第101曲 初めての解放
開け放たれた玄関のドアから中の様子を伺う。
静かだ。
だけど、その静けさの中にひよりのすすり泣くような声を確かに聴いた。
全身が熱くなる。今まで抱いたことのないような感情が体を支配する。
突如響いた悲痛な声。
「いやぁ! 誰か助けて!」
ひよりの声にさらに体が熱くなる。燃え上がってしまいそうだ。
「おら、うるせぇよ! いい加減諦めて大人しくしろや!」
強盗だ。見知らぬ男の声で確信に変わった。心の奥底に秘めていた何かに火がついた。
気配を殺し、音をたてないようにしながらリビングのドアを開ける。
そこに広がる光景をみて我を忘れそうになった。
リビングの床に転がるひより。その上に馬乗りになっている年配の男。手にはナイフ。
他の姉妹とお母さんは隅に固まって身動きが取れない状態。下手に動いたらひよりが何をされるか分からないからだ。
姉たちがわたしの存在に気が付いた。救いを求める瞳。よほど脅されたのだろう、あのより姉ですら涙を流して怯えている。
こちらを見ないようジェスチャーで合図するとみんな慌ててわたしから視線を逸らした。わたしの存在を確認して少し安堵した様子。
幸い男には何も気づかれなかったようだ。男から見えていないということはひよりからもわたしは見えていない。まだひよりは恐怖の中にいる。早く解放してあげないと。
足音を忍ばせ、男の背後まで近づいたときに聞いた言葉。
「へへへ。前から目をつけてはいたがこんなに上玉ぞろいとはついてるぜ。じっくり楽しませてもらうとしようか」
その反吐の出そうなセリフを聞いた瞬間に、わたしの中の決して切れるはずのなかったものが音を立てて弾け飛んだ。
「おい、何やってんだ」
突如、背後の至近距離から聞こえた声に驚いた男はすかさずナイフを持った手をこちらに向ける。
「誰!……だ?」
言い終わる前に男の体は宙を舞っていた。振り返るときの勢いを利用したものの半ば強引に投げたため筋肉が悲鳴を上げる。
だけど今のわたしには大したことではない。アドレナリンが全身に音を立てて駆け巡る。心拍数が上がり、血液を隅々まで送り届け戦闘態勢を整える。
投げた時にそのまま男の関節を砕くこともできたが、それでは面白くない。この男には本物の地獄を見てもらう。
「誰だはこっちのセリフ。いいからかかってこい」
あえて構えをとらず、棒立ちのまま挑発するわたし。
「なんだぁ、なにをしたのか知らねーがこれまた一番の上玉が帰ってきたもんだな。こりゃ楽しい夜になりそうだ」
何が起こったか分からない時点でたかが知れている。わたしの見た目から獲物が増えた程度にしか見ていない。逆にそうやって見くびってくれた方がありがたい。これからこの男には想像もつかない状況が繰り広げられるのだから。
「臭い口でそれ以上しゃべるんじゃない。来ないならこっちから行く」
男との距離をわたしにとってはゆっくりと詰めた。それでもそいつにとっては十分に突然のことだったようで咄嗟にナイフを突き出してきた。
「近寄るんじゃねぇ!」
左腕を伸ばし、ナイフすれすれをかすめながら肉薄して男の手首をつかんだ。わたしの手首から肘にかけてうっすらと皮膚が裂け、血が流れる。
予定通り。
これでもう手加減の必要はない。
つかんだ男の手首を引き寄せながら足のバネを活かして男の懐に飛び込み、肩口に強烈な肘を食らわせる。
腕全体に痺れが回った男はそのままナイフを落とした。素早く足で遠くへ蹴り飛ばした。
これで警戒するものもなくなった。この男にはわたしの大切な家族を怯えさせた報いを存分に受けてもらう。
わたしは筋力もないし、体重も軽い。だけど、威力というものは質量と速さで決まる。その速さでわたしは普通の人間の限界をはるかに超えることができる。
男は何が起こっているのかすら認識できないだろう。男の右足にローキックを食らわせ、体勢をくずしたところにあごをかちあげる膝蹴り。そのまま顔面に右肘を叩きこみ回転力を上乗せしての左後ろ回し蹴り。男はそのまま倒れそうになるが、そんなことは許さない。
回し蹴りを食らわせた足をそのまま跳ね上げて、倒れこんでくる男に強烈なカウンターで体を無理やり引き起こす。そして天高く上げた左足をそのまま男の肩めがけて振り下ろす。全体重とスピードを乗せたかかと落とし。関節の外れる音と共に男の悲鳴が響き渡る。
うるさい。
男はすでに戦意を喪失しているにも関わらず、わたしの体が止まることはない。暴風のように吹き荒れる暴力。肘、膝、かかと、拳。武器になる全ての部位を利用して叩きのめしていく。
そこに慈悲はないし、加減もない。
これだけ全力で動き続けるのは生まれて初めて。自分の体内から筋肉が断裂し、骨のきしむ音が聞こえるようだ。わたしの体は自身の運動能力に耐えるようにはできていない。全力で動けば動くほど自分の体にもダメージが蓄積していく。
だけど今のわたしにそんなことは何の足枷にもなりはしない。
そういえばサッカーブラジル代表だったロナウドも自分の運動神経が高すぎて体がついてこず、怪我が重なって引退したんだっけ。
そんな呑気な事を考えられるくらいに頭は冷静だけど、心に灯った業火は消えることがない。炎は情熱の赤よりも冷たく見える青の方が温度は高い。
怒りの炎に身を任せ、されどクールに男の命を少しずつ削っていく。
「たしゅ……けて……」
男のその言葉がさらに火に油を注ぐ。お前はわたしの家族が助けてと言った時になにをした! お前にその言葉を口にする資格があるとでも?
わたしの暴力はさらに苛烈さを増してしまう。倒れることも許されず、サンドバッグと化してしまう男。
こんな痛み程度でわたしの家族が味わった恐怖の代償になると思うな。
もうそろそろか。この男にこれ以上生きている価値なんてない。わたしが終わらせてやる。
裂帛の気合を込めて全身の力を終結させた最後の蹴りを放とうとした瞬間、お母さんの声が響いた。
「ゆき! それ以上はやめなさい!」
その一喝でわたしの体はぴたりと止まった。男は横たわり、ぐったりしてしまった。
わたしは何も言わず、その場で立ち尽くす。
誰も声を発しようとはしない。それもそうだろうな。
さっきお母さんに声をかけられて、一瞬振り返ったときに見えてしまった。
姉妹たちがわたしの方を見て怯える顔。
信じられないものを見てしまったような表情をしていた。
今まで見せたことのないわたしのもうひとつの本性。男として生まれたがゆえの暴力性。
自分でも薄々気づいてはいた。柔道の試合の時などにどうしても燃え上がってしまう好戦的な一面。
気付いていたからなおのこと、決してこんな姿を見せるつもりはなかった。だけど、なによりも大切な存在を守るためなら仕方がない。
あんな目で見られたことは正直寂しい。だけどそれでも、守ることができた。それだけでいいじゃないか。
たとえ嫌われてしまったとしても、誰も傷つかずに済んだ。なら本望だ。
これでみんなも自分にとって本当に相応しいパートナーを見つけて幸せになってくれるだろう。
いつの間に呼んだのか、パトカーのサイレン音だけがこの静寂を破っていた。




