタクシー乗り場に車を止め、空車に戻して様子を見ながら客を待つことにした。


すると一人の女性が乗り場に現れた。

(何かあったのだろう。……やけに焦っている……)


「はい、ありがとうございます。どちらまでですか?」


「恵比寿までお願い、急いで」

「駅でよろしいですか?」

「駅の近くだから、まずそこまで行って、あとはまた言うわ」

「ご指定のコースはございますか?」

「わからないから、おまかせします」


車を発進させようとすると、女性が言った。


「ラジオつけて」


どの局も、アナウンサーが「東北地方で大きな地震が発生しました!」と絶叫していた。


(……アナウンサーも冷静さを失っているのか……

彼女の焦っている気持ちもだんだんわかってきた……)


女性がぽつりと、

「地震で地下鉄が止まっちゃったのよ……再開のめどが立たないみたいで」


「東京でこんな揺れ……東北のことが心配ですね」

(やはり、ただ事ではないことが起きた……)


「そうねぇ」

「ラジオだけじゃ、まだよくわからないですね」


お客様の電話が鳴った。

「もしもし。えっ、帰るの?」


(やっと繋がった……もー、大変なんだからぁ……)

電話の先から漏れる声が、かすかに聞こえた。

電話の向こうも焦ってる──。


女性は電話を切るなり、

「娘は絵を描いているの。友達と初めて個展を開くから見に来てって言ったのに……でも帰るって、泣きながら言うの」


どう返せばいいのか迷った。

(何よりも自分のことが心配になっていた……

東北地方で大地震、東京もこの状態……)


恵比寿の小さな画廊に着くと、女性は大きな包みをいくつも抱えて立っていた。

トランクにその包みを入れ、娘さんを乗せた。


「絵、落ちちゃったよ。最悪ー。でも地震、大きかったよねぇ」

(……額が壊れたらしい。娘さんは、まだこの状況を知らないらしい……)


「東北で大きな地震だって……」と母親が娘に言った。


ラジオからは「津波警戒」の報道が流れ、東京の状況も続けて伝えられる。


「東京および首都圏のJR、私鉄、地下鉄はすべて運転見合わせ。再開の目途は立っていません──」


車内が凍り付いた。

東京の状況も詳しくはわからないが……


「このままこのタクシーで帰るしかないのかしら」


「ご自宅はどちらですか?」

「浦和です」(高速道路は通行止めだ……)


「では、明治通りから行きましょう。

山手線や埼京線に沿っているので、最寄り駅から電車に乗れます。いかがですか?」


「そうね、その方が安心ね」

「では、そのルートで」


明治通りに入ると、驚く光景が広がっていた。


駅のロータリーは人で溢れ、

タクシープールには一台のタクシーもいない。

乗り場にはタクシー待ちの長い列ができていた。


実車の車なのに、乗せてくれと人が押し寄せてくる。

「大変!」とお客様と声を合わせた。

(お乗せしたくても、乗合はできない規則)


渋谷警察前交差点、玉川通りは全く動かない。

交差点の中にも車が止まっている。

渋谷駅は人で溢れていた。


そのまま新宿へ向かうが、渋滞は悪化する一方だった。

もうすぐ池袋だが、帰宅ラッシュに巻き込まれそうだ。

歩道も人で埋まっている。


「どうされますか? 池袋から先はおそらく車が動かなくなりますよ」


「いいわ。荷物もあるし、このまま行くわ」


「かしこまりました。では、池袋手前で曲がって、山手通りから中山道へ向かいます」


電車が止まり、帰れない人たちが街にあふれる中、

二人を乗せて浦和へ向かった。


ようやく中山道に入ったが、ここから先は全く車が動く気配がない。

上り車線も渋滞中だ。


日が暮れ、歩いて帰宅しているのだろうか、

下りの歩道には延々と人の列が続いていた。


(こんな光景は見たことがない)


車内のこの重苦しい空気──

二人が不安そうなので、声をかけてみた。


「大変なことが起きたみたい。でもラジオじゃよくわからないですね」

続けて、「恵比寿で個展を開くんですか?」


「そうなの。娘は日本画を描いているのよ。

親バカかもしれないけど、いい絵よ、この子の」


「あの……これ、ぜひ」と娘さんが招待状をくれた。


招待状にはバラやアジサイの花の絵が描かれていた。

(洋風で思っていた絵のイメージとは違ったが、奥行きがあり立体的だった)


