物語というメディアミックス、伽藍でみるか、バザールでみるか。
喫茶店で席に案内されて店員を待ちますが、やってきません。
コレは、いじめでしょうか?
ちなみに行きつけ──思いこんでるだけかもしれない──で、かれこれ二三年通ってる喫茶店なのでそんなことはないと思うのですが、あぁ、何かこちらが粗相をしたのかと思い始めてしました。
こういう時、机に備え付け呼びベルを押すか押すまいかを相当に悩みます。
そういう人間です、ハイ。
マジで悩みます(真顔)
来ない=忙しい、もしくは人手が足りず……ボクに気がついていないかもしれない……と思うと思うほどに、押せなくなっていく。
重い、重いよ。最終決戦兵器使用ボタン並に重たくなってきました。呼びたいボクと「忙しいなか呼ぶんじゃねぇよ」と思われたくない僕のハルマゲドンです。
どこかの勇者王の最終合体承認ボタンの如く恋人が毎話毎話押す勢いが、ボクにもあればっ……!!
ハッ!!もしかしてルール変わった?席に着いたら呼び鈴押して呼ぶ感じの変更になった?え、いつの間に?昨日もこの店きましたよ。昨日は笑顔で注文取りに来てくれましたよね?あれ?
喉が渇いたのに、水がない。そして、モーニングサービスの時間が過ぎていく。けれど、ボタンを押す決断が出来ない……。
頼む僕の右or左人差し指よ、動け動いてくれと願望だけが募っていく今日この頃、
みなさま、如何お過ごしでしょうか?
残念な戯言遣いアルファタウと申します。
最近、世間はなんだかんだいつも通り忙しない日々の繰り返していますが、体調やら精神状態やら幾つかの諸々の加減、調子は整っていますでしょうか?
治らなくても良い、そこに在ってくれれば、それだけでボクの幸せです。
ほならばボクといえば、元気GENNKI超元気に、読書とゲームと執筆を繰り返す日々でございます。ハイいつも通り。
最近、ゆるゆるとですが、読書を意識的に始めました。
上記で読書日々してるって書きましたが、知らず知らずのうちに読書量が減っている自分に気がついたんですよ。何だかんだ隙間時間にweb小説は読み続けてたんですが……。それでも減っちゃったですよね。
昔は何も意図せず、難しく考えず、空気を吸って吸って吐いて吐いての自然体で、文庫本やら単行本を鞄に入れてましたが、歳のせいでしょうか──たぶん性格上の問題──重たい物を持ちたくなくなりました。
えぇ、歳のせいです、きっと、おそらく、間違いなく、絶対に、……多分。
重たい、軽くしよう。という発想に流されるようになりました──人はそれを怠惰と呼びます──。
知恵が回るようになったと言えば格好はつくというもの、今度からそう表現するように心がけましょう。
冗談はさておいて、主題です。
本を読まなくなって大きな一つの弊害を感じます。それは執筆量が減りました。
inputが減れば、当然outputも減ります。所詮、人間もある程度のプログラミングされた生物です、当たり前の話ですね。言の葉をかき集めなければ、それを一枚一枚選定して吐き出すこともできやしない。
例えて言うなら、収入が減れば、支出も減ります……減ってないだと……。ローン地獄だぁ!
トチ狂う演技はヤメにして。
いやはや。日銭を稼ぐお仕事の合間を縫って、ポチぽちゴンごんと書き殴っていた日々は何処?
趣味:文章を書くこと、とホラ吹いていたボク様ちゃんは影も形もなくなり候。げふん。
日銭稼ぎのお仕事がバカほど忙しくなったのは事実、が、キーボードに向き合っても文章が出てこん、となったのも事実。ついついインターネッツの迷宮に足を踏み入れて時間がなくなるのも事実。三つの事実が重なっても、真実にはならない名探偵。たすけて、ドイル、クイーンにクリスティー。ついでにダイン。
で、
どうしよう?
