儚む人
足元がぐらつく。
ベッドで横になっていても、この感覚は消えない。
いつ抜けるとも分からない床の上を歩いているような感じ。
空に作られた細い透明な橋を渡っているような恐怖。
いっそのこと、高いところから落ちてしまったら楽になれるのだろうか。
「…え…。」
横長の変な建物。
銀髪の主人公が無双する漫画に出てくる建物に似ている気がする。
あれは江戸時代を舞台にした物語だったか。
建物の上には
【邯鄲長屋】
と書かれた看板。
読めない。
帰り道を探さないと。
あれ…。どこから来たんだっけ。
帰れないのなら、ここに居るのもいいかもしれない。
どうせ居場所なんてない。
どこからか甘い香りがする。
何の匂いだろう。
思わず呼吸が深くなるような、そんな優しい香り。
長屋の、手前から2番目の部屋の窓が開いた。
「よ!」
大柄の、和服の男性。
人懐っこい笑顔で手を振っている。
「よく来たな!」
知らない人なのに、どこか安心する。
芯のあるよく響く声。
この人はどこに行っても人気者なんだろうな。
「俺はゲン!アンタの名前は?」
「…名前…。」
名前、なんだっけ。
思い出せない。
ゲンは、
「まあ入んな!」
と笑った。
部屋の中に入る。
物が少ないシンプルな和室。座布団が2枚と、コタツが1つ。あるのはそれだけ。
ポカポカとした日差しが気持ちのいい部屋。
「ここはな、かんたん長屋ってとこなんだ。」
「かんたん?」
看板に書いてあった、あの文字はかんたんと読むらしい。
「そ。アンタの夢の中と繋がってる世界のひとつ。」
そういえば、さっきベッドに入って目を閉じた。
ここは夢の中だったのか。
ゲンがお茶を入れながら続ける。
「何か辛いことがある奴が、ここに呼ばれる。」
「…つらいこと…。」
「聞いて欲しいことがあるなら、聞くぜ。ここはその為の世界なんだ。」
差し出されたお茶は、とても甘い匂いがした。
さっき嗅いだあの香り。
バニラにシナモン。そんな香り。
お茶を一口飲んでみる。
「…美味しい…。」
じんわりと心を包んでくれるような温かさ。
こんな温かさに触れたのはいつぶりだろう。
「無理に話さなくてもいいけどな。」
「…すみません、思い出せないんです。」
自分の名前も、人生も。
思い出せない。
「そっか。」
ゲンは優しく笑うと、すくっと立ち上がった。
「そんじゃ、出かけるか!」
連れていかれた先は【甘味屋】。
「ココロー!」
「はーい!」
店の奥から女性が出てきた。
「お任せ定食、2つ!」
「はーい!」
そう言うとその女性は店の奥に消えていった。
テーブルの向かいに座ったゲンを観察する。
筋肉質の大きな体。帯刀していないが、武士のような服装。しかし髷はなく、お祭りに来た現代の若者のようにも見える。
「ん?」
視線に気がついたのか、面白がるように眉をあげた。
「お任せ定食、何が出てくるんだろうな。アンタはいま何が食べたい?」
「…。」
何が食べたいんだろう。
自分は何が好きなんだろう。
「甘いものか辛いものか。洋食か中華か。俺は…そうだな、牛肉がゴロゴロに入ったカレーかな!」
「お待たせしましたー。」
ココロが定食を運んできた。
テレビで見た外国の料理のように銀色の蓋が全体を覆っている。
「おう!ありがとな!」
「…ありがとうございます。」
蓋に手をかける。
何定食なんだろう。
蓋を取ると、懐かしい匂いが一気に広がった。
少し不格好な、肉じゃが。
どこかで見たことがあるような。
一口食べてみる。
「…っ。」
いつ食べたかも、どこで食べたのかも思い出せないけれど。
大好きで、ずっと食べたかった味。
気がつくと涙が止まらなくなっていた。
泣きながら肉じゃがを平らげる。
頭の上に、ポンと優しく手を置かれた。
手のひらの温度と共に彼の優しさが伝わってくるようだった。
冷たくなった心に、トロトロの暖かいチョコレートをかけられたような気持ち。
温かくて、幸せで、少し痛い。
ようやく全てを思い出した。
「…あの、話、聞いてもらってもいいですか。」
この人に、聞いて欲しい。
「おうよ。」
「…小さい頃からずっと、他人と上手く関われなくて。…それがずっとコンプレックスで。」
ゲンは何も言わずにただ頭を撫でてくれる。
「さびしいのに、挨拶すらまともにできない。
せっかく話しかけてもらっても、自分が喋ると空気がこわれるのがわかるんです。だからろくに会話もできなくて。
こんな自分が嫌で、嫌で。
上手くやれる人が羨ましくて。
自分以外の人が集まって笑っていると、嫌な気持ちになって。飲み会も、一人でいるよりずっと孤独な気持ちになるから嫌いで。
ずっと…ずっとさびしいんです。」
「…そっか。辛いな。」
「…はい…。」
また涙がボロボロと出て止まらなくなる。
この空間が、あまりにも温かくて。
しばらく泣くと、眠くなってきた。
「なあ、次にさびしくなったら俺を呼べよ。ゲンって言ってくれれば駆けつけるからさ。」
薄れていく意識で、最後に覚えていたのはこの言葉だった。