「ありがとうございます。絶対に見に行きます。

でも、この日程、大丈夫ですか?」


「そうだ、日程は仕切り直しになっちゃう」

(額が壊れ、この状況では仕方ない)


「決まったらぜひ連絡ください」と名刺を渡した。


「改めて、娘は“あやか”、私は母の“ともこ”です。よろしくお願いします」


名刺を渡し、連絡先を交換した。


日本画は絵具が高価なため、

あやかさんは制作のために昼はバイト、夜は恵比寿のラウンジで働いているらしい。


『目標は画家になること』

だが、絵を描くことは仕事にはせず、

描きたいときに描くスタンスだと言う。


そんな絵への思いなど、プライベートな話も聞かせてもらった。

こんなときに、(こんな会話をしていていいのか……

でも、きっと誰もが、少しでも不安を紛らわせたかったのだ)


そのあとも、絵や写真の話が続き、

車内の雰囲気が和らいだ気がした。


「バラがお好きなんですね」と言うと、ふたりとも、「うん」とうなずいた。


今度一緒にバラ園か旧古河庭園に行きましょう──

そんな約束までした。


そして、

「いつも持ち歩いてるんです」


ちょっと自慢げに、いつも持ち歩いている“バラの写真”をカバンから取り出し、手渡した。


「雰囲気のある一枚ですね」と母親が言うと、

「こんな写真を撮られる方だったとは。いい意味でギャップですね」

と娘さんが小さく笑った。


車内は和やかな雰囲気に包まれた。


浦和のマンション前に着いたのは、もう夜の9時をまわっていた。


トランクを開け、娘さんの絵が入った包みをそっと取り出し、手渡す。


母娘は揃って深く頭を下げた。


「本当に……ありがとうございました。助かりました」

「お気をつけてくださいね」


二人の後ろ姿を見送り、静かに車へ戻る。


シートに腰を下ろし、静かにハンドルを握る。


長い一日だった──。


ようやくつながった会社への電話。

「今から戻ります」


会社も事情は察しているのか、

「気をつけてね」のひと言だけで電話は切れた。


会社に戻れたのは、深夜0時近くだった。


________________________________________

第八夜「扉」

挿絵(By みてみん)

あの日、震災の夜に連絡先を交換した娘さん——あやかさんから、久しぶりに電話があった。


「お久しぶりです。ちょっと先なんですけど、6月15日から個展を開くことになって。

よかったら見に来てください」


「もちろん行きます。

でも、まだ少し先ですね。よかったら、その前に——5月に“バラ”見に行きませんか?