単純明快。
よし、本を読もう。
でも、重たい物:ここでは本の意(例 カール・グスタフ・ユング著:赤の書とか 著者不明:ヴォイニッチ手稿とか)を持つのは嫌だ!断固拒否する!という気持ちが入り交じって、脳内大論争になって、大変なことになりました。まぁ自分一つの脳味噌では答えはでる筈もないので、インターネッツの世界を答えを求め彷徨い、新作おもしろガジェット情報やエロサイトの誘惑、幾つかのアクシデントをかいくぐり、VTuberの配信をライブ視聴したという気持ちと戦いながら、たどり着いた答え。
電子書籍でよくね?
紙至上主義のボクでしたが、重たさには勝てない。グラビトンにわからせられたよ、え、そいつは幻影?
まぁ紙って重いしカサバるし──元々木ですし、おすし──、本屋さんで新作文庫一覧表を眺める気持ち悪い行為をしなくてすむし──大型書店だと文庫コーナー棚の横に張り出してくれる、ありがたい──、なにより小一時間かけて棚を眺めなくてすむ──楽しい行為ではある、店の人や他のお客さんに迷惑をかけてるかもしれませんが──、あと鞄には本を入れる制限があります。
そう、電子書籍でよくね?
電子書籍用のデバイス買えばよくね?
という結論から、脳内シミュレーションした結果がこちら。
1:タブレットを買う → 動画を見る → 結果時間がなくなり本を読む暇がない。
2:タブレットを買う → ゲームをする → 結果時間がなくなり読書は消え去る。
3:タブレットを買う → 本を買う → 写真集・設定資料集などのビジュアル重視な物を物色する → 幸せになる → 結果時間がなくなり読書という概念がそもそも消滅して、鑑賞にクラスチェンジ。
4:タブレットを買う → ガジェットとしてのポテンシャルを試したくなる → 魔改造を試みる → タブレットを壊す → 結果そもそもの目的は滅び去った。
5:タブレットを買う → 本を買う → 漫画やカラーの物ばかり買う → 幸せになる → 時間がなくなり小説・専門書を読む目的が爆破される。
六:髭を剃る → 何も起こらない → 子犬を飼おうとして、ペット禁止賃貸を追い出される。
まだまだ例えはあげれそうですが、タブレットを買うのは自分の未熟さ故に不味いという事は判断できました。
4に関しては本当にやりかねない──その昔、ネットブックと呼ばれる種類のPCを一台犠牲にしました。尊い犠牲でした。初期AMD、すまん──ので、タブレット購入は諦めましょう。経済的にも無理しない、お財布に優しい生き方。
まぁこれくらいの脳内シミュレーション、もう数十年自分と生きてきましたから、予想はできます。出来過ぎます。
では、
電子書籍は諦めるのか?
嫌だ!!と心中で大声で否定をココロミる。ココロニイツモ……。
先生やビッグテックたる超大手インターネット仮想店舗で、検索をかけまくる数時間。
文字だけが読めて、白黒で、あとWi-Fi通信のみで、などと検索。
昔、電子手帳と称して、「メノツケドコロがシャープでしょう」でおなじみの会社から出ていた(たぶん二十年前)ものを探したりもしました。あと、松下。そしてSONY。
いやー、そんな都合のいいタブレットデバイスが在るわけもなく。そこまでいくと、もう死語の可能性大のPDAの領域なんすよねー。今となっては、ゴツゴツした形状は好感が持てます、Zaurus。あと、PDAのジャンルは死んでないですよと、独りツッコミしときます。
で、一旦思考にノイズめいた邪が宿ります。
いや、もうスマホでよくね?
