第51曲 日常からの逸脱
ある人が書いた本の中で読んだセリフが心に残っている。
劇的な出来事というのは日常の中にある。非日常は常に日常の急激な変化によって起きる。
その日はなんてことのない普通の一日。
何かが起きると叫ぶ預言者もいないし、不吉な予感に固唾を飲んで事の顛末を見守っているような人もいない。
戦々恐々とした人々の不安の中で事件が起きるわけではないのだ。
その日も誰もが今日は平穏に、退屈に過ぎていくのだと信じて疑っていなかった。
劇的な出来事はその日常を突然に壊すからこそ劇的なのだ。
1年でいちばん寒いんじゃないかと思う2月。
トレンチコートとジーンズに身を包んだわたしはショッピングモールに向かっている。
「ゆきちゃん、遅いよー!」
そう言って手を振るひより。はしゃいでるなぁ。
「もう!そんなにはしゃいだら転んじゃうよ!」
今日はひよりと2人きりでショッピング。
いつもはあか姉がわたしの服を選んでくれるんだけど、今日はどうしても外せない用事があるということで、そうしたらひよりが「わたしが選んであげる!」と手を挙げた。
ひよりもけっこうオシャレな方だし、たまには違うイメージの服を着るのもいいかなと思って選んでもらうことにした。
繁華街はたくさんの人がいろんな方向に向かって忙しなく歩いている。
信号が変わるたび交互に動き出す車たち。
それらの流れは途絶えることがなくて、まるで街全体が生きているかのよう。
目に見える全ての範囲に人々の営みがある。
さっきまではしゃぎまわっていたひよりがいつものようにぴったりとくっついてきた。
「やっぱりゆきちゃんと2人なんだからこうしておかないとね!周りから見たらわたし達ってどうみえるのかな?恋人同士?えへへ」
何をバカなこといってるんだか。恋人同士に見えるわけないじゃない。
「そんなわけないでしょ。よくて仲のいい姉妹か、女友達同士……」
言っている途中でうなだれてしまう。
「どうしたの、ゆきちゃん?」
「自分で言ってて悲しくなってきた……。わたし男……」
ひよりが隣で苦笑いしている。と思ったらさらにしがみついてきた。
ささやかながら柔らかい……。
「仕方ない!うん!でもゆきちゃんは誰が見ても美人なんだからそこに自信を持とうよ!」
そこに自信持っていいのか?なんか違う気がする……。
「ん……?」
わたしが一点を見つめて険しい顔になったのに気が付いたひよりが怪訝な顔で覗き込んできた。
「どこ見てるの?」
「……」
わたしは1台の車、白のライトバンを凝視する。
挙動が……おかしい?
少しフラフラと蛇行運転をしている。運転手を見ても居眠りをしている様子はない。
むしろ周りをキョロキョロと見まわして何かを探しているかのようだ。
表情もなんだかおかしい。
「ゆきちゃん?」
ひよりがそうわたしに呼びかけた瞬間、その運転手の男は何かを見つけたようで、私たちがいるのと反対方向、左へとハンドルを急激に切った。
悲鳴を上げるタイヤの音を無視して急加速。
一瞬の出来事だった。
歩道を歩いていた母親と小さな娘さんめがけて突進していく。
わたしの目にはそれがスローモーションのように映った。
まず母親の体をなぎ倒し、幼い子の小さな体を跳ね飛ばす瞬間が脳裏に刻まれた。
次の瞬間には激しいクラッシュ音。
母子の近くに立っていた電柱に突っ込んで車はストップ。
「なんだ?事故か?」「びっくりした」「大丈夫かしら」
周囲はまだ事態に気が付いていない。
違う。
あれは事故なんかじゃない、故意だ!
エアバッグが膨らみ、中がよく見えなくなっている運転席のドアが開き男が這い出してきた。
その男が手に持っている物を目にした瞬間、全身の毛が逆立つのを感じた。
「ちょっと大丈夫か!?」
わたしが動き出すより先に親切なサラリーマン風の男性が男に声をかける。
「危ない!逃げて!」
わたしの声がとどいて男性がこちらを向いた時にはもう遅かった。
男性の腹には男が持っていたサバイバルナイフが深く突き刺さっていたのだ。
「ひよりはあそこの陰に隠れていて!」
それだけ言うとわたしは猛然と走り出した。「ゆきちゃん!」とひよりの呼ぶ声がしたけど振り返っている余裕はない。
男はわけのわからない奇声を発しながらナイフを振り回している。悲鳴を上げながら逃げ惑う人達。
そして男はターゲットを絞ったようで、前に進み始めた。
その視線の先にいるのは恐怖で身動きが取れなくなっている女子学生。
コイツ、また!