お母さまもご一緒に」


「本当ですか? 行きたいです!」


「ちょうど春バラが満開になる時期で、写真も撮りたいなと思ってて。

……ひとりだと、ちょっと勇気がいるんです」


少し照れながら言うと——


「じゃあ、私、スケッチブック持っていきますね。ちゃちゃっと描いちゃいます」


あやかさんは冗談めかして答えた。


すかさず、


「それでは、5月15日の日曜日。予定、大丈夫ですか?」


「わかりました。母にも伝えておきます。きっと喜びます」


「じゃあ、また改めて詳細を。楽しみにしています」


電話を切ると、心がふっと軽くなった。

不思議なことに、静まり返った夜の街が、少しだけ明るく見えた。


5月15日、日曜日。

朝、自家用車で約束の赤羽駅に向かう。


待ち合わせ場所には、すでに二人の姿があった。

笑顔で手を振ってくれる。


——5月にしては、すでに初夏のような日差し。

でもその日差しも、心地よい。


二人は、デニムのロングスカートにジャンパー。

その下にはボーダー柄のTシャツだろうか。

色違いだが、お揃いのような出で立ちだ。


娘のあやかさんはリュックを背負い、手には小さな椅子を持っている。

母親のともこさんは日傘を手にしている。


まるでこれからピクニックに出かける姉妹のようだ。


後部座席に二人を乗せ、助手席には荷物を。

旧古河庭園へ向かう。


園内に入ると、たちまち甘く、豊かなバラの香りに包まれた。


一面に咲き誇る色とりどりのバラを一通り見て回ってから、撮影ポイントを探して三脚を立てた。


「ここ、三脚禁止じゃないですか?」

と、あやかさんが尋ねる。


「大丈夫。事前に撮影許可、取ってあるんです」


「えっ、すごい……!」


「タクシー業界、ルール遵守が基本なんでね」


そんなやり取りにも、自然と笑みがこぼれる。


あやかさんは持参した小さな椅子に腰を下ろし、スケッチブックを広げた。

水彩のにじみが、紙の上にゆっくりと広がっていく。


お母さんには、日傘をレフ板代わりに持ってもらう。


「お母さん、ちゃんとアシスタントできてる?」

と、あやかさんがちゃかすように言うと、


お母さんも、負けずに「できるわよ」と返す。


そんなやりとりも、甘く豊かなバラの香りの中、時間がゆっくり流れていくようだった。


気が付けば、あっという間に、楽しい時間は過ぎていた。


夕食にはまだ少し早かった。

帰り道、浦和へ戻る途中のファミレスで軽く食事をとることにした。


テーブルも広くて、何より、あやかさんの描いた絵や、自分が撮った写真を見返すにはちょうどよかった。


スケッチブックをめくりながら、思わず口にする。


「この一枚、いただけませんか?」


「いいですよ」


そう言ったあやかさんだったが、すぐにカメラの液晶をのぞき込んで、


「っていうか、この画面、小さくないですか? パソコン持ってきてないんですか?」


「……すみません。準備不足でした。写真見せるって言ってたのに」


(でも、自然と距離は縮まっている気がした)


そのとき、ふとお母さんが口を挟んだ。


「じゃあ、うちのパソコンで見ようよ」


「えっ、いいんですか?」


「構いませんよ。ちょっと散らかってるけど、それでもよければ」


「……では、お言葉に甘えて、おじゃまします」


ふたりのマンションへお邪魔するのは、もちろん初めてだった。


エントランスのオートロックが開いたとき、

あやかさんがふっと笑って言った。


「……じゃあ、“扉”、開けちゃいますね」


軽い冗談のように聞こえたそのひと言が、なぜか心に残った。


「どうぞ、どうぞ。ほんと片付いてないけど、気にしないでね」


「おじゃまします」


リビングに通されると、まず目に飛び込んできたのは、壁一面に飾られた日本画だった。


中でも、朝顔を描いた大作には、思わず息をのんだ。


(この距離で、こんなに大きな日本画を見るのは初めてだ……)


「すごいですね、この質感……

油絵とも全然違う。迫力があるのに繊細で」


「でしょ? あの子、この絵を描くとき、リビングを完全に占領してたの。

床に広げて、はしごに乗って描いてたのよ」


(立ててじゃなく、平置きで描くのか……)


あやかさんがノートパソコンを持ってきて、撮った写真を一枚ずつ丁寧に見ていく。


「これ、いい! すごい! やっぱりプロですね!」


(……素直に嬉しい)


その一枚は、自分にとっても“会心の一作”だった。


「じゃあ、プリントしておきますね。サイズは?」


「できるだけ大きく」


「了解です」


次の写真を見ながら、あやかさんが少し恥ずかしそうに言った。


「……これ、私? ちょっと照れるな。

でも、“私”じゃないみたい。不思議な感じ……

お母さんの写真も、すごくきれいに撮れてる。ねぇ、ちゃんと事前に許可、取った?」


「はい。こっちもプリントしておきますね」


すると、あやかさんがスケッチブックを取り出して、


「じゃあこれ、さっきの絵」

と言いながら、笑って“ayaka”とサインを書き入れた。


それからというもの、休みの日に寝て過ごすことが少なくなった。


季節の花を追って、三人で出かける日が続いた。

あやかさんが忙しいときには、ともこさんと二人で行くことも増えた。


そして、ある深夜。一本の電話が入った。


「あの……今夜、自宅まで送ってくれませんか?」


「はい。今どこですか?」


「銀座……というか、新橋駅のそば、カラオケ屋さんです」


「了解。銀座側のカラオケですね?」


ピンと来た。あのあたりだ。


新橋ガードを越えた先で、彼女の姿が見えた。

手を振っている。その隣にはスーツ姿の年配の紳士。


車を寄せてドアを開けると、あやかさんは軽く会釈して乗り込んだ。


「今日はどうしたの?」


「車代、あの人が出してくれたの」


(ラウンジ帰り?……アフターか)


