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さよならの続きを(後編)  作者: 上田秋人
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さよならの続きを(後編)

「みー、すごい似合ってんね」

 千翼さんが吹き出して笑った。

 そんなに笑われては、本当に似合っているのか疑わしいものだと俺は思う。

 祖母の家で、着替えを借りた。本当は、一度家に帰って、着替えたり、泊まりの荷物を用意しないと、なんて思っていたのだが。千翼さんが「そんなのいいから、もう行こうよ!」なんて言い出して。

 結局、祖父の服を借りて着替えることになったのだ。

 俺は、祖母が出してくれた白い半袖シャツと黒のズボン、それに黒地のスカジャンを借りた。袖に白のラインが入っていて、胸元には鷲が飛んでいる。

「ちょっと派手じゃない?」

 俺が言うと、祖母は、

「このくらい着ないでどうします、若者が」

 と言って笑って、背中をパンっと叩いてきた。ついでに千翼さんまで背中を叩いたので、背骨の真ん中あたりがジンジンしている。

 俺が祖父の服を借りたのを羨ましがって、千翼さんまで着替えることになった。

 千翼さんは、ダボッとした紺のズボンに、かなり派手な赤地のタンクトップ、それに黒のジャンパー姿だ。

「似合う?」

 千翼さんは、俺の前でクルクルまわって見せた。千翼さんの顔に、派手な柄は良く似合っている。

「似合います」

 俺が言うと、千翼さんは祖父の部屋にあった鏡の前に立って、嬉しそうにした。

「父さんの匂いがする感じする」

 千翼さんは言った。俺も、その感覚がわかった。

 匂いと、気配。

 それらを、確かに纏っている。

 洋服ダンスの中は、見覚えのある服で溢れていた。こうして改めて見ると、相当若い格好をする人だったなぁと、可笑しくなってしまった。けれど、どの服も、祖父にとても似合っていたし、サラリと着こなしていた。

「二人とも、男前ね。気をつけて行ってらっしゃい」

 祖母は言った。

 俺と千翼さんは、四十九日までには必ず帰ると約束して、家を出た。まだ昼を少し過ぎた時間で、空は青くて高かった。

 薄く伸ばしたような雲が、ふわふわ浮いていて、秋を感じさせる。

 ついこの間まで、俺は千翼さんと一緒に書斎から入道雲を眺めていたはずだったのに。千翼さんと知り合う前、祖父の葬儀をした七月など、遠い遠い昔のことのように思えた。

「どこに、行きますか?」

 俺は、ご機嫌で前を歩く千翼さんの背中に言った。本当に横浜に行くのだろうか、それとももっと遠くへ行くのだろうか。

 千翼さんは振り返って笑って、

「どこにでも行けるよぉ」

 と言った。

 どこにでも行ける。俺は、そういうのに、本当に弱い。どうしたら良いか、怖くなる。どこでもいい、なんでもいい、みたいな自由さは、俺にとっては、ある意味では恐怖だった。

「千翼さんが行きたいところに行きたいです」

 俺が言うと、千翼さんは眉を片方だけ器用に動かして、

「逃げたな?」

 と言った。図星なので、俺は何も言えない。

「決めたがりのオレと、決められないみーは、丁度良いのかもねぇ〜」

 千翼さんは言った。

 俺は、千翼さんと一緒にいるときに感じる居心地の良さとか、そういうものの正体を知ったような気になった。なるほど、そうかもしれない。振り回されてはいるけれど、居心地が悪いわけではないのだ。

「やっぱり横浜行こ。みーにオレの住んでる場所、見せたいし」

父さんが好きだった場所とかも、案内したい

 千翼さんが言うので、俺は無言で頷いた。今まで、横浜という土地を意識したことはなかった。

 遊びに行った記憶も、あまりない。俺は少しのときめきを覚える。

 九月の平日、学校をサボって、真っ昼間。今から夏休みがはじまるような、そんな感じの希望を、俺は胸に灯したのだった。

 *

 東京と神奈川は、近い。

 横浜は、電車に揺られて、あっという間に着く距離だった。

 そんなことさえ、俺はいまいちわかっていなかったのだから、自分の世界の狭さを痛感する。小学校、中学校、高校と、通学はいつでも徒歩だった。

(大学入って、電車通学になったら……毎朝、こういう感じか……)

 俺は思ったけれど、そもそも大学に入れるのか?という問題があって、あまりにも勉強をしていない自分に、足下がグラグラしたし、やっぱり学校をサボったのはマズかったのかもしれない、などと考え始めた。

 千翼さんは、電車での移動に慣れている様子で。携帯をいじりながら、

「みーは横浜着いたらどこ行きたーい?」

 なんて、楽しげにしている。俺と千翼さんは、電車のドア側の端っこに二人で立っている。

 電車の中を見渡すと、乗っているのは、うたた寝をしているサラリーマン風の男の人や、年輩の女性、子供をつれた女の人など。全体的に、車内の空気がまったりしていて、窓の外は秋晴れの空。陽の光が柔らかく届いて、電車の振動と一緒に光も揺れている。

「散歩、したいですね」

 俺はポソッと言った。千翼さんは、首を小さく傾けて「いいね」と言った。

 日光に当たって、薄茶色に透ける髪がサラサラと揺れる。

「今日、いい天気だし、アイス買って、海沿い散歩しよっか。日本丸見に行こうよ」

「日本丸って船でしたっけ?」

「そうそう、なんか昔風の。よく父さんと見に行った」

 俺は、祖父が造船系の会社で働いていたということくらいしか知らない。祖父の口から話して聞かせてもらった知識だけしか持っていない。

(ずっとじぃちゃんに憧れてきたけど……)

 その割には、自分は何も知らないなぁと、今になって思う。祖父が好きだったもの、好きだったこと。それらについて、もっと知りたかったと思う。

 もっと、話してもらえばよかった。

 もっと、話して、とせがめばよかった。

 俺は、いつも受け身で、聞きたいことも、知りたいことも、宙ぶらりんのままにしている気がする。

「千翼さんの家って、どの辺にあるんですか……?海、見えます?」

 俺は思い切って尋ねてみた。海が見える場所で生活するということに、以前から少し興味があった。

 千翼さんは、「海は見えないけど、汽笛が聞こえるよ」と言った。

「いいな」

 俺が呟くと、千翼さんは無言で、ただ口の先を均等に美しく上げて笑った。


 すぐに海に行けるから、と言われて降りた駅。平日なのに、それなりに人は多かった。けれど、駅自体が広くて、混んでいる風には感じられなかった。改札を出て、千翼さんの背中を追って歩く。土地勘がないから、ただ千翼さんを追いかけることしか出来なかった。

 千翼さんの迷いない足取りに促されて、階段をのぼって駅を出る。

 外に出てすぐ、フワッとした風が頬を撫でた。柔らかく、少し水気を含んだような風だった。不思議な匂いがした。

「これ、海の匂いですかね」

 俺が言うと、千翼さんはキョトンとして、

「え、なんか匂う?」

 と言って、鼻をスンスンさせた。

「千翼さんは、慣れちゃってるから気づかないのかな」

 あんまりにも犬のようにスンスンとしているので、俺は笑った。

「えー、そうかな……みーは横浜はじめて?」

 千翼さんは言った。

「いや、来たことくらいあると思いますけど、あんまり記憶にないです」

「海は?」

「あんまり行かないですね」

 思えば、あまり海に行ったことがない。何故だろう。避けていたわけではないが。

「小さい頃、みーはどんなとこに連れて行ってもらった?」

 千翼さんは言った。誰に、とは言わなかったが、祖父のことだろう。

 俺は思い出す。祖父と手を繋いで、歩いた記憶。

「ばぁちゃんの趣味で……花の展示会とか、植物園とか……あとは、遊園地、映画……プールは行った気がする……あと、なんだろうな……」

 こうして改めて考えてみると、外出した記憶はあまり多くなかった。それよりも、祖父母の家で、庭に出てスケッチをしたり、縁側に座って、永遠と祖父の話を聞いていたり、一緒に本を読んだり。俺は割りと大人しいタイプの子供だった。今も、そこまでアクティブな方ではない。

「湊は賢い、賢いなぁ、俺より賢い!よく学べよ、得意は伸ばせ。苦手は誰か、他のヤツに任せりゃーいい。だが、任せられるように、友達はたくさん作れよ、いろんな種類の友達がいりゃー最強だ」

人見知りはすんな、声は大きく、ハッキリ喋れよ、腹から声出せ、陰口は言うなよ、文句があるなら正面から言え

 祖父の声が脳内で蘇る。

「じぃちゃん、あんまりじっとしてるの好きじゃなかっただろうに、俺といるときは、俺に合わせてくれてたのかもしれないです。なんか、強いから、振り回されてばっかりだったような印象だったけど、そうでもないなって、今、思いました」

 黙って本を読むなんて、絶対趣味じゃなかっただろうに。俺が熱心に読書をするのを、ただじっと、見ていてくれたような気がする。そういう、あたたかな視線を、覚えている。

「やっぱり、オレとみーは丁度良いのかもしれないね」

 千翼さんは言った。

「オレ、父さんとは外にばっかり遊びに行った。海に川に山も行った。港にもしょっちゅう行ったし、公園で走り回ったり、動物園とか水族館とか。オレも家でじっとしてらんない性格だからさ。でも、オレもみーもそういう感じだったら、父さん絶対ヘバってたよ」

 ふひひ、と千翼さんが笑うので、俺も笑った。

「オレはみーが羨ましい。みーも、オレが羨ましい?」

 千翼さんは、唐突に言った。俺は、その直球の質問にドキッとした。

 そして、千翼さんが俺に対して、羨ましさを感じているとは思っていなかったので、そこにびっくりした。

「羨ましいですね」

 俺は、正直に言った。千翼さんは、俺の答えに満足したように、

「だよね。だから、やっぱり丁度良いんだ。オレとみーを足すと、なんだか全部埋まるから」

 そう言った。

 そして、よかったよかった、と言う。千翼さんが「よかった」と発音すると、何故だろう、本当に「よかった」と思えた。俺は、千翼さんを真似して、心の中で「よかったよかった」と呟いた。

 その言葉は、じんわりと、胸の奥に染みていった。

 *

「海だーーー!!」

 駅からほんの数分歩くと、すぐに海が見えた。千翼さんが走り出したので、俺もその後に続く。

 海が目前に近付くにつれ、風の香りも強くなって、やっぱり駅の前で感じたアレは、潮風だったと確信する。

 開けた芝生の地面、その向こうが海だった。視界が広い。高い建物は、みんな背中側にそびえていて、目の前は空と海と芝と千翼さんばっかりだ。

「今日はきもちーねー、やっぱ学校行かなくて正解じゃん!」

 千翼さんは言った。空にぽつぽつと浮かぶ白い雲を見て、俺は深く呼吸した。

「そうですね、正解です」

 俺は言った。

「向こうにアイス売ってるから食おうよ」

「千翼さん、アイス好きですよね」

「みーも好きでしょ?前に一緒に食べた時さ……あ、あの時のアタリ棒、ちゃんと洗ってとってあるからね」

 千翼さんは両手を軽く広げて、クルクルまわりながら、楽しそうだ。

「転けますよ」

「うん。よく転ぶ」

 千翼さんは目を細めて、歯を見せてニッとした。そして、言ったそばから、躓いてよろめいたので、俺は咄嗟に手を出した。

 千翼さんがガシッと俺の手を掴んで、バランスを取ろうとした。が、ダメだった。

「セーーフ!!」

「どこがセーフですか……」

 二人そろって、芝生に転がる羽目になった。俺は千翼さんに捕まれているのと逆の手を、ちゃんと地面についたから良い。千翼さんは、モロに背中から転がった。

「大丈夫ですか?」

 俺が言うと、千翼さんは「めっちゃ痛かったよね!!」と真顔で言った。

 あんまりにも真顔すぎて、俺はつい、笑った。千翼さんは、芝生に寝ころんだまま。俺は、千翼さんを見下ろしている。

「押し倒されたみたい」

 千翼さんが言った。

「勘違いですね」

 俺は言った。

「みーも寝ころんだら?きもちーよ」

「そういうの、しても良い場所なんですか、ここ」

 俺が言うと、千翼さんは、左手側を指で示した。そちらへ視線を送ると、数組のカップルや親子が芝生にシートを敷いて、くつろいでいる。

「公園はみんなのものだからダイジョーブだよ」

 千翼さんが言った。俺は、ここが公園であることを、はじめて知る。千翼さんが、自分の横を手でパンパンと叩く。

「空が青いし、雲が速いよ」

 俺は、いつまでも千翼さんを押し倒しているわけにもいかないので、叩かれた場所に背中をつけて転がった。視界が一気に眩しくなって、その眩しさに慣れてくると、突き抜けるような水色の空が広がっていた。

 上空の風は強いのだろうか、千翼さんの言うとおり、雲が足早に過ぎ去っていく。

 小さく水が弾けるみたいな音が聞こえていて、芝生はぬるく、青い香りがして、微睡みたくなる。

「さいこーだねー」

 千翼さんの声が、丸く聞こえた。

「ですね」

 俺は答えた。グンと伸びをしてみると、背骨がポキッと鳴った。

 体中に、血液が巡る感じがした。きっといつでも血液は循環しているのだろうけれど、最近それがずっと滞っているような、そんな気分だったのだ。ここにきて、やっと、巡り巡っている気がした。

 体の全部が、弛緩していく。

 背中に触れている大地と、ひとつになってしまいそうな気分だった。

(あーー……)

 あー、としか、考えられなかった。生きているなぁ、と五感が脳に伝えてくれている。祖父が倒れたあの日から、体の中心近くにある、変なところが、ずっと、縮こまって、固くなっていたのかもしれない。

 カチンと緊張していたものが、常温に戻したバターみたいに、トロリと溶けだした。

「湊くん」

 完全に全身で油断しているところ。千翼さんが、急にそんな風に呼んだので、ギョッとした。

「なんです、」

 俺は、思わず変なイントネーションで答える。

「あ、寝そうだった?」

 千翼さんがクククと喉の奥の方で笑っている。そして、ふわふわした声のまま、言った。

「湊くん、今日は海の見えるところでお泊まりしませんか」

 千翼さんの言葉の後を引っ張るように、汽笛がプァーと響いた。

「千翼さんのうちに行くんじゃないんですか?」

 俺が言うと、千翼さんは仰向けからコロンと寝返って、こちらを向いた。

「ウチだと、母さんがいるなぁって思って」

オレは、みーと二人きりが良いんだよね

 千翼さんの声を、俺は仰向けになったまま、耳だけで聞いた。

「そういえば、今日スズさん居ませんでしたね、ばぁちゃんのうちに」

 あまり深く追求するのはどうかと思って、話題を微妙にズラした。男同士の二人きりを変に意識するような人間だとは、思われたくなかった。

「母さんは、今日は仕入れだってさ。朝から知り合いの卸業者さんのところ行ってる。夜はバーやってると思うけど、行ってみる?」

「俺、未成年ですよ」

 答えながら、さっきの二人きりはどこにいったんだ、と思った。結局スズさんのところに行くなら、二人きりじゃない。

「酒は飲まなきゃいいよ。飲みたかったら飲んでも良いけど」

「未成年に飲酒を勧めたら、千翼さんも同罪になるんですよ」

 どうしてだか、面白くない気持ちになって、俺は厳しい声で言った。千翼さんは、案の定「お堅いなぁ〜」と言って、空の上の雲みたいにふぁふぁと笑った。

「せっかく父さんからお金貰ったんだからさ、泊まろうよ、海の見えるとこ。朝、目が覚めてさ、カーテンあけたら海が見えるの、最高だと思わない?」

 千翼さんは、再びコロンと転がって仰向けになった。空に向かって手をかざして、遠くに投げるような、まっすぐな声で言った。

 俺は、横目に千翼さんを見た。眩しそうに細められた目、太陽の光を浴びている、頬のてっぺん。短い前髪から覗く、きれいな曲線を描く額も、白く光っている。

 俺は、葬儀の時に、はじめて千翼さんを見た時のことを思い出した。天使みたいだと思ったことを、思い出す。再び、汽笛が柔らかく響いた。

「ダメだー、このままだと本当に寝ちゃうぜ!!」

 千翼さんは、汽笛を合図にガバッと起きあがった。起きあがってすぐ、小さな犬のように頭をふるふるとした。

「わー、目がクラクラする!明るいとこ、見過ぎた」

 千翼さんが言った。俺は、反面教師とばかりに、ゆっくりゆっくり、上体を起こす。

「急に起きあがるからですよ」

 俺は言って、千翼さんの後頭部をさすった。短い草が、ちらほら髪に引っかかっていたからだ。後ろの尻尾毛にも、草が絡んでいる。

「お日様パワー?みーが優しくなってきた」

みーの中のなんかが、溶けてきたか?

