六章 その手を(25)
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また同じ夢を見ている。
どんな夢を見ていようが、目覚める前はこの夢に戻って来る。
独りでこのベンチに腰掛けている。
この花が咲く手入れの行き届いた裏庭で、色彩豊かな静寂の中で、ただ独り、この小さな世界に閉じ込められている。
ここは今迄自分が生きていた世界とは違う。誰かを傷つける必要も無ければ、誰かに傷つけられることも無い。多分、自分が望んできた世界なんだろう。
それなのに、自分が虚ろだ。
きっと、自分は誰かを傷つける事しか知らない生き物なんだろう。
それ以外の事は出来ない人間なんだ。
いや、人間じゃなく誰かは廃棄物って言ってた。
ああ、偉そうな老人と親類だったっけ。この国に強引に連れて来られた従姉にその意味を聞いたら、ものすごく悲しそうな顔をした。
後で意味を調べたら間違ってはいないと思ったんだ。だって、そうだろう。戦場じゃ僕のような子供が、どんどん死んでいるんだ。
だから、誰も俺を見ず、誰も語り掛けず、存在すら忘れたくて仕方がない。
間違っていない。俺は廃棄物なんだ。
だからどんどん胸の穴が大きくなって壊れていく。自分が無くなって壊れていく。
そして彼女が裏庭に現れる。
癖毛のショートカットをした紅い縁の眼鏡をかけて、猫のような眼に黒瞳の大きな彼女が裏庭に入って来る。
彼女は先客に気がつくと、一度はこの裏庭を出て行こうとするがベンチの隣に腰掛けて話しかけてくる。
面倒臭く煩わしかったが彼女の強引さに圧倒されて会話を始めた。
そして彼女がベンチから腰を上げて俺の前に立つ。
つられるように俺は顔を上げる。
彼女は眼鏡の奥から睨みつけるように見下ろしていた。やはり、俺の存在が不快だったに違いない。
「名前は? あなたの名前」
「御門 冬峰」
教えても差し支えは無いと判断して素直に答えた。
冬峰、冬峰ね。彼女は俺の名を唇を動かして反芻する。
眼前に差し出される彼女の右掌。
何の心算なんだ。俺は彼女を見返した。
「わたしは」
少女の口が開く。
力強い意志を込めた視線が、今まで誰からも向けられた事の無い己を奮い立たせるような視線が俺にに向けられている。
「私は御門 千秋。この家の一人娘なんだ」
なら、この裏庭に来てもおかしくは無い。やっぱり俺は邪魔だったか、と俺は彼女の差し出された手の意味をとっとと立てと受け取りベンチから腰を上げようとした。
「まだ、座っていてもいいよ。きっとこの裏庭を出ても、貴方は何も出来ないと思うんだ。私も一緒だから」
その言葉とは裏腹に千秋は笑顔を浮かべた。
「だから、私が出してあげる。私が強くなって、この閉じられた裏庭から冬峰を出してあげる」
俺は何も言えなかった。
ただ右手を差し出した千秋を見上げるしかなかった。
誰かに力強く微笑みかけられることも、救いの手を差し伸べられる事も無かったから。
その強い彼女があまりにも眩しくて、その手を取ることを躊躇ってしまったんだ。
弱い自分が恥ずかしくてその手を取れなかった。
その約束を、千秋は憶えていのだ。
本家地下室の【|修練場《しゅうれんじょう】で彼女と、その差し出された掌を見たとき、俺はありえない夢を見ているのではないか、そう目を疑い信じられなかった。
救いがあることなど諦めきっていたのに。
彼女の母親である冴夏と朱羅木に見つかり、千秋が記憶を奪われる寸前の謝罪の言葉と泣き声に、俺は叫びたかった。
謝るのは自分だと。
千秋を信じられなかった弱い自分だと。
千秋が高校生の身で家を出てアルバイトを探していると聞いたとき、彼女はあの裏庭を出る準備をしていると思った。
だから、千秋と同じくアルバイトを始めると共に、彼女を守る力が欲しくて剣技を磨いた。外の無慈悲で残酷な世界でも彼女を守れるようになりたい。そう願って。
君は強いから、強くて誰にも弱音を吐きたくなくて無理をしているから、そんな千秋を支えたくて。
あの買い物帰りのバス停、二人でバスを持っている時、ふと思った。
こんなふうに二人で並んで裏庭を出れたらいいと。
千秋の手を取って、二人で並んで一歩を踏み出したいと願ったんだ。
ただ、そう願っていたんだ。
強くなって、千秋の手を取ってこの裏庭から出たかったんだ。ただそれだけなのに。
眼の前で手を差し伸べる千秋は見慣れた高校生の姿となっている。あの時と同じくいつまでも手を取らない俺に、困ったような笑みを向けていた。
だって、千秋はもう……
風は吹いて裏庭に咲いた花から花弁が散り、それが俺と千秋を包み込む。
いや、それは違った。
困った様に、何故か悲しそうにも取れる笑みを浮かべる彼女の指先が、花弁となって消えていく。
彼女が花弁を散らしながら消えていくのを俺はただ見上げるしかなかった。
ああ、これは記憶だ。俺は彼女を忘れつつあるんだ。
花弁は裏庭の上空に開いた黒い太陽のようなものに吸い込まれていく。
まだ、彼女の笑みを浮かべる半顔と差し伸べられた指先が残っており、俺は腰を浮かせてその手を取ろうと手を伸ばす。
伸ばした指先が届く前に大きく散った花弁と共に彼女の姿が消えて、俺は両手と両膝を地面につけた。
俺は顔を伏せる。
まだ花弁は上空を漂っている、何も知らなければ美しい光景なんだろう。
俺は目が覚めると二度と思い出す事の出来ない彼女を思い、ただ独り裏庭で生まれて初めて涙を流した。
咲く花も無く、誰も居ない荒地と化した裏庭で、俺は子供のように嗚咽して涙を流し続けた。
天門町奇譚 完
稚拙な文章にもかかわらず、この長い物語を最後までまで読んで頂けた読者の方々に厚くお礼を申し上げます。少年の頃に繰り返し読んでいた小説や漫画の持つ世界を自分でも作り上げたくて、この物語を執筆致しました。
剣劇アクションのイメージは湧いておりますが文章に直すと、非常に説明文臭くなってしまい、何度も頭を抱えました。
不器用な生き方しか出来ない少年少女の物語を、読み終えて心に留めておいていただけるなら、幸いです。
有難う御座いました。




