7. とある悪魔の"社会"と"人間"
「くそっ…反応しろお! この! この!」
下腹部の垂れ下がった男は怒っていた。
自分の思い通りにいかないことに対するやり場の無い怒り。
人々が捨てていった辺りの物にぶつけるしかなかった。
1週間前、小暮詩乃からの連絡が突如途絶えてしまった。
今まで男が"命令"を下せば、ものの数分で何らかの返答はあった。
しかし、今となっては何の音沙汰もなくなってしまった。
『彼女は逃げた』そう判断した。
躾が足りなかったのだ。教育をしなければならない。
男はある種の使命感にとらわれていた。
実は、男には今、もう一つの感情があった。
"焦り"。
その根源は、赤黒スーツ。
初めて出会った時から、異様だとわかっていた。
細身の体に隠れる巨大な権力。本能で察知した。
こいつの上には立てない。
なすがまま服従してしまったのだ。
彼が持つ巨大な権力は男にすでに行使されていた。
『君の醜態は記録されました。これから全国に広がります。君の人生は終わりです』
『そ、そんなの――』
『嫌、ですよね?』
『いやだお!!』
『ならば、私が全ての証拠を消します。発信者は少ないでしょう。私のデバイスを使ってしまえば簡単なことなのです』
『!??』
インターネットが普及した社会。そんなことをできるのは巨大な組織の技術しかない。
会話をするたびに異様さを増していった赤黒スーツ。
男は赤黒スーツの本性を何も掴めずにいた。
日に日に不満が溜まっていく。
小暮詩乃がいなくなり、欲を満たす枠が空いてしまった。
男は煌びやかな夜街を放浪する。
自らの性癖に見合った女に声をかける。欲を満たすために。
しかし、誰も応答してくれなかった。
だらしない体、でき物ばかりの汚い顔、劣等感に苛まれていた。
(しのちゃん…! しのちゃん…!)
やはり男には小暮詩乃しか欲を満たしてくれる人はいなかった。
ひたすら会えるよう願った。
理想の"所有物"。
そして、男は見つけた。
「し、しのちゃん!!!」
肩が透けた黒い服、厚手の肌色スパッツ、生物の命綱ともいえる首を締め、命を支配する意を込めてあげたチョーカー。その他、色欲を高ぶらせるアクセサリー。
男が教育した小暮詩乃の姿そのものだった。
「しのちゃん!!」
「ッッ!!?」
男は初めて見つけたときと同じくか細い腕を引っ張っていく。
しかし、連れてきたところは初めて見つけたときとは違っていた。
煌びやかな街とは正反対の、光の届かぬ裏路地だった。
「しのちゃん…! なんで連絡してくれなかったのっ!?」
「はッ…あ…ッ」
男の我慢は限界に来ていた。
股を開かせ、男はズボンを下げた。
「しのちゃん……これは罰だお。それに、僕は確かめなければいけないんだお、しのちゃんの"愛"を!」
「あっ……は……」
様子がいつもと違う。いつものように感謝もしない。
「『ありがとうございます』は!!?」
顔を手で強引に男のほうに向けさせた。
「――っお!!!???」
男は気づいた。異変の正体に。
「だ、誰だお……お前!!?」
その女は、小暮詩乃ではなかった。
姿だけ似た別人だった。
はち切れぬばかりに溜まったその欲望は、顔を判別する余裕すら奪っていた。
一方、女は突然の出来事に恐怖で声を出せずにいた。
しかし、男はすでに自らの欲を抑えられないところまできていた。
顔が異なろうが構わない、今は気持ちよくなればそれで……。
「まあいいお。お前でいいお!」
「あっ……! い……!」
「ほら、感謝しろ――」
下半身の汚物で女に殴りかかろうとしたそのとき――――
『また、強制性交ですか?』
「ヒァ!!?」
――――ニタリと笑う悪魔の声が聞こえた。
赤黒い悪魔は2人の屈強な白スーツを連れていた。
「やれ」
「「はい」」
"赤黒"は"白"に目配りして、男と女の方へ近づく。
「な、何するんだお!?」
「あなたではありません」
「お……?」
男の存在を無視して、"白"2人は女を取り押さえた。
「あっ――」
女が突如脱力する。
"白"に鎮静剤を打たれていた。
