七章
私の夢はプロのカメラマンになることで、それも戦場のカメラマン。「女性なのになぜ?」とよく人に訊かれるのだけれど、幼い頃、沢口恭二という戦場カメラマンの写真展を父と見に行って、衝撃を受けたからだと思う。沢口氏は、主にルワンダ内戦などのアフリカ紛争地域の写真を撮っていた。一番感銘を受けたのは、やはりピューリッツア賞を受賞した「逃避」と題された写真だった。逃げ惑う少女の写真だった。他にも少年兵が銃を村人に向けているもの、母が子供を庇うようにして亡くなっているもの、どれもが衝撃的だった。幼かった私は父に訊いた、「この写真はどうやって撮ったの?」と。すると、父はこともなげに「戦場へ行って撮ったんだよ」と言った。
「危ないのにどうして戦場になんか行くの?」
「戦場に行かないと写真が撮れないだろう?」
「それはそうだけど……」
「戦場の写真が彼は撮りたかったんだよ」
「なんで戦争の写真なんか撮るの?」
「それは亜由美やお父さんみたいに、戦争のことを知らない人に見てもらうためだよ。戦争の話を聞くことも大切だけど、こんな風に写真だったら、戦争の恐さが直に伝わってくるだろう?」
「うん……」
「だから撮るんだよ」
「……そう」
「じゃあ、この沢口という人は、きっといい人なんだね」
「そうだろうね」
「戦場は恐くないの?」
「そりゃあ恐いさ。だけど恐くても戦場に行かなければ、こういう写真は撮れないよ。だから恐くても戦場に行くんだよ」
「ふーん」
「流れ弾に当たって亡くなった人もいるんだよ」
「ほんとに!?」
「うん。だからやっぱり、こういう写真はすごく貴重なものなんだよ」
「そうだね……」
そんな会話を小学三年生のときに父と交わした。
その後、沢口恭二という人は、チェチェン紛争を取材中に凶弾に倒れ、三十四歳という若さで亡くなってしまった。その時の衝撃は、今でも忘れられない。大好きだったおばあちゃんが亡くなったときと同じくらいの精神的ダメージがあった。国営テレビでは彼の追悼番組を放送していて、彼の写真とともに英国の国民的人気を誇るロックバンドの「天国への階段」という曲がエンディングで流れていた。その曲は、沢口氏の成人してからの生涯のほとんどを戦場で過ごしていたという刹那的でもあり情熱的でもあった生き方と彼の撮った写真とにあまりにもマッチしていて、その映像は多感な十七歳だった私の胸の奥深くに刻まれた。その追悼番組を見たとき、私ははっきりと自分の生きる道を決めたのだと思う。
「カメラマンになりたい」と言ったとき、両親は驚いて反対した。無理もない。私に兄弟はなく、両親が年老いてから、やっと授かった一人娘だったのだから。ことに母は、私の決断を嘆き悲しんだ。けれども、結局父は私の夢を尊重してくれ、反対を唱え続ける母を説得してくれた。
私は高校を卒業すると同時に上京した。カメラマンになるための学校に通い、技術を習得するつもりだった。