13. "大人"
"さんぽさんぽさんぽさんぽさんぽさんぽさんぽさんぽさんぽさんぽさんぽさんぽ――"
お絵かき用の無地のノートに呪文を唱えるがごとく書き連ねていく。
無邪気に、その言葉の"正体"を深く知ることなく。
ただ、面白くて。
裏返して見ただけで全く別の言葉になるのが純粋に面白くてやっていた。
「んふっ…ふふふ…!」
自分の部屋の床に寝そべって、手持ちのライトに透かして見た無数の裏側の"ちんぽ"たち。
不思議な文字に足をばたつかせて喜んでいた。
この先待つ悪夢を何も知らぬ無垢な少女だった私、小学5年生の頃。
――ママ~。お腹すいた~。
食欲をすぐに満たそうと寝る前にもかかわらず部屋のドアをあけて吐露した、あの夜。
――……ママ?
忘れかけていたあの夜。
下で待っている光景を知らず、親を頼りに階段を降りていたあの夜。
――どうしたの?
忘れようとした、あの夜だった。
『この……使えねえ女が!!』
拳を振りかぶる父を止める方法はなかった。
私が階段を降りて見た時、すでに父の"凶器"は初速を有して、母にぶつかろうとしていたからだ。
「ウッ!!」
聞いたことのない、肉と骨が当たる鈍くて不快な音が耳に入ってきた。
母が殴られて膝をついて倒れた。涙目になりながら左手で頬を押さえていた。
暴力を、目撃した。
生まれて初めて見た残酷な風景に、私は衝撃で血の気が引き、どす黒い何かが視界にフィルターをかけたように、目の前の情報が頭に入っていかなかった。
ましてや、不仲だとは一切思わせなかった両親だったのだから。
「夏菜……いたのか……」
私を見て父は我に返ったのか、いつもの温厚さを漂わせた父に戻ろうとしていた。
「ど、どうしたの? 夏菜」
母もつい十数秒前に殴られていたにもかかわらず、いつもの優しさを漂わせようとしていた。
"大人は、隠すのが上手い。"
そんなこと、今まで平和に暮らしてきた小5の私にはわかるはずもなかった。
だけど、実感はなくとも、このとき私の中で構築されていた嘘偽りのない"理想"に亀裂が入ったのは確かだった。
以来、夜に一階へ降りるのが怖くなってしまった。
あの光景は、二度と見たくないと。
夜の静寂な私の部屋に侵入する一階からの音に耳が吸い込まれそうになることもあった。
何の音かはわからない。
また、暴力音かもしれない。
私はひたすら我慢した。
そして願った。
(これが夢なら早く覚めて……!)
(おとうさんとおかあさんは仲良し、おとうさんとおかあさんは仲良し)
(あの光景は嘘……!)
誰にも、自分でさえも見つけられない、心の限りなく深い奥にあの光景を閉じ込めようと努力した。
************
在りし日の下の階の光景に目を背け続けて私は中学校へ進学した。
中学1年生のクラスメイトたちは思春期真っ盛りで、慎むべき単語を半ば小馬鹿にして、大声で言い合った。
「セックス!!」
「あーヤりてぇ~」
黒板に単語をデカデカと書いて私たちに見せてくることもあった。
「やめてよ~」「ワハハァァ!!」反応するのは一部の男好きの女子だけ。
他はドン引くか、見下すだけだった。
こんなことをする男どもは見下されてるのに気付くほどの知性を持ち合わせていなかったようだ。
たまたま隣にいた友達が騒ぐクラスメイトに怪訝な顔を見せながら私に話しかけてきた。
「何がしたいんだろうねあの猿みたいなやつら」
その友達は夏美だった。私の名前にも夏が入っていてすぐに仲良くなった。
「うん……何が楽しいのかな」
私は、正直怖かった。
その言葉は何を意味するのかを理解していたし、そんなことをあんなに騒ぐクラスメイトにさせられたらと思うと身震いした。
私の不安を夏美が察したのか、妙な罵倒をしながら励ましてくれた。
「無視しときゃいいよ。あんなクズ男野郎どもは」
「う、うん」
なんだか面白かった。
ホッとした。
夏美と話していると少しずつ不安が消えていく気がした。
中学校へ入った後、家庭事情も悪い方向へと変わっているような気がした。
夜、物音の量が多くなっていった。
明らかに両親の声も聞こえてくるようになった。
それも、気持ちの良い言葉には聞こえなかった。
ある日、体調不良を訴えにどうしようもなく階段を降りていった。
トラウマのせいか、わざと、音が聞こえるように降りていった。
すると、一階の音はすぐさま止んだ。
「夏菜、どうしたの?」
「お腹痛い……」
私が降りることが分かれば音を消す。
いつもの顔を向けて心配してくれる。
奇妙な合図のようなものが家の中で形成されていた。
両親は私が暴力を目撃したことに気付いていなかったらしい。
私も、無意識に、気づかせないようにしていたらしい。
お互いに平静を保とうとしていた。
私も、一歩ずつ、着実に"大人"に近づいていたのだった。
家で渦巻く誰にも言えない鬱憤を抱えながら学校へ向かう日々。
私は中学校を自分のモヤモヤのはけ口にしていた。
「どうすれば……」「うちもあったな~そんなこと」
夏美とは何でも話せるようになっていた。別に話したところで何か解決できるわけではないのはわかっていた。でも、心が休まるから。貴重な一時の安らぎだった。
「"気づいてる"ということを、正直に話してみるといい」
担任にも相談した。森崎先生だ。
「こちらからも電話して言ってみよう」とも言ってくれた。先生は頼りになると思って思い切って言った。
"大人"は完璧なんだ。
そう信じてやまなかった。
私にはできないことを何でもやってくれるのだと。
私の陰鬱な家族関係も、解消してくれるんだと。
それは叶わなかった。




