過去のニブルヘイム
ヴェルダンディがいくつか注意事項を説明する。
『言うとくけど、チャンスは一度きりや。あたしもノルンや。現在を動かせるんは、百年に一度あるかないかの気まぐれやで。失敗してもやり直しは利かん。成功しても、失敗しても、あたしは現在を「今」に戻すだけや。それと、過去をいじりすぎるのもあかん。現在が不必要に変わってしまうからな』
俺は静かに頷く。
『で、どの時代を変えたい?』
変えたい過去は二つある。
エルマの喪失と、ハルトの死。
だが、全ての異変はエルマの喪失から始まっている。
「八百年前。魔王ガルムが、エルマを殺したとされる時代だ」
『ああ、最近この辺りをうろついてる戌人の魔王が生まれた頃やね。あたしにとっては、つい最近みたいなもんや。心の準備ができたら、いつでも行けるけど』
「そんなすぐに!? 何か準備して行った方がいいものとか、あるんじゃないか?」
俺が少し慌てて言うと、ヴェルダンディは呆れたように答えた。
『何言うてんねん。準備した時間ごと遡るんや。過去に持っていけるんは、その身一つだけやで』
息を呑む俺の横で、緊張感の薄い声が割り込んだ。
「あらあら……私も何かお手伝いできたら思いますが、過去に戻れる体質なのは、魔科学術師さんだけ。つまり……あなただけができる役目」
「せいぜい頑張ってくるにゃん。願わくば、そのまま過去で朽ち果ててくれてもいいにゃん」
ここは、二人なりに快く俺を送り出してくれた――そう思うことにした。
覚悟を決めた俺はヴェルダンディに頼んだ。
「頼む、やってくれ」
『なら――現在を変えるで』
途端に、視界にノイズが走った。
ウルドが過去を歪めたときと同じ感覚だ。だが、今回は一瞬では終わらない。
周囲の景色が逆再生のように流れ、時間が俺を置き去りにして巻き戻っていく。
やがて、すべてが静まり返ると、俺は再びノルンの神託所に立っていた。
だが、先ほどまでとは空気がまるで違う。
霧は薄く、肺を刺すほどの寒気もない。足元の地面には、わずかだが緑が残り、世界はまだ完全に凍りついてはいなかった。
ここは確かに八百年前なのだろう。
つまり、ニブルヘイムは、この時代から徐々に寒さに呑み込まれていくということか。
そこで、俺はもう一つの異変に気づいた。
視線を落とし、理解する。
……裸だった。
ヴェルダンディは、過去に行けるのは『身一つ』と言っていた。
どうやらそれは比喩ではなく、文字通りの意味だったらしい。
服もなければ魔道具もない。スマホもパソコンもない。
つまり、魔法プログラミングは不可。AIエージェントのロイナとも話せない。神託アプリも使えず、工房からの魔道具やアイテムの転送も望めない。
今の俺にあるのは、素の魔力と特技、頭の中に残った知識だけだ。
思っていた以上に、状況は厄介だった。
まず必要なのは、服。
このままでは寒いし、明らかに不審者だ。
神託所の周囲を探っていると、視界の先で、白い巨体がぬっと動いた。
あれはスノーベア。
シロクマに似た外見を持つ、寒冷地の魔物だ。
こちらを獲物と判断したのだろう。低く唸り声を上げ、迷いなく突進してくる。
俺は即座に魔力を展開した。
「輪廻の炎!」
輪廻の魔法で小火炎を何度も叩き込む。
よし、この時代でも、魔法は問題なく使える。
火炎の連続放射を受けて、白い巨体は崩れ落ちた。
俺は躊躇せず、その毛皮を剥ぐ。
血生臭さに顔をしかめながら、それを身に巻きつけた。
正直、気分は良くはないが、暖かい。
原始的だが、生き延びるためには仕方がない。
さて、次はどうする?
俺は、魔王ガルムの城があった場所へ向かうことにした。
元の時代の感覚で転送魔法を試みる。
時代は違っても、座標は同じだろう。
転送の光が収まった先――そこにあったのは、記憶している魔王城ではなかった。
広がっていたのは、戌人たちの街だった。
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