 千翼さんは、俺に撫でられて嬉しそうな顔で言った。その顔は、犬ではなく、悪戯好きな少年の顔だ。

「千翼さんって、笑うとなんか、企んでる人みたいになりますよね」

 俺は言った。目が三日月形に、キレイに細められるからだろうか。それとも、口角があまりにも均等に引き上がるからだろうか。

「みー、草だらけになってる」

 千翼さんは、企んでいる人の顔のまま、俺の背中を払ってくれた。

「どうも」

 俺が言うと、千翼さんは「みー、笑って」と言った。

「なんでですか」

「いいから、笑ってみて。はい、ニッコリ!」

 目の前で、パチンと手が叩かれた。唐突にそんなことを言われても、困る。

「ほら、はやく〜、はい、にっこり!」

 千翼さんは、もう一度、パチンとする。俺は、仕方なく、口先を少しだけ、笑みの形に動かしてみた。千翼さんは、俺の顔をじぃっと見て、

「みーの笑顔は胡散臭いね」

 と神妙な顔で言った。

「え」

 せっかく笑ったのに、それはないだろう。

しかし、自分がそこまで笑顔の得意な人間でないことくらい、重々承知している。

「でも、女子が好きそうな顔で笑う。なんだろね、こう、曖昧な感じ?笑ってんのか、真顔なのか、よくわかんない感じが、好かれそうだ」

 千翼さんは手を伸ばして、俺の前髪を左右に避ける。

「やっぱ前髪、もうちょっと切りなよ、イケメン。もったいないぞ」

「考え事するときに、丁度良いんですよ」

「考え事なんてするのかね、君は」

「少なくとも、千翼さんよりはするかと思いますよ」

 腕を組んで、年上ぶって喋る千翼さんが面白くて、俺は下を向いて、クックと笑った。千翼さんは俯いている俺を、四つん這いになって、下から覗き込んで。

「そういう顔でも笑えるではないか!」

 と、新種を発見した動物学者のような声を出した。

「千翼さん」

 俺は俯いたまま、覗き込んでくる学者に向かって言った。

「なんだい」

 二人分の影に薄暗くなった空間で話すと、そこだけ世界が切り取られたように感じられた。

「その、人の顔を覗き込む癖、やめたほうがいいです」

勘違いされますよ

 俺は言って、顔をあげる。千翼さんは、四つん這いの状態から、再びゴロンと芝に寝ころんでしまった。そして、俺の足に懐いて、勝手に膝を使われた。伸ばしていた右足の膝に、千翼さんの頭が乗る。

 それなりに重く、千翼さんが動くと筋がコリッと移動して、痛かった。

「重いんですが」

 俺が言うと、千翼さんは、ジッと俺の目を見て、

「勘違いって、どんな?」

 と言った。真顔の時の千翼さんは、目が大きい。というか、元々、瞼の切り込み幅が広いのだろうか。黒目の部分も白目の部分も、たくさん見える。ビー玉のような目が、まっすぐにこちらを向くと、逃げられないような気持ちになる。

「女の子だったら、好きになっちゃうんじゃないですか」

 俺は言った。そして、ふと思った。

(千翼さんって、彼女いるのかな……)

 いそうでもあり、いなそうでもある。いるならいるで、沢山いそうで、いないならいないで、誰とも付き合ったことがなさそうである。

「オレ、女の子に興味ないからなぁ〜、そこだけは父さんに似てない」

 千翼さんは俺の膝の上で愉快そうな声で言った。女の子に、興味がない、その言葉を俺はどう受け取ったら良いのか、一瞬迷った。千翼さんは少しだけ目を伏せて、言った。

「全部全部は似ないもんだねぇ〜」

 その声は、俺の耳には甘苦く届く。

「彼女、いないんですか?」

 俺が尋ねると、千翼さんは右手を伸ばして、俺の前髪を軽く引っ張った。

「やっぱ、もうちょい切った方が良いよ。せっかく目元が優しくて良い感じなのにさ、もったいない。みーは彼女いないの?モテるでしょ、学校とかで」

「モテますけど、いませんね」

 俺は言った。千翼さんは「言い切ったねぇ〜」と笑った。

 事実だから、仕方ない。実際モテるし、高校に入ってから、四回は告白された。女の先輩から呼び出されたり、街中で声をかけられて逆ナンパをされたこともある。

 けれど、それだけだ。だから何、ということもない。

「オレもそれなりにモテるよ」

 千翼さんは言った。

「そうでしょうね」

 俺は素直に頷く。この顔だ、さぞやモテるだろう。性格も明るく、人懐っこい。俺よりもずっと、好感度は高いのではないか。

「でもさぁ、オレは人が好きだから、男とか女とか、そういうのどうでも良くてさ。どうでも良いから、そもそも彼女っていう概念がよくわかんないのさ」

 千翼さんは言った。俺は、ああ、と納得する。千翼さんは、俺の前髪で遊びながら、伏せ目がちのまま、言った。

「大好きな女の人はいっぱいいるんだ。母さんのことが好きだし、それに、オレは香子さんが好きだし、空子さんが好き。空子さん、オレの義理のねぇちゃんってことになるんだもんね?一人っ子だと思ってたから、なんか嬉しいや」

他にも好きな人は沢山いる、いっぱい、いっぱいいる、女の人も、男の人も、たくさんいる、でも、その中で特別な人って選べないよ、みんな特別、みんな大好き、それじゃぁダメなもんかねぇ

 俺は前髪をいじっている千翼さんの手を、そっと握って、退けた。

「ダメじゃないと思いますよ」

 俺は言った。千翼さんの目が、ゆっくりと瞬きをする。

「俺も、似たような感覚を持ってるんで、わかります。ダメじゃ、ないと思いますよ」

 特別な人が、たった一人でなくてはいけないなんて、誰が決めたんだと思う。だから、俺は、祖父に愛人がいたことについても、腹立たしくは思わない。

 祖父が、祖母のことよりも、スズさんの方が好きだったとも、思わない。きっと、平等に愛していたのだろう。そういう人だった。

 そして、千翼さんと俺も、平等に愛されていたのだろうと思う、もちろん母も。

 愛の形に違いはあれど、誰が一番愛されていた、なんていう順番みたいなものは、きっとないのだ。瞬間的には、羨ましいだとか、妬ましいだとか、思ったりもするけれど。

「やっぱり、みーは良い男だなぁ。チラチラって、時折顔を出すね、父さんの思考の面影が」

 千翼さんは、女の人のように、優しく笑った。

「喉乾いたし、腹減ったね。アイス食べて、昼も食べて、それから日本丸見に行こ」

 千翼さんは、そう言って、今度はゆっくりと起きあがる。俺は、握ったままにしていた千翼さんの手を、そっと離した。

 手の中にあった、ぬるい他人の体温が、するすると消えていく。その消失は、どうしてだか、ひどく胸に痛く響いた。自分で離したくせに。

「みー、昼飯、なに食べたい?」

 千翼さんは、背中やらをパンパンと叩きながら立ち上がる。俺も倣って立ち上がった。

「横浜って言ったら、中華かカレーですか」

 俺の言葉に、千翼さんは「定番だね」と言って、楽しそうに笑った。

 *

 千翼さんの友達がバイトをしているというアイスの店に行ったら、ひとつ、オマケをしてもらった。コンビニで買ったものではないアイスは久しぶりだった。

 俺がまだ小さかったころ、祖父がよくアイスクリーム屋で、色とりどりのアイスを買ってきてくれたのを思い出す。縁側に座って、本を眺めていると、

「湊は良く学ぶなぁ、頭使うと腹が減るだろう。俺のオヤツを分けてやるよ」

 なんて言って。別に孫のために買ったわけじゃありません、自分が食べたいから買ってきたんです、みたいな風を装っていた。

 どういう見栄の張り方だろうか。本当に、いつでも茶目っ気のある人だったなと思う。

「みーのやつ、一口ちょーだい」

 千翼さんは、俺が返事をする前に、勝手にスプーンでアイスを掬っていった。ので、俺も勝手に千翼さんのアイスに手を出した。

 二人とも、全然好みが違っていて、アイスの種類はひとつも被らなかった。

 歩きながらアイスを食べて、中華街へ行った。ここも千翼さんの庭のようで、オススメの店で焼き小籠包を食べて、それからアサリのラーメンを食べた。

「俺、アサリのラーメンってはじめて食べました。美味いですね」

「ほんと?よかったー。オレ、ここのスープがすんごい好きなんだよねぇー」

 千翼さんは、ラーメンから立ち上る湯気の向こう側で笑った。湯気を挟んで、世界が二つに分けられてしまったみたいで、俺は千翼さんの声が遠く感じられた。

 けれど、ラーメンの熱さに、ほんのり額に汗を滲ませている姿や、髪を耳にかける仕草を見ていると、ああ良かった、この人はちゃんと、こっち側にいる、と思えた。

 こっち側、同じ世界にいる。

「みー、辛いの平気?平気だったら明日は唐辛子のラーメン食べに行こうよ。あ、カレーでもいいよ、横須賀のほうまで行って、海軍カレー食べる?」

 ラーメン屋を出て、俺たちはまた、のんびりと歩き出す。子供の散歩みたいな歩調で、ゆったり歩きながら。

 千翼さんは当然のように明日のことを話した。俺は、まだ、泊まりで遊びに来ているという実感が薄かった。

 だって、なにも持っていない。着替えもなにも、持っていない。持っているのは、祖父から貰った大金と、携帯くらいだ。

 身軽だった。

 そして、どうしてだろうか、ここにきて、不安は消えていた。

(持ち金に余裕があるから、か……?いや、違うか、)

 多分、千翼さんが一緒だからだ。根拠のない、安心感。千翼さんがいれば、なんとかしてくれるだろうという、甘えが漂っている。

 俺は、兄がいたら、こんな感じなのだろうか、と考えた。

 千翼さんは、たわいのないことを話ながら、ちら、ちらと後ろを歩く俺を気にする。平日でも、外国人旅行客などで賑わっている中華街を、泳ぐように歩いていく。はぐれないように、気遣われていることが、少しくすぐったいと思った。

 歩いて歩いて、また海沿いに出た。

 カモメの声が聞こえて、そちらを見やると、エサをあげている人たちがいた。カモメに混じって、何羽か鳩もエサをつついている。

「みー、見て」

 千翼さんが、海と陸の境目にあるフェンスに身を乗り出して、指で示した。

 その先には、船が浮いている。少し古い感じのする船だ。

「あれが、日本丸だよ」

 俺は、千翼さんの横に立って、船を見つめた。白い船体、何本も突き出ている柱に、たくさんのロープのようなものが張ってある。

「思ってたより、小さい……」

 俺が言うと、千翼さんはアハッと短い声で笑った。

「え、そう?けっこうデカくない?なに、どんなの想像してたの?」

「タイタニックとか、大和とか……?」

 俺は、映画で見たことのある船くらいしか、想像ができない。それ以外で船といえば、修学旅行で京都に行った時に見た、屋形船とか、渡し船とか、そういうものばかりだ。

「タイタニックは外国の船だし、大和は戦艦じゃんかぁ」

 千翼さんは「それでも君はオトコノコかね!」と言った。

「男がみんな、船とか電車とか、車とか、そういうものに興味があると思ったら大間違いですよ」

 俺は言った。けれど、目の前に見えている船は、美しく思えた。真っ白な船体が、黒と青の間みたいな色をしている水に、スラリと浮いている。

「その割りには、熱心に見つめていることですねぇ」

 千翼さんは楽しそうに言った。

「キレイなものは、素直にキレイだと思いますよ」

 俺が言うと、千翼さんは「だねぇ」と言った。

「日本丸、乗れるんだよ。行ってみる?」

 疑問系で言ったのに、千翼さんは、さっさと歩き出していた。俺は無言で後に続く。

 海沿いを、グルリと回るように歩いていく。船の姿が、どんどんと視界に大きく入り込んできて。思っていたよりも、大きいことが近くまで来て、やっとわかった。

 船の真下まで歩いてくると、燃料だろうか、オイルのような匂いがする。太陽の光を浴びて、伸び上がる柱の先端が黒く影になって見えた。

「太平洋の白鳥、重要文化財初代帆船日本丸」

 船の近くに掲げられていた案内板を、千翼さんが音読した。

「太平洋の白鳥、ですか……大きく出ましたね」

 俺が口先を上げて笑うと、千翼さんは「でも、っぽいよね」と言った。

 俺は、拙い想像力を働かせて、太平洋の海にポツンと浮かぶ、この船を想った。帆船というからには、海に出たら、たくさんの白い帆が張られることだろう。

 今は、翼を畳んで、骨のような柱ばかりが見えているが、きっと美しく白い羽を広げることだろう。

 青い海に、真っ白な船。

 優雅に進む姿は、日本人の贔屓目からすると、白鳥に見えたのも頷ける。

「中、入ろうよ。操縦するやつ、触ったり出来るんだよ」

 千翼さんは、軽い足取りで船に乗り込んでいった。

 船には急勾配のステップが付いていて、乗船口へと繋がっている。ステップの前に立った時、フワッと変な感覚が沸き上がった。

(あれ、俺……ここ、知ってる気がする……)

