第1曲 プロローグ『降臨』
はらり。
はらり。
音もなく雪は降り続ける。
どれくらい時間がたったのだろう。体に降り積もる雪を振り払う元気もない。
キラキラと美しい結晶で形作られた雪は容赦なく小さな体から体温を奪っていく。
手足はとっくに寒さで麻痺しており、声を出すことすらかなわない。すでに寒いという感覚すらわからなくなってきた。
向かいのマンションから悲鳴のような声を聞いた気がする。でもそんなことはどうでもいい。
眠い。
なんだかだんだん暖かくなってきたような気もする。
このまま目をつむればどうなってしまうんだろう。もう痛いことやこわいこともなくなるかな。
だったらこのまま眠ってしまってもいいかも。そうと決まればさっさと寝てしまおう。
そしてわたしは自分の意識を手放す。
意識を失うとき誰かに抱きあげられたような気がした。きっと気のせいだろう。
わたしを見てくれる人なんていない。いつだってわたしはひとり。
ひとりでただ眠るだけ。考える力も失ったわたしは深い闇に落ちていくような感覚に身をまかせた。
声が聞こえる。
「おきて。ねぇおきてよ」
誰かが呼んでいる?
「はやくおきて」
やっぱり呼んでいる。わたしに言っているの?
目を開いた……ような気がする。
目の前に羽根の生えた小人がふわふわと漂っているのが見えたから。
「あなただれ?妖精さん?」
声が出た。と思う。
「妖精とはちょっと違うかな。私は雪の精霊」
ホタルのように視界の中をさまよいながら雪の精霊は続ける。
「このまま寝ていたらだめだよ。あなたには使命があるんだから」
「しめいってなぁに?」
「やらなくちゃいけないこと!天命とか役目とか言ったりすることもあるけど、とにかくあなたはこのまま寝ていたらダメなの!」
「わたしがやらなきゃいけないこと?」
「そう!あなたには人間が幸せになるのを手伝うっていう使命があるの!このまま寝たら死んじゃって使命を果たせなくなってしまう!」
「わたし死ぬの?」
死んでしまったら天国ってところに行くんだっけ。
「死んだらダメだってば!だから今から私があなたに乗り移ってちゃんと起きられるようにしてあげる。目が覚めたらしっかり使命を果たすんだよ!」
やりなさいって言われたことはちゃんとやらないと怒られる。また痛いのはいやだ。わたしは素直にうなずいた。
「じゃあ今からあなたの体に入るから、しっかりがんばってね!」
そしてわたしの意識はまた途絶えた。
次に目が覚めた時、まず白い天井が目に入った。周りはベージュのカーテンに囲まれていてわたしの全然知らない部屋。真っ白なシーツが敷かれたベッドの上にいた。
体が温かい。手足の感覚もはっきりしている。
「よかった!目が覚めた!」
知らない人がわたしの顔を覗き込み涙ぐんでいた。ものすごくキレイな人。
ここが天国なのかな。
「天使様?」
おもわずそうつぶやいた。
「この人がアパートのベランダで倒れている君を見つけて警察を呼んでくれたんだよ」
隣にいた知らないおじさんがそう言ってわたしのそばに来た。この人がその警察って人かな。というかここはどこなんだろう。よくわからなかったけど、わたしの手を握って微笑みかけてくれているこの天使様がここに連れてきてくれたんだということだけは理解した。
「ありがとう、天使様」
「天使だなんて照れるわね。でも残念だけどわたしは天使なんかじゃなくてね、おばさんの名前は広沢明子。あなたのおうちの向かいのマンションに住んでるの。洗濯物を取り込んでたら雪に埋もれかけてるあなたの姿を見つけてお巡りさんを呼んで助けてもらったのよ。本当に無事でよかった」
どうやら天国じゃないらしい。わたしはまだ生きているということなのか。
それにしてもキレイな人。それにすごく優しい笑顔。心がポカポカする。
思わず見とれていると警察のおじさんがまた声をかけてきた。少し申し訳なさそうな顔をしている。
「君にとってはツライ話になるかもしれないけど落ち着いて聞いてね。君のお母さんは警察に逮捕されたからもう会うことはできないんだ。君がこれからどうなるかなんだけど、警察と児童相談所が相談しておそらく施設へ入ることになると思う」
しせつってなんだろう。それにわたしのお母さんってだれだっけ。寒かったこと、雪の中で眠くなったことは覚えている。もちろん夢?のことも。だけどそれより前の事が何も思い出せない。わたしが考え込んでいるとそれまで黙ってい聞いていたおばさん、明子さんが警察のおじさんに言った。
「待ってください。施設ってそんな。他に誰か家族とかはいないんですか?」
「残念ながらこの子は私生児で母親の方にも他に身寄りはいないようでして。」
明子さんは驚いた表情で黙り込んでしまう。しばらくの沈黙のあと、明子さんは何かを決意したような表情で顔を上げた。
「この子はうちで引き取ります。」
警察のおじさんが驚いた。
「本気ですか?どうして縁もゆかりもないこの子のためにそんなことを?」
「うちにも同じ年頃の子供がいますし、わたしがこの子を見つけたことも何かの縁でしょう。なによりこんな小さな子にこれ以上寂しい思いをしてほしくありません」
どういうこと?意味がわからずにいると明子さんはさっきと同じ優しい笑顔でわたしに尋ねてきた。
「あのね、おばさんがあなたの新しいお母さんになってあげたいと思ってるんだけど、あなたはイヤかな?」
驚いて言葉を失ってしまった。この人がわたしのお母さんになってくれるの?見ているだけで心がポカポカする素敵な笑顔のこの人がわたしのお母さん……。
イヤだなんて思うはずもない。この人がお母さんになってくれたら痛いことやこわいこともないだろう。
「イヤじゃない。おばさんがお母さんになってくれたら嬉しい……と思う」
「あなたのこと、必ず大切にするから。これからよろしくね」
大人の事情とやらですぐにというわけではなかったけど、こうしてわたしはこの広沢明子さんという人の子供になることとなった。何も覚えていないわたしにとってはその日が雪の精霊として生まれた日ともいえる。
あれはきっと夢なんかじゃない。あの精霊さんのおかげでわたしはまた生まれることができた。わたしには雪の精霊の生まれ変わりとしての使命があるんだ。どうやったらその使命を果たせるのかはまだわからないけど、それがわたしのやらなきゃいけないことだ。




