凍え2
「大丈夫ですか?」
山田の優しい声。
喉の奥がツンと痛くなる。
「だい、じょうぶ…なわけないだろ…。」
もう限界だった。
「……っ。俺、毎日頑張ってるのに…。なんで、なんでこんなに色々言われないといけないんだよ…!」
されたこと、言われたこと、嫌だったこと。
山田は相づちをうちながら、全て聞いてくれた。
そして、
「このまま、残りますか?」
優しい声でそう言った。
「…ここに?」
「はい。帰り道は消えますが、永遠にここで暮らすことができます。」
「それってつまり…。」
現実世界では死ぬってことじゃないか。
山田は笑顔で、
「またお会いしましょう。お返事はその時に。」
と言って黒いお守りを差し出してきた。
お守りを受け取ると、唐突に強い眠気に襲われた。
「それを胸にあてて眠れば、ここに来ることができますよ。」
山田の声が遠くなる。
はなまるのあたたかさを感じながら、俺は意識を手放した。
朝7時。
久しぶりに、起きたい時間に起きることができた。
毎日、あいつとの会話を思い出しながら早朝に起きてしまうクセがついていたのに。
「……え…。」
右手には、夢でもらったお守り。
ホログラムのように、触っても触れないのにたしかにそこにある。
スマホで写真を撮ろうとしても、映らなかった。
ーーーこのまま、残りますか?
山田の声が蘇る。
こんな現実、クソだと思っていたのに。
残ると即答できなかった。
そろそろ会社に行く準備をしなければ。
行きたくない。本当に行きたくない。
それでも、行かなければ。
生活のために。
心に冷たい氷を刺されたような痛みが広がった。
あの世界に行けば、この痛みから解放されるのだろうか。
胸の中央から喉の奥にかけて違和感を感じた。
黒い、無数の蛇がうごめいているような。
丸く、まるく。
絡み合いながら、外に出ようともがいている感覚。
頭の中は毒におかされたように真っ黒な言葉で溢れかえり、パンク寸前だった。
俺はいつから壊れてしまったんだろう。
鏡をみる。
不機嫌そうな、嫌な顔。
「…ははっ…。」
このまま死んだら、負けたまま終わりじゃないか。
すぅ、と深呼吸をする。
もう一度、真っ直ぐに鏡をみる。
「…よし。」
もう、負けない。
出勤して、デスクに荷物を置く。
周囲がザワついて、視線が刺さる。
「ねぇ、ちょっと…。」
「やばくない?」
周りの女子社員がヒソヒソと話している。
「中村、お前今日どうしたんだよ。」
隣の志麻が話しかけてきた。
「めちゃくちゃかっこいいじゃん。」
今日は髪をセットし、肌と眉を整え、シャツにはきちんとアイロンをかけてきた。
「いつも廃人みたいだったのによ…。何?デート?」
「強いて言うならATフィールド。」
「…は??」
ポカンとする志麻を放って、パソコンを開いた。
「中村くん、ちょっと。」
くそ上司こと、多山が俺を呼んだ。
「はい。」
まっすぐ奴を見据えた。
「きみさ、この前顧客から大事な資料預かってきたよね。それどこ?」
「預かったその日に提出しましたが。」
「いやいや、嘘つかなくていいから。無くしたの?どう責任とるの?」
これだから新人は、という目で俺を見る多山。
俺はたしかに提出した。
背筋を伸ばし、静かに腕を組む。
指先まで神経を張り巡らせて。
自分の一挙手一投足が、相手を威圧するように。
多山の頭の先からつま先までをゆっくりと観察した。
茹でダコのように赤い頭皮。
浮き出た血管。
べとついた髪。
腹の出た肥満体型。
むくんだ脚に、歪んだ骨。
血管が詰まりやすそうな見た目。
こんな奴の脳機能が正常なわけがない。
『多山課長、杉田建設から資料を預かったのですが…。』