いいや、駄目だね。ノータイムで却下だ。
だって絶対、スマホで別のこと検索したり、動画見始めたりする未来しか想像できんモン。無理ですわ、タブレットでリアルなシミュレーションを無駄に想像しちゃったせいで、余計に読書という目的がブレそうです。
いやもう、スマホ選択は一周回廻ってからのブレちゃってるんですが。
で、
南米のブラジルとその周辺国の熱帯雨林を流れ大西洋に注ぐ、世界最大規模の河川と同じ名前のサイトで、検索しまくって出てきた答えがKindle。キンドル。
検索に出てきた瞬間に「生きとったんかいワレぇ」、という何処かの叔父貴の気持ちで一杯になる衝動。映画冒頭で実家に帰ると必ず「アンタ生きてたんかい」と叔父叔母に言われる瘋癲の気持ちです。
あ、まだあったん、……っですねー。……っすよねー。
その辺りの事って年寄り特有の情弱のせいか思いこみというか、偏見で、
人間型ロボット VS 世界最大規模の河川 VS りんご
って三つ巴の大戦争はもう頂上決戦が終わって、今は終戦後の世界と思いこんでました。
結果誰が屍の頂に立っているのかは知りませんが……。屍の中にKindleがあると思いこんでました。ごめんなさい。
そうして「仲良くして!」という幼気な少女(誰ぇ?)の叫びは市場競争主義の空に虚しく木霊したのです。
で、まぁ、ようやく本題なのですが、電子書籍というかKindleを購入して半年ほど経過しまして、
電子書籍 ≠ 紙媒体書籍
という事を実感したので感想を書こうと思います。
当たり前とはいえ、頭の中で理解するのと経験して体感するのは、違っていて体験することは大事なことだと思います。
何がどう違うかを悩んだのですが、解りよい例えをあげていくことにします。
水中ラグビーとラグビーくらいの違いです。
え。判りにくいですか?
では、エクストリーム・アイロニングとアイロンがけくらいの違いです。
ほ。想像ができない?
解りました。ダイビングチェスとチェスくらいの違いです。
む。例えに意味がない?
キーボードで打ち込むのと、フリック入力ほどの違いです。
見た目は違うし扱い方も違う、けれど本質としては類似している。そう、類似している。
内容を読めればえぇやんという立場をとれば、電子書籍は最強です、優秀です。まじで扱いやすくて便利です。軽い、暗い場所でも読める(バックライトがあるデバイスに限り)、何十冊と持ち歩ける、あと書籍代がちょびっとお安い。
当初の目的、読書量を増やすは果たしています。ありがとう、Kindle。ありがとう、whitepaper。そして、すべての電子書籍に「ありがとう」。
まぁ、電子書籍になって荷物はかさばらなくなったし、興味ある小説やら技術書は手軽に読めるようになりました。めでたしめでたし。
で、
以下は、老頭児な人間の意見です。
昔から割と、読んだものの内容は大体にして覚えているものですが、電子書籍の場合、ぼんやりとしか覚えていないという事が多いように感じます。ストーリーや全体像はとらえられているので、ふつうに読む分には問題ないです。
ただ研究者や台詞を覚えないといけない人間には向かないかもしれません。何故かを説明しようとすると難しいのですが──をおぉウィトゲンシュタインが顔を覗かせてますよチラチラと──、細部を覚えきれないと表現すればいいでしょうか、「あの場面の、あの人物の、あの台詞、もしくはあの所作の表現」という文字、文章、文脈というか、感じたものが残りにくいなぁ、と言いましょうか。なかなかこの感覚を述べるのは、言語化しにくいですね。
もしかしたら電子書籍と紙媒体は、virtualの反対の意味に似ているのかもしれません。
virtualは幾つか意味合いがありますが、一つに『見た目は違うけれど~、事実上~』というものがあります。
そう、電子書籍と紙媒体は『見た目は同じにみえるけど』、違うものです。
急募!見た目は一緒だけれど~という英単語。
あー、あーあーあーあー、なんでしょうね、この一言で言い表せないすっきりしない感じ。
同じ行動(読書)をしているのに、何か違う。違和感すら感じない。同じ結果なのに過程が二種類ある感じ。
いや、そもそも紙媒体の読書と電子書籍での読書は別々の行動なのかではないかとすら思い始め、読書量増えたと認識してるけど果たして我々が理解している読書とは別の読書をしているのではないだろうか、という疑心暗鬼に陥る始末。
とまぁ、記したものの、何となく自己解決(納得に近い──思いこみともいう──)しとります。多分ですけど、動作・所作の差ではないかと思います。所謂、身体性という奴です。
記号(文字)を眼で追う作業の中に、“めくる”という動作が入ることで、読書という一つの行動に成立させていた、と。指で触る紙の感覚とめくるときに漂う埃とインクと紙の匂い。
人間記憶力を上げるのに運動しながらだと覚えやすいというのは、本当かもしれません。めくる行為がないと、どこのページに何が書いてあるか覚えれない。
スライドだとつるつるの画面を触るだけですねしね、あれはあれで気持ちよくて面白いのですけれど。
身体性の観点から見たら、多分違う行動としてとらえてる可能性があるんじゃなかろうか……。と、なんちゃって考察したり、らじぱんだり。
さて、読書を手軽にする環境を手に入れ、「電子書籍って手軽だけど、あんまり読んでいる人を見かけんなーと、通勤という日常生活の中で見渡してしました。
なんでかなー。
スマホで読んでるわいボケがぁ!と言われてしまえば、それで仕舞いなのですけども、Kindleを検索してたときにKindle活用法というサジェストを見かけて、刹那だけ購入を躊躇しました。
え、そんなに普及しとらん?
