労働の基準2
理想の会社なんて存在しない。
金という対価を貰う以上、嫌なことは必ずある。
性格が合わない人も当然いる。
どこの会社も同じだ。だから今の会社で頑張った方が良い。
そう自分に言い聞かせてきた。
仕事が出来るようになれば大丈夫だと信じていた。
でも。
「たしかに、せめて法律守るとこで働きたいよな…。」
それに、今の職場はマンパワーに頼りすぎている。
危険な作業でも組織として何かしらの予防策を行うことなく、ただ注意しろの一点張り。
持ち帰り仕事や残業が評価の対象となるとの社長の言葉もあり、常に心身が休まらない。
考えれば考えるほどに、辞めた方がいい気がしてきた。
「ただな…生活しなきゃならないから…。いつか転職するにしても、しばらくはここで働かないと…。」
「それなら、良い薬を差し上げましょう。」
山田はニコニコと、箱を差し出してきた。
「薬?」
箱を開けてみると、何の変哲もないチョコレートが入っていた。
脳が痺れるような甘美な香り。
「どうぞお召し上がりください。」
言われるがままに口にする。
「…!!!」
ほろ苦いカカオが口の中で甘く解けていく。
甘すぎず、しかし濃厚な味わい。
飲み込むことすら惜しい。
鼻に抜ける香りが、それこそ脳まで溶かすようだった。
強烈な眠気で目の前の景色がぼやける。
「‘’言葉‘’の薬でどうか心穏やかになりますように。」
最後に、山田の言葉が遠くで聞こえた。
7:30
今日はゆっくり眠れた。
夢を見ていた気がするが、内容はよく覚えていない。
仕事に行く支度をする。
「…。」
不思議と心が軽い。
何故だろう。
「今日は真鍋さんが‘’結び‘’担当ですって。あーあ。」
マネージャーが作業台を整えながらまた嫌味を言う。
『いくら俺が仕事出来ないとしても他人に敬意も払えないってこいつ人間としてどうなんだよ。』
俺の声が、自分の耳元から聞こえる。
どうなってるんだ?
『まあいっか、別に。辞めるし。』
この声は、人から嫌味を言われる度に発動した。
『いいや、辞めるし。』
『こんだけ頑張ってもこう言われるんじゃ、どうしようもない。辞めよ。』
『こんな職場、誰も続かないわけだよ。俺も辞めよ。』
辞めるから大丈夫。
声を聞いているだけで、不思議と心に余裕が持てる。
いつか辞める職場の人間だと思えば、マネージャーもお局も冷静に見ることが出来た。
良い転職先を探し、他社の面接を受けながら過ごす日々。
ーーー働くって何だろう?
給料をもらうこと?
今の職場でも給料は貰っている。でも精神的に辛い。俺は職場に、ただ単にお金を稼ぐ手段というより、それ以上の価値を求めている気がする。
頑張ること、認められること。社会に属するということ。それを求めるのをやめてお金だけに目的を絞れば辛くなくなるのだろうか。
そんなことが出来るなら、今の職場で良いはずだ。
俺は何故、今の職場を辞めようとしているんだろう?
人間関係が辛いから。
法律が守られていないから。
環境が悪いから。
理由を挙げればキリがない。
むしろ、俺はなぜこの会社にいようとしていたんだろう。
1ヶ月して、他の会社の内定が出た。
辞表を出して、今月いっぱいでこの会社を辞めることになった。
マネージャー達にはこの事実は知らされておらず、嫌味を言われる日々は変わらない。
それでも、最後まで目の前のことを頑張った。
「真鍋。ちょっと。」
最後の出勤日。
社長に呼ばれた。
「お前は…」
使えない新卒から雇ってやったのに、と文句でも言われるんだろうか。
「…お前ならどこに行っても大丈夫だ。働いてくれてありがとな。…頑張れよ。」
なんで最後にこんな優しい顔するんだよ。
今まで散々いろいろ言ってきたくせに。
怒りとも喜びともわからない感情で心がぐちゃぐちゃで、涙となってこぼれ落ちた。
「なんで泣くんだよ。」
社長が笑う。
「…お世話になりました。」
毎日怒られて、辛かった。
この人が嫌いだった。
でも一方で、自分ができないことが出来るこの人を尊敬していた。
困っていた時に拾ってくれたことが嬉しかった。
だから、必死に頑張った。
そうか、それが俺がここに居た理由か。
逃げた自分を恥じ、同時に誇り、考える。
こんな俺がまた働けるのだろうか。
『大丈夫。なんとかなる。』
そうかな。
『じゃあ未来、教えてやるよ。』
「え?」
『あのまま働いてた未来の話さ。辞めることも考えられず、心身ともに疲弊していったお前には色んな不幸な未来が待ってた。失明する未来、指を無くす未来、鬱になって何も楽しめなくなる未来、そして不注意から人を殺す未来もな。』
「そんなこと、あるわけ…。」
『よく考えろよ。危険な切断器具はそこら辺に放ってある。薬品の管理も行き届いていない。時間に追われながらの精密作業。社員は慢性的に疲労。誰が何やらかしてもおかしくない環境だろ。』
過去に誰かが何かをやらかしたから、あそこにずっといるお局はそれが繰り返されないように厳しい態度で周囲を見張っていたのかもしれない。
『自分の身は自分で守るしかない。最後に元気に生きてた奴が一番なんだよ。
これからの未来の話もしよう。いろんな道が伸びてるぜ。可愛い彼女ができる道、大金持ちになる道、大親友と出会える道。全部自分次第だよ。』
逃げた俺が、また働けるかなんて考えても時間が過ぎるだけだ。
立ち止まるより走り抜けよう。
人生は短いんだ。




