一章 侵略神(2)
「いかん!」
笑翁と紋付黒袴の叫びが響くと同時に光の柱が赤子の身体の中に沈みこみ、手力と呼ばれた青白い炎のような光を放つ球体は宙に浮いたまま暫く輝いていたが、やがて宙に吸い込まれるかのように小さくなり消え失せた。
「岩戸と黄泉比良坂が繋がったままだ。引き込まれるぞ」
ごうっつと風が鳴ると同時にその場に居合わせたもの全てが、ある一点に吸い寄せられるのを堪えた。それは赤子の左胸、光の柱が吸い込まれた位置に開いた黒々とした穴であった。
びょうびょうと耳元の空気が音を立てる中、増女は赤子に向かって引き摺られて行く乳児に駆け寄り辛うじて上に覆い被さった。それでも二人とも少しずつ穴に向かって近付いて行く。
最も傍にいた黒袴の置かれた状況は、更に絶望的であった。
彼は赤子から離れようとするが、髪の毛を引っ張られるように仰け反ってしまい手を付いてしまった。
赤子の胸に開いた穴の上に。
奇怪なことに黒袴の肘から先は赤子の胸に沈み込んでしまい、ひっと彼が悲鳴を僅かに上げた次の瞬間、彼の姿は石舞台の上から消え失せてしまった。
更に奇怪な吸引は続いており、大鼓や吹き消された蝋燭等が赤子の胸に吸い込まれる様は、強力な掃除機に吸い込まれるミニチュア道具といった趣があり、どこと無く滑稽である。
ずるっと音を立てて増女が乳児もろとも赤子に向かって引き摺られ、面の奥で絶望の呻き声をあげたとき、赤子の胸に開いた穴を白い手が塞いだ。
その手は先程まで笑翁の傍らに控えていた童女のものであった。
どのようにして赤子まで近付いたのか、少女の身体は中に沈み込むことも無く平然と立っており、赤子の胸から生じていた奇怪な吸引も、少女が掌で塞いだ途端ぴたりと止まったのだ。
床に這い蹲り引き込まれることに耐えていた笑翁は、荒い息を吐きながらよろよろと立ち上がり増女と抱えられた子供を睨み付ける。
「役立たずが、力尽きたか!」
激昂し、荒々しく笑翁の面を剥ぎ取り石舞台に叩き付けた。
笑翁の面に隠されていた鷹の様な鋭い目と鷲鼻の老人の相が露にされる。
「千載一遇の好機を無駄にしおって。冴夏よ、千秋も御主同様、巫女としては役立たずよの」
その言葉を聞いた増女の肩がピクリと震えた。
「恐れながら宗冬様。千秋は、まだ二歳です。巫女として役に立つかどうか判断するのは時期尚早かと」
「はっ」
宗冬と呼ばれた老人は下らない冗談を耳にしたかのように鼻先で笑ってのける。
「春奈は母親の胎内ですでに繋がっておったぞ。その母親、四季も御主より早く五つで繋がったではないか。御主は岩戸を開けることは出来ても、繋がり手力を身に宿すことの出来ない半端者の癖に、余計な口を挿むでない」
増女の面の奥から歯軋りらしき音が響いているが、宗冬は意に介した風も無く背後の赤子とその脇に立つ童女を振り返り言葉を続ける。
「空席である御門家の当主は春奈とする。冴夏は……」
宗冬の言葉が急に途絶えたのを訝しんだ増女は、面を上げて宗冬の視線を追った。
そこには赤子と其れを生んだ我が末妹である白雪と次女四季の娘であり、先刻、この御門家の頭首となった春奈がいるはずだが。
其れを目にした増女、御門家本家の長女である冴夏は自分の全身の毛穴が開き、嫌な汗がにじみ出るのを止められなかった。
恐れが己の身体を支配している。
「また面白いことを繰り返しておるのう。宗冬」
春奈は赤子の胸から掌を外し、老人と巫女を振り返る。
先刻までの艶やかな黒髪をした日本人形のような印象とはうって変わり、幼女とも老女とも受け取れる声音をした、皮肉げに視線を向ける三歳程度の童女とは思えない存在が其処に居た。
冴夏は再び頭を下げ春奈だったものから視線を外した。隣で宗冬も大げさに平伏する。
「またも岩戸を開き、我と同じ手力をこの赤子に宿そうとした様だが、目論見が外れたようじゃ。さも有りなん、元々御主の血族は巫女に我を下ろしていたのじゃから、男に下ろすのは不慣れであったろう。男は代々皇の者と決まっておるのにな」
びくりと宗冬が震えるのを嘲笑を浮かべて見下ろした後、不意に表情を引き締め赤子へ向き直った。
「閉じることが叶わず黄泉比良坂に魂魄を持っていかれたか。いや半分はこちら側じゃが常に千引きの岩の向こう側に通じておるな。面白い」
にいっ、と笑みを浮かべた少女は狩衣の裾を翻し、老人に背を向ける。
「この者は死なせてやった方が幸いじゃが、それでは興が削がれる。我も魂魄を奪われて生きておる者を見るのは始めてじゃからな。退屈を紛らわすのに丁度良い。よいか下郎、この者は物心付くまで育てるのじゃぞ。世話は我の依童に任せるがよい」
言い終わるや否や、少女は膝を折り地面に横たわった。
恐る恐る面を上げる冴夏を尻目に、宗冬は老人にあるまじき速度で駆け寄り少女を抱き起こした。ほっと一息ついた後、傍らの赤子とその母親を忌々しそうに振り返る。
母親は赤子を産み落とす事に力を使い果たしたのか、顔を蒼くしたまま息を引き取っていた。しかし産み落とされた赤子は、目を見開いたまま泣くでもなく、ぼうっと宙を見つめたままだ。
宗冬は赤子の眼前で手を振るも反応もせず、ただただ虚ろに目を開いている。
「どうなさいますか?」
「仕方あるまい。忌々しいがこいつは我等の手で育てる。しかし本家に加えることは許さん。こいつは狗だ。納屋にでも転がしておくがいい」
冴夏の問いかけに答えた宗冬はそう言い捨てて少女を抱き上げた。
「ある程度大きくなったら外国にでも放ってしまえ。勝手に死んでくれるだろうよ」
石舞台から降りて母屋へ歩を進める老人と、それに抱えられた少女へ一礼し見送った後、増女は軽く息を吐いて面を外した。切れ長の目をした面長で調った女性の顔が現れる。
己の腕の中にある乳児を抱きしめ「千秋」と呟くが、子供は疲れ果てたのか寝息を立てて答える事はなかった。
冴夏は石舞台の中央に横たわった妹の傍にしゃがみ込み、右手を伸ばし妹の足元に横たわる赤子を抱え上げる。
「白雪、あなたは幸せね。自分の子供が役立たずなんて呼ばれるのを聞かなくて」
冴夏は妹の死顔が、子供を生んだ達成感からか微笑んでいる様に見えて羨ましかった。