が、河の名前のサイトは大々的に売り出している。これは、陰謀に違いないとキシバヤシさん並に勘ぐってネタの一つや二つにならんかと思索しましたが、なんか文章に興したときに怒られそうなネタにしかならんような気がしたので永久にやめにしました。丸めてゴミ箱にダンクシュートです、からの焼却炉に即GO。
Kindleの活用法の一つに「PDFファイルも読み込めるので、お気に入りのweb小説をKindleで読もう」ってな記事を見つけ、あー確かに便利かもしれん。
が、それならサイト直接読みにいきますけれども……と身も蓋もない──サイコパス的な思考──ことに考えが行き着いて自分がいかに共感性がないヤベェ奴と自覚して虚無になるという自虐をしました。
話を基に戻しまして。
みんな、本読まなくなってるのではないか。
という初歩的な思考に至って、まぁそれなら母数減ってんだから仕方なくない?という結論に勝手に至りそうになりましたが、調べるととりあえず紙媒体でも電子書籍も売り上げ伸びてる事実。流行病のせいもあって、ここ数年は伸びているという目をそらしたい事実。
だったら、読んでるでしょ皆。
はッはーん(眼鏡クイクイ)、これは漫画が売れとる。違いない。
という偏見に至りました。これは推察からのまぢ偏見です。
ワタクシ、漫画は読書だと言い張る人間です。ちなみですが、この十年は漫画を読んでません。最後に読んだのは、横山輝光の三国、水滸伝……。いや、青山剛昌の名探偵コナ…怪盗キッドだったか。うーん、森秀樹の墨攻だったかもしれません。
まぁ、さておいて、
小説はあまり読まれなくなったのか?
という疑問は残ります。
他に娯楽が増えたと言えば増えました。それはもう間違いなく。
ドラマ、動画投稿サイト、アニメ、漫画、音楽、ゲーム、SNS、なんならインターネットにつなげればなんでもありますし、何だって出来る、暇しません。娯楽は所詮、余暇の過ごし方です。手軽な方がいいに決まってます。
活字離れとか言ってるのはいつの時代もそうでしょうが(古に造られた、とある碑文には「最近の若いもんは言葉遣いがなっとらん」的な事が書いてあるそうな)、自身の経験則に則った尺度なんてものは、現在の時代に合わないことは多々──常々──あるものです。じゃんねんなことにね……。
まぁ結論としては、読まれなくなったでしょうよ、小説つか活字。何せ小説に行き着く前に、……その物語に触れようした時には大体にして、別媒体があふれている昨今ですもの。
ドラマ、アニメ、漫画、ネタバレサイト、批評、推すめ紹介、ファンアート、音楽、ゲームetc.
