第1曲 プロローグ『降臨』
はらり。
はらり。
音もなく雪は降り続ける。どれくらい時間が経ったのだろう。体に降り積もる雪。もうそれを振り払う元気すらない。
キラキラときれいな結晶で出来ている雪は、わたしの身体をどんどん冷たくしていく。手も足も冷たくてとっくに何も感じなくなってるし、声を出すこともできない。なんだか寒いのかどうかも分からなくなってきた。
向かいのマンションで悲鳴みたいな声がした気がする。でも、そんなことはどうでもいい。
眠い。
さっきまで寒かったのに、だんだん暖かくなってきたような気もする。このまま目をつむってしまえばどうなってしまうんだろ。痛いこと、怖いこと、もうなくなるかな。
だったらもういいかな。このまま寝てしまってもいいかも。
起きているのも疲れたし。もう寝てしまおう。
——そのままわたしは眠ってしまった。
何も聞こえない。とっても静か。
なんだか体がふわふわとするなと思っていると、誰かに抱っこされたような気がした。
きっと気のせいだ。
わたしのことを見てくれる人なんて、誰もいない。
わたしはいつもひとりぼっち。ただひとりで寝るだけ。
もう考えるのも無理になってきた。なんだか暗いところに落ちていくみたい。
——どこからか声が聞こえる?
「起きて。ねぇ、起きてってば」
わたしを呼んでるの?
「早く起きて」
やっぱり呼んでいる。わたしに言ってるんだよね?
眼を開いた……と思う。
目の前に羽の生えた小さい人がふわふわと浮かんでいるのが見えたから。こういう人、絵本で見たことある。
「あなた誰? 妖精さん? ここはどこなの?」
声が出た……たぶん。
体の感覚がぼやーっとしてて、自分で動かしてるような気がしない。夢かなとも思ったけど、なんか違う。妖精さんの透き通った羽や少し長くて尖った耳、可愛らしい顔まではっきり見えるんだもん。
ただ、自分の身体はなんだか水に溶けてしまっているみたい。まるで自分の体じゃないみたいな。
そういえば人間には魂というものがあると絵本で読んだ。
わたしは今、魂なのかな。
そんな風に考えていたら、妖精さんが話し出した。
「妖精とは少し違うよ。わたしは神様のお手伝いをしてる精霊。ここはどこって言われても、ちょっと説明が難しいかな。この世とあの世の境目、よりはちょっとこの世にちかいとこ」
聞いても全然わからなかった。
妖精じゃなくて精霊さんか。こんな雪の日に出てきたんだから、きっと雪の精霊なんだね。右に行ったり左に行ったり、少し光ってるからホタルみたい。
「このまま寝てたらダメだよ。あなたには使命があるんだから」
「しめい?」
「そう、使命。簡単に言うとやらなくちゃいけないこと。神様があなたに与えた役目みたいなものだよ。とにかく寝たらダメなんだって」
やくめってのもよく分からないけど、何かをしないといけないのは分かった。
「何をしないといけないの?」
「あなたにはね、人間を幸せにするっていう使命があるのよ。このまま寝てたら死んじゃう。そしたら使命を果たせなくなっちゃうでしょ」
「わたし死ぬの?」
「だから死んじゃダメだってば。今からわたしの力でちゃんと起きれるようにしてあげるから。目が覚めたらちゃんと使命を果たすんだよ」
なんだか分からないことを言うだけ言って、雪の精霊さんはわたしの胸の中へ消えていってしまった。
今からわたしが雪の精霊になるってことなのかな。
そう思っていたらまた眠くなってきた。やっぱり夢だったのかな。——
目が覚めた。体がちゃんと動く。
周りを見るとベージュのカーテンに囲まれていて、全然知らない部屋、真っ白なシーツが敷かれたベッドの上にいる。
あんなに寒かったのに、身体が温かい。ふわふわした感じもなくなって、いつもと同じ。
「よかった! 目を覚ましてくれた!」
見たこともない女の人がわたしの顔を覗き込んでいた。
泣いてるの? でも、ものすごくキレイな人。
ひょっとしてここが天国なのかな? この人は天使様なんだろうか。
近くにいたえんじ色の服を着た人が急いで部屋を出ていくのが見えた。
変な感じがしたから、体を見るといろんな管がついてて少し怖い。でも触るのはもっと怖いから、そのままにしておいた。
「この人が雪に埋もれかけていた君を見つけてくれたんだよ」
その声でもう一人、知らない男の人がいることに気が付いた。わたしの方に近付いてくる。絵本で見たことある。この服を着ている人は警察っていって悪い人を捕まえるんだよね。
どうして警察がここにいるんだろう。そしてここはどこ? よく分からないけど、今もまだわたしの手を握ってくれている、この優しい笑顔の天使様がここに連れて来てくれたみたいだ。その温かい手がなんだか嬉しいし、ちゃんとお礼を言わないとと思った。
「ありがとう、天使様」
わたしがそう言うと、天使様はまた微笑みかけてくれた。この笑顔、なんだかとっても温かくて、キレイで、好きだなぁ。
「あらあら、天使だなんて照れるわよ。でも残念、おばさんは普通の人間よ。名前は広沢明子。あなたのおうちの向かいにあるマンションに住んでるわ。ベランダで倒れているあなたを見つけたから、警察を呼んで助けてもらったのよ。本当に無事でよかった」
どうやらここは天国じゃないらしい。ということはわたしはまだ生きてるってことなんだろう。
それにしても、明子さんってすごくキレイな人。それにやっぱり優しい笑顔。
見ているだけで胸がぽかぽかする。明子さんの顔をボーっと見ていたら、警察の人がまた声をかけてきた。なんだか悲しそうな顔をしてるのはどうしてだろう。
「少し悲しい話になるんだけど、君のママは警察が逮捕したんだ。だからもう会うことはできない。まだ正式に決まったわけじゃないけど、君は児童養護施設に行くことになると思う」
警察に逮捕されるってことは何か悪いことをしたのかな? じどうようごしせつ?
