第29曲 リミッター解除
翌日朝。
「あれ?声が出る」
別に特段低い声が出るというわけでもない。
のどの違和感もすっかり消えてしまっている。
一番わかりやすい変化のはずの喉仏は出てくる気配もなく相変わらず握れば折れてしまいそうな華奢な首のまま。
あれぇ?恥ずかしがり屋さんなのかな?
????の状態のまま、いつものように朝食の用意をしていると両親が起きてきた。
「おはよう!ねぇねぇ、最近喉の調子が悪かったから昨日病院に行ったでしょ?そしたら声変わりって言われたんだけどわたしの声ってどう変わった?自分ではよくわからなくて」
2人とも黙って聞いていたが、わたしがそう尋ねても顔を見合せ首をかしげるだけ。
「どこが変わったのかわからないんだが……」
やがてお父さんがポツリ。
「本当に声変わりだったの?喉仏も出てないじゃない」
お母さんも。
2人に声を揃えてそう言われるとますます自分ではわからなくなる。
「でもお医者さんには声変わりですねってはっきり言われたんだけどなぁ」
「まぁ様子を見てれば?そのうち本当に声が低くなっていくかもしれないし」
呑気だな。それにしてもそんなあいまいなものなの?声変わりって。
やがて仕事に出かける両親を見送って、そろそろ姉妹たちを起こしに行く時間。いつも通りより姉の部屋をノックするけど当然朝から返事をしてくるはずもない。
部屋に入りより姉が寝ているそばに寄って声をかける。
それはいいけど、いい加減弟に寝姿を見られることを恥ずかしいと思ったりしないんだろうか、この人たちは。
「より姉~朝だよ。起きなさ~い」
「ん~ゆき~。いつもかわいい声だぁ」
いつもときたか。
寝ぼけた状態で変わらないって思うなら本当に同じと思っているんだろうな。
そしていつも通り布団に引きずり込まれそうになるのを阻止してさっさと目を覚ましてもらい、質問する。
「わたしの声、本当にいつも通り?」
「ん~何言ってんだ?いつもと同じかわいい声じゃねーか?……あれ?」
やっと気づいたか。
「ゆき、声ちゃんと出るようになったのか?」
「みたいだね。で、どう?声変わりした弟の感想は?」
しばらく思案顔のより姉から出てきた言葉は「わからん」
ですよね~。
こうなると頼みの綱はわたしの些細な変化にも目ざとく気が付くかの姉しかない。どうしてそんな細かいことまでわかるのか時々怖いときもあるけど、こんな時頼りになるとは。
とにかく気になるので最後の望みを抱いてかの姉の部屋へ。
「かの姉~。朝ですよ~起きて~」
目覚めだけはいいかの姉はすぐに目を開け、わたしの顔を見るなり微笑む。
「あ~今日もゆきちゃんに起こしてもらえて幸せです~」
ふむ。今のところは反応なしか。
「おはよう。かの姉。今日もいい天気で外はものすごく暑そうだよ」
普段は朝から天気の話をしたりなんかはしないけど、声を聞いてもらうために無理やり話題をつなげてみる。
「そうなの~?外に出たくありませんね~。それよりいつもの朝のちゅ~」
声が元に戻ってることも含めて一切気づく気配なし。
やっぱり何も変わってないのかなと思いかの姉のおでこにキス。
「おはよう。もう朝ごはんできてるからね」
「ゆきちゃん、声元に戻ったのね~。何も変わらずかわいい声のままで安心しました」
気づいてた。
しかもかの姉からも変わっていないと宣告され、これはいよいよわたしの声変わりは勘違いと言う線が濃厚になってきたぞ。
続いてあか姉とひよりも起こしたけど、どちらも変化に気づくことはなくこっちから指摘してようやく気付いてくれる。
感想は元に戻ってよかったねと言われるだけ。
ん~この数日の喉の不調は一体何だったんだろうか。
朝食後、自分の喉の調子を調べるためスタジオにこもり、ここ数日喉の静養のために控えていたボイトレがてら音域の確認もすることにした。
地声は当然問題なしとして、裏声も問題なし。
ヘッドボイスからハイトーンに移行しても何の変化も感じられず、ホイッスルボイスにもなんら影響はなかった。
これで地声から高音域に関しては以前と変化ないことが証明されたけど、試しに低音域を試そうと思いちっとも出ていない喉仏を下げるイメージで低音ボイスを出してみた。
おぉ!これわたしの声か!?
以前はちっとも出なかった低音が面白いように出る!まだ慣れていないから声量はイマイチだけど、ちゃんと声変わりはしていたようだ。
でも普通声変わりすると地声が1オクターブくらい下がるって聞いてたんだけどな。
やっぱりわたしの体はいろいろと特殊なようだ。
伊達に胸が成長する体じゃないってことか。はぁ……。
でも音域が広がったことは素直に嬉しい。これで曲作りの幅ももっと広がるってもんだ。これは姉妹にもちゃんと報告しておかないと!