 船の姿を見た時には、なにも感じなかったのに。

「みー、はやくおいでよ」

 千翼さんの声に促されて、俺はステップをあがる。船の中は、家族連れが多く、様々な船道具を皆、興味深そうに見ていた。

 触って動かしてみたり、解説文を読んだり。昔の写真や映像の展示もあった。それらのものは、やっぱり俺の目には、初めて見るもののように思えた。

(やっぱ、勘違いか……来たことないよな、横浜のほうまで……)

 小さい頃の記憶を辿っても、祖父母や父母と横浜に遊びに来た記憶はあまりなかった。

(確か、横浜のほうの、水族館には行ったことある気が……)

 俺が脳内で唸りながら見学していると、千翼さんがスカジャンの袖を引っ張った。

「操舵室行こ!今、誰もいないっぽい!」

 子供のような顔で「はやくはやく」と急かしてくる。引っ張られるままに、付いていくと、途中、何度か躓いた。船の下の板敷きは、祖母の家の板敷きとも違って、なんだか歩きにくかった。

 操舵室は、船の一番後ろにあった。説明版に「帆の状態を後ろ側から確認しながら、舵をとる」というようなことが書かれていた。

 舵の近くには、天窓があり、昼をすぎて傾き始めた陽が、柔らかく届いている。千翼さんは、丸い舵をそっと指先で撫でた。

「かっこいいよね」

 恍惚とした声で、彼は言った。

「千翼さんは、船、好きなんですか」

 千翼さんは、俺の顔を見て、少し困った顔をした。そして、ゆっくりと舵を握って言った。

「父さんが好きだったから、好き。父さんが好きだったものは、多分、全部好き」

みーも触ってみなよ

 千翼さんが言うので、俺もそっと舵に触れた。木と金属で出来ていて、なめらかな触り心地だった。木の部分は、触れていると触れているだけ、温もりが返されるようで、じわじわと掌に馴染んでくる。

 そこでまた、俺は昔の記憶が蘇ってくるような、曖昧な既視感を覚えた。

(前にも、これに、触ったことが、ある気がする……)

 俺が思い出せる範囲より、もっと幼かったころ。誰かに抱き上げられて、この円形の舵に触れたような、そんな気がした。

(誰だろう……父さんじゃない。やっぱり、じぃちゃんかな……)

「みー、どした?」

 俺が舵を握ったまま、黙っていると、千翼さんが覗き込んできた。近い距離で顔を見られることに、俺はすっかり慣れてしまっている。そのままの距離で、

「いや、なんか、ここ、来たことある気がするなぁって、思い出していました……全然、曖昧で、思い出せないんですけど……」

なんか、触ったことあるなぁって思って

 俺がそう言うと、千翼さんは、下唇を軽く噛んで笑みを作った。

「来たことあると思うな。父さん、日本丸大好きだったから」

きっと、みーのことも、連れてきたと思うんだよね

 千翼さんは「本物の、動く船に乗って、どこか遠くに行ってみたいなぁ」と言った。そして、ゆっくりと操舵室を背にして、ひとり、甲板側のほうへ出ていった。

 俺は、千翼さんが出ていった後も、しばらく、その場に立っていた。

 舵を撫でたり、握ったりして、記憶をどうにか手繰り寄せようと必死になった。どうして人は、楽しかった思い出さえも、忘れてしまうのだろう。

 きっと、楽しかったはずなのだ。

 祖父と一緒だったなら、尚更。

 なのに、どうして思い出せないのだろう。

 これから先も、時を重ねて、生きていく中で。少しずつ少しずつ、祖父との思い出を忘れていってしまうのだろうか。祖父の顔、声、雰囲気や、匂い、俺に触れる優しい手の感触。

 そういう記憶も、少しずつ、忘れていってしまうのだろうか。

(いやだな……)

 忘れていってしまうのは、悲しいことのように思えた。

 操舵室から出て、船の出口へ向かう。

 とっくに下船をしていた千翼さんが、船の横のフェンスに寄りかかって、海を見ていた。辺りはすっかり夕日のオレンジ色に染まっていて、カラスが数羽、遠くの空を飛んでいた。

 海も、先ほどよりもっと、黒色に近づいていて、薄い墨が揺れているみたいに見えた。

「思い出せた?」

 俺が横に並ぶと、千翼さんは海を見たまま言った。

「ダメですね、多分、そうとう小さい頃だと思います」

 それとも、別の場所の記憶と混同しているのだろうか。俺は、もう一度、船のほうへ視線を送った。

 夕方から、だんだんと夜にむかっていく空、重く佇む船、それに横浜のシンボルのような、半月状の建物が見えた。

「ぁ」

 俺は、小さく声を漏らした。

「なに?」

 千翼さんが言った。

 俺は、二回、三回と瞬きをする。

 記憶の紐の、端っこを、掴んだ。

「千翼さん、ここって、花火やったりします?」

「ここ?横浜ってこと?」

「この辺、この船の近くで」

 千翼さんは、半月の建物を示した。

「あのホテルの向こうっかわで、たぶん、開港祭かな?花火してた気がするよ」

「開港祭、」

 その言葉で、完全に思い出した。

(やっぱ、来たことあるわ、ココ……)

 昔、俺がまだ、幼稚園だろうか、もしかしたらそれよりも、もっと幼かったかもしれない。祖父と祖母、それに母とで、開港祭を見たのだ。

 祖父の仕事仲間の人も、数人いた気がする。昼間に日本丸を見て、それから夜に花火を見た。

 たしか、祖父の会社のツテで、席付きの場所を、確保してくれていたのだ。けれど、俺は、花火の音の大きさに吃驚してしまって。ココは嫌だと、駄々をこねた。

 ココはヤダ、お船がいい。

 そう言った俺を、祖父は抱え上げて。祖母と母と仕事仲間を席に残して。

 人混みをかき分けて。花火を背にして。

 そうして、ここまで、連れてきてくれたのだ。

「船に花火、両方見られて、風流だなぁ、湊、おまえは賢いな、近くで見るだけが正解じゃない」

 乾いた大きな手が、俺の頭をクシャッと撫でた。その時の、髪の擦れる感じとか、祖父の笑顔、口元の皺とか、そういうものが、パチンと何かが弾けたみたいに、鮮やかに思い出された。

「開港祭だ、港が開くぞ」

 祖父の声が、脳内で響く。

「お前の名前も、湊だ。開いていけよ、いろんなものを受け入れて、どっしり構えた良い男になれ」

 祖父の顔は、花火に照らされて、いろんな色に、光っていた。俺はそれを見上げて、自分の名前がとても好きになったのだ。

「思い出しました」

 俺が言うと、千翼さんは、サッパリした声で「よかったねぇ」と言った。それだけだった。それだけだったのが、俺は嬉しかった。

 浮かび上がった大事な思い出に、ガツガツと踏み込まれなかったのが、とても嬉しかった。

 配慮なのか、偶然なのか。それはわからない。わからないけれど、嬉しかった。

「千翼さん、そういえば、今日はどこに泊まるんですか?」

 俺は、暗い海と、船と、明るく電気の灯っているビル群を順々に見ながら言った。

「そうだねぇ、どこに泊まろうねぇ」

 千翼さんは他人事のように言った。暢気な声は、俺を真顔にする。

「……予約とか、してないんですね?」

「してないよ」

 一拍、頭の中が、白くなって、それからすぐに携帯を取り出す。横浜、ホテル、海、などと入れて検索をはじめた。

 もうすっかり夕方だ。

 なんなら、若干、夜の帳も下り始めている。九月になってまだほんの少しなのに、随分と日が短くなった。

 今から入れるホテルが果たしてあるのだろうか。

 平日といえど、観光地横浜だ。最悪、千翼さんの家に泊まれば良いという考えがあるから、そこまで焦りはないものの。

「千翼さん、しっかりするか、しないか、どっちかに振って貰っても良いですか?」

 初対面の時から、なんとなく、そういう予感はしていたのだが。千翼さんは、思いつきだけでモノを言っている節がある。

 頼りになるのか、ならぬのか、本当に読めない人だと俺は思う。対する俺は、言われればやる、言われなければやらない。

(どっちもどっちか……)

 思わず、ひとりで苦笑してしまった。

「海が見えるところだったら、どこでもいいよ。お金たくさん貰ったし。どこでも泊まれちゃう気分だよ」

 千翼さんは、暗い海に滑らせるように、そっと言葉を投げた。

「無駄遣いするようなら、俺が止めます」

 せっかく祖父が残してくれたのだ。

「無駄じゃないよ、こういうことに使うためのお金でしょ」

 千翼さんは、真面目に言った。

「こういうことって」

 どういうことだろう。千翼さんは、目を閉じて、波音と同じくらいの声で言った。

「前にこうやって、夜の海を見た時は、隣に父さんがいた。今はもう、いなくて、代わりにみーがいる。なんでだろう、不思議。大好きだった人がもういなくて、あの時にはまだ、知り合っていなかった人が、隣にいる。もう二度と、父さんと海は見られない」

 千翼さんの声は、俺の体の、頭の先から、つま先まで、満遍なく撫でるようにして、消えていった。体中が、ジンと痺れたように思った。千翼さんは、目を開けて、俺を見て笑った。

「そういうことを、考えたり、整理したり、そのためのお金でしょ」

きっちり整理なんて、全然出来ないけどね

 俺にはもう、反論する言葉などなかった。そうだな、と思ったし、それにしては、残して貰ったお金は少ないくらいだと思った。けれど、どんなに大金を残して貰ったとしても、きっと足りないのだ。

 お金では、どうにもできない。物理の力では、どうにもできないことが、世の中にはあるものだと、身を持って学んでいる。

 *

 結局、俺と千翼さんは、海の見える簡易ホテルに宿を取ることになった。

 お金があっても、一泊二万も三万もする高級ホテルに泊まる勇気は、俺にはなかった。千翼さんは、本当にどこでも良いらしく、「眠れるなら、それでいいよぉ」なんて、暢気なものだった。

 海沿いの、それなりに大きなホテル。サラリーマン向けなのだろうか、室内はとてもシンプルだった。出来たばかりのようで、内装、フロント、部屋も、とてもキレイだ。

 だが、まぁまぁ狭い。

 ふたつのベッドが、ギュウギュウと隙間なく並んでいて、その他には、小型の冷蔵庫、湯沸かしポット、テレビ、ユニットバス。窓側に、狭くて小さな机がポツンとひとつ。机に合わせた、少し窮屈そうな木製のイスがひとつ。

「みー、見て」

 千翼さんは、部屋に入るなり、窓辺に寄った。木製のイスに膝立ちで乗って、カーテンをあける。

 窓は広くて大きかった。外は暗くて、けれどチラホラと港の灯りが見えている。俺は千翼さんの横に立った。

「目、こらして見て。海、ちゃんと見える」

 窓には、俺と千翼さんの姿が、鏡のように映っている。けれど、よくよく見れば、千翼さんの言う通り。水面の揺れる海が、ビルの灯りを反射してキラキラしていた。

 俺と千翼さんの泊まっている部屋は十二階で、見下ろす光が美しかった。

「良いとこ見つけたね。みー、お手柄だよ」

 千翼さんは、俺の頭をポンポンと撫でた。そして、「明日の朝、楽しみだね、明るくなったら、どんな風に見えるかな」と、子供の顔で笑った。

 時刻は夜の九時になろうとしていた。俺は、着替えもなにも、サッパリ持っていないことを、また不安に思う。

「千翼さん」

 せめてコンビニで、着替えくらい買ってこようと思って声をかけたら、手を握られた。

「……なんですか?」

 俺が不審な目で見ると、千翼さんはニヤッと笑う。

「みー、遊びに行こう!」

「は?」

 こんな時間から、一体どこに行くというのか。俺が困った顔をしていると、千翼さんは、目を細めた。また出た、悪巧みをする時の顔だ。

「キミは夜遊びも知らんのかね、高校生よ」

「夜遊びって、」

 こちらが反論する前に。千翼さんは、俺の腕を引っ張って、無理矢理に部屋の外へ出した。自分も鍵だけ持って、部屋を出る。

「毎日、学校行って、塾?予備校?そんなのばっかり行ってるから、世の中の楽しいこと、あんまり知らないのかなぁ、みーは」

「いや、そんなことはないと思いますけど……」

 楽しいことくらい、いろいろ知っている。そう胸を張りたかったけれど、いざ言われると、一瞬考えてしまった。

「夜は楽しいものだよ、湊くん」

 千翼さんは、ロビーへ通じるエレベーターに、さっさと乗り込んだ。ひとり残るわけにもいかずに、俺も後に続く。

 エレベーターの中、千翼さんは人工的な光に頬を青白くしながら、言った。

「夜には魔物がいるからね、楽しくするのが、一番さ」

 *

 千翼さんに連れられてやってきたのは、バーだった。木造の、小さな家のような店。入り口扉も木で出来ていて、レトロな雰囲気。扉の横には、かわいらしいケーキ屋のような看板。看板も木製で、チョークで「バー 寿々花」と書いてある。

 道路に面した壁には、大きな窓がはめ込まれていて、室内からオレンジ色の優しい光が漏れ出していた。

 夜なのに、木漏れ日のようだった。

「スズさんの、お店ですか……」

 俺が言うと、千翼さんは自慢げな顔で「すてきでしょ」と言った。そういえば昼間、母さんの店にも行こうね、と話していた。

 ホテルからここまでの道のり、人影もまばらな、真っ暗な道を進んできた。コンビニもファミレスもなく、店はどこもシャッターが閉まっていて、夜の闇に溶け込んだみたいな道だった。そんなだったから、余計に、店の中から溢れる光が、すてきなものに見えた。

 千翼さんは、躊躇うことなく入り口をあけて、「こんばんわー」と言った。店の中にはカウンターがあり、三人のお客がビールやらを傾けていた。千翼さんが挨拶すると、その内のひとり、六十代くらいの男性が、

「おー、久しぶりだな、ちー」

 と、笑った。

 お客から、千翼さんが「ちー」と呼ばれていることで、俺は心中、合点がいった。なるほど、バーで「ちー」と呼ばれているから、俺は「みー」になるのか。そして、カウンターの中で立ち働いていたのは、スズさんだ。彼女は俺と千翼さんを見て、目を大きく開いた。

