不死身のマンボウvs絶対に推しが死ぬ女
その男がやってきたのは、校庭の桜が潔く散り終えた四月の半ばのことだった。
「君が『渡良瀬みつか』?」
昼休み、午前中に出された宿題をパンを食べながら片付けていた私は、見知らぬ男の大きな手にノートを押さえつけられて顔を上げた。
顔を上げると、オレンジに近い茶髪をふわふわと遊ばせたたれ目の男子学生がいた。知らない顔だ。学年が上がる際にクラスのメンバーに多少入れ替わりがあったから若干不安だが、多分クラスメイトではない。
「ね、俺のこと推してよ」
「は?」
いきなりなんだ。胡乱な顔で見つめると、男は軽く肩を竦めた。窓から差し込む春の日差しに、右耳のピアスがチカッと光る。
「俺、動画配信やってるんだ。不死身のマンボウちゃんねるって知らない?」
「知らない。邪魔だから手ェどけて」
すげなくあしらい、私は手の甲でノートをふさぐ腕をぴたぴたと叩いた。夕方からバイトがあるので、宿題は今のうちに片付けたいのだ。
だが、男はニヤニヤするだけだった。
「俺を推してくれるって約束してくれたらどける、って言ったら?」
男はポケットからスマホを取り出し、開いた画面を見せつけてきた。
画面にはマンボウのキャラクターと『不死身のマンボウVS推しが絶対に死ぬ女』という文字が踊っている。
「バカなの?」
今度こそ、私ははっきりと男を睨み上げた。
「あんた、本当に死ぬよ」
「知ってる」
男は嬉しそうに眼を細める。
「推しに三途の川を渡らせる『死神』渡良瀬みつか、でしょ?」
私が推すと推しが死ぬ。
子供の頃からそうだ。冒険の途中で殺されてしまったり、好きになったら実は幽霊だったり、とにかく生存キャラがいない。主人公なら補正で死なないだろうと思っても裏切られ、乙女ゲームの攻略対象なら大丈夫だろうと思ったらベストエンドが回避不可の死亡エンド。ふざけんな。マジでつらい。
おかげで友達には「絶対に私の推しを好きにならないでね」と釘を刺されるようになったが、推しに沼るかどうかは制御できるものではない。うっかり好きになった結果、友人の推しキャラは死んだ。その子には絶交され、以降友人と呼べる人はほぼいない。にもかかわらずどこから聞きつけたのか、SNSのDMには知らない人から推しのライバルキャラを消す目的で『このキャラを推して』なんて依頼が来るまである。
二次元キャラならまだマシだ。中には三次元のアイドルを推してくれと依頼があることもある。冗談じゃない、私は殺人者にはなりたくない。
私は大好きだった叔父を交通事故で亡くした。共働きで構ってくれない両親の代わりに私の面倒を見てくれたのは、母方の大叔父だった。今にして思えばただのニートだったのかもしれない。けれど私にとっては両親よりも親のような人だった。けれど、私が中学に上がる前に死んだ。私が好きになったせいで死んだのだ。
もう二度と、私は三次元の何かを好きにならない。
「知ってるなら関わらないで。気分悪い」
強めの口調で吐き捨てたのに、男はへらへらした笑みを崩さなかった。
「ごめんごめん。でもさ、君が俺を推してくれたらその呪いが解けるかもよ? 俺、不死身だから」
「バカじゃないの」
私はペンケースからシャーペンを取り出した。カチッとノックして芯を出し、男の手の甲めがけて勢いよく振り下ろす。
「……なんで避けないのよ」
「なんとなく、刺さないだろうなって思ったから」
刺す寸前で止めた手を見下ろしながら、男はのんびりと言った。むかっ腹が立ち、私は破れるのを覚悟でノートを思い切り引っ張った。その瞬間男が力を抜き、私はノートと一緒に椅子ごとひっくり返りそうになった。椅子の前脚が浮き、一瞬、浮遊感に包まれる。
「あぶなっ!」
筋肉質な腕がぬるっと伸び、椅子の背もたれをぐっと掴んだ。
「大丈夫?」
至近距離で男が顔を覗き込んでくる。髪の色と同じ、オレンジがかったアンバーの瞳。あまりの綺麗さに、一瞬、息が止まる。