……わたしのママってどんな人だったっけ。顔も名前も、何も思い出せない。
覚えているのは寒かったことと、眠くなって寝てしまったこと。そして夢の中で雪の精霊さんに言われたことだけ。
それ以外、何があったのか全然覚えていないし、思い出そうとしてもダメだった。なんだか頭がグチャグチャする。
何か思い出そうと頑張っていたら、明子さんが警察の人に話しかけた。
「ちょっと待ってください。施設に入れるっていきなりですか? 身寄りや他の家族は?」
「残念ながらこの子は婚外子なんです。母親の方にも身寄りがいません。本来守秘義務もあることですから、こんなことを第三者に言うべきではないのですが……。実はこの子は以前から虐待を受けていて、何度も児童相談所から注意されたり、時には一時保護もされていたんですよ。その時はちゃんと反省の色を見せて連れ帰るんですが、同じことの繰り返しでして。さすがに今回は命に関わる事態になったので、保護責任者遺棄罪で逮捕しました。児童相談所と家庭裁判所の判断によりますから何とも言えませんが、親権剥奪の可能性が高いかと」
警察の人がそう答えると、明子さんは何も言わなくなっちゃった。どうしてそんなに辛そうな顔をしてるんだろう。
「この子はうちで引き取ります」
明子さんが顔を上げたと思ったらそんなことを言った。警察の人が驚いている。
「ほ、本気ですか? どうして何の縁もない子のために、突然そこまで……」
「うちにも同じ年頃の子が二人いますから、とても他人事として見てられません。それにもう一人くらいは欲しいかなって主人とも話していたところなんですよ。そんな時にこの子に会ったのも何かの縁。こんなにも可愛い子にこれ以上不幸になって欲しくありませんから」
「ですが、家庭裁判所などの手続きや審査もありますし、そんな簡単ではありませんよ」
「承知の上です。わたしが決めたことですから、主人もきっと反対しません」
何の話をしてるのか、全然わからない。わたしのことを話してるのだけは分かるけど、なんて言っていいのか分からないよ。
どうすればいいのか分からなくて黙っていたら、明子さんがわたしの方に向き直って優しく話しかけてくれた。
「あのね、おばさんがあなたのお母さんになりたいって言ったらイヤ?」
驚いてすぐには声が出なかった。
この人がわたしのお母さんに……。胸がポカポカする笑顔を向けてくれるこの人が。
警察の人が言っている『ママ』がどんな人だったのか、今はよく思い出せない。だけど思い出そうとすると痛い、怖いという気持ちになって震えそうになる。
わたしの手を優しく握ってくれるこの人から、そんな怖さは何も感じない。なぜそう思うのか聞かれても分からないけど、はっきりそう思えたわたしはうなずいた。
「イヤじゃない。嬉しい」
「そう言ってもらえるとおばさんも嬉しいわ。必ず大切にするから、よろしくね」
わたしはもう一度、笑顔でうなずいた。
大人の都合とかいうものですぐにじゃなかったけれど、こうしてわたしはこの広沢明子さんという人の子供になった。
何も思い出せないわたしは、その日がきっと雪の精霊として生まれた日なんだと思うようになった。
だからあれはきっと夢なんかじゃない。
今生きているのも、新しいお母さんが出来たのも、あの精霊さんが命をくれたから。
だから言われた通り、わたしは『しめい』をちゃんとやらなきゃいけない。人間を幸せにする。どうやったらいいのかは分からないけど、それがわたしのやらなくちゃいけないことなんだ。
————
こうして命を拾ったわたしは、この時使命と一緒に大いなるギフトを授かっていたことをもう少し後になって知った。
だけど表には裏があるように、権利には義務が伴うように、与えられたものには代価が伴う。
こうしてわたしは雪の精霊として生まれ変わり、稀有な才能と引き換えに使命と十字架を背負い、人生を力いっぱい走り抜けていこうと決意した。
そう、これはわたしが生きた証。わたしが辿ったキセキの物語。