「千翼、え、湊くんまで……?ちょっと、どうしたのよ……あんた、こんな時間に湊くん連れ出したりして……!」

 スズさんは、エプロンで両手を拭きながら、カウンターから出てきた。

「こんばんわ」

 俺がぺこっと頭を下げると、スズさんは、まだ驚いているようで、困ったような変な顔で「こんばんわ」と言った。

「どうしたの、横浜まで、遠かったでしょう?っていうか、千翼、あんた送ってくんでしょうね?まだ帰れる時間よね?空子さんにはちゃんと言ってあるの?香子さんには?」

 スズさんは、完全に母親の声で言った。カウンターに座っている客人たちがワハハと笑う。

「スズは心配ばっかりだなぁ、大変なことだ、振り回す男ばっかりが集まるなぁ」

 スズさんは恥ずかしそうな顔をして、

「もう、やめてくださいよ!」

 と、苦く言った。

「ちー、そっちのイケメンは誰だよ」

 先ほど声をかけた男性より、少し若い感じの男の人が言った。

「みーだよ」

 千翼さんは、笑って言ったが、説明が雑すぎる。

「湊くんって言って、あの人の、」

 スズさんが説明を付け加えようとしたのを遮って、千翼さんは、

「オレの彼氏だよ」

 と、言った。俺は頭が痛い。その冗談は、いつまで継続するのだろうか。俺だけでなく、スズさんまで頭を抱えている。お客は、酒に赤らめた頬で、ゲラゲラ楽しげに笑った。

「そりゃまた、ずいぶんとイケメンを捕まえたもんだな。海さんにそっくりじゃねぇか」

「スズさんよ、アレか、海さんの本妻の子かい」

 顔が似ているというのは、こういうところで説明が楽だな、と俺は思った。スズさんは「お孫さんですよ」と、苦笑して言った。

「母さん、オレとみー、泊まりで遊びに来てんの。すぐそこのホテル」

「なによ、ホテルなんか泊まらないで、ウチに来れば良いじゃない」

「やぁーだよ、母さんいるからイチャイチャできないもん」

 千翼さんが、あまりにも堂々と言うものだから、スズさんは俺と千翼さんを交互に見て「えええ」と声を漏らした。

「冗談ですから、真に受けないでください」

 俺は真顔でスズさんに言った。

「冗談じゃないよー」

 千翼さんが頬を膨らませて言うので、俺は、

「もし千翼さんが冗談だと思っていないのなら、まだ片思いですよ」

 と言った。千翼さんは、なんだか不満そうだったが、

「まだ、ってことは可能性あるんだ」

 と頷いている。そんなに深い意味を込めたつもりはなかったので、俺は少し恥ずかしくなった。

「そういうわけなので、母さんビール!ふたつ!」

 店は木製のカウンターに、これまた木製のイスが四席、壁側に、背の高い小さなテーブルが二脚。テーブルの方は立ち飲みスタイルらしい。俺と千翼さんは、店の一番奥のテーブル席に落ち着いた。

 スズさんは、小さなグラスにビールをひとつ。それにコーラの瓶を持ってきてくれた。

「ビールふたつって言ったー」

 千翼さんが言うと、スズさんは彼の頭をペンと叩いた。

「湊くんは未成年でしょうが。あんたもまだハタチになったばっかでしょ」

「え、そうなんですか?今年二十一かと思ってました」

 俺が言うと、千翼さんは「来年の一月に成人式だよ」と言った。

「成人式、父さんに見せたかったー」

 千翼さんは「あーあ」と大きく言って、背伸びをして。グラスを持つと、俺に向かって「かんぱい」と言った。

 俺はコーラの瓶を持ち上げて、千翼さんのグラスと軽く合わせる。チン、というキレイな音が店の天井に向かって響いた。

「……俺も、成人式、じぃちゃんに見せたかったですよ」

 俺は言った。瓶から直接飲むコーラは、なんだかいつもよりも美味しい気がした。炭酸が、喉の奥で弾ける。

「じゃぁ、みーの成人式は、オレが見てあげるね」

 千翼さんはビールを一気に半分くらい飲み干してから、言った。口の端に泡がついている。俺は、小さなテーブルの上、ちょっとだけ手を伸ばして、その泡を親指で拭った。

「千翼さんの成人式は、俺が見ます」

 俺が言うと、千翼さんはヘラッと笑って「オレの彼氏はカッコイイなぁ〜」と言った。

 店の中は、静かな話し声と、時折大きな笑い声。俺と千翼さんに至っては、立ち飲みなのに、なぜかとても居心地が良かった。

 ずっと、ここにいられると思った。店の中いっぱいにほんのりと充満している、木の匂いが、体の奥の方に染みていく気がした。

 スズさんの立ち働いているバーカウンター。ズラリと見たことのない酒瓶が並び、天井には透明な美しいグラスが吊されている。酒瓶には、紙のラベルが付いているものもあって、人の名前らしきものが書いてある。キープボトルなのだろう。常連が多いのだろうなぁ、としみじみ思った。

 スズさんの、あの性格だ。みんな、居心地が良くて、つい飲みに来てしまうのだろうと思う。祖父も、そのひとりだったのだろうか。

「カウンターのさ、一番手前の席、あるでしょ、あいてる席」

 千翼さんが言った。ビールはもう、なくなっている。

 千翼さんの言うように、カウンターの一番扉側の席、ひとつだけポツンと空いていた。

「父さんはいっつも、あそこに座って飲んでたよ」

 千翼さんは、空っぽになったグラスの縁を左手の人差し指でツーとなぞりながら、右手で頬杖をついて、遠くを見つめていた。ずいぶんと、遠くを見ている顔だった。

「なに、飲んでました?」

 俺が尋ねると、ぼやけた声が「ジントニック」と言った。

「みーがハタチになったら、一緒に飲もうね」

待ってるよ

 千翼さんが言った。俺は、掠れた声で「はい」と答えた。

 そして、今は誰も座っていない席を、見つめた。カウンターにいた三人のお客も、祖父のことは知っているようで、スズさんも含め、皆がひとつ空いたその席を見つめた。

「良い男やった、男に好かれる男やったぞ。俺ぁ、葬式にも行ったさ。キミのことも、どっかで見たと思ったが、葬式の時に見かけたんだろうな。寂しいもんだな、静かになっちまって」

 今まで黙って焼酎らしきものを飲んでいた男が、静かに言った。年齢のほどは、不詳だ。すごく年輩にも見えるし、そうでもない風にも見える。

「ヤミさんは、海さんとは長い付き合いだもんなぁ」

 隣の男性客が言った。

「どういう、お知り合いですか……?」

 俺は、横浜での祖父の在り方に興味があって、思わず聞いてしまった。ヤミさんと呼ばれた男性は、じっくりこちらを振り向いて、深く皺を刻んで口先を上げて、笑った。ダンディを絵に描いたような人だと思った。鼻の下に、丁寧に整えられたロマンスグレイの髭がある。

 彼は、平坦かつ、まろやかな口調で、

「なに、七十年来の遊び仲間よ」

 と言った。

「七十年……」

 祖父は七十九歳で亡くなった。単純に七十を引いてみると、九歳。

 随分昔からの知り合いなのだろう、けれどヤミさん、という名を祖父から聞いたことはなかった。そういえば、祖父はいつも友人のことを「ダチ」とか「ダチ公」と呼んでいて、具体的な名前はあまり聞いたことがない。

 ヤミさんは「俺ぁ、香子のことも、空ちゃんのことも知ってるよ」と言った。

「湊って言ったか、お前のことも、まぁ、知ってる。俺の孫は賢い賢いってうるせーったらなかったよ」

 クックッと喉の奥の方で、ヤミさんは笑った。祖父が余所で自分のことを、どのように話していたのか。興味はあれど、なんだか恥ずかしい気が勝って、俺は小声で「そうですか……」とだけ言った。

「しかし、お前さんはアイツによぅけぃ似とるなぁ。アイツの若い頃んそっくりだ。気が早い、もう転生しちまったのかと思ったぞ」

 ヤミさんの言葉に、千翼さんが笑った。

「早すぎ早すぎ、みーはもう十八歳だよ」

「十八か、」

 ヤミさんは酒を一口呷って、感慨深そうに言った。

「俺らが十八の頃ぁ、どんなだったかなぁ。クソジャリ垂れだった頃のことしか、あんまり覚えてねぇなぁ、ガキの頃に食らった色々のインパクトがなぁ、強すぎらぁな」

 ヤミさんの隣で飲んでいた男性客が、ビールのお代わりを頼みながら、

「戦争ですか」

 と尋ねた。

「東京大空襲んとき、俺ぁ、疎開できんで、町に残ってたもんでなぁ」

 ヤミさんは目を伏せた。カウンターの残り二人のお客が、静かに頷いている。

「父さんから戦争の話はあんまり聞いたことないよ」

 千翼さんが言った。俺も頷く。祖母もあまり詳しくは知らないと言っていた。

 ヤミさんは、フンっ、と鼻で笑った。自嘲するようでも、軽蔑するようでもなく、ただ息だけで笑ったようだ。

「あいつぁ、アレだ、疎開してたからな。話さなかったんじゃねぇ、あんまり知らないんだろう。あー、そういや、十八って言ったら、アレだぞ、あいつが香子と出会ったのが十八だったな。口説き落とすのに三年ほどかかってたがな」

 千翼さんがアハハと笑って「その話、夏に聞いたね」と俺に言った。俺は自分の年齢について思う。十八の自分、一体、なにをしているのだろう。なにが出来ているのだろう。もし自分が、祖父やヤミさんの年頃になった時。自分の十八の頃を語れるだろうか。

「みー、むずかしい顔してんね」

「……今、自分の人生の意義とか意味について、考えています」

 俺は言った。千翼さんは「えー」と言って、「なにそれ、楽しい?」と不思議そうな顔をした。ヤミさんは、また喉の奥でクククと笑って、

「いやいや、こりゃぁ、賢い坊主だ。あいつが自慢したくなるのもわかりようや」

 と言った。

 一番はじめに、千翼さんに声をかけてきたお客が、スズさんに日本酒を所望した。そして、俺たちの方を振り向いて、

「もうすぐに、四十九日だろう。あっという間だねぇ」

 と言った。俺が「はい、そうですね」と答えると、ヤミさんが小さく「そうか」と言った。「もう、そんなにか」

「まだ四十九日だよ。オレはもっと経ってる気がする」

 千翼さんが言った。

 ヤミさんは、低く甘い声で、言った。

「あいつぁ、極楽浄土にいけるかねぇ、美人の香子を捕まえたのに、その後で愛人つくって、その子供までつくって……空ちゃんもいて、孫もいて……好き勝手生きて、楽しそうになぁ……」

でも、誰からも好かれるヤツだったなぁ

 俺は、スズさんの方を見た。彼女は、別段なにも気にしていないようで、グラスを磨いたりしている。俺の視線に気が付くと、眉を下げてニッコリして「ごめんね」と口先だけで言った。スズさんが「ごめんね」と言わなくてはいけないようなことは、一切ないと俺は思うので、頭を横に振って答えた。

 店の壁にかけてある時計が、夜の十一時を指した。スズさんが「もう帰りなさい、不良たち」と言ったので、俺と千翼さんはホテルに戻ることにした。

 スズさんが送ろうか?と言ってくれた。けれど、こちらは男二人だ。千翼さんが「すぐそこだから、だいじょーぶ」と、アルコールの入ったポカポカした声で言って、店を出た。

 俺は二人分の代金を払おうとしたが、ヤミさんが「奢っちゃる」と言って、全部払ってくれた。自分の分も一緒に支払いをして、帰り支度をしながら、ヤミさんは言った。

「俺はヤミって呼ばれてるがな、本当は、暗闇って書いて、アンヤって読む。それをあの馬鹿がなぁ、ずっと読み間違って、ヤミって呼ぶもんだから、すっかり定着しちまったよ」

 あの馬鹿とは、祖父のことなのだろう。店を出たところで、ヤミさんとは左右にわかれた。俺は、去っていく背中に「ごちそうさまでした」と言って、ペコリとした。

 ヤミさんはチラリと振り返って、

「四十九日の席で、あいつによろしく伝えてくれ」

 と、目を細めて笑って。背中を向けながらも、手を振ってくれた。

「良い人でしょ、みーに会わせられて良かった。今日、いるかなぁって思ってたんだ」

 千翼さんが言った。

「常連さんですか?」

 俺が尋ねると、千翼さんは「月、水、木の人だよ」と言った。曜日別に常連がいるらしい。

 来たときよりも、よっぽど色濃くなった夜の色の中。俺と千翼さんは、言葉少なに歩いて、ホテルへ向かった。千翼さんは、眠そうな顔をしていて、けれど楽しそうに口角が上がっている。

「明日はなにしようねぇ」

「俺、ヤミさんにも賢い賢いって言われて、なんか微妙な気分になりました。学校サボって遊んでるし、実際そんな頭良くないし」

 祖父はどうして、俺を「賢い」と連呼したのだろうか。

「ガッコの勉強とかの賢いじゃないんじゃないの」

もっと別の賢いもあるでしょ、たぶんね

 千翼さんは言った。

「オレは賢くないから、よくわかんないけどねぇ」

 歌うように、付け加えて。

 横浜の夜は、星があまり良く見えなかった。晴れていて雲のない夜だったので、月はハッキリと見えていたけれど、星は一際明るいものが、ちらほら見えるだけだった。

「ねぇ、湊」

 千翼さんが言った。ごくたまに、湊、と呼ばれると、そのたびに驚いて心臓が鳴る。

「……なんですか」

 一拍置いて、俺が答えると、千翼さんは空を見ながら言った。

「父さんは、天国にいけると思う?」

 先ほどの、ヤミさんの言葉を思い出す。俺は少し考えた。ほんの少しだ。

「いけると思いますよ。残された俺たちが、全然、不幸じゃないから。悲しいけど、不幸じゃない。それに、みんな、じぃちゃんのことが好きだったから」

 そういう人は、きっと天国へいけるのだと思う。

「賢いみーが言うんだから、きっとそうだね」

 千翼さんは、小さな声で言った。俺は、もう少しなにか、気の利いたことが言いたくて、

「それに、もし地獄行きだったとしても、たぶん、地獄を楽しんじゃうタイプですよ、じぃちゃんは。地獄を自分で天国にしちゃうタイプ」

 そう、付け加えた。自分で言ってみて、なるほど、と思った。想像出来てしまう。地獄さえも楽しんでしまう祖父の姿が。千翼さんは、アハハと今度は声に出して笑った。

 夜の横浜、細い路地に千翼さんの笑い声が一瞬だけ響いて、溶けた。

 *

 ホテルに戻ると、交代でシャワーを浴びた。俺が先に貰って、アルコールを飲んだ千翼さんが、その後に。

 バーからの帰り道、コンビニで下着の替えを買ってきた。ホテルのパジャマと、コンビニの下着。ちょっと安っぽくて、糊がきいていて、肌馴染みの悪いそれらを身につけて。狭くすっきりした室内で、千翼さんの奏でるシャワーの水音を聞きながら。俺はベッドに座って、今日一日のことを思い起こしていた。

