第2章 エリシアの巫女(1)前編
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聖歴164年8月下旬
さらさらと水の流れる音が、澄み渡る聖堂の空気の間を流れている。聖堂の奥に祀られているエリシア神像が肩に担いでいる大甕から流れ出し、彼女の胸から腰、太ももの部分を伝って、やがて足元に広がる泉へと流れている水の音である。
少女はこの音が大好きだった。
この音を聞いていると自分の中の不浄が洗い流されていくような感覚をおぼえる。自分の中にある醜い部分が水の流れに洗われて大地へと帰っていくような気がするのだ。
このままただ祈りを続けてられればいいのに。そうすればいつか私の不浄な部分は全て洗い流されて、透き通った曇りのない心になれるかもしれない。
人の世はとても汚れている。そう、少女は感じている。
このエリシア大聖堂は、シルヴェリア王国都市から西へ数十キリ離れた山中にあり、ほとんど下界とのつながりがない。
かつて、エリシア神が栄え、人々に祀られていたころには、大聖堂の南、山のふもとにあるエルリシアの町からこの大聖堂まで多くの人が通っており、大聖堂のエリシア神像に拝謁し、毎年の豊穣や繁盛などを祈願し、また、前年の加護に対して拝礼するというのが目的であった。
エリシア神は大地と空の創生神とされ、すべての生命の源を司るものとして、広く農業、漁業、酪農から鉱業に至るまで、自然とともにあるすべての生業を加護すると信じられていた。
ところが、現国王ガルシア王の御代になってから、シルヴェリア王国都市を中心に工業が発展し出し、隣国との貿易により、人民たちの生業の主要部分が工業と貿易を中心とした商業へと移り変わるにつれて、国力の隆盛と反比例するように、エリシア神に対する信仰心は降下の一途をたどった。
今となっては、年に2回慣習的に行われる、祈年祭ぐらいでしか、エリシア神の御名を聞くこともなくなっている。
地方の、まだまだ農業漁業主体の田舎のほうでは、その御名は知られており、祀られてもいるが、そんな田舎から大聖堂までやってくる者など、もういない。
たしかに、工業(とは言っても窯業や軽金属、繊維工業程度のものだが)が発達することは、王国の人民にとっても便利なことである。例えば、鉄製の車輪や鉄製の農具などは、これまでの木製または石製のものと比べようのないほど、効率と耐久性が増している。
そもそも、製鉄とは、武器や装備に用いられるものが主であり、農具や運搬車両などに使われることはなかった。それが、先の領土確定戦の終結以降、武器防具の需要は急激に落ち込み、鉄の使い道が減ってしまった。鍛冶工は仕事がめっきり減ってしまい、生活に困窮することになる。ガルシア王はこれに対し、これまでの技術を産業の発展のために利用できるよう研究開発を振興し、鍛冶工の新たな道を開いた。
初めて作られた鉄製の道具は鍬であったといわれている。木製のものよりは若干重量が増えるが、そもそも鉄製の武器甲冑をつけて戦場で戦った者たちにしてみればなんということもない。それ以上に、その耐久性と効率の向上は目を見張るものであった。
その後、今では、王国都市の周辺の農場においては、「耕運牛車」というものが発明され、それを使って、田畑の開墾が進んでいる。これまで、人の手で行っていたものを、何本も並べた鍬を牛にひかせて田畑を耕すというのである。
ガルシア王の御代になって、シルヴェリアの産業は飛躍的な進化を遂げ、生産力は隣国の規模をはるかにしのいでいる。そして、それによって得た産物を隣国に輸出し、利益を上げている。国は繁栄の一途をたどっていた。
そうなのだ、現王国の繁栄は、あくまでもガルシア国王の政治手腕によるものであり、エリシア神の加護によるものではなくなってしまったのだ。
そのような経緯によって、エリシア神への信仰は急激に凋落し、今日では、年に2回の祈年祭が行われるだけとなっている。
それが汚れていると、この少女、大聖堂巫女見習統括ケイティス・リファレントは思うのである。
ケイティは、これまでの信仰を簡単に捨ててしまい、現実主義的なものに妄執している人民たちを、「ご都合主義」だと思うのである。
ほんの10数年前までは、「すべてはエリシア神様のご加護によって…」と常に敬っておきながら、生活が便利になってゆくとともに、その心は失われ、何かにつけて、「利益」だ「効率」だというのがどうも軽く思えてならないのである。
そうは言いながらも、大聖堂の生活や、自分を含めた聖堂巫女たちの衣服や食事などの中にも、その「工業」によってもたらされたものが入り込んでいる。
今となってこの大聖堂において、建立の折から変わらぬものと言えば、この「エリシア神像」のみとなってしまった。
そのようなものを「不浄」と思いつつも、それにすがらねば生活もままならない自身を顧みて、それを捨てて、素裸になることができない自分もまた「不浄」に思えてくる。
せめて、この像の前に座して祈りをささげることで、幾ばくかの「清らかさ」を感じていたいのだ。
大聖堂にさわやかな外気が入り込んできた。ここは、山の中腹あたりに位置しているため、夏の終わりともなれば、気温もぐっとさがり、朝夕にはすこし肌寒くも感じる。
もうすぐ夕食の時間だろうから、外はそろそろ日が落ちかかっているころであろう。風が冷ややかに感じるのも無理はない。
しかし、妙だ。扉があいたということは誰かが入ってきたということだ。この時間であれば、聖堂巫女のみんなは夕食の支度にあたっているか、その時を待ちわびて休憩室でおしゃべりしているかである。この時間、大聖堂の大広間に来るのはいつも私一人なのだ。
――だれ? と振り返って入り口のほうを見やると、そこに人影があったがなにやら様子がおかしい。半開きになった扉の片方に寄りかかってうなだれている。
――どうしたのだろう? といぶかしく思った次の瞬間、その人影は前のめりに倒れこんでしまった。
あ――! 思わず口から出た驚嘆の声とともに、反射的に体が動き出す。慌てて駆け寄って声をかける。
「大丈夫ですか――!?」
声をかけながら、うつぶせになっている人物を仰向けに転がす。
「男……のひと?」
少女一人の力でなんとか仰向けにしたとき、その人物の表情が真っ先に目に入る。
なんて美しいのだろう。さらさらと流れる髪は銀色に輝いており、面長ではあるが、顎はつんととがって素晴らしい曲線を描いている。肌は透けるように透明でつるんとしている。
女性と見まがうほどの透明感を持っているが、体型から察するに、やはり男性のようだ。
ただ、明らかに血色がよくない。この透明感はそれもあってのことだろう。
「だれか――! 早く来て! だれか――!」
ケイティは今まで生きてきて初めてというぐらいの大声で叫んだ。
(後編へつづく)