私が息を詰めて硬直していると、男は丁寧な仕草で椅子の位置を元に戻した。ほっと息をつき、私は机にしがみついた。心臓がばくばくしている。
「ね、みつかちゃん」
男は馴れ馴れしく笑い、しゃがんで机に顎を載せた。
「俺のこと、推してくれる気になった?」
「死んでも推さない」
机の下で爪先を振り、私は男の向う脛を蹴った。
翌日、登校したら直後にクラスの女子に階段の踊り場へ呼び出された。
「渡良瀬さん、藤見くんのこと推してるの?」
「推してません」
開口一番責められて、私はうんざりした。
「つか昨日無理矢理声かけられただけだし。知らないよ。巻き込まないで」
「でも」
「あのさぁ」
知らない男子より推しの方が大事だ。鞄の中には登校中にコンビニで買った週刊少年マンデーがある。推しの、推しの活躍回なのだ。こんなことで詰められているより早く読みたい。
「私、三次元にも二.五次元にも興味ないの。中の人にも興味ない。完全な二次元しか愛せないの」
真顔で力説すると彼女らは不審と憐れみを混ぜた顔で私を見つめ、一歩後ずさった。どうする?とこそこそ囁き合う。
(どうもこうも、私より向こうに言ってくれよ)
思いながらも表面上は大人しく待っていると、ホームルームのチャイムが鳴った。
「絶対に推さないでよ」
彼女らは低い声で念押しして、ぞろぞろと教室に戻って行った。私も少し距離を開けて後ろのドアから教室へ滑り込んだ。すぐに担任が入ってきて、マンデーを読む時間はなかった。
ファンの想いを他所に、自称不死身の男はその後も私にちょっかいをかけてきた。教室にやってきて動画を見ろと強要したり、バイト先の本屋へ押しかけて来たり、迷惑なことこの上ない。
「いい加減にして」
「そんなこと言わずにさ。ね、一本だけ!一本だけでいいから見て!」
しつこく食い下がってくるのを何度も追い払ったが、マンボウこと藤見永尊は飄々として諦めなかった。
仕方なく、根負けして一本だけ視聴した。どうやら奴は自分のチャンネルで相当危ないことをしているらしい。呪われていることで有名な心霊スポットに行ってみたり、危険なプロレス技を試したり、橋から紐なしバンジーをしてみたり、ちょっと見ただけでも無茶苦茶だ。しかしどんな危険なことをしようとしても、途中で幸運が起こる。心霊スポットで襲われている女性を助けたり、大技成功の興奮で心臓発作を起こした男性客を救命したり、飛び込んだ川で地方の寺から盗まれた仏像を発見したり。他にも普通では考えられない偶然が重なり、奴の行動はすべて奇跡的な出来事に変わってしまうらしい。仕込みのヤラセではないかと疑ったが、事実を裏付ける記事がニュースサイトに載っていて、本物だと納得せざるを得なかった。巷では不死身のマンボウではなく奇跡のマンボウと呼ばれ、前世の徳が高すぎて絶対に死ねない男と評されている。まるでマンガのヒーローだ。
(バカみたい)
そう思いながらも、次第に私はつい不死身のマンボウちゃんねるの過去動画を漁るようになっていった。別に興味が湧いたわけじゃなくて、学校に行くと絶対に奴が絡んできて動画を見せたり感想を聞いてきたりするから、会話を早く切り上げるために先に見るようになっただけだ。なのに、奴はすごく嬉しそうな顔でますます話しかけてきた。
「絶対に推さないって言ってるでしょ!? くだらない企画に付き合う義理ないから!!」
きっぱり拒絶しても、不死身のマンボウは全く諦めなかった。毎日教室にやってきて、私を勧誘する。人気者のマンボウに構われる私に、奴の友人やファンは色々と物言いを付けたが、私がそれを理由にマンボウを拒絶する前にマンボウがみんなを説得してしまった。いらないいところで有能な奴だ。有能?違う、執念深いのだ。
「マンボウってよりヘビじゃん」
辟易してついそんな軽口を叩くと、マンボウはにやっと笑った。