(普通に起きて、普通に学校行く予定だったはずなのに……)

 何故か、横浜にいて、何故か、千翼さんと一緒にホテルにいる。不思議だ、と思った。思えば、祖父がいなくなってから、穏やかな非日常ばかりだった。

(もし、じぃちゃんが死んでなかったら……俺は千翼さんとも、まだ出会ってない、ばぁちゃんの家の整理をするのに夏休みが消えたりしなかった……塾に行って、夏期講習でバリバリしごかれて、過去問やって、宿題やって、普通に新学期むかえて、普通に毎日学校に行って……)

 横浜にも、きっと来なかったし、スズさんのバーも知らなかったし、ヤミさんと話すこともなかった。

 人が欠けても、世界は回る。

 回るけれど、欠けた人と関係のあった人たちの世界の色は、緩やかに変化する。

(なんで、こんなことになっちゃったんだろ……)

 こんなこと、とは、どんなことなのか。それが自分でも、よくわからなかった。

(千翼さんといるのは、楽しい……でも、千翼さんと俺が知り合うには、じぃちゃんが死なないとダメで……)

 もちろん、祖父が生きているうちに、引き合わせてくれた可能性もあっただろう。けれど、現実は違う。祖父が死んだから、俺は千翼さんと出会った。

(だったら俺は……)

千翼さんと、出会えなくても、よかったかもしれない

(じぃちゃんが、もっと長生きしてくれるなら……)

 秘密で愛人をつくっていようが、その愛人に子供がいようが、どうでも良いから、もっと、もっと、長生きして欲しかった

(こんな、突発横浜旅とか、なくても良いから、千翼さんと出会えなくても、スズさんと出会えなくても、全部なくても良いから、)

「なんで、じぃちゃん、死んだんだろう……」

 ポロリと、意識しない言葉が落ちた。

 落ちて、コロコロとベッドの上を転がっていく言葉を、見えないソレを、俺は、じっと見つめた。

 見つめていたら、唐突に、喉の奥が熱くなった。自分の声が、耳に響く。

「そっか、もう、あえない、のか」

じぃちゃんには、もう、どうやったっても、会えないのか

 頭の芯の部分が、後ろ向きにキューっと引かれるみたいな感覚があって、それから目頭が震えた。パタパタっと、ベッドの白いシーツに染みが出来た。

 それを見て、いや、見ようとしたのに、視界が滲んでいて、それでようやっと、自分が泣いていることに気が付いた。気付かない方が、よかったのかもしれない。一度、気が付いてしまうと、もう止まらなかった。

 ヒッ、と短く息が鳴いて、肩が震えた。頬を通過していく涙がくすぐったい。鼻が馬鹿になったみたいで、鼻水が垂れそうで、必死に啜った。

 頭の中に、祖父の顔が、手が、指、それに匂いや、温もりや、感触、言葉、声とか、もう動き方とか、呼吸の感じとか、思い出、が、涙と一緒に激流となって暴れて、その全部が、失われたのだと知った。

 今、この瞬間に、理解した。

 なにが、賢い、だと思う。

 体が震えて、声だけはなんとか必死に抑えて、泣いた。千翼さんがシャワーから出てくる前に、どうにか泣きやみたくて、頑張ってみたけれど、泣きやもうとすればするほど、しゃくりあげた。

「ぅっ、うっ、」

 横隔膜が千切れるかと思うくらい、震えている。胃がせり上がって口から出てきそうだ。それでも涙は止まらない。

 祖父の、いつでも乾燥していた優しい手の感触、座った時にちょっと猫背になる後ろ姿、くしゃみの仕方とか、笑った時に揺れる肩、祖母を「香子」と名前で呼ぶ声、その日の服装を悩んで鏡の前で唸る姿、それに、最後に見た、最後になってしまった、あの瞬間の、ニヤッと笑った顔。

 俺は葬式にも出ていて、火葬場にも行った。骨も見たし、骨壺に入れる作業も父と一緒になって、ちゃんとやった。

 なのに、なんで今なんだ。

 なんで今まで、わからなかったんだろう。

 もう会えないんだ。

 死ぬというのは、そういうことだ。

 あの手に、もう、触れることは、出来ない。

 もう、あの声に、賢いと、言ってはもらえない。

(そんなこと、)

 到底、受け入れられない。俺は、喉の奥まで痛くなって、とうとうベッドの上でうずくまった。

 そのタイミングで、ガチャッと背後から扉が開く音がして。千翼さんが洗面から出てきたようだった。見ていないから、わからない。けれど、たぶんそうなのだろう。

「みー」

 千翼さんの声が、俺を呼んだ。俺は、なにも答えられず、ただ、背中を揺らして泣いていた。涙の止め方が、行方不明だ。

 千翼さんは、俺の横に、そっと座ったらしい。ベッドがきしんで、そして、俺の体が少しだけ斜めに傾いた。

 うずくまって、丸めている背中に、千翼さんの手が触れた。ゆっくりと撫でられて、そんなことをされたら、余計に泣けてしまう。嗚咽を堪えることも、ままならず、ただ俺の格好悪い声だか音だか、わからないものが、響いた。千翼さんは、同じスピードで、背中を撫で続けながら、

「やっと泣けたね」

 と言った。

 俺は、我慢していたつもりなんてなかった。

「香子さんとか、空子さんがいたから、泣けなかったんだね」

 千翼さんは、勝手に話を進める。仕方ない、俺は返事が出来る状態ではない。けれど、耳はしっかり千翼さんの声を聞いている。

「悲しいって、たぶん、いろんな種類があってさ。みーの悲しい気持ちと、オレの悲しい気持ちは、ちょっと違うんだ。みーは、おじいちゃんを亡くした。オレは父さんを亡くした。どっちの方がいっぱい悲しいか、とか。そういう問題じゃなくてさ、悲しいの種類が違うんだよ」

 たぶんね、と千翼さんは付け加える。俺は、鼻をすすりながら、目線だけ、千翼さんに向けた。

 涙と鼻水で、顔中がベトベトで、とても顔全部を上向けることは出来なかった。千翼さんは、眉を下げて、へなっと笑って。ホテルのティッシュを差し出してくれた。

「みーもね、お父さんが亡くなったら、ぜんぜん違う悲しいの味がするんだと思うよ」

 俺は小さく咳払いをした。泣きすぎて、喉になにかが絡まって、不快感が酷く気になった。

(父さんが死んだら……)

 頭の中で、考える。俺はどんな気持ちになるだろうか。母さんは、泣くのだろうか。

 想像してみる。

 けれど、泣きすぎた頭は熱く重くて、なにも考えつかなかった。

 千翼さんは「悲しい気持ちって、海みたい。潮の満ち引き」と言った。

「オレみたいに、すぐにブワッて悲しくなる人もいれば、一度悲しい気持ちが、スゥーって引いていっちゃって、そのあと、なんだか忘れたくらいのタイミングで、ワッとどうしようもなく、押し寄せちゃう人もいる。みーは、今まで、引き潮だったんだね。初めて会った時から、ずっとさ、スンとした顔をしてたから、大丈夫かなって思ってた」

泣けないのも、しんどいもんね

 ホテルの固いティッシュで鼻水を拭って、溢れて止まらない涙をせき止めて。俺は、必死に息を整えようとする。けれど、息がようやく整ってくると、またウワッと涙が出てきたりして。擦りすぎた鼻も目元もヒリヒリと痛んだ。痛んで、それがなんだか悲しくて、また泣ける。

 人はこんなにも泣けるものかと思った。

 千翼さんと会話をしようと頑張るのに、無理で、もどかしい。言いたいことも聞きたいことも、今更みたいにたくさん思いついた。

「さみしいとか、悲しいって、難しいね」

 千翼さんは言った。

 説明できないものは、難しいと言った。そこで俺は「うぅ、」とまた、ひとつ唸った。目と目の間が痛い。腹筋が痛い。

 千翼さんの手が、背中から俺の頭に回って、ぽんぽんとされた。その手はやっぱり、祖父の手に、似ている気がした。

「昔ね、オレがまだ小さかった時。父さんに言われたんだ。人はいつ死ぬかわからん。だから千翼に会えるのは、今日が最後かもしれん、って」

 千翼さんは、遠い波の音を聞くような、穏やかな顔で語った。俺は、ダラダラ泣きながら、ぼやけた視界で、それを見ている、聞いている。

「まだチビだったから、オレ、めっちゃ不安になってさ。父さん死んじゃうの?って聞いた。そしたら、父さんニッって笑って。わかるでしょ?あの笑い方。いつもの、あの感じで笑ってさ、死ぬのは俺かもしれんし、千翼が先かもしれん、俺もお前も、生きているから、いつか死ぬだろう!って言ったんだよ。酷くない?まだ小学生とか、そんなもんだったと思うんだけどさ。ちょっとトラウマになるよね。え、オレ、死ぬの?って。そんなこと、それまで考えたことあんまりなかったのにさ」

オレが愛人の子だったからかなぁ、そのころから、父さん、そういう話をよくするようになったなぁ、歳だったからかな、わかんないけど

 千翼さんは、俺の頭から、そっと手を離した。そして、ベッドの上に、無気力に、ポンと腕を投げ出した。スンっと鼻を軽くすする音がして、千翼さんの纏う空気が、潤んだ気がした。

「生きている人同士がね、もう一回会うって、実はすごい難しいんだって。お互いがちゃんと生き残っていないといけないから。どっちかが死んじゃったら、もう会えないから。だからまた会えるっていうのは、すっごく幸せなことで、すっごくミラクルなことなんだって」

 当たり前のことのようでいて、けれど、つい見ないフリをしてしまう事実は、この世に溢れているのかもしれない。祖父は、戦争の端っこを経験しているから、そういうことを言ったのだろうか。兄弟を亡くした経験が、祖父にそういう言葉を紡がせたのだろうか。真意はわからない。

 俺は、固いティッシュで、思い切り鼻をかんだ。鼻の下が擦り切れて、血が出そうだと思った。キンキンと響く痛みに、眉をしかめて。顔中も拭いた。

 俺の中に、思い出される言葉があって、それを千翼さんに伝えたかった。

 息を大きく吸って、ヒクヒク動く横隔膜だか、なんだかをなだめて。ようやく言葉を発しようとしたら、また涙が落ちてきた。けれど、構わず、酷く潰れたような声を出した。

「大海を、みよ、」

 千翼さんが俺の顔を覗いた。やっぱり千翼さんも泣いたようだった。目の縁が、薄く濡れている。

「みー、イケメンが台無し」

「うる、さいです」

「たいかい?」

「大きい、海」

 俺が説明すると、千翼さんは、「ああ」と言った。祖父がよく、俺に言い含めたこと。

「大海を見よ」

世界は広いぞ

 千翼さんの頬を、ツーと涙が伝った。

「オレは、虫の目でものを見ろって言われた」

世界は深いぞ

「なんなんだよ、あの人は」

 俺は、泣きながら、笑うしかなかった。なんなんだ、と本気で思った。

 いろんな人の、いろんなところを、ひっかき回して、たくさんのことを吹き込んで、当の本人はサッパリと姿を消してしまった。残された人間に、恐ろしいほど沢山の大事なものを残して。

 こんなに残されても、処理しきれない。

 どうしてくれるんだと、文句を言いたい。

 千翼さんもフフと、湿った声で笑って。それから、俺の顔を見たまま、真顔になって言った。

「ちょっと弱音を吐いても良い?」

 千翼さんの濡れた頬が、ホテルの部屋の照明を反射して、つやつやと光っている。俺が黙っていると、千翼さんは、内緒話をするみたいな声で、言った。

「父さんの言葉を信じてるし、実際、父さんが死んじゃって、身にしみて、なんかいろんなことを理解したような感じになってて、だから、オレ、すごいね、今まで以上に、今を大事にしたいし、いつ死んでも大丈夫って思えるように、しておきたいって思う」

 でもね、と千翼さんは言葉を切って、目を伏せた。長い睫が、いろんな方向に生えているのを、俺は見ていた。千翼さんは、ため息をついて、頼りなく言った。

「そう思うのにさぁ、今までずっと、父さんの背中を追いかけてきすぎちゃったみたい。急にいなくなって、これから、なにをして、どうやって生きていったらいいか、わかんなくなっちゃった」

なんでも出来るような気がするし、なんにも出来ないような気もする

 部屋の中に立ちこめる空気が、ドロリとして、重く、俺と千翼さんを絡めた。息苦しく、滞って、生暖かく、湿度が高くて、熱帯雨林の中のようだった。

「窓、あけようか」

 千翼さんが言いながら、立ち上がる。俺は、なんとなく、その後に続いた。千翼さんの背中を見つめて、ふらふらとついていった。

 頭の血が全部下がってしまったみたいで、立ちくらみがした。一歩一歩、狭い部屋を窓の方へ進むと、少しずつ、血が巡り出す。窓辺に立って、千翼さんが窓をあけるのを待った。

 ホテルの窓は、半分しかあけられない仕様になっていた。けれど、それだけでも十分だった。窓からは、秋の風が吹き込んできて、優しく俺の前髪を揺らす。横目に見ると、千翼さんの短い前髪も揺れて、額の上を踊っていた。

「海の匂いがするね」

 千翼さんが言った。

「少し、生臭い感じが」

 俺が言うと、千翼さんは笑った。

「イキモノの匂いだから、仕方ないよ」

 千翼さんは、海をイキモノだと思うらしい。俺も、そういうものかな、と思わなくもない。

「みー」

 呼ばれて、ふっと顔を向けると、千翼さんの顔が目の前にあって、唇になにかが触れた。生臭いとは思わなかったけれど、イキモノの匂いが鼻をかすめた。

 優しく触れたのが、千翼さんの唇だったことに気が付いたのは、その後だった。

「びっくりした?」

 千翼さんが目を細めて笑う。俺は「いえ、べつに」と言った。本当に、なにも、不自然でなかった気がしたのだ。

 後から、よくよく考えれば、どうしてああいうことをされたのか、全くわからない。けれど、千翼さんなら、そのくらいしそうだなぁという感覚ではあった。挨拶のように、キスくらい、しそうだ。

「なんだ、驚かないの。つまんない」

 千翼さんは、不服そうな声を出したが、顔は笑っていた。

「男とキスしたの、はじめて?」

「そうですね」

 俺が答えると、千翼さんは「オレもはじめて」と笑った。

「なんでしたんですか、って聞くのは、不毛ですか?」

 俺が尋ねると、千翼さんは、少し悩んで、

「不毛じゃないけど、モテないやつだね」

 と答えた。千翼さんにモテたいと思ったことは一度もないので、俺は堂々と、

「なんでしたんですか」

 と聞いた。千翼さんは、言った。

「なんでも経験だって父さんが言ってたから」

気になってるのにやらないのは勿体ないから、とりあえず、失敗してもなんでもいいから、全部やってみろってさ

 海から吹き上げてくる風に当たりながら、俺は「ふぅん」と覇気なく答えた。千翼さんは、俺にキスしてみたかったということだろうか。祖父は、大変なプレイボーイだったそうだけれど、はたして、男との経験はあったのだろうか。

