四十三章
宮原悟という男性は、僕が思っていた通りの素朴で実直な人物だった。彼に手紙を渡すことができて、本当に良かったと思う。早朝、自宅を出て京都へ宮原悟を訪ねに行ったが、夕方にはもう東京へ戻って来ていた。「病院へ行くのは明日にしますか?」と僕が言ったら、彼は「すみません、ご迷惑でなかったら、このまま病院へ行きたいんです。ホテルに泊まったとしても、多分、一睡もできないだろうし……」と言った。僕も彼だったら同じことを思ったに違いない。僕は彼に対して「そうですね。わかりました。病院へ行きましょう」と返事をした。
羽田から豊島区の病院へは一時間ほどで着いた。もう夕方なので、面会時間の残りはあと一時間くらいしか残っていないようだった。僕たちは、病院の玄関をくぐると、亜由美の病室へ急いだ。宮原悟は亜由美の病室へ着くと、躊躇なく病室のドアをノックして入っていった。
「亜由美……」
窓の外をぼんやり眺めていた清水亜由美は、そう声を掛けられてびっくりしてこちらを振り返った。そして、その声の主が宮原悟と知って、声も出ない状態になった。僕が彼女の病院を訪れたのは昨日だったから、まさかこんなに早く宮原悟が、自分に会いに来るなどと予想していなかったに違いない。
宮原悟は病室に入るなり、清水亜由美に質問を浴びせた。
「どうして……どうして自殺なんかしようとしたんだ! ベルファストでプロポーズしたとき、君は僕のプロポーズを受けてくれたじゃないか!」
「……」
「あのときの君は嘘をついていたのか?」
亜由美は首を横に振った。けれども、「私はあなたのことを愛してはいけないの」と言った。
「どうして?」
「……」
「どうしてなんだ?」
「私、HIVに感染してる……」
「……」
「子供も産めないかもしれないわ。命だって長くは持たないかもしれない。だから結婚してはいけないの」
「村上修司氏もエイズを発症して亡くなったと言っていたね。君は彼を愛したことを後悔しているのか?」
「……」
「違うだろう? 彼が生きていた頃、彼は君のすべてだっただろう? 僕だって同じだ。君がエイズだろうと僕は君を愛したことを後悔なんてしていない! 君はもしかしたら普通の人より長く生きられないかもしれない。だけど、誰だって先の命なんて保証されてなんかないんだ!」
亜由美は宮原悟の顔をじっと見つめると、ただ、黙って涙を流した。
僕は、病室を一人出た。病室を出て、玄関ロビーまで行き、ベンチに座った。そこで宮原悟を待とうと思っていた。僕のしたことは、正解だったんだろうか? 多分、正解だったんだろう。
人を愛することって一体どういうことなんだろう? 清水亜由美は村上修司を愛し、宮原悟は清水亜由美を愛した。村上修司は亡くなり、清水亜由美は取り残された。人を深く愛した事実は確かに存在するのに、後数十年もすれば、清水亜由美も宮原悟も僕自身も消えてなくなる。あれだけ人を激しく愛した想いは、一体どこへ行くのだろう? その想いも肉体が滅びると同時に消えてしまうのだろうか?
人は何のために人を愛するのか? 人を愛したところで死が訪れたなら、残されたものには辛く悲しい末路があるだけである。失う愛も報われない愛もある。けれども、苦しむと分かっていても、それでも人は人を愛さずにはいられないのだ。
宮原悟は、一時間ほどして姿を現した。彼は「本当にありがとうございました」と言って、僕に深々と頭を下げた。
宮原悟と僕は病院を出て、JRの駅までの道のりを二人でぶらぶらと歩いた。
「片桐さんは僕の恩人です……」
唐突に宮原悟が言った。
「え?」
「片桐さんがもし僕を訪ねてくれなかったとしたら、と思うとぞっとします。多分、僕はあのまま亜由美に一生会うこともなく、一人、真っ暗な人生を送ることになったんじゃないかな。だから、あなたは僕の恩人なんです」
僕は宮原悟の顔を見て、ただ静かに笑っていた。
駅の前で彼と別れた。彼は、近くにホテルをとって、また明日、亜由美に会いに行くと言う。僕もそのほうがいいと言った。別れ際、彼は、亜由美から預ったと言って、USBメモリを渡してくれた。亡くなった美里さんから、片桐さんに渡して欲しいと頼まれていたもので、渡すのがずいぶん遅くなって申し訳ない、と亜由美が謝っていたと宮原悟は言った。
僕はUSBメモリを眺めながら、「なんなのだろう?」と不可思議に思いながら、電車に乗って帰路についた。