いや、もっとあると思いますが、中身おじいさんのオヂサンにはこれが限界です。許してください。
色々様々な趣味の共同体からの接触があることでしょう。
そう所謂、マルチミックスという奴です嘘です。それはグミです。
そう所謂、マルチバースという奴です嘘です。それは理論物理学です。
正解は、マルチメディアです。エチゴセイカ。
クロスメディアやメディアミックスとも言いますね。
小説→コミカライズ→アニメ・ゲームなんて流れは、歴史は古くないと思いますが、名前が変わる前の電撃ゲーム小説大賞な時代からコンセプトとしてはあったんでしょうね、何処かの経営者さまの頭の中には。似たようなことはしてたもんなーあの会社、昔から。
それが善いことが悪いことかは、さておいて(言及は避けます、逃げます、怖いので)、今現在の市場(消費型経済)をみると、常にネタ不足なことでしょう。
経済活動としての小説の位置づけは、おそらくそれらの核に似た部品と捉えられ、それがマルチメディアに向いているか向いていないかを主軸に商品化(書籍化)が進められるようと邪推することすら出来てしまいます。
いやいや個人的にはオモロイものをオモロイと、書籍化してるとピュアな想像も心の半分でしてます、ピュアなおぢさんなので。
書籍化した先を見据えて小説・物語を読むというは、なかなかに大変な作業と思います。いや、書籍化してマルチメディア化に耐えうる小説を探し彷徨う戦いなのかもしれませんね。ご苦労様です。
で、考えるわけです。
そんな時代、書籍化した先を見据えた小説を書く術とはあるのでしょうか?いや、ない。
さて、此処からいつもの「何言ってんだコイツ」な話です。ほんだーい。マエフリガナガーイ。
なろう系というジャンルだけではなく、大きく分類してweb小説の類(小説家になろうだけではなく、他サイト様での作品含め)、実はそもそもマルチメディア化しやすいのではないか、という私見です。
無論、ボク個人の偏見と思いこみに寄るところが大きすぎるで、異論反論はあり寄りのありです。ただ、かかってこないでくださいませ、僕のメンタルが死にます。
そもそも、小説って独りで書くものでした。
いや、書いてるが?という方はちょっと待たれよ。こんなにも自分が書いた文章が直接的に、かつ不特定多数の読者に届くってなかったんですよ。読んでもらって、せいぜい身近な友人程度。
あぁ、おぢさん、もしかして戦前の話してる?という感覚のあなた。中身オジイチャンのおぢさんの時代、小説を読んでくれる友人が周りに中々いないと、どうなるか。
例:原稿用紙に書くかワープロで打ったデータを印刷(紙代ががが)して、茶封筒(クソ重い)に入れて切手を貼り(割高)、出版社の大賞に送るという行為をして、数ヶ月後の一次通る通らない──今考えれば悪夢みたい──報で自分の力量を推し量り、知る……、今みたいに品評。アドバイス制度なんてなかったので、どこが悪かったか自己分析。で、自己嫌悪。頭の悪かった僕のような10代には、苦行でしかない。
いかん、昔話をしていては、ただ老害になってしまう。
話を戻します。
小説を書くという行為は、構想して物語骨格(流れ。方向性)を決めて、書き始めます。
それって、建築家に似ていて似てません。つまり、大型建築を作り上げるための青写真を頭の中──もしくは幾つかのメモを残しながら──で造るわけです。
小説は個人の中で壮大に伽藍な方法で創造されるわけなのですが、web小説の場合、読者の反応速度が早いせいで、誤字脱字を報告含め感想が作者に刺激を与え続け、その骨格をねじ曲げているのではないかというのが、今回のナニイッテンダオマエの核の話です。
そもそも他者(読者)からの影響を受けやすい状況公開していて、人気が出た小説は、そりゃぁ物語の構造的な強度もあるし、改変(改悪ではない)は想定済み……は言い過ぎですかね。
話飛躍しますが、
バザール(活気ある市場)的な、各読者の得意分野からの意見は取り入れるいれないの判断は最終的に作者にあるので、名称を付けるならバザール式伽藍法になるんでしょうか。
いや、心抉ってくるようなモンはブロックしてもいいでしょうし、悪意あるものには耳を塞ぎましょう、眼をとじましょう。
ある程度の統率がとれていないバザールは、ただの奪い合いになって崩壊しやすいので、致し方なし。
話逸れちゃいました。
核となる小説の執筆の段階で読者の反応が見てとりやすいので、マルチメディア化したとき、他媒体になっても、その反応が目安になりやすい……のではなかろうかと。
証拠も数字もありませんので、QEDとは言えませんが、言いたいことはまぁそんなところです。
喫茶店の呼び鈴は押せましたよ。
There is nothing you should not ask. But there's something I shouldn't say.