自分から。2
目覚めると、自分の部屋にいた。
7:30。
行かなきゃ。
でも、行きたくないな。
でも…。
「おはようございます。」
死んだような声で、通りすがりの同僚に挨拶する。
どうせ誰も返事してくれないけれど。
来たくなかったな。会社なんて。
でも生きるためにはお金が必要だから。
いつもと変わらない仕事。
理不尽なことで怒られる日々。
どうでもいい。ここにいるだけでお金が貰えるんだから、もうそれでいい。
そうして日々を過ごして、逃げ込むように休みの日を迎えても。
何も救われない。
眠ることしか出来ない。
寝ることよりも、生きている感じがする何かをしたいのに。
何かしたいのに何もできない。何かが何なのかも分からない。
寝て、食事して、排泄して、また寝て。その繰り返し。
毎日、休みの日を目指して頑張っているのに、休日はこんなに虚無なんて。
こんな日々が一生続くのが怖かった。
何のために生きているのかがわからなかった。
何がしたくて、どこに行きたいのかもわからなかった。
そんな日々を過ごしてただ老いていくのが怖かった。
ザワザワと、心臓が鼓動する。
手足に力が入らない。
頭は嫌な記憶でパンパンに膨らんで、喉から悲鳴が漏れ出す。
のたうち回るように、布団を蹴る。
ここにいたくないのに、ここから抜け出せない。
眠りたいのに眠れない。
どうにかなりそうだ。
いや、もうなっているのか。
「…助けて…」
ーーー誰か。
「助けて」
ーーー誰でもいいから。
「助けて!!!!!!」
ーーーリンカ。
『どうしたの?』
リンカの声が聞こえた。
「…生きたい。」
幻でもいいから、助けて。
『目を閉じて。』
声に従って目を閉じた。
『大きく息を吸って。』
何故だろう、空気が甘い。バニラのような匂い。
『ゆっくり吐いて。』
ザラザラと、悪いものが心から出ていくような感覚。
『もう一度大きく息を吸って。』
今度は柑橘系の香りがする。
『吐いて。』
身体中に、力が巡っていく感覚。
『3.2.1。目を開けて。鏡を見て。』
鏡?
洗面台に行くと、
「…なにこれ…。」
顔つきが変わっていた。
自分の顔の形が変わっているわけではない。
恋をしたように上がった頬。
幸せそうに微笑む口元。
光を宿した、楽しそうな瞳。
「なんで…。」
特に嬉しいことがあったわけでもないのに…。
いや、何だ?
心臓がドキドキする。
好きな人に会った時のように。
嬉しくて、楽しくて、ついニヤけてしまう。
「何が起こっているの…?」
楽しい。
はやく外に出たい。
家の中に閉じこもっているなんて、もったいない。
『どう?』
「どうって…。ソワソワする。」
落ち着かない。
身体が勝手に服を着替えて、化粧して、外に出る支度をはじめた。
バスに乗って、海に来た。
あつい砂浜を裸足で歩く。
サラサラの砂の中に足が沈む感覚が、懐かしかった。
照りつける太陽の下、波打ち際に立つ。
波が足を濡らす。
スカートをまくり上げて、波の中を進む。
「あははっ」
ただ水遊びをしているだけなのに、こんなに楽しいなんて。
ずっと忘れていた。
近くで水着を買い、海を泳ぐ。
青い透明な、美しい海。
こんなにはしゃいだのはいつ以来だろう。
他の海にも行ってみたい。海外の、綺麗な海にも。
写真家になりたい。この風景を残したい。
ダイバーになりたい。もっと泳ぎたい。
ワクワクして、やりたいことが次々に浮かんでくる。
「あはは…はは…。」
ポロポロと涙が零れる。
楽しいのに、この全てが幻なのが苦しかった。
自分には何も無いことを痛感させられる。
夢も、希望も、何も無い。
麻薬のような、幻をみているだけ。
「こんなの、知りたくなかった…。」
いつから夢を描けなくなった?
いつから楽しいという気持ちを失った?
何のために、それらを失った?
「…っ。」
苦しい。
何もわからない。
幻の歓喜と過去への後悔で心の中がグチャグチャだった。
このまま海の底に行ってみようか。
笑いながら、深く潜る。
深く、深く。
どこまでも。
たとえもう二度と地上に戻れなくても。
あまりの息苦しさに、身体が暴れ始める。
頭が割れるように痛い。
身体が勝手に大きく息を吸う。
海水を飲みこんだ。
ゴホゴホとむせ、少しだけあった肺の空気も出ていった。
内側から内蔵を引きちぎられるような痛み。
苦しくて、もがいて、でも水面はもう遠すぎて。
ただ痛みに耐える時間。
気を失えたらどんなに楽か。
水面を見つめながら、自分の行動を悔やむ。
普通に息ができること。
それだけでどんなに幸せか。
ご飯を食べて、安心して寝る場所があること。
生きるなんて、それで十分じゃないか。
ねえ神様。お願いだからもう一度生きさせて。
自分が持っている幸せを、もう忘れないから。
最後の力を振り絞って、水面に向かってもがく。
泳いでいるとも言えないような、無様な姿。
あまりの滑稽さに、神様が糸でも垂らしてくれたのだろうか。
誰かがこちらに向かって泳いでくるのが見えた。




