心の空白
エルマは、確かに存在していた。
その名は歴史に刻まれ、文献にも残っている。
ただし、彼女はすでに、過去の人物となっていた。
共に歩き、俺に多くのことを教えてくれた師匠ではなく、遠い時代に名を残した賢者として。
受け入れられるわけがない。
声を荒げて否定したかった。
そんなはずはない、勘違いだと。
だが、どれほど感情を高ぶらせて否定しても、事実を書き換えることはできないだろう。
「リバティさん、大丈夫ですか? 顔色がよくありませんが……」
ハルトが、気遣いの声をかけてくれた。
「ああ……大丈夫だ。少し疲れているだけだと思う。しばらく休むよ」
「それがいいですね。どうか無理はなさらずに」
ハルトは穏やかに続ける。
「リバティさんは、アースガルドにとって欠かせない存在です。あなたの技術力と、プラティナス陛下の奇跡の力があれば、たとえ巨人の国ヨトゥンヘイムが攻めてきたとしても、負けることはないでしょう」
その言葉に、俺は曖昧にうなずいた。
少し、頭を冷やそう。
感情に引きずられたままでは、何一つ見えてこない。
俺はハルトとジンクスに別れを告げ、自分の工房へ戻った。
工房では、相変わらず万能メイドたちが忙しなく動き回っている。
指示を出さずとも作業は滞りなく進み、必要な素材や部品は、いつの間にか揃えられていく。
完璧に整えられた環境。
何不自由のない研究空間。
今のこの国での俺の扱いは、異常と言っていいほど手厚い。
研究環境、潤沢な予算、ほぼ無制限の裁量。
思い返してみても、俺自身が元首だった頃でさえ、ここまで露骨に国費を自分一人に注ぎ込むことはなかった。
考えてみれば――
この状況は俺がずっと目指してきた自由の完成形なのかもしれない。
金も、人材も、時間もある。
感謝され、頼られ、必要とされている。
生活のために頭を悩ませ時間を割く必要はなく、自分が作りたいものだけを作り、その成果を誰かに奪われることもない。
元の世界で無駄遣いをせず金を貯め、経済的自立、FIREを目指していたのも、まさにこの状況を作るためだったはずだ。
もう何も考えず、この立場に甘んじてしまえばいい。
そう割り切ることもできるはずだ。
それなのに、俺は、この状況を受け入れることができなかった。
胸の奥に残る、どうしても埋まらない空白。
忘れ去られたエルマを、このままにしておくことはできない。
彼女は古代魔法によって、己の肉体年齢を止める術を身につけていた。
ならば、歴史の上では故人と見なされていても、きっとどこかに存在しているはずだ。
その手がかりとなる場所は、おそらく、ニブルヘイム。
ガルム討伐隊がそこに踏み込み、その直後に世界は書き換わった。
そして、魔王ガルムは戌人であり、エルマもまた戌人だ。
両者の間に、何の因果もないとはどうしても思えなかった。
エルマの足取りを追うために。
そして、俺の心の空白を取り戻すために。
――ニブルヘイムへ行くしかない。
幸いなことに、今の俺は元首ではないらしい。
多少不在にしても、国が立ち行かなくなることはないだろう。
俺は、この話をミーアとリリィに打ち明けた。
「すみません……エルマさん、という方の記憶はありません。でも、お兄ちゃんがそこまで言う人なら、絶対に大切な存在です」
ミーアは小さく拳を握り、迷いのない瞳で言葉を継いだ。
「もし……誰かの悪意によって、その存在が世界から消されてしまったのだとして……その方を覚えているのが、お兄ちゃんただ一人なら、エルマさんを取り戻す役目を負っているのも、きっとお兄ちゃんです」
ミーアは確信を持ってそう言った。
「ご主人様が行くと言うなら、だるいにゃんけど……私は従うしかないにゃん」
リリィは肩をすくめ、いつもの調子で続ける。
「ニブルヘイムは極寒の地にゃん。私は冷気には強いけど、ご主人様たちはちゃんと防寒していくにゃんよ」
そしてミーアは、もう一度だけ俺をまっすぐに見つめる。
「私は、ずっとお兄ちゃんを信じています。あの日……助けてもらった時から、ずっとです。だから――私は、お兄ちゃんと共に行きます」
その言葉に、迷いはなかった。
こうして俺は、ミーアとリリィを伴い、
北の果て――ニブルヘイムへと向かう旅に出ることになった。
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