「あのね、銀座で働かないかって誘われたの。

この前の個展にも来てくれて。いろいろ話してたら、“応援するから、うちに来なよ”って」


「変な援助じゃないよ? わかってるでしょ? そんなに安くないんだから」


やや強めの口調。

でも、怒っているわけではない。

そこには明確な自己主張があった。


(でも……お母さんは、どう思っているのだろう)


その疑問が、ふと胸をよぎる。


銀座で働くということ。

それは単なる移籍ではない。


銀座は、甘くない。


お客さまを“育てる”文化と矜持がある。

覚悟なしには、踏み込めない場所だ。


あやかさんの言葉の端々に、どこか切実なものが滲んでいた。


浦和へ向かう車内で、ふと思い立った。


「前からお願いしたかったんだけど、絵を二枚、描いてもらえないかな。もちろん、ちゃんと払うよ」


「いいですよ。どんな絵?」


スマホの画面を見せた。“門扉”の写真だった。


「この“扉”をモチーフに、“閉じたもの”と“開いたもの”の連作で。

F6サイズくらいでお願いしたい」


「うん。材料代だけでいいからね。あとで写真、送って」


それから数日後、

あやかさんは“エミ”という源氏名で、銀座・並木通りのお店に見習いとして入った。


……けれど、不思議とお店の名前は教えてくれなかった。

聞きもしなかったが、それが少し、気になっていた。


母親にも、店の名や支援者の存在までは話していないようだった。

おそらく、あやかさんなりの配慮なのだろう。

余計な不安を与えたくないという思い。


ともこさんも、

娘はもう十分大人だと信じているからこそ、あえて詳しくは聞かない。


だからこそ——


あえて、誰も“扉”を開けなかった。


________________________________________

第九夜「綱渡り」

挿絵(By みてみん)

それは、本当に突然だった。

ユッコママから、こんな連絡があったのだ。


「お店、辞めることにしたの。実家に帰るから」

そのときは、「そうですか……」としか言えなかった。


(……突然すぎる。実家に帰るだなんて……何があったのだろう)


しばらく前から、ママは車内で愚痴をこぼすことが多くなっていた。

「時代は変わったわ」「もう無理が利かないのよ」

そんな言葉が、口癖のようになっていた。


(……もしかして、病気……?)


それから、ぱったりと連絡が途絶えた。

店も閉じたらしい。


銀座の看板はこのところ入れ替わりが激しく、空きテナントも増えている。


恵比寿のマンションの前を流すたび、つい目がいく部屋の窓。

明かりが灯っていても、そこにはもう、ママはいなかった。

見知らぬ誰かの暮らしがあるだけ。


いつしか、その窓も見なくなっていた。


それでも、今日。

またこうして、ママは銀座に戻ってきた。


思い切って聞いた。

「どうしてまた銀座に?」

「泣きつかれたのよ、妹分の“エミ”に!」


「エミさん?」

「そう。あの子に負けたの。悔しいけどね」


(……“エミさん”? “あやかさん”?)


「最初はケンカばかり。“ここは銀座よ!”って私が怒鳴ったり、

あの子がふてくされたり。誤解もあったしね……

でも、かわいい“妹分”なのよ」


「新しい店で“ママ”になるなんて言い出して、びっくりした。

そんなの無理よって思ったけど……泣きつかれたら、ね。姉さんとしては、ほっとけないでしょ」


「一肌脱いで、戻ってきたわけ。私がママ。彼女はチーママ。

“銀座の流儀”、叩き込まなきゃね」


その話を聞いて、いてもたってもいられず、あやかさんに電話をかけた。


(“エミさん”と“あやかさん”が同一人物か、まだ確証はなかった)


「ごめんなさい、急に……でも、今、どうしても話したくて」

「あ、大丈夫だけど、なに?」


「ユッコママって知ってます?」

「もちろんだよ?。うちのママだもん」


「……やっぱり。で、あやかさん、チーママになったんですか?」

「そうだよ、言ってなかったっけ?