か弱い相手ばかり!
でもターゲットを絞って今頃動き出したところでもう遅い。
男はすでにわたしの射程範囲に入っている。
男の注意をこちらに向けるため、わたしは裂帛の気合を込めて声を吐き出す!
「はあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
男がその声に気がついてナイフごとこちらを向いた時には私の体はもう空中にあった。
ターゲットはナイフを握っている腕の手首部分。
動きがあっても捉えられるようその手の動きを目でしっかりとロックオンし、一気に右足を振りぬく!
手首内側の柔らかい個所にヒットした感触。
渾身の力で手首を蹴りぬかれた男はナイフを取り落とし、苦悶に顔をしかめる。
普通の人間なら全速力で飛び蹴りをしているこの状態は危ない。
勢いがついているので何もしなければ男にそのまま体当たりをして共に倒れこむか、体重の軽いわたしでは受け止められてしまうだろう。
この勢いでは体勢を整えるのも難しい。
持っているナイフだって一本とは限らない。
だけど!
「わたしは普通じゃ……ない!」
見ている者には何が起こったかわからなかっただろう。
無理やり空中で上体を半回転させ、背中越しに男の顔を視界に収める。
直後追いついて回転してきたわたしの左足のかかとが男のこめかみにめりこんだ。
人体の急所に、走ってきた分と回転の勢いを合わせたかかと蹴りをくらってはたまったものではない。
男は横っ飛びに吹き飛び、地面を舐める。
またしても無理やり体勢を整え着地に成功。
すかさず走り寄って男の腕をひねりあげ、近くの人に呼びかける。
「誰か男の方、数人がかりでコイツを抑えておいて!」
すぐに3~4人の男性が集まり、わたしが捻りあげていた腕を引き継ぎ抑えこんでくれた。
わたしはすぐさま走って男に腹部を刺された男性の元に向かう。
けっこうな出血量だ。
このままではマズイ。
ハンカチを取り出して傷口に当て、力を込めて止血をしようとするがハンカチでは心許ない。
「誰かハンドタオルを持っていませんか!」
買い物帰りらしき主婦がハンドタオルを渡してくれたので、それで止血をしながら指示をする。
「そこの男の人!この人の傷口をこのタオルで力いっぱい押さえておいて!」
すぐにその男性が変わってくれたのでわたしはまた走り出す。
「体重を乗せて力いっぱい押さえて!」
後ろに向かってそう声をかけながらわたしが急いでむかったのは車の向こうにいるであろう母子のところ。
ここからは突っ込んだ車が邪魔になっていて今どうなっているのかも見えない。邪魔だ!
わたしは跳躍すると背中を車の天板に預け、そのまま滑り込んで反対側に降り立つ。
見ると母親の方は何とか無事だったらしく、腕を押さえてはいるものの娘さんに向かって涙を流しながら必死に声をかけている。
「このみちゃん!しっかりして!」
そばにいる男性がたどたどしい手つきで心臓マッサージをしようとしている。心臓が動いていないのか。
だけど危ない!わたしは男性を慌てて止めた。
「その子は横から跳ね飛ばされてたから肋骨が折れているかも!心臓マッサージをすると骨が肺に刺さる危険性がある!」
男性は慌てて手を離し、うろたえてわたしに尋ねる。
「では、どうすれば!?」
「心肺停止してから何分!?」
「ついさっきだからまだ1分も経っていないと思う」
よかった。ならまだ間に合う!
「そこのデパートの入り口にAED(自動体外式除細動器)があるから取ってきて!」
この辺りには何度も来た。
わたしの頭には普通の人なら見過ごしてしまうそんな小さな情報でもインプットされてしまっている。
まもなくAEDが運ばれてきたので手早くセット。
使い方は以前授業で習ったのでしっかり頭に入っている。
「ほら、おかあさんも離れて!3・2・1!」
小さな体が跳ねる。AEDを確認するとまだ「ショックが必要です」と表示されたまま。まだだ!
「もう一回!3・2・1!」
再び跳ねる体。
ダメか!?お願い!
「……けほ、けほっ」
「!!」
小さくか細いながらも確かに息を吹き返した。よかった!