スタジオを出てリビングに戻るとまだみんなそこにいて朝の情報番組を見ていた。あ、美味しそうなスイーツ店の特集やってる。これはチェックしておかないと。
しばらくみんなと一緒に黙ってスイーツ店の特集を凝視していたが、やがて特集が終わるとひよりが尋ねてきた。
おっとついスイーツに気を取られてしまっていた。閑話休題。
「ゆきちゃん、のどの調子確かめるためスタジオに行ってたんだよね?調子はどうだったの?」
そう言われてちょっとした悪戯を思いついてしまった。わざと深刻な顔を作り、大切な話をする雰囲気を作って喉仏を下げる。
「じつは本当に声変わりしていて、僕の声がこんなに低くなってしまったんだ」
目いっぱい低い声でそう告げる。僕なんて言ったの初めてだからちょっと照れる。
「ゆ、ゆき……?」
「え、マジで」
驚いてる驚いてる。楽しいけどあんまりやると本気で心配されそうだから早々に種明かし。
「なーんてね。地声は知っての通りで高音域も全然変わってなかったよ。ただ低音が出しやすくなっただけ。これで歌のレパートリーがもっと増やせるよ」
「そ、そうか……」
あれ?なんか反応が薄い。もっと驚いてくれるかと思ってたのに。
と思っていたら4人揃ってキッチンに移動。どうやらわたしには聞かれたくない秘密会議をするようだ。
「心臓止まるかと思った……」
より姉が開口一番そう言った。気持ちは分かる。わたしも十分に度肝を抜かれた。表情には出ないけど。
「なにあの声。本当にゆきちゃんだよね?」
ひよりも動揺を隠せていない。楓乃子にいたっては夢見心地の顔をして心ここにあらずだ。
「てゆーかさ……」
ひよりが固唾を飲む。
「めちゃくちゃイケボじゃない?」
異議なし。あの声で迫られたらイチコロな自信があるくらいだ。
「だよな!まさかゆきからあんな声が出るとはなぁ……」
より姉は感慨深そうだ。
「あの声にいろいろ言わせたい」
わたしの提案にひよりが食いつく。
「あか姉わかる!ゆきちゃんのあの容姿であの声。人死にが出るレベルだよぉ」
「いよいよオールマイティな存在になってきたな、ゆきのやつ」
確かに。
「あの声で殺し文句言われたら大抵の女はコロッといっちゃうかもねぇ」
縁起でもないこと言うんじゃない、ひより。
ゆきがそんなジゴロみたいなことをするわけがない。させない。ふんす。
「それにしても胸はまた大きくなってるし、声はイケボになってるしでゆきちゃんすっかり成長期だね。これからもっと変わっていくのかな」
「今後の注意事項も含めてゆきと話し合う必要があるな」
どうやら秘密会議は終わったようで4人揃って戻ってきたけど、かの姉大丈夫?なんか心ここにあらずな顔してるけど……。
「とりあえずだ。ゆきの声に少し変化があったのはよくわかった。その上でひとつ言いたいことがある」
なんだろう。低音域が出るようになって何か都合が悪いことでもあるんだろうか?まさか喉によくないとか?
「さっきの声で『今夜一緒に食事でもどうですか』って言ってくれ」
なにそれ?なんかのドラマのセリフ?
「ちょっとより姉!何自分の欲望爆発させてんの!?」
ひよりから抗議の声が上がってるけど、いったい何を話し合ってたの?
「いいじゃねーか。どうせお前らも聞いてみたいクチだろ」
「……」「……」
あか姉とひよりが無言の肯定。まぁドラマのセリフをまねるくらい別に構わないけど。
「さっきの言えばいいんだね?ちょっと待ってね、んんっ」
軽く咳ばらいをして再度低音を意識して声を出す。
「お嬢さん、僕と今夜一緒に食事でもどうですか」
「「「~~~~~~っ!」」」
「あはぁ!」
みんな変な声出して顔伏せちゃった。なんかぴくぴくしてるし。かの姉さらに壊れちゃったけど本当に大丈夫?
「ダメだ、魂が出ちまう……」
なんで!?
その後もかの姉除く3人からいくつかのセリフを言わされ、そのたびに3人は悶え、かの姉はさらに壊れていった。
一体何が起こっているの?
そんなに名セリフが流行ったドラマって最近あったっけ?
「はぁはぁ……。いいか、ゆき。お前のその声はある意味兵器だ。わたしらだから耐えられるようなもんで外ではあんまりその声を出すんじゃないぞ」
いや、さっきまで散々人の声で遊んでおいてそれ?
「まぁまだこの声にそんなに慣れてないから外で使うことはないと思うけど、歌には組み込んでいくよ?」
「まぁ歌なら大丈夫だろ。とにかくその声で女にそっとささやくとかそういうのは絶対にやっちゃダメだからな」
指示がさっきより少し具体的になってる。
「わたしになら平気」「あ、わたしもまた聞きたーい」
あか姉とひよりはまた聞きたいみたいだけど?
それより誰かそろそろかの姉を正気に戻してあげようよ。年頃の女の子がしちゃいけない顔になってるから!
