ウルザルブルンの水
大魔王――世界に災厄をもたらす存在として、伝承の中でしか語られない称号だ。
大魔王ニーズによって、世界の理であるウルドが操られている。
もしそれが事実なら――もはや絶望的な状況だ。
だが、すぐに別の疑念が浮かぶ。
いかに大魔王とはいえ、巨神にも匹敵する存在を意のままに操ることなど、本当に可能なのか。
だが、今は考え続けていても意味がない。
エルマを、そしてハルトを蘇らせるためには、この女神に縋る以外、俺にはもう選択肢が残されていなかった。
「昔のことは……まだ、ほんの少ししか思い出せない」
ウルドはそう呟き、記憶の底を探るように胸元へ手を当てる。
その仕草も、声音も、世界の理を揺るがす存在とは思えないほど頼りなく、幼い少女にしか見えない。
俺はゆっくりと懐に手を伸ばし、小さな瓶を取り出した。白く、淡い光を湛えた水が、瓶の中で静かに揺れている。
ヴェルダンディから託された――『ウルザルブルンの水』。
「きっと、これを飲めば……すべてを思い出せるはずだ」
その言葉に、ウルドの視線が瓶へ向けられる。
一瞬だけ、瞳の奥に光が灯ったようだった。
「……なんて神聖な水。確かに、これは私がずっと求めていたものだと思う」
彼女は息を呑むように呟き、ゆっくりと顔を上げる。
わずかに期待が入り混じった視線が、まっすぐに俺を捉えた。
「これを……私に、くれるの?」
俺は、何も言わずに頷き、小瓶を差し出した。
これは、賭けだ。ノルン相手に下手な小細工は通じないだろう。それに、他に選択肢もない。
小瓶を受け取ったウルドは栓を外し、ためらいもなく水を口に含んだ。
拍子抜けするほど、あっさりしていた。
まさか、ここまで順調に進むとは。
ヴェルダンディの言葉が正しければ、この水には、強力な浄化の力がある。
これで、ウルドは大魔王の操作から解放され、正気を取り戻すはずだ。
淡い光が、彼女の身体を包み込む。
瓶の中の水が、最後の一滴まで飲み干された時、ウルドの瞳が、鋭く細められた。
「……感謝する」
その声は、先ほどまでの儚さを残してはいなかった。
「すべて、思い出した。私の名は、ウルド。過去を司る、ノルンの一柱」
俺は、希望を込めて問いを投げる
「なら……お前が変えた過去を、すべて元に戻してもらえるか? ヴェルダンディは、誰かの都合で過去を変えることは許されないと言っていた」
一瞬の沈黙。
その後、ウルドは淡々と告げた。
「過去をいたずらに変えてはならない。確かに、それはノルンの掟」
彼女の言葉はそこで終わらせなかった。
「けれど、それは長い時を超えてノルンが存在し続けるために定められたもの。私たちはその掟に従い、果てしない時間を生き、やがて理と化した」
声に、苛立ちが混じる。
「私たちは、世界を維持するためだけの存在。感情も、意志もない。ただ機能するだけの道具……あまりにも、退屈だった」
彼女は、自分の胸に手を当てる。
「でも今の私は、時を遡り、原初の姿へと戻った。もう二度と、あの停滞の中へ戻る気はない」
その瞳に宿るのは、解放された歓喜だった。
「この姿のまま、果てるまで――楽しむ」
次の瞬間、世界にノイズが走り、ウルドの身体が消え去った。
そこには、何も残っていない。
つまり、彼女は狂っていたわけでも、操られていたわけでもなかった。
理として縛られる以前の、自由を思い出したのだ。
俺は、その場に立ち尽くすしかなかった。
――次に、何ができる?
これ以上、アースガルドで騒ぎを起こすつもりはない。
民を巻き込み、さらなる犠牲を増やすわけにはいかない。
そして、皇帝プラティナス。
あの奇跡の力に対抗する術も、今の俺には思いつかなかった。
今は、退くしかない。
俺は、ハルトを失い、消沈するアースガルドを後にした。
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