無垢な彼女
低く垂れ込めた雲の下、石で組まれた建物が肩を寄せ合うように並び、屋根には分厚い雪が残っている。
通りのあちこちでは焚き火が燃え、鉄と獣脂の混じった独特の匂いを街全体に漂わせていた。
行き交う戌人たちは皆毛深く、犬のような頭部を持ち、厚手の毛皮外套に身を包んでいる。
その視線が、汚れたものを見るように、俺に注がれている。
戌人の街に申人が紛れ込んでいる時点で異質なのに、加工していないスノーベアの毛皮をそのまままとっているのだから無理もない。
嫌悪と警戒が混じった空気が、肌に刺さるように伝わってくる。
ほどなく、武装した戌人の警官が前に出てきた。
「身分を証明できるものを見せてもらおう」
もっともな要求だ。だが、今の俺は何も持っていない。
「……怪しげだな。調べさせてもらいたい。同行してもらおうか」
やはり、そうなるか。面倒な展開だ――そう思った、その瞬間だった。
「待つがよい!」
耳に引っかかる、聞き覚えのある声。
「誰が待つかよ、バカが!」
声の方に反射的に視線を向けると、人垣の向こうから戌人の男が脇目も振らずに駆けてくる。
「その人スリよ! 捕まえて!」
誰かの叫びで、状況を理解した。
なるほど、どこの街にも生息している悪い生き物だ。
俺は即座に魔力を組み上げた。
「至れ、上空へ。導くはこの者」
走り込んできた男の足元に、転送魔法陣を顕現させる。
次の瞬間、男の姿が掻き消え、上空に放り出された。そのまま重力に引かれ、情けない悲鳴とともに落下。
何が起きたのか理解できないまま地面を転がり、先ほどの警官に取り押さえられた。
そして、そのスリの男を追ってきた少女が姿を現した時、俺の目頭が熱くなった。
戌人ばかりの街の中で、申人のような外見の、異質な存在。
サファイヤのように澄んだ青い瞳。
肩まで流れる、月光を思わせる銀色の髪。
――間違いない。
彼女は、八百年前のエルマだ。
ただ一つ、決定的に違うところがあった。
俺の知るエルマは、すべてを見透かすような冷めた眼差しをしていた。
だが、目の前の彼女の瞳は、キラキラと好奇心に満ちている。
「おお――主が、あのスリを退治してくれたのか?」
無邪気な声だった。
エルマとの突然の再会に声を詰まらせた俺は、ただ静かに頷いた。
「もしかして、この奇妙な男は、エルマお嬢様のお知り合いか何かで?」
警官が訝しげに問いかける。
「うむ。まあ……そんなところよ」
エルマは、驚くほどあっさりとそう答えた。
「そうでしたか。では、あまり怪しい格好で街を歩かないよう、言っておいてください」
やれやれ、と肩をすくめる仕草を残し、警官はスリを引き立てて去っていった。
助かった……
エルマは小さく手を振ってそれを見送り、改めて俺のほうへ向き直る。
その瞳は、隠しきれない期待で輝いていた。
「して……主は、何者なの?」
首を傾げ、下から覗き込むように問いかけてくる。
「シロクマみたいな申人? それとも、申人みたいなシロクマ? しかし隠しきれないその魔力、もしかして、伝説の生き物……イエティ?」
「……たぶん分かってると思うけど、中身は、申人だ」
俺は間を置かずに答えた。
「おおっ! それでは、なぜなぜ、シロクマ……いや、スノーベアの毛皮をまとっておるのだ?」
「いろいろあってな。服を失った。それで仕方なく、だ」
俺は彼女との再会の衝撃で胸の奥が熱くなり、涙がこぼれそうになるのを必死に押し止めながら言った。
「なるほど。だから、そんなに瞳を潤ませておるのだな。確かに、この極寒の地でそれは不憫なこと……ふむ」
エルマは納得したように頷く。
「まあ、ここで申人と出会えたのも、何かの縁よな。ひとまず、話を聞いてやろう……いや、是非、聞かせておくれ!」
――八百年前のエルマ。
まだ世界を知る前の、純粋無垢な彼女が今、俺の目の前にいた。
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