みんなの真意はよくわからないけど、より姉たちが嫌がることはわたしもしたくない。
それにこの低音域を曲に活かせるよう、まずはこの声でボイトレに励まないと。
低い声は確かもっと腹式呼吸に力をいれないといけないんだっけかな。そのうちしゃがれ声とかも出せるようになるかな。
自分の可能性が広がる予感でなんだかワクワクしてきた。
喉の調子も戻ったので動画を収録できるようになり、数日で復活したため事前予約していた分だけでなんとか投稿に穴をあけずに済んだ。そして迎えた土曜日の生配信。
「こんばんわー!雪の精霊YUKIが今日もみんなに歌声を届けるよ!今日はみんなにゆき的にはとっても嬉しい報告があります!」
【お金ひろった?】【バストサイズでも上がったか?】【宝くじが当たった】好きなこと言ってるよこの人たち。
「いや、みんな俗世にまみれすぎ。あとバストサイズは上がったけどそれは嬉しくないんだよ。ゆきは男って覚えてる?」
【上がったのか……】【ごくり……】【何カップになったのか……】男って生き物はほんとに……。
「Cだよ!そうじゃなくて!いいことがあったって言ってるの!」
【C!】【ひゃほう】【それくらいがちょうどいい!】うるさい!
「無視して報告続けるよ!じつは今週何日かのどの調子の悪い日があったんだけどね」
【お?声変わりか?】【でもいつもと変わらない可愛い声だぞ】【Cカップ!】まだ引っ張るかこんにゃろ。
「そそ!お医者さんにも声変わりって言われてね。結果地声や高音域には何の変化もなかったんだけど、めでたく低音ボイスが出せるようになりました!パチパチ~」
自分で拍手をして喜びを体現。歌手にとって音域が広がるのはとっても嬉しいことなんだよ?
【ほほう、低音とな】【それは是非聞いてみたい】【なんかしゃべってみて】やっと軌道修正できたみたいだね。よしよし。
「聞いてみたい?いいよ、まだちょっと慣れてないからちょっと待ってね」
また咳ばらいをして低音を意識。かっこいい低音を意識して声を出す。
「僕と一緒に踊りませんか」
YUKIとして最適なセリフを選んだつもりだけど反応はどうかな?
【イケボ……】【ワイ男だけどドキッとしたお】【日向キリ:……】【彩坂きらり:……】【キリママときらりさんが流れ弾にやられとる】キリママにきらりさんも来てたのね。
イケボっていけてるボイスということだよね?わたしの低音そんなにイケてるのかな。
「そんなにイケてた?いやぁ歌い手としては声をほめてもらえるって無条件に嬉しいね!」
【ロリ声にかわいい系、イケボまで制覇したらもはや無敵じゃね?】【ゆきちゃんとうとうリミッター解除】【ASMR出したら売れそう】【出たらワイも買う】なんか知らない単語が出てきた。
「ASMRって何?」
【正式名称は知らん】【正確には聴覚や視覚への刺激でぞわぞわするような感覚らしい】【要するに聞いて心地いい声と解釈してもおけ】【そういう音源を録音して売るんだよ】ん?わかりにくいな。
「要するに声そのものが商品になるってこと?でも動画で聞くのとどう違うの?」
【まるで耳元でささやいてるように聞こえる専用のマイクがある】【バイノーラルマイクを使うのが多いかな】なるほど。
「そのマイクを使えばすぐ隣で話してるように聞こえるってことだね?USBにでも入れて販売するのかな?」
【そそ】【Vtuberは販売してる人も多い】【通販やコミケなんかで売る】ほうほう。それは面白そうだね。
「コミケって興味はあるけど行ったことないなぁ」
【日向キリ:コミケで売るならブース出してるからうちで売ってあげるよ】キリママ復活してた。
「キリママ本当に!?キリママが協力してくれるなら一度挑戦してみようかな?声はさっき言ってくれてた3種類を録音すればいいのかな?」
【ゆきちゃんの強みはその3種の声だもんね】【彩坂きらり:予約はどこで?3種類とも買います!】【きらりさんもすっかりガチ勢だなw】きらりさん気が早いよ……。
それだけ熱心に応援してくれるのは嬉しいけれども。
「ところで何を話せばいいのかな?はじめてのことだし何にも浮かばないよ」
【そこはセンスの見せどころ】【ロリ声ならお兄ちゃんとかお姉ちゃんって呼んだり】【添い寝してる感じで話すとか】なるほど、こないだ言わされたセリフなんかもいいかもね。
あとは添い寝か。ひよりに添い寝してやるつもりで話せばいいかな?
「うん、なんかイメージ湧いてきたかも。さっそくマイク見繕ってみるけどお勧めとかあったら教えてね。それじゃ、いい時間になってきたので歌の方に行こうかな。低音はまだ練習中だからまた今度ね。夏休みが開けたくらいには低音を組み込んだ曲を発表できるかな」
【さすがだね】【すぐものにできるのがすごい】【彩坂きらり:天才の名は伊達じゃないね】いつの間にか天才が定着してるの?きらりさんが言ってるだけじゃなくて?まぁどう呼んでくれてもいいんだけど。
その日の歌は低音の真逆のロリ声で締めたんだけど話題になったのはイケボの方で、あの短い一言だけで神回認定されるという珍事になってしまった。




