2. 春を売る女
「あ~やっと終わっだぁ~」
「そんなみっともない声出しちゃダメだよ~? 女性なんだし」
「……はい」
ストレスキャパの限界まであと少しだった。
この中年太りのクソ部長はオフィスにいる女全員に目をつけて自分の女性像を唱えてやがるのだ。今日はデスクワ―クだけでそんな嫌な思いしてないから許してやった。もし今日営業でイライラした後にあんなこと言われてたら股間ぶん殴ってるところだった。
「お疲れさまです」
「うん……おつかれ~」
水野 楓。こいつもよくわからない。無造作に乱れた短髪にやや鋭い目つきの顔をした大人しめな男。というか、そんなにまだ喋ったことがない。同期で同い年のはずなのに。そして未だ敬語。堅苦しい。男は変なやつしかいないのか、ほんとに。
無事今日も定時17時で会社から脱出できた。
ここの冬は17時ごろになるとすでに辺りは暗くなり始める。この事実に私は落ち込む。別に冬が嫌いなわけではない。ただ、春は毎年どこか孤独を感じるのであまり好きではない。私にとって冬は何となく嫌なことが近づいているという象徴でもあった。
帰路に就こうとしたとき、ふと昨日のあの光景が頭の中をよぎった。
顔が幼い女。
彼女を見てからずっと何か引っかかっている。覇気がなく、あそこまで異様な空気を纏った女は初めて見た。彼女のことが気になる。よし、今日も遠回りしよう、あのベンチが並ぶ歩道へ。
昨日よりは明るかったのでベンチの並ぶ歩道の風景がよく見えた。とても自然が溢れた場所である。ベンチの上には後ろに生えた木々の枝が顔を出し、都会特有の鋭く冷たい風がそれらを踊らせていた。
その歩道を5分ほど歩くと、そこに彼女はいた。前のような露出多めの服を装い、ベンチに座って俯いていた。
(想像以上に気味が悪いな……)
私は苦手な空気に耐えかねて、やっぱりその場を後にしようと思った。
だが私の足は止まった。
やはりどうしても引っかかる。それに、あの異様な空気は、私には何か助けを必要としている空気にも少し思えた。
私は、思い切って行動した。
彼女は私が隣に座ると、一瞬驚いたようなそぶりを見せたが、また俯いてしまった。こうなったら私から話しかけるしかない。
「……大丈夫……ですか?」
「……」
「あの、前も見かけて気になってしまったので……」
「……」
「寒く……ないですか?」
「……」
話しかけても異様な空気は変わらなかった。私はこの空気に今潰されそうだ。
「だ、大丈夫そうなら余計なお世話でしたね! 失礼しましたっ!」
恥ずかしくなってきたのでさっさと逃げようと思ったそのとき、
「ありがとう……ございます……」
彼女が初めて声を発した。声も幼い。ギリギリ成人してるレベルの声だと思う。
なぜ感謝したのかよくわからないけど、とりあえず彼女の話を再び聞くことにした。私はまた座って気を取り直す。
「(まずは自己紹介かな……?)私は有森夏菜っていいます。すぐ近くでお仕事してます。あなたの名前は?」
質問したら彼女はなぜかまた驚いたそぶりをみせた。そしてなぜか声を震わせながら答えた。
「……小暮詩乃……です」
「詩乃ちゃ……さん! いい名前ですね」
「……」
また黙り込んでしまった。というか今、年下って決めつけてたからちゃん付けしそうになった。危ない。まずは年を確認しなくては。
「詩乃さんは、何歳なんですか?」
「……」
「わ、私は、26歳です。若く見えます~? なんつって」
「……」
何言ってるんだ私ッ! 全然ウケないじゃん! 私なごませるセンスな――
「15さい……です」
――い??
15さい????
まてまてまて。私は今遠目で私と同世代くらいで、近くで見て若いけど最低18くらいはいってると見込んでたんだけど……15……?
予想外だった。バリバリの未成年である。
それでそんな露出の多い格好……まさか――
私が動揺していると、詩乃の小さくて所々傷ついたバッグから軽快な音が鳴った。詩乃はそこから古びたガラケーを取り出してメールを確認していた。恐る恐るそのメールをこっそり覗いてみる。
〈しのちゃん!今からできるよ!今日もおねがい!5万円あげちゃうよ!〉
「なっ……!!」
「あたしもういかなきゃなので……!!」
「待って……!」
詩乃は私の静止を振り切り、煌びやかになりつつある夜の街に消えていった。
私は呆然としていた。衝撃的なことが連続で起こりすぎて頭がついていけなかった。
詩乃は終始何かに怯えていたようだった。
私のせいだろうか。
いや、絶対違う。メ―ルを見て確信した。
小暮詩乃は、売春している。しかも15歳で。
私にとって高校生以下はもはや全員子供である。そんな子供がすすんで売春をしている…?
違う。そこには必ず男が介入している。
強いられてるに違いない。怯えていたのは男のせいだ。まるで誰かの操り人形のように自分の意志を感じさせなかった彼女。彼女という人間をモノとして扱ってしまう男がいるという現実。やはり男はクズなのだ。
男野郎のクズ度合いと冷たい風が相まって寒気がした。何か手助けにはならないかと躍起になったものの、逃げてしまってはどうしようも無いし、悪寒で風邪を引きそうなので今日は帰ることにしよう。それにしても15歳の子が……。
私はどこか他人事ながらも、私たちの社会とは違う社会に住む小暮詩乃に圧倒されてしまった。
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「今日もよろしくね! しのちゃん!」
「……はい」
小暮詩乃はメールで呼び出され、下腹部がだらしなく垂れ下がった男と薄暗い部屋に入った。
仕事中、いつも自分ではあまり理解できない感情に見舞われる。
繰り返される仕事の日々、必ず出てくる感情。
それを人に教えることができない。
教養がなく、うまく言語化することができないのだ。
ただはっきりと言えるのは、それが"負の感情"ということである。
自分の意志に関わらず行為を迫られる。
ここにいることは望んでいない。
逃げたい。
しかし逃げようとするとさらに痛いことをされるかもしれない。
下手には逃げられなかった。
呼び出されたら、向かうしかなかった。
目の前の太った男がズボンを下げる。
"負の感情"が増幅する。
「『今日も舐めさせてくれてありがとうございます』は?」
「ありがとう……ございます……」
「いいねぇしのちゃん……! デュヒヒ!」
太った男は薄汚い笑いをし、下の物を差し出した。
"負の感情"が増幅する。
彼女は何をされているかよく理解していなかった。
この行為は何のためにしているのか。目の前にいる男はこんなことをされて嬉しいのか。
何も、理解できない。
自分の望まないことはしたくない。
でもどうすればやめてくれるのかを彼女は知らなかった。
彼女は拒否する術を知らなかった。
拒否の意味さえ知らなかった。
彼女は"負の感情"を必死に押し殺した。
そして、やむなく男に従った。
小暮詩乃は、今日も夜街で春を売る。