1. 26歳の冬、私はすれ違う。
小さい頃は我ながら頭のおかしな遊びをしてたと思う。女子が口に出すにはあまりにも下品だから、心の中に今でもしまっている……つもりだ。
私は小学生の時、"おもちゃ"と書かれた旗を構えたおもちゃ屋さんによく連れてってもらったものだ。母との数少ない思い出だった。
その時に発見した。
――おもちゃの「ち」が裏返って、「さ」に見えたのだ。
裏返しにして読むとどうしても "さ" を、"ち" と読んでしまうということを、その時知った。
私には衝撃的だった。
それに興奮した私は、"さんぽ"を紙いっぱいに書いてニヤニヤしていた。暇すぎて紙に字を書いては裏返しにして読んで遊んでいた。
さんぽの裏にちんぽあり。
頭のおかしな話だ。
――と、思っていたんだけど……
私、有森 夏菜の27歳の誕生日を迎える春が訪れるまでに、現実でそんな"頭のおかしな話"が起きていた。
"表があれば、必ず裏がある"と。
社会の日常に染まりきっていた私が、そんな"頭のおかしな話"に気づくには、まだ少し時間がかかる――。
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~夏菜、26歳の冬~
「有森先輩はぁ、男性を嫌いすぎなんじゃないですかぁ?」
「だって嫌だもん、あんな頭もちんぽに侵されてる奴ら」
「いやいや、考え偏りすぎですよ~いい人もいますって」
「莉里こそ大丈夫なの? ずっと男とつるんでるみたいだし……その……暴力とか?」
「それがですねぇ、何もないのです! 私運がいいのかな! やさしくてぇ、イケメンでぇ、しっかりしててぇ……」
「お金持ち、でしょ?」
「うちのことわかってますねぇ~」
「まったく……莉里って単純だね……」
「それが生きる術なのです! エヘヘ」
高校の頃の2年後輩の莉里が私の職場の近くにきているというので、2人で食事をしようということになった。久々に会ったのだけど、莉里は相変わらず容姿が派手だ。といっても、肌の露出という意味での派手ではなく、明るめな緑色のワンピースを白い服に合わせた、莉里が可愛いからこそのおしゃれな着こなしだった。そして、目は元気いっぱいに大きく開いて常に溌剌な心を保っていそうだ。細部に見える化粧技には、思わず感心して褒めてしまったくらいだ。また、カールの巻きが毛先にまで行き渡っているところもさすがとしか言いようがない。私は正直、寝癖を直して……最悪それだけでも出かけられるくらいには髪は短い。首に毛先が少しかかるくらい。というか、私はロングよりショートの方が似合ってると自負してるせいでもあるけど。とにかく、社会人になった今も莉里のおしゃれは変わらず健在だ。莉里のこういうところは本当に尊敬する。
ところで、今食事してる場所なんだけど、莉里が私の到底手に届かない値段の場所を提案してきたから、私が「高いからテキトーにファミレスでよくない?」と言ったのだが……
『じゃあうちが今日全部おごりますよ!』
そう言われたらしょうがない。後輩におごられるなんて前代未聞だ。そして遠慮せず2時間も飲み食べしてる私。いい加減にしろ。
「あ、電話きた。ちょっと失礼しますね」
「うん。」
また男とでも話すのだろう。
莉里は席を立つと、店内のガラス張りの電話専用ルームに入っていった。そしてスマートフォンを耳に寄せて電話を開始したようだ。彼女のスマホには高校の時から貼られていたポップなシールに加え、ネットの一部で流行っているとみられるキャラのキーホルダーも添えられていた。重そう。
(「久しぶり~! どうしたの?」)
見て分かる。おそらくこう言っている。喋った時に目が見開いたからどうせ今回も男だろう。あれは莉里が男に媚びようとするときにとる仕草だ。"男に媚びる"という行動は私には到底理解できないものだった。
私は正直に言うと、男が嫌いだ。軽蔑している。
最近の事件だって、犯人は男ばかり。
強姦なんて最低だ。私たち女がモノとして扱われる。男どもは女を同じ人間と分かっていない。もしかしたらそう理解する知能すらないのではないかと疑いたくなる。