「うち、ヘビ飼ってるよ。コーンスネーク。見る?」
「えっ?」
聞き返すが早いか、マンボウはスマホのアルバムを開いてペットのヘビの写真を見せてきた。マンボウと同じ明るいオレンジとの縞模様だ。黒くつぶらな瞳に、細く長い優雅な体躯。
「かわ……」
言いかけて、私は口を噤んだ。目を逸らして、マンボウのスマホを手のひらで押し遣る。
「ごめん、やだった?」
すぐさま謝られ、私は気まずくなる。可愛がってるペットを見せてこんな態度を取られたら、マンボウも流石に傷つくだろう。私は渋々言い訳を口にした。
「……私が推したら死んじゃうでしょ」
「えっ!? 一目で推すほど惚れちゃったの!?」
「違うよ! ……ちょっと可愛いなって思っただけ」
三次元のものは好きにならない。それがたとえ人でなくても、命を持つものなら死ぬかもしれない。
「そんな……ちょっと好きになるだけでもダメなの?」
答えたくなくて、口を噤む。友達すら怖くて作れない私の気持ちなんて、きっとこいつにはわからない。
「そっか」
わかってほしくないのに、マンボウはわかったような顔で、まるで友達みたいに私の肩をぽんぽんと撫でた。
「で、みつかちゃんの推しってどんなキャラ?」
「は?」
ここは会話を切り上げる空気じゃなかろうか。しかしマンボウは空気を読まず、ぴっと人差し指を立てて話を続ける。
「毎回死ぬってことは好みに法則性があるんじゃない? 薄幸そうなキャラが好きとか」
「それがわかったら苦労しないんだよ」
『好み』と『推し』は違う。これまでの推しと似たタイプに沼ることもあるし、絶対に好きにならないと思っていたタイプに沼ることもある。今まで特に注目していなかったのに、突然底なし沼へ真っ逆さまに落ちることもあった。
「死ぬキャラがみんな推しになるわけじゃないし、ヒーロー物の主人公とか、今度こそ絶対に死ななそう!ってキャラが推しになることもあるんだよ……」
「ふーん……なるほどなぁ。で、今の推しは?」
「…………先週号がお通夜でした」
それからしばらく、マンボウは自分の動画の話ではなくて私の歴代の推しの話を聞きたがった。作品内では悲しい最期を迎えてしまったとはいえ、推しの姿は私の中で今も燦然と輝いている。マンボウの聞き上手に乗せられて、私はたくさん推しの話をしてしまった。誰かと推しの話をするなんて年単位で久しぶりだったから、楽しくて――いつの間にか気を緩めてしまっていた。
マンボウが事故にあったのは夏休みの直前だった。
いつものようにクラスに来ないマンボウの姿を視線で探していたら、クラスの男子の声が飛び込んできた。
「藤見が事故で入院したって!!」
全身の血が、一瞬で凍り付いた。目の前が文字通り真っ暗になって、私は席から立ち上がれずに机を掴んだ。冷たくなった指先が小刻みに震える。
「解体中のビルから鉄骨が落ちてきたらしくて」
「嘘……!」
女子生徒の誰かが悲鳴を上げ、不意に振り返った。冷たい視線が私に集まる。私は机にしがみついたまま顔を俯けた。みんなが思っていることがわかる。
「渡良瀬……」
「推してない!!」
誰かの呼びかけに先んじて叫ぶ。変に裏返った声の余韻は教室に反響して、緊迫した空気を余計に強調した。私が否定しても、誰も納得していない。みんな、私が推したせいでマンボウが事故にあったと思っている。
「私のせいじゃない……!」
ぐらぐらする頭を必死で真っ直ぐ上げながら。私は鞄を掴んで教室を飛び出した。足がうまく動かなくて、手すりに縋りながら階段を降りる。
推してない。推してない。私はマンボウを絶対に推さない。
「うぁ……」
涙が込み上げてきて、歯を食いしばって校門へ走った。途中、誰かとすれ違った気がしたが、気にしていられなかった。
(私のせいだ)
推してない。推しちゃダメだとわかっていた。推したくなかった。なのに。
(私のせいだ!!)