 頭の片隅に、ぼんやりヤミさんの顔が浮かんだけれど、それ以上の空想はマズい気がして、軽く首を振った。

「人が死んでさ、大事な人がいなくなって、それでポカッとあいちゃった穴みたいなのはさ、たぶん、人でしか埋められないと思うんだよね」

 千翼さんは言った。

「みーがいて、よかった。本当はね、ほんとに、ちょっとだけ、オレはキミのことが憎たらしくて、羨ましくて、妬ましいけど、こういうタイミングで知り合えて、良かった。違う感じで出会ってたら、たぶん、仲良くなれなかった。オレはみーを、好きになれなかった。ズルいって思っちゃって、ムカついちゃってたと思う。だから、よかった。ほんとに。ほんとのほんとに、そこだけは、よかった」

横浜、一緒に来てくれて、ありがとね

 千翼さんは笑った。千翼さんの笑った顔の奥に、俺ははじめて、黒い影のようなものを見た気がした。今までも、ずっと、その影はそこにあったのかもしれない。千翼さんが上手く隠していたのか、それとも俺が鈍感なのか。

 人懐っこい顔の、一番奥の、深いところに、人間らしく、生々しい黒い感情が、鎮座している。

「今、なんか、安心、しました」

 俺は言った。

「千翼さんも、ちゃんと、人間だなって思いました」

「なにそれ、みーはオレをなんだと思ってたんだよ」

 千翼さんが前髪をかき上げながら、苦く笑った。持ち上げられた前髪は、すぐにパラパラと額をくすぐるように落ちていった。

 俺の涙は、ようやく出なくなった。強ばっていた体の力も、少しずつ抜けていって、頭の痛みも穏やかに引いていく。

 まだ、脳味噌は重かったし、目と鼻はずっとヒリヒリしているけれど。どうしようもなく、不安定に揺れていた心は、落ち着いた。

「あんまり潮風にあたると、風呂入ったのに勿体ないね」

 千翼さんは窓の外に向かって言った。

「明日の朝、髪がパリパリになってそう」

「そういうものですか?」

 俺の問いには答えず、千翼さんは、「よっ」という小さな掛け声と一緒に窓を閉めた。

「もう、真夜中だ」

 千翼さんは、窓の外を見つめ続けて言った。時計を見れば、日付はとっくに変わっていた。

「真夜中って不思議なんだ。見つめ続けてると、頭が冴えてくる」

 千翼さんが言った。俺も、窓の外を見た。横浜の夜。ポツポツと灯りが見えるし、たくさんのビルや、走り去る車もよく見える。けれど、全ての街並みは、薄黒い墨の中にポチャンと浸されてしまったようなのである。落ち着いた色合い、目に優しく、耳に静かだ。

 千翼さんの言う通りだと俺は思った。夜は、自分だけの世界に、内側に内側に沈んでいくのには、もってこいの時間だと思う。

「夜、ずっと考え事したりしてみたこと、ありますか?」

 俺が問いかけると、千翼さんは「ないな」と即答した。

「眠くなっちゃうし、寝ちゃう」

 俺は、嘘なんだろうなぁ、と思った。眠れない夜が、一度も訪れない人間など、いるのだろうか。

「もう寝よう。眠くなってきた」

 千翼さんは、俺の顔を見て、目を細めて笑った。

 *

「ねぇ、みーはさ、輪廻転生って信じる?」

「信じる信じないの前に、どうしてこっちのベッドに入ってくるんですか?」

 寝ようという話になったから、部屋の灯りを消して、ベッドに入ったのだが。なぜか、千翼さんが俺のベッドに堂々と入ってきた。もちろん、ベッドは二つある。

「くっついてた方が寒くないじゃん」

「寒いなら、暖房つけますよ」

「まだ九月だよ?」

「そうです、まだ九月です」

 全然、まったく、寒くはない。

「なんだよぉ、いいじゃん、チューした仲じゃん」

「千翼さんが勝手にしてきただけですよね」

 ひとり用のベッドの中、先に横たわった俺を、グイグイと壁側に追いつめて、千翼さんは楽しそうだ。

「修学旅行みたいで楽しいじゃん。オレ、あんま学校行ってなかったから、修学旅行もしてないんだけどさ。こんな感じでしょ?」

「どうかな……」

 確かに、修学旅行では、男ばっかりで雑魚寝をしたが、それとこれとは、少々、異なる気がする。

「……輪廻転生が、なんですって?」

 もう少し、反論をしてやりたかったけれど、千翼さんは、しっかり枕をキープして、眠る体勢に入っている。これで寝相が悪かったら、ベッドから落としてやろうと思った。

 俺の言葉に、すぐ隣から「あー」と緩やかな声が聞こえる。あまりにも、近い。布団の中、他人の体温がじりじりと腕やら足やらを温めている。

「輪廻転生、信じる?さっきバーでヤミさんが話してたじゃん」

 ヤミさんは、俺の顔を見て、死んだ祖父が「もう転生してきたのかと思った」と言った。

「どうでしょうね……でも、どっちにしても、生まれ変わった後、前に生きていた時の記憶がないんじゃ、意味ないですよね」

 俺が言った。千翼さんは「夢がないなぁ〜」とつまらなそうに言った。

「千翼さんは、信じるんですか?」

 俺が尋ねると、それまで天井を見ていた千翼さんが、クルンと寝返って、俺の方を向いた。俺は、仰向けのまま、視線だけ、チラリとそちらに向ける。

「オレとみーにはさ、父さんと同じ遺伝子が入ってるんだよね?」

 千翼さんが言った。俺は、文系なので、そういう事柄については、よくわからない。けれど、多分、そうなのだろうと思うから、頷いた。

「もしさ、本当に輪廻転生、みたいなことがあるんだったらさ、父さんは、きっとオレたちの近くに生まれ変わってくるんだと思うんだよね」

 千翼さんは言った。おとぎ話、夢物語のように、語る。

もし、みーが結婚して、子供が出来たら、その子もきっと、薄くかもだけど、父さんの遺伝子継いでるんだ

おんなじように、その子の子供も、そのまた子供も

ずーっと、継がれていくんだよね、遺伝子って

そう考えるとさ、生まれ変わりなんてのが、もし本当にあるなら

多分、継がれた血の流れの中

その輪の中で、もう一度、生まれてくるものなんだと思うんだ

「だから、近しい人のとこに、きっと、また生まれてくる。みーの子供は、父さんの生まれ変わりかもしれない」

 千翼さんは、キラキラした目で、俺を見つめている。俺は、眠気をはらんだ、半分回っていない頭で、話を聞いた。

 そして、ああ、そうかもしれないなぁ、と思った。そうだったら、すごく、この世は閉鎖的で、すごく、この世は強い縁と血で結ばれているんだろうな、と思った。その考えは、ちょっとしたホラーのようにも思えたし、美しい奇跡みたいにも聞こえた。

「千翼さんの子供だって、その可能性ありますよ」

 俺が言うと、千翼さんは「オレは自分が父親になる未来を想像できないさ」と笑った。そんなのは、俺だって出来ない。まだ高校生だ。大学だって、その先の未来だって、全然見えていないのに。どうしたら良いのか、どうしたいのかさえ、わからないのに。

 でも、いつかの未来のどこかで。自分の子供でなくても良い。なんでも良いから、この、縁の中で。俺のいる、千翼さんのいる、この血の循環の中で。祖父の面影を持つ、新しい命に出会えたら、嬉しいと思う。

 もし本当に、そんな瞬間が訪れたら。その時、はじめて、輪廻転生という言葉を信じられる気がするし、これから先の人生でも、自然と直面するであろう、大切な人たちとの別れを、悲しいよりも、寂しいよりも、つかの間の別れだと思えるようになるかもしれない。

 永遠の別れなど、ないのだと。

 信じられるように、なるかもしれない。

 今はまだ、そんな風には、信じ込めないけれど。

「転生とか、あんまり考えたことなかったですけど、でも、なんかちょっと、悲しい気持ちが、薄まる気が、しますね」

 俺は言った。返事はなかった。

 その時、はじめて俺は寝返りをうって、千翼さんの方へ体を向けた。彼は、俺の方を向いたまま、スースー寝息を立てていた。薄暗くても、はっきりとわかる、長くて濃い睫が、上下、ヒタッとくっついて、呼吸にあわせて、緩やかに震えていた。細く開いた唇から、穏やかな呼吸音が聞こえる。

 この唇が、さっき、自分の口に触れたのか、と思うと、今更ながらに、顔が熱くなった。本当に、なにをやっているのかと思う。なんだか、むちゃくちゃ過ぎて笑えてしまった。

 人は、生きている限り、常に、予測できない日々を、歩いている。千翼さんと一緒にいると、それをハッキリと自覚する。一緒にいて、次の瞬間、一体なにが起こるか、わからない。思いついたまま、翼を広げて飛んでいる。

「変な人……」

 俺は呟いて、ゆっくり瞼を閉じた。眠っている間だけでもいい、俺も、自由に飛びたいと願った。

 *

 翌日、ハッと目が覚めたら、昼過ぎだった。

「おはよ」

 のんびりした声が聞こえて、体を起こす。

「よく寝たねぇ〜」

 千翼さんは、昨日と同じように、窓辺の椅子に膝立ちをして、窓の外を見ていた。

「おはよぅ、ございます……」

 慣れないベッドで、長く寝たせいだろうか。

頭がボゥっとして、首が少し痛い。

「頭痛いでしょう?昨日、泣いたからだよ」

 千翼さんが言った。俺は、言われてから「ああ」と思い出した。昨晩、大泣きしたことを、すっかりと忘れていた。

 そう、泣いたことを忘れ去るくらい、久しぶりに熟睡した。

「海、見えますか?」

 俺が尋ねると、千翼さんは「おいで」と言って、俺を手招いた。俺は、寝起きでボサボサの髪を手で撫でつけながら、ベッドからおりた。千翼さんの横に立つ。

 窓の外、すぐそばに海が見えた。昨晩は、墨を流したように見えていた景色。今は、秋の空に、小さく千切られたような雲がチラホラと浮かび、海は艶々と光って見えた。

 よくよく見れば、海は濃い青に見える場所もあれば、薄い緑のように見える場所もある。水深の違いだろうか。ボートのような小さな船がしぶきを上げて、通り過ぎたりもする。水辺を散歩する人の姿も見える。

「みー、見て。あそこ、クラゲだ」

「え、どこですか」

「あの白っぽいの、岸側の、ほら、散歩してる人の近く」

 目をこらすと、コンビニのビニール袋みたいなものが、浮いている。けれど、ビニールではない。ポツンポツンと、あちこちで漂っている。確かにクラゲだ。

「あとで散歩しに行こ、オレたちも」

 千翼さんが笑った。

「美味い店で昼飯食べて、散歩して……あ、映画とか行かない?平日だから空いてんじゃないかなぁー。今、なにやってるっけ?」

 俺は、夏に観たかった映画があったことを、思い出した。きっともう、終わってしまっているだろう。

 夏は、あっという間に、過ぎてしまった。

 世界は動いている。止めどなく。何度だってそれを実感する。

「とりあえず、顔洗ってきます。千翼さんも、その頭はどうにかした方が良いですよ」

 彼の短い前髪は、あちこちに飛び跳ねていたし、尻尾みたいな後ろ髪も、絡まってぐちゃぐちゃしていた。千翼さんは、少し恥ずかしそうに笑った。

 昼の時間から少しズレていたからだろうか。

再び訪れた中華街は、昨日よりも人が少なく感じられた。千翼さんのお気に入りの店で、唐辛子のラーメンを食べた。辛さのレベルを、二人して普通よりもちょっと高めにしたのが間違いだった。千翼さんも俺も、汗と涙と鼻水を垂れ流しながら、なんとか食べきった。昨日とはまた違う種類の涙だ。

 人間には、いろんな種類の涙があることを再認識する。この涙では、頭は痛くならないのだと知った。

「辛いってわかってるのに、なんか定期的に食べたくなるんだよなぁ、ここのラーメン!」

 千翼さんは、スープの最後の一滴まで飲みきって言った。俺も、意地になって、スープを飲み干す。後を引かない、さっぱりとした辛さだ。食べ終わった後、満腹感と一緒に、爽快感のようなものがあった。

「なんか、わかる気がします。また食べたくなる予感が、」

 俺が言うと、千翼さんは「でしょ?」と言って、カラカラ笑った。

 汗が引くまで、お腹がこなれるまで、ゆっくりと海沿いを歩いた。海を覗きこんでみたけれど、クラゲはもう見あたらなかった。沖のほうまで、流れていったのだろうか。

「みー、明日、四十九日どこでやるっけ」

「葬儀した会場と同じ駅のとこです。お墓が、会場の裏にあって……多分、お墓のとこでやるんだと思います」

 骨壺を墓におさめて、いよいよ祖父は、眠りにつくのだろうか。

(それともやっぱり、天国とか、地獄で、生きてた時みたいに、好き勝手に楽しくやっていくんだろうか……)

 そして、気が向いたら、生まれ変わってきたりするのだろうか。

「忙しいですよね、亡くなってからの数年って。一周忌とか、すぐじゃないですか」

「バタバタしてるうちに、寂しいって気持ちが薄くなるように、昔の人が、いろいろ考えたんじゃない?忙しいとさ、悲しいのとか、寂しいのって、薄れるじゃん」

 千翼さんは、空を見上げながら言った。そして、独り言のように「骨、埋めちゃうのヤだなぁ〜」と言った。

「さみしいよ」

 千翼さんの呟きは、俺の胸の中をキュッと握って、痛かった。けれどそれは、千翼さんの投げた「さみしい」を、俺がちゃんと受け止められた証拠だと思った。

 こうやって、お互い、口に出して、悲しいとか寂しいを、分け合って。そうして、埋めていくのかもしれない。

 徐々に、少しずつ、ゆっくりと。喪失という名の、永遠と深く、続いているように見える穴を。

 夕方から映画を観て、俺はまた泣いた。感動する映画でもなく、爽快感のあるアクション映画だったというのに。

 空いていたし、お金があるからと調子に乗って、良いスクリーンで観たのがマズかったのかもしれない。音響の良さと映像の迫力で、泣いた。昨晩から、俺の涙腺は馬鹿になってしまっている気がする。

