ニブルヘイム
ニブルヘイムへ向かうため、俺たちは準備を整え、魔法車に乗りこんだ。
さすがに突然いなくなるのはまずいと思い、工房には『急用のため少し留守にします』とだけ書いた手紙を残してきた。
あの万能メイドたちならあの手紙を見て、うまく対処してくれるだろう。
魔法車を走らせ、北へ――さらに北へと進む。
転送魔法を使えば一瞬でニブルヘイムに行けるのでは、と思うかもしれないが、あれは決して万能ではない。
安定して転移できるのは、実際に術者が足を踏み入れたことのある場所だけだ。
未知の地点へ飛ぼうとすれば、成功率は一気に下がる。
地中深くに埋まったり、まったく別の土地に飛ばされたり。運が悪ければ、異空間へ放り出されることもあるという。
そんな博打を打つつもりはない。
だから俺は、エルマに教わった現実的な方法を使っていた。
目に見えている範囲なら、転移のリスクは限りなく低い。
見える限りの安全そうな先へ、魔法車ごと転移する。
魔力が回復したら、また飛ぶ。それを、ただ淡々と繰り返す。
それだけのことだが、効果は絶大だった。
本来ならニブルヘイムに辿り着くまで一か月はかかる長旅が、この方法なら、わずか数日で済みそうだ。
北へ進むにつれ、大地の色が変わり始めた。
土は凍り、地面は白く硬く閉ざされていく。
「わわわ……息を吐くと真っ白です……! これは……私たちの存在がこの地に拒絶されている証……?」
ミーアが、大袈裟に驚いている。
「いや、普通に寒いだけだ」
さらに進むと、寒さの質も変わってくる。
「……寒い、というより、痛いな」
「正常にゃん。ニブルヘイムは、そういう場所にゃん」
視界は、白と灰の二色だけになる。
やがて霧が立ち込め、遠景が完全に溶けた。
「これが霧にゃん。つまり……もうニブルヘイムに入ったにゃんね」
地平線は消失し、空と地面の境界が分からなくなる。上下の感覚すら、狂ってしまいそうだ。
「世界が……氷漬けになっているみたいです……」
ミーアが、少し声を潜めて呟いた。
「こんな場所に、本当に人が住めるのか?」
「寒さに強い戌人と、未人がいるにゃんよ」
「魔王たちの縄張りもあるだろ。どうして、わざわざこんな極寒の地にこだわってるんだ?」
リリィは、当然のことのように答えた。
「ニブルヘイムは、原初の世界の一つにゃん」
「原初……?」
「世界が分かれる前から存在している場所にゃん。そのせいで、空間の魔力が、異常に濃いにゃん」
言われて、ようやく気づいた。確かに、魔力の回復が異様に早い。
この環境なら、大規模な魔法を連続で放つことも可能だ。
魔王たちが、この地に執着する理由も理解できる。
俺は、白く閉ざされた世界を見渡した。
遠くまで見渡すことができず、安全に転送魔法を使うことは難しそうだ。
――ここが、ニブルヘイム。
師匠の過去と、世界の歪みが交わる場所。
その瞬間だった。
前方の白の中に、動く何かが混じった。
もこもこ。ふわふわ。
圧倒的、毛量。
「……羊?」
「未人にゃん」
リリィが叫んだ。
近づくにつれ、それが確かに人型だと分かる。
毛。毛。毛。全身が羊のような毛に覆われている。
その未人たちは、必死な形相でこちらへ駆けてきていた。
「下名、ここで捕まるわけにはいかぬ……! 絶体絶命!」
振り返った霧の奥から、荒々しい気配が一気に迫ってきた。
白い靄を蹴散らして現れたのは、鋭い牙をむき出しにした戌人たち。
獣じみた笑みを浮かべ、獲物を追い詰めることそのものを楽しんでいる目だ。
その先頭に立つ一体は、明らかに体の大きさが違った。
人の倍近い体格。
全身を覆う毛皮は黒と褐色が混じり、ところどころが硬く逆立っている。
肩から腕にかけては筋肉が盛り上がり、指先の爪は短剣のように尖っていた。
顔つきは獰猛な狼のようで、細長い口吻にずらりと牙が並んでいる。
そいつが喉を鳴らし、不気味な声を張り上げた。
「ウハハハハ! 未人共、せいぜい逃げ惑うがいい! 俺は三獣士がひとり、ジャッカル――」
だが、名乗り終えることはなかった。
『面白いかも!』『続きが気になる』と思った方、ブックマーク登録や↓の『いいね』と『★★★★★』をポチッとしていただけたら、それだけで作者は歓喜に満ち溢れ執筆の励みになります!