息も絶え絶えになりながら走って帰った自宅には、当然誰もいなかった。平日の昼間だ、両親はどちらも会社に行っている。私は安心して、一人で泣き叫んだ。頭にはマンボウのことしかなかった。
翌日も、私は学校を休んだ。いつも通りに家を出た後、両親が出勤するのを見計らって家に戻った。担任には親のタブレット端末から連絡フォームで欠席の連絡を入れ、昨日の早退についても急な体調不良と説明しておいた。送信ボタンを押して、ほっと息を吐く。
一晩経っても気持ちはあまり落ち着いていなかった。マンボウのことばかりが頭に浮かぶ。動画チャンネルを開いてみたが、当然ながら新しい物は上がっていなかった。あいつの事だから、無事なら事故なんて軽いネタにして報告動画をアップするだろうに。
「どうしよ……」
ベッドに転がり、スマホを握って震えていると、不意にSNSのビデオ通話が着信した。
マンボウからだった。
「え……っ?」
戸惑っている間にも、着信音は鳴り続けている。迷った末、私は受話ボタンをタップした。ぱっとウィンドウが開き、動画の背景で何度か見た、ごちゃごちゃと物の多いマンボウの部屋が映る。
「みつかちゃん、元気?」
マンボウはいつも通りの飄々とした顔でひらひらっと片手を振った。私は何か言おうとしたが、その内容は一瞬でどこかへ消えてしまった。何度か瞬きして、ようやく言葉を絞り出す。
「無事? 入院したって……」
「してないよ。ビルからガチで鉄骨落ちてきてさぁ、運良く避けた勢いでこけて頭打ったから、一応病院に運ばれただけ」
急なことだったから動画が取れなかったことを、マンボウは残念そうに話した。私はうんうんと頷くけれど、話の半分以上が頭に入らず上滑りしていく。画面越しに見る限り、マンボウはどこも大きな怪我をした様子はなかった。
「でもさぁ」
不意にマンボウが口を尖らせる。
「死ななかったってことは、俺、まだみつかちゃんに推してもらえてないんだなぁ」
その瞬間、ぷつんと何かが切れた。
「……いい加減にしてよ!!」
私は、スマホを握りしめたまま思い切り怒鳴った。
「推しが死んで嬉しい奴がいると思う!?」
こいつは真性のバカ野郎だ。私がどれだけ心配したと思う。周りの皆だって、マンボウのことが大事だから私にあんな目を向けたのだ。
「バカ! バカ! あんたなんか……」
その先は言葉にならなかった。涙が溢れてぐしゃぐしゃになって、私はスマホを枕の向こうに放り投げた。最悪だ、バカ。こんな奴絶対に推したくない。
びしゃびしゃになった顔をティッシュで押さえていると、枕の向こうからマンボウの声がした。
「じゃあ、みつかちゃんだけに教えるけどさあ、俺、前世で世界救うくらいめちゃくちゃ徳積んだせいで絶対に死ねないのね?」
「は? バカなの?」
スマホの画面は見ず、聞き返す。マンボウはのんびりした声で続けた。
「子供の頃、近所に住んでた波動の先生?みたいな人に見てもらったらそう言われたんだよね」
「……波動って何」
「寺生まれの人みたいな……ハァーッ!ってやって腰痛とか治しちゃう先生がいたんだよ。ほんとに。マジで黒塗りの車に乗ったSP付きの客が来るくらいの。だからさ、みつかちゃんが俺を推しても俺、死なないよ」
意味がわからない。私は混乱しながら、放り投げたスマホに手を伸ばした。画面を見ると、マンボウがいつもの顔で笑っている。
「し、信じられるわけないでしょ!?そんなマンガみたいな話」
「推したら死ぬってのも同じくらい信憑性ないと思うけどなぁ……。ま、いいや。じゃあこう考えてよ。みつかちゃんが推しを推す気持ちが推しを死なせてしまうなら、その推しが同じくらいみつかちゃんを推せば相殺されると思わない?」
こいつは何を言っているんだ。
「みつかちゃんって不器用だから、現在進行形の推しは一人じゃん?この先もずっと俺だけ推してよ。ね? 俺、この先何年経ったってみつかちゃんとの推し愛に勝ち続ける自信あるよ」
そう言って、マンボウはぐっと画面に顔を近づけた。日に透かした琥珀のような、明るいオレンジ色の瞳がこちらを見ている。ドキドキしすぎて、もうわけがわからない。
「……あんた、本当に三次元?」
するとマンボウは一瞬きょとんとして、小さく吹き出した。
***
『というわけで今回の企画は終了です!お疲れ様でした~!』
手を振るマンボウのアバターと共にエンディングテーマが流れる。不死身のマンボウちゃんねるは今日も元気だ。私は動画を停止して、隣に座るマンボウ――永尊を見遣る。
「ずっと聞きたかったけど、なんでマンボウなの? マンボウってめっちゃ死にやすいんでしょ?」
寄生虫を落とすためにジャンプして着水の衝撃で死ぬとか、深く海に潜ったら水の冷たさでうっかり死ぬとか、とにかく死にやすい最弱の生物ナンバーワンというイメージだ。すると永尊は軽く肩を竦め、すいすいと自分のスマホをスクロールした。
「SNSでバズる情報なんて、簡単に信じちゃダメだよ。みつかちゃん」
生態系に不明な点が多いせいで飼育が難しいだけで、マンボウは実はけっこうすごい魚、らしい。推進800メートルまで潜れるし、時速12キロくらいで泳げるらしい。
「それってどのくらい早いの?」
「ニワトリよりちょっと遅いくらいかなぁ」
「微妙……」
「人間の市民ランナーもだいたいそのくらいだよ」
永尊は笑い、スマホの画面をオフにした。
「マンボウも人も、そう簡単には死なないよ」
一人の少女を救ったことで更に徳を積んでしまった藤見永尊の結末は、遙か先の未来にあります。
読んでいただきありがとうございました。