 ラーメンを食べた時と、これもまた違う種類の涙だ。それなりに疲れる泣き方をしたけれど、頭は痛くならなかった。

 千翼さんは「ガン泣きじゃん!?」と、俺の顔を見て、ケラケラ笑った。

「泣き所あったっけ?」

 と、尋ねられて、俺はどうしようもなく気まずい。

「音が良かったんです」

 俺は、盛り上がる壮大な曲に弱い。千翼さんは「感性が豊かでよろしい」と言った。

 千翼さんのほうが、よっぽど感性豊かなタイプに見えるのに、なんだか悔しい気持ちになった。

 映画館を出て、ブラブラと歩き回って。横浜という街は、見ていて飽きないところだと思った。

 道行く人を見ても、街並みを見ても、なんだかチグハグに色々な種類のモノが混じり合っているようで、けれど、調和している。

 海が全部を許している感じがした。デコボコしている、ひとつひとつの個性を、全部許して、まとめている気がした。

「横浜、いいところですね」

 俺が言うと、千翼さんは嬉しそうに頷いて、

「はじまりの街だよ」

 と言った。どういう意味かは、聞かなかったけれど、なんとなく、わかるような気がした。

 周囲がゆっくりと暗くなる時間に、また、スズさんのバーに行った。金曜日だからだろうか、ヤミさんはいなかった。

 今日は、若いカップルが一組と、四十代くらいのサラリーマン風の二人組がカウンターで飲んでいた。

「あら、いらっしゃい」

 店の扉を開くと、スズさんが「来ると思った」と言うような口振りで言った。俺と千翼さんは、昨日と同じ立ち飲みのテーブルについた。

「ビールくーださーい」

 千翼さんが手をあげて、元気に言う。彼の元気な声に、カウンターのお客たちの視線が集まった。

 スズさんは苦笑して「すみません、息子なんです」と言った。千翼さんは、お客たちの視線をちっとも気にせずにニコニコしていた。

「あんまり飲まないでよ?明日、酒臭いなんてイヤだからね、恥ずかしい」

 スズさんは、そう言いながら、グラスビールを持ってきた。俺は、ジンジャエールを貰った。

 店内は、和やかな雰囲気で、皆、近くに座る相手に、そっと話しかけている。そっと話しかけるだけでも、聞こえる距離。

 そういう関係の人と過ごすのに、とても良い場所なのだろう。

 少し古い感じのするジャズっぽい音楽が小さく流れていて、その合間に穏やかな笑い声が聞こえたり、グラスをテーブルに置く音が聞こえたりしている。千翼さんは、ビールを飲みながら、店の空気をゆったりと眺めるように、視線を送って。それからは、もう黙って飲んでいた。

 俺も、なんだかゆったりした気持ちで、ジンジャエールを飲んだ。若いカップルは、どうやら大学生らしく、就職活動の話をしているようだった。

(就活か……)

 なりたい職業を考えて、大学を決めなさい。高校の担任は、口癖のようにそう言っている。

 なりたい職業が決まっている人は、そもそも大学選びに悩んだりしていないのではないだろうか、と俺は思う。将来の夢も、学びたいことも、特に思いつかないから、困っているのだ。

 立ち飲みテーブルの横には、小さな窓がある。俺は窓の外を見つめた。夜はだんだんと濃度を増していて、街灯が何かの道しるべのように、光を放っている。

「みー、横浜の大学受ければ?」

 唐突に、千翼さんが言った。

「まだ、志望校決めてないんでしょ?」

「……なんとなく、決めてはいたんですけど……夏に勉強しなかったんで、絶望的かなって感じです」

「夏、サボっちゃうだけで、そんな感じなの?」

「元々、合格ラインギリギリだったので」

 俺が言うと、千翼さんは「ふぅん」と言った。実際、俺も「困ったな」くらいの気持ちだ。志望校と言っても、消去法で決めたようなところだったし、どうしても行きたかったというわけではない。

 学力レベルで考えて、一番良いだろうと思われる選択をしただけだった。

「横浜、良いとこでしょ?みーが横浜の大学行ったらさ、オレの家から通えば良いじゃん」

「え」

 俺は、ちょっと大きい声を出してしまい、慌てて口を手で押さえた。

「それは迷惑が過ぎるでしょう……普通に家から通いますよ」

 大学に行くことは考えていたが、家を出るという選択肢は、考えたことがなかった。ずっと都内に住んでいるのだ。よほど、地方の大学に行かない限り、家から通えると思っていた。

「朝早いとつらいよーきっとー」

 千翼さんはニヤニヤして言った。

「待ってください、そもそも横浜の大学に行くって決めたわけじゃ」

「あら、湊くん、横浜の大学受けるの?」

 なにもこのタイミングで話に入ってこなくても……半分ワザとなのでは?と思える形で、スズさんがビールのおかわりを持って来た。

「湊くんも、なにかおかわり、持ってくる?」

「……じゃぁ、コーラ、で……」

 俺が言うと、スズさんは目を細めて笑った。その顔は、千翼さんによく似ていた。

「もし湊くんが横浜の大学に通うなら、ウチ、使って良いからね?千翼の監視役がいてくれると、私は助かる」

 千翼さんが唇を尖らせて「なにそれー」と文句を言った。

「監視役って……」

 俺は、その言葉の意味するところが、わからないでもなくて、苦笑した。

「それに、この店で、バイトしてくれても良いのよ」

湊くんなら、イケメンだし、バイト代、弾むから

 カウンターに戻りながら、スズさんは言った。サラリーマン風のお客のひとりが、

「確かに、ずっとひとりで、大変そうだものなぁ」

 と、スズさんに向かって言った。

「バイト、雇ったことないんだよね」

 千翼さんが俺の頬をツンツンと人差し指で突いて言った。

「いや、だからって、なんで俺なんですか」

「こういう仕事、興味ない?」

 スズさんが、ビールとコーラを持って、戻ってくる。

 興味がないか、と聞かれれば、どちらとも言えない。面白そうだとも思うけれども、やったことがないから、わからない。

「バイト、経験ないので、なんとも……」

 俺が答えると、スズさんは、テーブルにそっと手を置いて、静かな声で言った。

「実はね、私、香子さんに、一緒に住まないかって誘われているの」

「え」

 初耳だ。それは、祖父母の、あの家で、ということだろうか。

「もちろん、湊くんが嫌だったら、遠慮するつもり。空子さんも、香子さんが一人暮らしになるよりは、誰かいてくれた方が助かるって言ってくれてて……いつか、湊くんにもちゃんと相談しなくちゃって思ってたの」

 俺は、そこでようやく、祖母が「一人暮らし」になるのだということを、実感として理解した。そうだ、もう、祖父はいないのだから。

「祖母と、母が、その方が良いって言うなら、俺は全然、反対とか、しないです……」

 俺は、少し歯切れ悪く言った。スズさんは、眉を下げて「ありがとう、湊くん」と、優しい声で言った。

 俺は、スズさんがあの家で、祖母と一緒に暮らすということよりも。もし、もしも、スズさんがいなかったら。祖母があの無駄に広い家で。残りの人生、ひとりぼっちで生きていかなくてはいけないことになっていたかもしれないという事実の方が、なんだか大きな衝撃だった。

 スズさんがいて、良かったと思った。

 きっと、母も同じような気持ちだろう。忙しく働いている人だ。ずっと、祖母の側にはいられないし、けれど、実の母親だ。心配は尽きないだろう。誰かが一緒に暮らしてくれていれば、安心だ。それも、スズさんは、すっかり、他人ではない。

「でもね、そうすると、横浜の家がねぇ……店をたたむつもりはないし……結局、行ったり来たりの生活になると思うのよ……だから、誰か、週に何回かでも、バイトで店番してくれる子とか、あと、千翼がヤンチャをし過ぎないか見張っていてくれる子とか、いてくれたらなぁって思っててね……」

 スズさんのため息混じりの言葉に、千翼さんが楽しそうな顔をしている。

「だってさ。みー、人助けだよ。横浜の大学にしなよ」

 相変わらず、指先は、俺の頬をツンツンやっている。

「これ、やめてください」

 俺がムッとして言うと、千翼さんは「みーが横浜の大学にするって言ったら、やめる」と言った。横暴だ。

 俺は、千翼さんの指先を掴んで、無理矢理とめた。

「そもそも、受かるかもわからないですよ。俺はそんなに、賢くない」

 最近勉強という勉強もしていない。自分の学力が、どれほどか、自分でもちょっとわからない。一夏で、ガクッと頭が悪くなるとは思っていない。けれど、一夏、死ぬほど頑張った奴らが、数え切れないほどいるのを、俺は知っている。

 受験は、頭の良い順に、合格するのだ。俺の頭が悪くなっていなくても、周りの実力が高ければ、合格はしない。

「湊くんなら、大丈夫よ」

 スズさんが言った。

「そうそう、だいじょーぶ」

 千翼さんも言った。こういうところも、似ているのかもしれない、この親子は。楽観的だ。とても。そして、他人事だ。

「テスト、受けるのは俺です」

 勉強をするのも、俺だ。

「あんまり、期待しないで下さいよ……」

 俺が言うと、二人はやっぱり似ている笑顔で「だいじょーぶ、だいじょーぶ」と言った。

 俺と千翼さんは、昨夜よりも早い時間に、ホテルへ帰された。

「明日、遅刻しないように早く寝なさいよ」

 スズさんに釘を刺されつつ。千翼さんは「まだ飲み足りないー」と駄々をこねて、コンビニでビールを二本買った。本当は三本カゴに入れていたが、俺が一本戻した。

 ホテルに戻って、ポテトチップスを摘みながら。俺はレモンの炭酸水を飲んで、千翼さんはビールを飲んだ。

「みーくんは炭酸好きだねぇ〜」

「ビールだって、炭酸でしょ」

「ちょっと飲む?」

「やめときます」

「まじめかー!」

 ケラケラと笑って、下らないことを話して。

「みーと一緒に暮らせたら、毎日こんな感じで、楽しいんだろうなぁーって、オレ、思うよ」

 千翼さんは言った。

「そう上手くいきますかね……ケンカとか、そのうちすると思いますよ」

 人と暮らすというのは、そんなに簡単なことではない。少なくとも、俺にとっては、そんなに簡単なことではない。

「いーんだよー、ケンカしたってさー」

 千翼さんは、今日はちゃんと自分のベッドに横たわった。どうやら、ビールの缶が、二本とも空になったらしい。

「ケンカしたらー、仲直りすればいーのー」

そんなの、ちっちゃい子供だって知ってるさ

 当たり前のように言う千翼さんの声を聞いていると、なんだかスッと納得してしまいそうになる。現実を生きることは、実はそんなに難しいことではないような、そんな気持ちになる。なんとかなるような、気に、させられる。

「今、また千翼さんに、じぃちゃんの面影を感じてます」

 俺が言うと、千翼さんは「やったー」と笑った。

「明日、四十九日なのに、なんか、未来のこと考えてると、少しだけ、ワクワクしますね」

 まだ、横浜にどんな大学があるのか、どのくらいのレベルなのか、なにも、調べてさえも、いないのに。

 俺は、真っ暗だった未来に、少しだけ、光が差し込んだような気持ちになった。千翼さんは「明日は、美味しいもの食べられるのかな」と言った。

「お刺身とか、天ぷらとか、お寿司とかじゃないですか?」

 俺が答えると、千翼さんは、

「だよね。なんか、コレ系の食事って、いっつもそんなだよね。オレ、肉が食べたいなぁー」

 と、単調な声で言った。

「それは期待薄だと思います」

「だよねー。えー、じゃーさ、終わったら、みー、一緒に肉行こうよ。二次会」

「二次会ってなんですか」

 四十九日の二次会なんて、聞いたことがない。俺が笑うと、千翼さんは、ベッドの上で目を閉じて、言った。

「楽しければ、それでいーんだよー」

父さんだって、きっとそう言うよぉー

 眠そうな声だった。

「千翼さん、寝るなら、布団かけてください。あと着替えて。風呂は明日でもいいですから」

「母さんよりウルサーイ」

「歯も磨かないと、虫歯になっても知りませんよ」

「まじーめーーー」

「普通です。千翼さん」

「ねむいーー」

 むにゃむにゃ抗議をしてくる千翼さんだ。俺は思わず「めんどくせぇ……」と呟いた。

 ホテルの小さな部屋に、俺の呟きはちゃんと響いて、千翼さんが笑った。

「いい加減、敬語やめろよぉー」

「年上には敬語です」

「さっき、めんどくせぇ〜って言ったじゃん」

 千翼さんは、俺の口調を真似して言った。ちっとも似ていない。

「思わず、本音が漏れました」

「漏らしていこーよ、今後もさー」

距離を置くなよーさみしーよーもっと寄ってこいよーー

 千翼さんは、間延びした声で、ワガママに言った。完全に酔っぱらいの声だ。

「……せめて、布団だけはかけて下さい。風邪引きますよ」

 俺のその言葉に、もう返事はなかった。ストンと落ちるように、千翼さんは眠ったようだった。昨夜も思ったが、寝つきがすこぶる良い。

「ほんと、なんだこの人……」

 めちゃくちゃ面倒くさい。俺は、笑った。面倒くさくて、楽しい。

 俺は仕方なく、自分のベッドの掛け布団をひっぺがして、千翼さんの上にかけてやった。起きている時はウルサいくせに、眠っている千翼さんは、イビキひとつかかない。

 静かに深く眠るタイプのようだ。布団をかけてやったついでに、ジッと寝顔を観察してみた。

 なんとなく、思い立って。そっと、顔を寄せて、唇に、唇で触れてみた。軽く、そっと、一瞬だけ。柔らかく、少し湿った感触があって、それから寝息がスッと鼻先に触れた。それだけだ。

 俺は、小さな悪戯が成功した時のような、高揚を覚えた。してやったり感。心の中の、どこかしらが、満足した気持ちになって、俺はシャワーを浴びた。

 歯を磨いて、寝間着に着替えて。フロントに電話をして、掛け布団をもうひとつ持ってきて貰った。

 携帯のアラームをセットして。電気を消して、ゆっくりベッドに横たわる。

 腹の底、体の中心の深いところから。新しい力が沸いてくるような、そんな感覚があった。枯れた泉の真ん中から、チョロチョロと、澄んだ水が、沸き出るように。

 *

 翌朝は、大騒ぎだった。揺すっても叩いても、千翼さんがムニャムニャ言って、起きないのだ。

「もういい加減ヤバいですってば!!起きて、シャワーだけでも浴びて下さい!!」

「むりぃ、めっちゃ、ねむぃー」

「四十九日遅刻したら、どーすんですかっ!!」

 声が枯れるかと思うくらい、俺は頑張った。なんとか起こして、浴室にたたき込む。シャワーを浴びても、まだ眠そうにしている千翼さんの髪をドライヤーで乾かして。チェックアウト、ギリギリの時間にホテルを出た。

