止まった時間
「……エルマ」
名を呼んでも、応えはない。
遅すぎたのだ。
あまりにも膨大な魔力の循環に、彼女の身体が耐えられなかった。
魔法陣の維持に精一杯で忘れていた。
今のエルマは、まだヒトだ。いくら魔法を自在に扱えても、ただの少女の身体なのだ。
『……時間やな』
ヴェルダンディの声が、頭の奥に滲んだ気がした。
いや――まだだ。
ここで終わるわけにはいかない。
視界の端に、細かなノイズが走り始める。
世界が、俺を引き剥がそうとしていた。
「待ってくれ……俺は、まだやることが……」
気づけば、自分の腕がうっすらと透け始めていた。
強制的に現在に戻される。
俺はエルマに手を伸ばした。
「エルマ……目を開けてくれ」
嗚咽が混じり、声が震える。
「君がいない世界は……嫌なんだ」
その瞬間だった。
エルマの指先が、ほんのわずかに動いた。
「どうにも……」
微かな声。
だが、確かに彼女のものだった。
「この状態で体を動かすのはなかなか難しい。慣れが必要だな」
満月の光が、彼女の身体を白く縁取っている。
枯渇していたはずのエルマの魔力が溢れ出していた。
「満月のフェンリルの力で、魔力の総量は底上げされたが、それでもやはり、貪り喰うモノを解除できるほどではなかった。この神具はもう、私の肉体に深く食い込み、分離は不可能のようだ」
そしてゆっくりと、彼女は身を起こす。
「そこで……一時的に増えた魔力をすべて使い、古代魔法のひとつ――停止の魔法陣で自身の肉体の時間を止めてみた」
エルマはそう言って、静かに満月を仰いだ。
「これで、私と一体化した貪り喰うモノの時間も止まる。もう、魔力を吸うことはできまい」
しかし、後悔も少し滲ませていた。
「代償として、私の身体は永久に十五歳のままになってしまうがな。できれば、あと二つほど……歳を重ねたかった」
そしてゆっくりと、俺がいるはずの方を振り返る。
「だが、ロキ。私が今生きておるのは、主が、ここまで繋いでくれたおかげだ。心より、礼を――」
そこで、言葉が途切れた。
「……ロキ?」
その時にはもう、俺の身体は完全に透き通っていた。
俺の視界は、ノイズで満たされている。
◇ ◇ ◇
吹き荒ぶ風の音。
次の瞬間、肺を刺すような冷気が俺を現実に引き戻す。
そこは、極寒のノルンの神託所だった。
俺は確かに、過去から戻ってきたのだ。
「ご主人様、どうしたのかにゃん?」
視界からノイズが完全に消えたところで、真っ先に目に飛び込んできたのは、呆れ半分の表情をした寅人の魔王リリィだった。
「魔科学術師さんは、まるで立ったまま眠っておるようでしたよ。それに……涙まで流されて」
未人の魔王、メリーも覗き込んでいる。
「俺は……どうしてた?」
喉が乾ききった声で、そう尋ねた。
「神託アプリでヴェルダンディと話してたと思ったら、急に魂が抜けたみたいに固まって、ぼろぼろ泣き始めたにゃん。正直、まともじゃなかったにゃん。どんな変態的妄想をしたら、ああなるにゃん?」
……どうやら、俺は元の時代へ戻ってきたらしい。
気づけば、両目から涙が溢れ出ていた。
「この寒さで目をやられたのではないかのう? 用が済んだのなら、さっさと戻ったほうが良さそうじゃ」
そしてもう一人、聞き慣れた落ち着いた声。
振り向いた、その先に、風で銀の髪を揺らしている戌人の賢者、エルマの姿があった。
「……師匠」
言葉よりも先に、身体が動いた。
「無事だったんだな!」
気づけば、俺はエルマを抱きしめていた。
「なっ――!? な、なんじゃ急に! 頭までイカれたか!? 儂はお主の母親ではないぞ、甘えるでない!」
エルマは珍しく声を裏返し、本気で狼狽えていた。
「いつも変態なご主人様が……さらに進化したにゃん……」
リリィは呆れ顔で呟いてたが、エルマは、ふと何かを察したように言葉を止めた。
次の瞬間、彼女の手が、優しく俺の頭を撫でた。
俺は、ようやく呼吸を整え、顔を上げる。
そこにあったのは、見慣れた、八百年前とまったく同じ、エルマの顔。
エルマもまた、俺の顔をじっと見つめ、首を傾げた。
「……あらためて、よく見てみると、お主のその顔……イエティ……いや」
誤魔化すように、微笑んで。
「はるか昔に会った、大切な人に……似ておるな。いや、まさかな……」
それは、手の届かない何かに憧れるような微笑みだった。
「俺は――リバティ・クロキ・フリーダムだ」
俺は、改めて告げた。
ただひらすら自由を愛する、だが最近はそれより大切なものも自覚してしまった、俺の名だ。
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