銀座で頑張ってるよー、私」


(気合が入っていることは感じ取れた)


「頑張っているとは聞いてましたけど、チーママになったって話は初耳です。

本当は“ママ”になれたって?」

「なんで知ってるの?」


「ユッコママに今日、会ったんです。“エミに泣きつかれて戻ってきた”って話、聞いて驚いて電話しました」

「やっぱまだ“ママ”なんて無理だよー。

だってここ、銀座だよ?

店だってどんどん潰れてるしさ……。

でも、“ユッコママがいる銀座”じゃなきゃ、銀座じゃないって思ってるから」


「……たしかに。でも、ユッコママ、顔変わりましたよね?」

「うん、お化粧変えたんだってさ。気分転換というか、若作りというか、今風というか……。

“銀座以外は全部捨てた”って言ってた。時代は変わったって。

でも“銀座だけは残す”って、気合入ってるよ」

「気合いれないといけないのは、私なんだけどさ」


声は笑っていたが、なにか自信のようなもの、決意みたいなものを感じた。


(この声の調子、何度も聞いている……)


「そうそう、絵、一枚目は出来たんだ。

もう一枚は、私がママになったときにね。……楽しみにしててね」


(心から、笑っている……声が弾んでいた)


「そうなんだ。じゃあ受け取りに行きます。都合のいい日、また連絡ください」

(……不安なんて一気に吹き飛んだ感じがした……)


「ところでさー、いつになったら言うの?」

「なにを?」


「お母さん、待ってるよ?」

「はは、それはないですよ」


「そうかなぁ??」

「じゃあね。……また、スケッチ旅行にいこうね……」

と、言って、静かに電話を切った。


(……いやいや。この“綱渡り”みたいな関係がいいんだよな。

切れたら終わり。でも、切れそうで切れない)


あとがき

『一期一会』をお読みいただき、ありがとうございました。

この物語は、ある方のひと言から生まれました。

その方――“T.(ティードット)”さんは、もともとはタクシーの乗客としてお会いした方でした。

何度かご乗車いただくうちに、すっかり常連のお客様になり、

やがて地元へ帰省されることに。

それ以降も、LINEを通じて日常的にやり取りを続けており、

今ではとても大切な友人となっています。

あるとき、T.さんがこう言ってくれたのです。

「この仕事、ぜったい物語にしたほうがいいですよ」

その何気ないひと言が、私の背中をそっと押してくれました。

________________________________________

書き進めるうちに、忘れかけていた当時の記憶や情景が、

懐かしくよみがえってきました。

執筆にあたっては、生成AI(ChatGPT)にも大いに助けられました。

私たちは彼のことを、親しみを込めて“gpt君”と呼んでいます。

gpt君は、文法の誤りはもちろん、

「ここはこうしたほうがリズムがよくなります」といった

文体の微調整まで、実にきめ細かく指摘してくれました。

ひとりで黙々と書く孤独な作業のはずが、

T.さんやgpt君がそばにいてくれるようで、

心強く、安心できる時間でもありました。

本当に、感謝しています。

________________________________________

この物語はフィクションです。

けれど、登場するいくつかのエピソードは、実際の出来事をもとにしています。

現実と物語とが、ところどころで交差する。

そんな構成にしたつもりです。

タクシーという仕事は、まさに「一期一会」の“止まり木”のようなものかもしれません。

交わした言葉も、流れた時間も、ほんの刹那のことだったかもしれない。

それでも、その刹那が、いつしか“永遠”へと変わることもあるのだと、私は思っています。

それは今でも、たしかに、自分の中に残っています。

________________________________________

どこまでが事実で、どこからが物語の脚色なのか。

その境目は、読んでくださったあなたにお任せしたいと思います。

どこかひと場面でも、あなたの心に残るものがあったなら――

それだけで、書いてよかったと思えます。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


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