八章
妻の美里は本当は僕なんかと結婚せずに、できのいい従兄弟やはたまた父親の知人達の子息である財閥の坊ちゃんやエリート公務員と結婚すればよかったのに、何を間違ったのか、僕みたいな変わり者の貧乏人と結婚してしまった。彼女には弟がいて、彼もやっぱりエリートで美里の父親と同じく財務省に入省して働いている。美里は生前よく僕にこう言ったものだった、「なにが面白くて公務員なんかになるのかしら? 全然夢がないと思わない?」と。僕は国家公務員なんて誰でもなれるものじゃないし、それはそれですごいと思っていたので、返事は「う、うん」といつもどもった。なんでも美里の家は旧華族の家系らしい。曾祖父は大蔵大臣だったのだとか……。僕はそんなこととは露知らず、知り合ったばかりの頃、美里はごく普通の家の子かと思っていた。だって彼女ときたら、大学時代、いつも破れかぶれのジーンズを履いていたのだから。おまけに、ボロボロのアパートに住んで、年がら年中アルバイトをしていた。よくよくきけば、せっかく受かった国立大政経学部を蹴って、親に内緒で受けて受かった私立大文学部演劇科に通うと言ったら親に猛反対されて、だから家出して学費も生活費も全部自分でまかなっていたらしい。僕ときたら暢気なもので、親に学費も払ってもらっていたし、仕送りもしてもらっていた。僕も一応バイトはしていたので、バイト代が入ると、美里を誘ってイタ飯なんかをご馳走し、それで得意気になっていたりした。彼女はお嬢様だから、フランス料理のフルコースなんて当たり前の日常茶飯事だったに違いないだろうから、まったくもって僕は恥ずかしい奴だった。だけど、美里はそんなことを全然気にしないというか感じさせない子だった。彼女が言うには「『この店のワインはこれがいいんだよ』とかシッタカして言う人がいるでしょ? 反吐が出るわ」だった。ほんとに彼女にはいつもびっくりさせられた。だから逆に、僕みたいな素朴な何の取り柄もない人間に興味がわいたんだろうか?
とにかく、美里の実家は旧華族というだけあって大変な豪邸で、僕は彼女の父親と弟には敬遠されていたが、なぜだか彼女の母親には気に入られていた。彩夏は僕とは違って、祖父母叔父、全員に気に入られていた。血が繋がっているんだから、当たり前と言えば当たり前の話ではある。だから、一週間に一度、金曜日の夜、美里の母親から「明日、彩夏を遊びに来させてくれるかしら?」と電話が掛かってくる度、土曜日の朝、僕はいつも彩夏を連れて、美里の実家を訪れた。彩夏を連れて行くと、お義母さんはいつも大喜びしてくれた。後で知ったのだが、お義母さんは孫の顔が見たいのもあるが、男がたった一人で育児をしているのを気に掛けてくれていたらしく、一週間に一日だけでもいいから、僕を休ませてやりたいとの配慮でしていたことだったらしい。そのことをお手伝いさんからこっそり聞かされたときは、ありがたくて本当に泣けた。きっと美里はお義母さんに似たんだろうな。二人とも肩書きやら世間体やら、そんなことを全然気にしない優しい人たちだった。
今週もいつものようにお義母さんから電話があったので、彼女の好きな栗入り羊羹を買って、美里の実家を訪れた。お義母さんは喜んでくれたが、相変わらずお義父さんと義弟は、僕の顔を見ると無視した。まぁ、しようがない。だって僕は全然売れてないミステリー作家だもの。これが売れてたらちょっとは違うんだろうなとは思うのだが……。彩夏はお祖母ちゃんちの玄関をくぐるやいなや、図書室へとんでいった。広すぎる美里の実家には、図書室なるものが存在していた。その様子を見て目を丸くしていると、お義母さんは「最近ね、図書室で何か面白いものでも見つけたのか、ずっと篭もってるの。美里が小さい頃、読んでいた絵本か児童書を見つけたのかもしれないわ」と言った。僕は紅茶とお義母さんが焼いてくれたクッキーを二つだけ頂くと、「では、ご迷惑だとは思いますが、彩夏をよろしくお願いします」と言って帰ろうとした。するとお義母さんは毎度お決まりのように「あら、浩紀さんも泊まっていけばいいのに……」と言ってくれたが、僕は「いや、急ぎの仕事がありますので……」と、さも何件も連載の仕事を抱えて忙しいようなふりをして、そそくさと帰路に着くのだった。
とにかく、今週も彩夏を預ってもらえたことだし、一人の時間を利用して、亜由美という女性のことを調べてみようと思っていた。