そしてそんな男に従う女も正直嫌い。莉里もその一員になってる。可愛い後輩だし、何とか事件に巻き込まれる前に救ってやりたいんだけど……。
「ごめんなさい~ちょっと急用ができちゃって~もう行かなきゃみたいです~」
「男に会うんでしょ?知ってる」
「え!?えぇへへ…バレてましたか…」
「本当に気をつけなよ? 誰がいつ最低なことしてくるかわかんないから……あの猿どもは……」
「今回は本当に安心ですよ!? なんていったって幼稚園小中同じだった幼なじみですから~イケメンですよ~勉強もできてぇ……」
「もう…」
莉里は目を光らせてる。もう私には止められない。
「気をつけてね、ほんとに」
「は~い!」
こう、警告するだけになってしまう。
いつも不甲斐ない思いをするのだ。
私にも止める力がもっとあれば、といつも思う。
でも、莉里はなんだかんだでいっつも幸せそうだからいいのかなって内心思ったりもしてる。
莉里と別れ、ほのかな酔いと共に夜の都会をぶらぶらと散歩する。
私の住む日織区は職場から歩いて3~40分で着く。電車とかバスを使えば着くの早いんだけど、歩けば節約できるし……と貧乏気質を発揮してる。
今日は莉里と食事したからちょっと遠い。1時間くらいかかるかな。20分歩けばすぐ知ってる場所だからそんなに変わんないか。
(今日はあんま使わない道でも通ってみるか…)
気分に任せて私はいつもの通りをやめて、ベンチが並ぶちょっと大きい歩道に出た。
1人で歩いていると、自然と人間観察をしてしまう体になっていた。いつからこの癖がついたのか覚えてないけど、気を抜くといつもやってしまっている。通りすがった人たちについて空想する。とはいっても、だいたいその人たちを蔑んでいる。外には決して出しちゃいけない嗜みだ。
(このス―ツの男は絶対ちんぽ咥えさせようとするクズだ。いつもそのことしか考えてないんだろ)
(あのランニングしてる女はクズ男にチヤホヤされようとして始めたんだろ、あんなのにチヤホヤされてどうするんだよ…)
といった具合に。日々のストレスのせいかひどい軽蔑しか出てこない。
私も自分のこと最低な女だなぁとは薄々思ってる。でも心の中で言ってるから許してほしい。
少し歩いてると、今度は冬の割にかなり露出した服を着た女が歩いてきた。
典型的な服従女……
といつもの軽蔑を心の中で口にしようとしたのだが、その女からは普段の人々とは違う異様な雰囲気を察した。
(幼い……?)
色の濃い化粧をしていて遠目では気づかなかったが、近づくにつれて私と同じくらい身長ながらもとても大人とは思えない顔つきをしているように見えた。私は釘付けになった。しかしその女は私を気にすることなく私を通り過ぎて夜の都会へ消えた。
何だか、とても元気がないように思えた。莉里とは正反対の雰囲気だ。なぜかあの女が脳裏に焼きついて離れそうになかった。姿は印象的ではあった。だけどそれだけじゃない。もっと違う何かを感じとったような……。
いつのまにか日織区の私の家についていた。こんなに考えたのは久々だった。
私は早く忘れるよう、違うことをして気にしないようにした。邪念は明日の仕事に影響が出る。仕事はストレスが溜まるので心がクリーンな状態で向かいたいのだ。ストレスキャパを空けておかないとやってられない。
シャワーを浴びる。依然あの女は消えない。
軽くおつまみを食べてみる。効果なし。
目を閉じて寝に入る。考えることがあの女のことしかない。
……ダメだった。何をしても邪念は完全には頭から離れなかった。無気力に大通りを歩く彼女の姿が頭の中をぐるぐる回り続けていた。なぜこんな気になるのか、理由は結局わからなかった。
だけど、どこか私は予感していた。
必ずまた会う、と。
そしてそれは現実となる。
似ても似つかない2人の女、のはずだった。
表と裏。決して交わらない2人。そう思い込んでいた。
しかし、表と裏、それは実に紙一枚の差しかないのだ。いずれそう気づくことになる。
あの時、私は裏にすれ違っていた。
私は、彼女と交わり始める。
そして、私の社会は、彼女の社会と混ざり合っていくことになる。
だが、私がそれに気づくのは、まだ先のことだ――。