「僕の女をどうするつもりだお!?」
「君はすぐ私を笑わせますね、この方はあなたのものではありませんよ?」
「お、お、と、とにかく、どこに連れてくんだお!?」
「私たちの社会、です。」
「ッ!??」
呆気にとられる。
赤黒スーツの言うことはいつも理解できない。
白スーツの2人は女を連れてどこかへ行ってしまった。
「実は君が偶然ここに…えっと君風に言えば、『持ってきた女』ですか?その女も、私は目をつけていたんですよ。
君のおかげで私たちの社会に連れ出す手間が省けましたよ」
赤黒スーツはのびのびと背筋を伸ばして達成感をあらわにした。
「誘拐するのかお……!?」
「まあ……見方によってはそうなりますが。この社会との繋がりも少ない、意志もみられない者ですよ」
男は目の前で起きた現実味のない出来事に動揺する。
「な、なんでそんなひどいことができるんだお!?? お前たちも人間だろ!?」
「『ひどいこと』? 君はいつもどこからそんな面白いジョークが出てくるんですか?」
「お、ぉぉお……!?」
「君は今明らかに強制的にしようとしましたよね?私が止めなきゃ誰も止めなかったではないか」
「それは、この女が何も抵抗しなかったからだおッ! デュヒヒッ……!それに、こういうのは、僕もあの女も気持ちよくなるんだ――」
『黙れ』
「ヒッ!?」
「君は表社会の産物だ。短絡的で自己中心的、まさに表社会の"男"ですよ。
全く、相変わらず表社会の惨状は聞いて呆れる。まるで改善がみられない。皆見て見ぬ振りだ。そんな酷い世の中がありますかね」
顔にかかった髪を華奢な腕でかきあげ、男を軽蔑の意を含んだ細目で見つめる。
「君たち"男"がこの社会の"女"を作り上げたんでしょう?
"男"に服従するのが"女"というものだと。
この社会で"女"の烙印を押されたら自分の意志に関わらず君のような無自覚な"男"についていかなければならないのですよ。君たちは気付いてないかもしれないですがね。
この世の何よりも悲しき生物だ、表社会の"女"というものは」
「そ、そんなわけ無いお! あいつらは望んでそういうことしてるんだお」
「無自覚の証明ですよ、その言葉こそ」
「……?」
何を言われているか男は理解していなかった。
「それに反して私たちの社会は平等なのです。
そこに表社会のような"男女"の差は存在しない。
全て等しく扱われる。
皆が欲を全うし、生を全うするのです」
「えっ?」
突然の抽象的な話題に困惑する。
「社会において必要なのは、流れ、です。川のようなものです。流れを崩すことは混乱に繋がる。突然川をせき止めたりなんかしたら、どうなるかわかりますよね。あなたが持つような短略な頭でも」
赤黒スーツは男の頭をコツコツと指で突きながら、さらに論を進める。
「流れを崩す最大の原因は、"意志"です。
世の流れに不満を持つと反抗しようとする。
"意志"が大勢の人間にあると厄介なのです。この社会のように」
男は小動物のように目を丸くしている。
考えの次元が違う者を前にして思考停止していた。
「私たちの社会に"意志"たるものは存在しない。
皆が"意志"を捨てる、いや、"意志"という存在を忘れるのです。
"意志"を無くすことで、平和はもたらされるのです」
「な、なにをいってるんだお!? 意味がわからないお!!」
「『意味がわからない』か。当たり前ですよ。君は一応表社会に棲み着いているのだから。私たちの教育を受けなければ意味はわかるはずないのです」
さらに赤黒スーツは自分の考えを説明し続ける。
「言葉の定義なぞ個々の社会によって様々です。表社会でいう"人間"の定義は……なんだ」
「……は?」
赤黒スーツは目を細めて困ったような顔をしながら、人差し指で頭を掻いた。
そして言葉を続ける。
「表社会では『健康で文化的な……』というものか。ならば、定義から外れてしまった者はどうする? 意志のない者は? "人間"ではないものがいるのではないか。
私たちはそれらを救済する。ここではない社会で、"人間"としてこの世に存在させる――――」