「おかあさ……ん」
「このみ!このみ!おかあさんはここよ!」
どうやら意識も回復したみたい。これで大丈夫……かな。
そこまで済んでからようやくわたしは体の力が抜け、その場にへたりこんだ。
本当によかった……。
冷静になって自分の姿を確認してみると、薄汚れているし血だらけだ。
さすがにこんな格好でうろつけないな。
わたしが走り回っている間に警察が到着していたようで犯人の男はすでに手錠をかけられていた。
そして救急車も何台か集まってきた。
腹部を刺された男性も、はねられた親子もそれぞれ搬送されていった。
ひよりに隠れているようにと指示した場所まで戻ってみると、ちゃんとそこにいた。泣きそうな顔で。
「ゆきちゃん……」
わたしを見てさらにその眼に涙が浮かぶ。
「全部終わったよ」
安心させようと笑いかけながらそう言うと、なぜか胸を叩かれた。
いたっ……くないけど。
「ゆきちゃんのバカぁ!あんな無茶して一人で走り回って……心配しすぎてどうにかなりそうだったよ!」
最初に親子が跳ねられて、AEDを使って息を吹き返すまでそんなに経っていないはずだ。
心肺蘇生は4分の壁との時間勝負。だからわたしも焦っていたのだ。
そのわずかな時間がひよりにはきっと長く感じられたのだろう。
その大きな瞳から大粒の涙をぽろぽろとこぼしている。
「ごめんね。ひより。でもこんな姿じゃ抱きしめてあげることもできないから、とりあえずの服だけ買っていいかな」
まだポカポカとわたしの胸を叩き続けていたひよりもわたしの姿を再確認して驚いたようだ。
「ゆきちゃん血だらけ!泥だらけ!怪我したわけじゃないよね?」
「わたしは怪我なんてしないよ!さ、服を買いに行こう」
でもさすがにこんな格好でデパート内をうろつくと目立ちそうだったので、路面店のブティックを探していたらお店の人から声をかけられた。
「ちょっと。お嬢さん。全部見てたけど驚いたわ。若いのにすごいわね、あなた」
お嬢さん……。いや、気にしない。
「いえいえ、わたしができることを精いっぱいしただけです。大したことじゃないですよ」
「……いや、十分大したことでしょ。まぁいいけど、さすがにその恰好じゃ家にも帰れないでしょ?はいこれ」
そう言って手に持ったダウンコートを突き出してきた。
オシャレなコート。高そうだ。
「ありがとうございます。いくらですか?」
「お金なんていらないわよ」
その言葉に今日いちばんで驚いた。ひよりも目をみはっている。
「いや、そんな!理由もなしにそんなの受け取れませんよ!」
「理由ならちゃんとあるわよ。わたし達の愛するこの街を守ってくれたお礼」
有無を言わせぬとばかりにグイっと押し付けられたコート。
ためらいはあったけど、ここで固辞するのも失礼かもしれない。
「そんな大それたことをしたつもりはないですけど、ご厚意はありがたく受け取らせていただきます。ありがとうございます」
深々とお辞儀をしてコートを受け取り、着替える。温かい……。
それまで来ていたトレンチコートはさすがにもう着られないだろうということでブティックのお姉さんが処分してくれると言ってくれた。
何から何まで申し訳ない。
「本当にこの街が好きなんですね」
ふと思ったことを口にしてみた。
「そうね。煩わしい時もあるけど、もう何年もここでお店構えてるから愛着も湧くわね。うるさいけど賑やか、ゴミゴミしてるけど活気にあふれている。
そんな矛盾に満ちているからこそ飽きないし、好きになれるのかも。人と同じよ」
「矛盾……ですか」
「そうよ。人間を好きだから必死で戦うくせに、自分の事には無頓着な誰かさんと同じ」
そう言ってウインクしてくるお姉さん。
ギクッとした。
初対面でなんでそこまで……。
「相当体に負担かかってるでしょ。早く帰ってゆっくりお風呂に浸かりなさいな」
わたしの肩をぽんと叩きながらそう言ってお姉さんはお店の中に戻っていってしまった。
「ショッピングって雰囲気でもないし帰ろっか」
ひよりも帰ろうと言う。さっきの会話から何か感じ取ったのかもしれない。
わたしもそれに反論することなく、痛む体のことがバレないように気遣いながらひよりの後を追った。
挿絵:ひらじ様 @hirazi_illust
この事件でゆきは何を感じ、何を学ぶのか。
少しの間ゆきの苦悩のお話が続きます。
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