俺のスマホから、録音音声が流れ出す。
『ああ、そこ置いといて。』
と、多山の声。
多山は目の前で目を見開いていた。
「書類を提出した日の録音データです。」
「お前、なんでこんな…。」
「多山課長から言いがかりをつけられることが多いと感じていましたので、記録を残すようにしていました。」
へその下に力をこめ、腹の奥から声を出す。
「俺は2024年9月5日15時30分に、資料を提出しました。…課長のデスクをよく探されてみては?」
多山は俺を睨みつけたあと、デスクに積み上げられた書類の束を漁り始めた。
そして、
「あ…。」
資料を見つけたようだった。
「それで、その後はどうなったんですか?」
「謝罪されずにあのまま終わったよ。」
芝生に寝っ転がって、はなまるを撫でる。
「あーーーー。しんど。」
山田は俺を見ながら、クスクスと笑う。
「あなたの勝利ですよ。もっと喜べばいいのに。」
「いーや、だってさ。もっと心の底から立ち直れないくらいにしてやりたかった。」
心の中ではまだ、あいつへの暴言が渦巻いている。
もう二度と負けないが、俺の心もずっとすり減り続けるのだろう。
「では、こういうのはどうですか?。」
山田が俺に目隠しをする。
「あなたの中から彼を消してしまいましょう。」
目隠しから解放されると、目の前に多山がいた。
多山は俺をみてニタニタと嫌な笑みを浮かべている。
「あなたの中の、彼のイメージです。本物の彼ではありませんから…何をしてもいいですよ。」
多山に近づいてみた。
「中村くん、君はさ…」
いつも通りの嫌味。
俺は最後まで聞かず、多山を殴った。
怒る多山。
殴り続ける俺。
手が血だらけになろうと、止められなかった。
「…ははっ。はははっっっ。」
喉の奥に住む蛇が、俺に力をくれた。
そっか。ずっとこうしたかったんだな、俺。
殴って、殴って、殴って。
動かない多山を見下ろしても、気分は晴れなかった。
ーーーワン!ワン!
はなまるが俺を見つめて鳴いている。
「………。」
血に染った自分の手足が目に入る。
夢のくせに妙にリアルな、むせかえるほどの鉄の匂い。
甘くて辛い匂いが喉にべったりと張り付いて離れない。
急に自分が恐ろしくなった。
川にうつる自分の姿をみる。
「………化け物じゃねえか…。」
こんな自分、知りたくなかった。
ポタ、と涙が零れる。
はなまるが多山の傷を舐めた。すると、多山はみるみるうちに元通りになった。
俺は多山に、
「…行けよ。」
と吐き捨てるように言った。
「…許すから。二度と俺の世界に入ってくんな。」
多山は走って逃げていった。
「これで、貴方が悪夢にうなされて起きることはなくなりましたね。」
「知ってたのか。」
「夢の世界の住人ですから。」
山田が指先をパチンと鳴らすと、俺に付いた血が綺麗に消えた。
「…この世界に残るか、答えは決まりましたか?」
「…残らない。まだ残れない。」
そうですか、と山田は頷くだけだった。
「今日は、はなまるに会いに来たんだ。」
俺の服に鼻を擦り付けるはなまるをみる。
抱き上げると、嬉しそうな顔をした。
「ああーーー。持って帰りてぇーーー。」
離れ難くて、視界が滲む。
今日のこの時間が終われば、もう二度と会えないから。
そんな事も知らず、はなまるは元気にしっぽをふっている。
「また会えますよ。」
「そうかな。」
「ええ。夢の中で。」
「そっか。」
朝、起きて。
窓を開けた。
優しい空気が頬を撫でる。
目を閉じて、その暖かさを感じた。
木々がざわざわと音をたてる。
のどかだ。
青空には、雲がゆったりと流れている。
太陽の美しい光に照らされて、雲は白く眩く輝いていた。