赤黒スーツの"教育"は気が遠くなるほど続いた。
実際は男の理解が追いつかず5分強話しただけだった。
しかし、ここでない社会についての理解できない話は実時間の何倍もの時間を心の中で作り出す。
そして、ゆっくりと、着実に、心を蝕んでいく。
「さっきの女、それに小暮詩乃は価値がある。少なくとも私たちの社会には。
だが、君は何なんですか。拝見する限り、何の価値もなかった。表社会にも、私たちの社会にも。
私が、価値を与えているのです。仕事という価値を。無価値を価値に変えているのです。
私がいるから、君は"人間"でいられるのです」
「あっあぁ……」
「だから、君は、早く、確かめろ。
小暮詩乃が、"上モノ"であるかどうか」
――"上モノ"。
赤黒スーツの社会での1つの重要項目。
それは、行為によって確かめられる。
"下"を使うこと。
しかし、男は、まだ小暮詩乃の"上の口"しか使っていない。
男が欲するのは高校生。
小暮詩乃は、出会ったときはまだ早かった。
男は小暮詩乃を来たる時まで教育して、食べ時が来たら貪り尽くす、そう画策していた。
そして、食べ頃を確信したそのとき、赤黒スーツが現れ、小暮詩乃からの連絡が途絶えた。
「あんたと会ったときくらいから、全然返信が来なくなったんだお!! 僕はしっかり仕事をしてるんだお!!」
「では、君は、"人間"ではなくなりますね。今は私が守ってあげてるんですよ?色々と。
君は私のこともこの社会のこともなーんにも知らないでしょうけど。私がこの社会からいなくなれば……君は、どうなるでしょうかね」
赤黒スーツは男の耳元に寄った。
「この社会で一生獄中か、私たちの社会で、殺されます………よ?」そう言って赤黒スーツはしたり顔をしながら人差し指で男の頭を突き放した。
男の脳内で初めて出会った日のトラウマと重なった。
男は恐怖で言葉が出なくなった。
本能からか、下半身からまたも何かを出していた。
「ほう、君はまた汚物を私に差し出すのか。面白いジョークだ。
だが君は運がいい。今回は人がいない。君の醜態を記録する者はいない。私の手間も省ける。
さあ、思う存分さらけ出したまえ、"人間"もどきのブタ男くんよ」
赤黒スーツはまたニタリと笑い、明かりの絶えない街に消えていった。
「ヒ……ヒィ! ヒイィ!! ヒァァァ!!」
脅威が去った後、持っていた全ての感情が漏れ出した。
情けない声が人気のない裏路地に響き渡る。
(ここじゃない社会ってなんだお……!?
僕がここじゃ生きられないってなんだお!
なんだお! そんな恐ろしい社会あってたまるかお!
わからない! でも、怖い! 僕は……怖い!!
何もわからない……でも、おぞましいに違いないお……! わかる……わかるんだお! 怖いお! 全てが恐ろしいお!!)
男は携帯を慌てて取り出した。
《しのちゃん!! はやくこい!!!!》
《しの!!! はやくこないと殺す!! 殺しにいくぞー!!!!》
怒りを若干15歳の少女にぶつけた。
何度も、何度も。
赤黒スーツを前に、ブタ男の力、プライド、存在証明、全てが崩壊していた。
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(うるさいなぁ)
「さっきからずっとバイブ鳴ってますね、有森さんの携帯」
「ほんとだよ……気持ち悪いなぁ」
「有森さんも大変ですね」
「うん……」
「じゃあこの辺で、さようなら」
「おつかれさま」
恒例の金曜飲み会からの帰り道、水野と別れる。
詩乃が良くない社会と繋がってしまう原因となるガラケーは私が一応取り上げておいた。
そのガラケーから、今日は何回も通知のバイブが鳴っていた。
全く気持ち悪い野郎だ。
「夏菜おねえちゃん、おかえり」
「ただいま詩乃、ごめん結構遅くなった」
「だいじょうぶ~ちょっとねむいけど……」
詩乃は、元気だ。
よかった。
とにかく、私がこのガラケーを持っている限り男野郎のもとには誰もこないのだ。
こんなしつこいのも今だけだろう。
しばらくしたら観念してくれるはずだ。
そうであってくれ。