ヴァルハラの影
長い航海だった。
波は穏やかな日もあれば、牙を剥く日もあった。だが、巨大な船ナグルファルは、どんな荒波でも安定し、海を押し分けて進み続けた。
「おーい、陸が見えてきたぞーい!」
舵を握るフリュムが声を張り上げる。
水平線の上に、黒い影が浮かび上がっていた。霧の向こう、鋭い稜線がいくつも重なっている。
「あれは、ヘルヘイムにゃん」
リリィが耳をぴんと立てた。
「ヨトゥンヘイムの真西がヘルヘイムにゃん。アースガルドはさらに西にゃんね」
俺は地図を思い浮かべる。ここからさらに南西へ回り込めば、アースガルドへ至る航路に入る。
「でもちょうどいいにゃん。ここはヘルヘイムの首都、獣王都レオンの近くにゃん。ちょっと寄っていくといいにゃん」
リリィは自分の家でお茶でも飲んで行けと言わんばかりだった。
確かにここで一度下船して、気分を切り替えるのも悪くない。
俺がヘルヘイムに入るのはこれで三回目になるが、東海岸の獣王都レオンに来たのは初めてだ。
ヘルヘイムは寅人の国。深い森と、獣の匂いの濃い土地。
レオンの街は森を切り開いて築かれたのではなく、巨木の幹に沿って建物が組まれている。森と街が溶け合ったような場所だ。
巨人千人を載せたナグルファルが入港しても、住民たちが動じることはなかった。丑人や亥人ほどではないにせよ、寅人たちもまた、大きな種族だからだ。
都庁に入ると、寅人の女が出迎えてくれた。
黄金色の髪に、斑の模様の外套。細身だが、立ち姿に隙がない。瞳は琥珀色で、冷静に周囲を測っている。
元魔王軍四天王、クレオパール。彼女はリリィが国を出た後、ヘルヘイムを仕切っている。
「まあ、リリィ様。お元気そうなお姿、なによりですわ」
リリィを前にして優雅に一礼する。
「ちょっとヨトゥンヘイムまで行ってきたにゃん」
「なるほど。それで巨人の方々とご一緒なのですね」
クレオパールは一瞬で状況を察したようだった。
「ところでヘルヘイムはどうにゃん? 変わりはないかにゃん」
「さすがリリィ様。どんな時もこの国を気にかけてくださるのですね。はい、ヘルヘイム自体に問題はありません。ただ……最近は西のアースガルドから圧力を感じますわ」
「どういうことにゃん?」
「アースガルドは急速に力をつけております。魔力貯蔵庫ヴァルハラ。あそこに膨大な魔力を蓄積し、それを兵器として転用する動きがあります」
ヴァルハラ……か。
人々から魔力を集める巨大な魔道具。
設計の基礎は、かつて俺が組んだものだ。魔道具の無人運用を目的とした装置。それが、今は別の形で使われている。
「集めた膨大な魔力を用い、これまでにない規模の魔法を行使していると聞きますわ。それを示威として、周辺諸国にも強い態度を取っております」
プラティナス……ついに本性を出してきたのか。
クレオパールは声を落として続けた。
「そして、アースガルドの住民たちは、日々ヴァルハラに魔力を搾り取られ、生気を失っているとも聞きますわ」
俺の胸が痛んだ。
国力を追い求めるために、人々を疲弊させるのは間違っている。
何を考えている、プラティナス。
「私たちはその脅威を止めるために、アースガルドへ向かうにゃん」
リリィは迷いなくクレオパールを見る。
「リリィ様、それは危険ですわ。今のアースガルドは、以前のように穏やかな国ではありません」
クレオパールはそこでしばし沈黙する。
だが、止めることはできないことは悟っていた。
「では、彼らをお連れください」
呼ばれて現れたのは、派手な衣装の道化、ジャガーノート。そして桃色の毛並みを持つ戦士、ピンクパンサー。どちらも元魔王軍四天王。
確か、二人ともエルマの空間崩壊に巻き込まれ、裂け目に消えたはずだ。
「ああ、可哀想じゃから、後で空間の狭間から引き上げてやったのじゃ」
俺が怪訝な顔をしていると、エルマがしれっと補足した。
「ご無沙汰じゃがのっと」
「リリィ様のお役に立つなら行くんさー」
軽い口調とは裏腹に、二人にも覚悟が感じられた。
俺とジャガーノートとは因縁もあった。だが、今は水に流そう。
さらに、選び抜かれた寅人の精鋭たちも加わる。ナグルファルに乗り込んだ。
亥人、丑人、そして寅人。
種族を越えた戦力が、一隻の船に集う。
再び西へ。
アースガルドへ向け、巨人たちは再び漕ぎ始める。
人々を苦しめているなら、暴走しているヴァルハラを止めなければならない。
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