 そのまま電車に乗れば良かったものの、千翼さんが、

「おなかへったよー」

 と、言うものだから。ファーストフード店で、朝食をとった。腹が満たされて、ようやく頭が回ってきたのだろうか。千翼さんは、店の時計を見て、

「ヤッバ!!」

 と言った。俺はもう、その頃には諦めの境地に至っていたので、

「そうですね」

 とだけ、返事をした。

「みー!なにを暢気なこと言ってんの!」

「千翼さんがそれを言いますか」

「いやもう、マジでヤバいって!急ごう!」

 千翼さんが俺の分のトレーまで片付けて、店を出てからは、猛ダッシュだ。駅までの道のりを、二人、走る。食べたばかりで、わき腹が痛かった。

「みー、あの電車に乗らないと、間に合わないよっ!!」

「だから、もっと早く起きて下さいって言ったんですよ!!」

「ごめんって〜!ほら、はやく!!」

 千翼さんが俺の腕を掴んで走った。電車はもう、乗車口が開いている。

 俺は、捕まれているだけなのが悔しくて、千翼さんの腕を掴み返す。

 その瞬間。

「湊、走れ」

 駅構内に吹き込む風に乗って、祖父の声が聞こえた気がした。

「走れ走れ、どこでもいい、どこまででもいい、どうやってもいい、どんな風でもいい、走れ、自由に」

 笑い声と一緒に、声が、聞こえた気がした。背中を、優しく、押すように。

 電車の扉が閉まる寸前で、乗り込んだ。背後でプシューと、空気の抜けるような音がする。

 車内アナウンスで「駆け込み乗車は大変危険ですので」と流れてきて、千翼さんは、ハァハァと上がる息の合間で「オレらのことだ」と小さく言った。そして「ごめんなさい」と、呟いて。両手を合わせて、アナウンスが聞こえる方向にペコリとした。

 俺の方を見て、舌をペロッと出す。

「怒られた」

「あれ、いつも流れるアナウンスですよ」

「でもなんか、ごめんなさいって思うじゃん」

 千翼さんは、へらりとして言った。

 *

 九月、快晴の土曜日。四十九日の法要が執り行われた。

 俺と千翼さんは、本当にギリギリのギリギリで会場についた。しかも、二人して、祖父から借りた服を着たまんまだ。俺は黒のスカジャンだし、千翼さんは赤地のタンクトップを着ている。

 会場では、スズさんが祖母や母と同じ側に座っていて、俺はそれがとても良いことに思えた。他の親戚よりも、スズさんの方がずっと祖父に近いのだ。

 全力疾走で会場に辿りつき、ゼェハァ言いながら入り口に立った俺と千翼さんを見て、あまり親しくない親戚たちがザワザワとした。祖母は俺たちの姿を見留めると、ニコニコして手招きをした。前方の列、二席があいている。

 祖母の横で、俺の母は顔に手をあてて、天を仰いでいる。

 千翼さんが小さく「いこ」と言った。二人して、親戚の合間をぬって、席についた。

 母は、この二日間。唐突に、好き勝手をした俺を、放置してくれた。本当だったら、いろいろ、沢山、言いたいことはあるのだろう。けれど、その全部を押し殺して。

 悩ましい声でそっと、「湊、あんたなんて格好してんの……千翼くんまで……」と言った。

 祖母が「似合ってるから、いいじゃない」と笑う。母は、梅干しでも食べたのかと思うような、しょっぱい顔をした。けれど、それ以上は、なにも言わなかった。

 俺と千翼さんは、並んで座って、顔を見合わせる。千翼さんが、口角を少しだけ上げて笑った。俺も、なんとなく、同じように笑った。

 心は静かで、そして、世界のなにもかも、全部、どうでも良いような気持ちになった。ゴチャゴチャしたことが、ひとつもない、晴れやかで、爽やかな気分だった。

 生きていれば、それでいいと思えたし、死んでしまっても、それでもなんだか人生楽しかったのであれば、天晴れだと思えた。

 儀式めいたことが、一通り終わって、最後に、納骨をした。俺は「ここが祖父の新しい家になるのか……」というようなことを思った。今度からは、ここに会いに来ればいいのだ、と。

 新築を見るような気持ちで、墓を見つめた。俺の横に、千翼さんがぴったりとくっついていた。

 会場の裏にある墓地に移動する間も、ずっとくっついていて。千翼さんの指先、親指、人差し指、中指が、俺の小指を緩く握っている。俺は、それが特に嫌ではなかったので、そのまま放っておいた。

 千翼さんは出会った時から、あまりにも自由で。まるで本当に、翼がはえているようだと思う。千翼という名前をつけたのは、祖父だと聞いた。この人に、千の翼を、祖父は与えたのだと思うと、俺はやっぱり、少しくらいは千翼さんが羨ましいし、本当にちょっとだけ、妬ましい。

 そして、憧れる。人間としての中身が、とても祖父に似ている千翼さんに、憧れる。

 俺は、港だ。

 多分、祖父が自由だった分、母は俺に、落ち着いた人になってもらいたかったのだろう。その願いは、おそらく、叶っているように思う。

 俺は、飛ぶことはできない。千翼さんのように、自由に生きられるタイプには、やっぱりなれそうにない。どんなに憧れても、どうしても、地に足をつけたがる。仕方がないのだ、こればっかりは。

 けれど、俺には俺の、出来ることがあるのだろうとも思う。そう思えるように、少しずつ、なってきた気がする。

 祖父のようになりたかったけれど、俺はそうはなれない。千翼さんのようにも、なれない。俺はどこまでいっても、結局、俺でしかない。

「みー」

 千翼さんが、俺の耳元で、囁いた。

「みーがいて、やっぱ、すごい、よかった」

 彼の声は、少し震えていて、もしかしたら泣いているのかもしれなかった。俺は、全然、泣くような気持ちではなかったけれど、千翼さんにとって納骨は、泣けることだったようだ。

 側にいてあげられて、良かったと、俺は思った。思ったから、千翼さんの指先を、軽く握り返した。

 *

 秋も終わりを告げる頃、スズさんが、祖母の家に移り住んだ。

「女同士の同居よ」

 と、祖母は嬉しそうに言った。どうやら、夫を失った者同士ということで、話が合うらしい。娘であるところの母は、

「そこは娘の私と分かち合えば良いじゃないの〜」

 と、少し拗ねた様子だったけれど。祖母に言わせてみれば、夫を失った者同士でないと、わかりあえないこともあるのだそうだ。

 俺は、そういう会話を聞き流しながら、同じようなことを千翼さんから言われたのを思い出した。もしかしたら、俺とではわかりあえないことも、千翼さんと母ならば、わかりあえるのかもしれない。二人とも、祖父の子供なのだから。

 俺は、千翼さんとスズさんに熱視線を送られるままに、横浜の大学を調べ始めた。

 学力のレベルやら、学部やら、学費やら。母と父にも相談をして、学校でも進路相談をした。

 ようやく、意識が受験の方へ向いてきて。センター試験があまりにも目前なことに、恐怖を覚えたのが、十一月だ。

 祖父の死は、かき消されることはなくとも、だんだんと、悲しみから、ひとつ上の段階へと進んでいく。喪失感や、寂しさを、日々の生活の中の、小さな楽しさや、嬉しさで、埋めていく。

 みんなで笑って、埋めていく。

 千翼さんは、俺の受験勉強を邪魔しなかったけれど、ちょくちょく家にやってきては、

「差し入れ〜」

 と言って、中華街の小籠包やら肉まんやらを持ってきた。

 夜中まで勉強している俺の横、マンガを読んだり、うたた寝をしたりしている日もあった。スズさんが、祖母の家に移ってしまって、急に半分一人暮らしみたいになって、寂しいのかもしれない。

 十一月の中頃、土曜日の朝のことだった。

 リビングから母の「えーーーー」という大声が聞こえてきて、俺と父は、既視感を覚えながら、そっと母の様子を伺った。

 母は、電話をしていたようで、携帯を持ったまま、ワナワナしている。

「うーん、なんだか嫌な予感だねぇ」

 父が、苦い顔をして俺に言った。俺も無言で頷く。携帯をテーブルに置いた母は、コソコソ様子を覗き見ている俺と父に気付いて、

「ちょっと聞いてっ!!」

 と、叫んだ。

 なんでも、祖母の家に、エアメールが届いたらしい。送り主は、プーケットに住む女性だそうだ。英語で書かれたその手紙を、スズさんが翻訳してみると、

「ああ、風が騒ぐと思っていたら、あなたは遠い人になってしまったのね、あの日の、あの熱い夜を……私は永遠に忘れることはできません、どうしても、あなたともう一度、会いたかった。会って、あの情熱的で甘い夜を、もう一度、味わいたかった……」

 みたいなことが、書いてあったそうだ。なんと、祖父には、プーケットにまで愛人がいたようなのだ。俺は、もう、笑うしかなかったし、父も母の手前、控えめにではあったが笑っていた。

「笑い事じゃないわよ!とか、言いたいけど、私も、もう笑うしかない気がしてきたわ……」

 母は、ため息をつきながら、髪をかきあげて、呆れたように言った。

 その日の夕方、俺が勉強の息抜きにと、祖母の家に行くと、千翼さんがいた。俺の顔を見るなり「聞いた?」と笑った。

「どうする、みー。もしかしたら、オレの他にもいっぱい、愛人の子がいるかもしれないよ」

びっくりだね!

 俺は、笑いながら「笑い事じゃなくないですか?」と言った。千翼さんは「とか言って、みーも笑ってんじゃん」と、俺を小突いた。

 祖母は、動揺するようなこともなく、

「まぁまぁ、もう、困ったもんね。こうやって、世界中の愛人と知り合いになっちゃったら、どうしようかしら」

この歳からでも、英会話スクールとか、通っちゃおうかしらねぇ

 なんて言って、特に驚いた様子もなかった。流石だ。スズさんは、苦笑しながら「もう、なにも言えないわねぇ」と言っていた。

「そうよ、死んだ人には、もうなにも言えないんだから」

 祖母は言った。

「もう、いいのよ、これがあの人の人生だった。残された私たちは、幸せよ、ぐーんと世界が広がるわ。一人を失って……たくさんの縁が舞い込んだ」

まったく、本当に、最高にいい男だったわ

 祖母の力強い言葉に、俺はまたひとつ、光る未来を見た気がした。失った分、舞い込んできた縁を、大事にしようと、心底思った。

 平成最後の、夏。

 良い、夏、だったのかもしれない。とびきりの衝撃も、悲しいも寂しいも、嬉しいも楽しいも、全部。心の深いところに、しっかり刻まれる夏だった。

 *

 翌年の春。

 俺は、横浜の大学に合格した。センター試験で、ボロボロだったせいで、奮闘に奮闘を重ねた冬だった。

 けれど、桜咲く。ちゃんと、大学生になれた。

 スズさんは、昼間のほとんどを祖母の家で過ごしながら、週に三回だけ、店を開きに横浜へ戻ってくる。

 スズさんが戻るのは、だいたい夜の八時頃になるので、彼女がいない間は、俺が店番のアルバイトをしている。夕方、俺が大学から戻ってきた時間から八時までの間だけ。俺はひとりでカウンターに出る。

 スズさんが戻ってきたら、アシスタントとして、店を手伝う。

 簡単なカクテルの作り方も教えて貰った。けれど、俺自身がまだ未成年なので、スズさんが戻るまでは、ソフトドリンクのみを提供する店として営業することになった。

 俺は、スズさんに代わって、千翼さんの家に住むことになった。結局なにもかも、千翼さんの目論見通りになってしまったのだ。そう考えると少し悔しいけれど。横浜の街はやっぱり見ていて飽きなくて、俺はとても気に入っている。

 それに、千翼さんの家から俺の通う大学まで、徒歩十分なのも、最高に良かった。当の千翼さんはと言えば、いろんな所でアルバイトをしてはお金を貯めて、海外を自由に飛び回っている。しばらく家にいるな、と思ったら、急にいなくなって、

「今、イギリスにいるよー!」

 とか、連絡が入るのだ。どこまで自由なんだと呆れてしまうが。彼も彼なりに、いろいろと思って行動しているのだろうことは、一応理解しているので、口出しはしないことにしている。千翼さんは、祖父が赴いたことがある土地、全てに行ってみるつもりのようである。

 ある日、大学から帰宅すると、玄関にスーツケースが放ってあった。

「ちょっと、帰ってくるなら一応連絡くらいくださいよ」

 家の中を覗くと、二週間ほど姿を消していた千翼さんがいた。ソファーの上で寝ころんで、ゴロゴロしながら、雑誌を読んでいる。

「いいじゃん、自分の家なんだからさぁー」

 千翼さんは、ふあふあした声で言って、それから、

「みー、ただいまぁ〜」

 と、ニッコリした。

「おかえりなさい」

 言いながら、俺がソファーに近付くと。千翼さんは、体を起こして、俺の腰あたりに抱きついた。重いし邪魔なので退かそうとしたけれど、案外に千翼さんは力が強い。

 先頃よりも、長く伸びた前髪が、俺の腹あたりでくちゃくちゃになっている。

「今回は、どこまで行ってきたんですか」

 俺が尋ねると、千翼さんは顔をあげて、パァと笑った。

「プーケット!父さんの現地妻に会ってきたよ!すっげーおっぱいの大きいお姉さんだった!でも、オレよりも父さんのほうが良い男だったって、笑われちゃった!」

 ケラケラしている千翼さんに、俺は突っ込みたいことが山ほどあったが、やめておいた。

 俺はいつでも、無意識に、大好きだった、祖父の背を見て生きてきた。そして、今は、千翼さんの背を見て、生きている。

 言いたいことは、いろいろあれど。それでも、千翼さんには、これからも。祖父に代わって、世界中を自由に飛び回ってほしいと思う。そして、その中で見たもの、感じたこと、なんでもいいから、教えて欲しい。千翼さんの目で見たものを、俺に伝えて欲しい。

 俺の役割は、港。千翼さんが帰ってくるところだ。

「お土産話、聞かせて下さい。夜にはスズさんも店に来ますから」

 千翼さんは、目を細めて笑った。

「帰ってくる場所があるって、安心する。父さんは、世界中に帰れる場所、作ろうと思ってたのかな」

「ああ見えて、寂しがり屋だったから、そうかもしれませんね」

 俺も笑った。寂しがり屋で、自由奔放で、力強い明るさを放つ太陽のような人。

 その遺伝子を、受け継ぎ、分け合いながら生きる俺たちは。

「あ、オレ、しばらく横浜にいる予定だから、バーの方、手伝えるよ」

「マジですか?助かります。千翼さんがいてくれると、アルコールも出せるんで」

「ほんと真面目〜」

 今日も、いつも通りの日々を、少しの寂しさを抱えながら、笑って生きていく。なるべく、なるだけ、後悔のないよう、精一杯。

 命ある限り、生きていくのだ。

 継がれる命の、物語の中で。

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