花うつろひ
全50部からなる本編「月に咲く花」より、登場人物「月夜」を主人公にした短編です。
花が咲き、散る季節に。
遠くの山の白色が減っている。
きっともうすぐ花が咲く。
暖かく賑わう季節。
人間たちはこぞって上を見上げてはしゃいでは、まだそこにある花を見ながら散るのが悲しいと言う。
喜んでは嘆き、それでも笑って見上げるのだ。
ふと何の気なしに目線を上げる。
水面から出した顔を撫でる風が、なるほど、少し暖かくなった気がする。
海も空も少しずつ色を変えてきた。
薄く千切れた雲が悠々と流れていく。
「おや、美しいひとよ。花でも探しているのかい?」
低く呑気な声を投げかけてきたのは茶色い翼をした海鳥だった。
すーっと細かい飛沫を上げながら着水してくる。
「ふふっ、とんだお門違いじゃないの。ここで探したって花なんて一生見つかりっこないわ」
「はっは。でもそういう顔に見えたのよ」
どういう顔がそう見えたのか、意味もなく思いを巡らそうと仕掛けて、やめる。
「そう、不思議ね」
海鳥は岸のほうを眺めながら辺りを漂っている。
「陸ではね、ちらほらと咲き始めたそうだよ」
その言い草はまるで、行ったほうが良い、とでも言いたげだ。
私がいつ行きたいと言ったのか。
「……行かないわよ?」
「見たくはないの?」
「前に見たわ。確かにとても綺麗だけれど……一瞬だけ咲いて、また暫くしたら一瞬咲くものを慌てて見なくても良いかしら、私はね」
「そうかあ。みんな花が好きなのに。それじゃ、海で花が咲いたら教えてくれよ」
そう勝手に言って海鳥は去っていった。
水面は激しく波打ち、袖と金の髪が揺られる。
そう。随分前、確かに見に行った。
綺麗だと噂で聞いて、人間の村まではまだ遠い海側の位置にある一本の桜の木を訪ねた。
ゴツゴツとした木に、溢れんばかりの薄紅の花が付いていた。さわさわと揺れ、雪のように降り、この静かな世には自分と花としか存在しないような感覚に陥りそうになる。
「綺麗……」
少ししてやっと吐息のように感嘆の声が出た。
草や落ち葉の上を点々と彩る花びらでさえ、何かまじないでも掛かっているかのように、心惹かれて落ち着かない。
やはり陸は、恐ろしい。
海でも美しいものは沢山見てきたけれど、ふいに心が動くのはいつになっても楽しいものだった。
浮足立つままに眺めた先、人間の村近くにある豊かな薄紅の連なりにも、危ないと分かっているのに、足が向く。
人間と同じ形に姿を変えていても、黒からは程遠い金髪に色鮮やかな衣のせいで、人間に見つかれば面倒事になるのは目に見えている。
だから、恐る恐る近付いていったけれど、満開の花を前にその向こう側の森にいる私に目を凝らす人間などいなかった。
一本だけでも息を呑む景色だったのだ。桜並木は言うまでもなく美しく、人間たちも花を見上げて食べたり歌ったりと宴を開いて愛でていた。咲くだけでここまで歓迎される桜。この花は一体何者なのだろう。
かく言う私も、溢れんばかりの花に圧倒されながら目が離せずにいた。
「今年も綺麗に咲いたものだ」
「本当に綺麗だ」
「散り急がなければ良いのにねえ」
人間たちの声が聞こえる。
嬉しそうに。愛しそうに。
「そうね、散り急ぐのは良くないわ」
そっと口にして、遅くならないうちにとその場を後にした。
それから半月が経った頃、また見たくなって桜並木を訪ねた。
雨があったからか花はだいぶ散り、所々葉が芽吹き始めていた。
村の外れまで来て花を見る人間はもうおらず、遠くを通る人も見向きもしない。
散り残る花を名残惜しく見上げるのは私一人で、この間よりも隠れず近付いて見られる。
残る花も覚えているものより萎れ、花も人間ももう次の季節へと向かっているのに、うっかりと私だけが時の波に乗り遅れたかのようだった。
それからも時々、何度かの春に一度、見たくなると陸へ花を訪ねた。
でもいつからか、天気の良い日に海から見える山々に、ぽつぽつと薄紅が灯るのを見て、また咲いたのだと認めるだけで満足するようになっていった。
面倒を見ないといけない子を迎えたのも相まって、花の咲いたり散ったりに割く気が少なくなったのもあるのだろう。
寂しくはない。きっとそういうものなのだ。
感じるものは、変わっていく。
ふわりと不自然な波が来たのに気付き、後ろを振り返った。少しの後――
「ただいま戻りました」
いつからか何よりも大切になったその子は、訳あって陸と海とを行き来している。
今日は笑みを抑えきれないような顔で帰ってきた。
「おかえりなさい。初めての「花見」はどうだったの?」
主である私に向けた挨拶に多少引き締められていたのが、みるみる表情が緩み、柔らかい笑顔になっていく。
彼の中にはきっと、心を賑わす良いものが映っているのだろう。
「あの、とても綺麗で。皆さんが幸せそうな暖かい場所で、散るのが惜しいと笑っておられました」
幸せそうに語るのに頷きながらも、やはり人間は美しい花を前に散る話をしているのか、と少し笑ってしまう。
彼は嬉しそうに話しながら、懐から何かを出す。
丸く握った手を、差し出してそっと開く。
現れたのは薄紅で、5枚の花弁がきっちりと付いた桜の花の一房だった。
「綺麗なまま落ちてしまっていたんです。叶うならば、月夜様とも共に見たかったです」
「ありがとう。いつか、ね」
空月が見回りに出掛けてから、受け取った花を空に透かしながら眺めていると、あの海鳥が通りかかった。
「なんだ、やっぱり行ったのか」
派手に着水しながら面白がるように言うので、私はつい自慢気に笑う。
「いいえ、海に咲いたのよ」
あの可愛らしい笑顔から これを受け取れる。
見には行かずとも、こういう楽しみ方も、悪くないではないか。
数年後、幸せな春の宴で、共に桜を見上げることになるのは、また別の話。
(おわり)
今年も桜があっという間に散ってしまいそうですね。
それぞれの楽しみ方ができますように。
初めましての方がいらっしゃいましたら、本編ありきの文章で申し訳ありませんでした。
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
お読みいただきありがとうございました。