表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
長い長い夢の中で  作者: 早瀬 薫
36/44

四十章

 彩夏がなぜ美里が亡くなったのか、本当のことを知ったらしい。お義母さんからの電話で知った。美里の実家に彩夏を迎えに行ったら、彩夏はいつになく甘えん坊になっていて、僕の顔を玄関に見つけると、跳び付いてきた。僕は彩夏をおんぶしたまま電車に乗って、家に帰った。周囲の人たちは、大きすぎる子供をおんぶしている僕をジロジロ見たけど、僕はそんなことは気にもならなかった。とにかく彩夏のことが心配だった。家に帰ってからの彩夏は、自分の部屋に篭もりっきりで、全然出てこなくなった。部屋から出てきたくなったら出てくればいいと思って、彩夏のことをしばらくそっとしておいてあげようと思った。

 妊娠中の美里は、悪阻も軽かったし、妊娠中によくありがちな妊娠中毒症にもならず、いたって健康そのものに見えた。けれども、胎盤が子宮口に張り付くという前置胎盤、すなわち異常妊娠をしていた。もし前置胎盤だと分かっていて、四十週まで放置して自然分娩したとすれば、子供を出産する前に、子宮が収縮して子宮口が開いたと同時に胎盤が剥がれ落ちて大出血し、お腹の中の子供も母親の命も危険に陥ることになる。しかし、ちゃんと経過観察をし、妊娠三十週になった頃入院して、早産を防ぐために必要ならば子宮収縮抑制剤を投与し、胎児が成熟した頃に帝王切開で出産をすれば、ほとんど危険性がないはずだった。それなのに、美里は妊娠二十九週で大出血をしてしまった。二日後に入院する予定だったのに……。


 あの日、朝起きると、美里はすでに起きていて、朝食を作ってくれていた。ワカメと豆腐と玉ねぎとジャガイモの入った味噌汁。刻んだ葱がたくさん入った玉子焼き。それと焼いた鮭。僕は「もうすぐ入院する身なんだから、朝ごはんなんて適当でいいのに……。明日は僕が作るから寝てればいいよ」と言ったら、美里は「入院するから作りたかったのよ」と言った。

「え?」

「だって、しばらく浩紀さんに作ってあげられなくなるでしょ?」

「それはそうかもしれないけど、とにかく無理しなくていいから。朝ごはんを食べたら、ちゃんと寝てるんだよ」

「はい、はい。それはそうと、本当はもっと後でいいと思うんだけど、そろそろ赤ちゃんグッズを揃えたらだめかな?」

「いいと思うよ、美里がそうしたかったら」

「ネットで安くてかわいい赤ちゃんグッズのサイトを見つけたの。だから、買っていい?」

「いいよ。僕も見たいから後で一緒に見てみようよ」

「うん」

 あの日の朝、僕たちはそんな他愛もない会話を交わしていた。その後、悲劇が起こるとも知らずに……。僕は午後から珍しく仕事の打ち合わせの予定が入っていて、家を空けることになっていた。家を出るとき、嫌な予感がしていた。家を出てはいけない、美里を一人にしてはいけない、そんな胸騒ぎがしていた。けれども、美里は「一人でも大丈夫だよ。仕事の話なんだから、早く行かなきゃ!」と喜んで僕を送り出してくれたのだった。僕が売れっ子作家だったら、編集者を家に呼びつけることだってできただろうに、無理をして仕事を回してくれた忙しい編集者に気を遣って、わざわざ出版社へ自分のほうから訪ねて行くことにしてしまっていた。出版社へ行って、打ち合わせをしていたとき、携帯に美里から電話が掛かって来た。美里が、仕事の打ち合わせだと分かっていて、電話をしてくるような性格をしてないことくらい分かっていたので、僕は心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。慌てて電話に出ると、「浩くん、たすけ、て……」と今にも消え入るような弱々しい美里の声がした。やっぱり、家を空けるんじゃなかった! どうして今日に限って、僕は美里を一人にしてしまったんだろう? もう少しで成立しそうだった商談をほったらかし、僕は慌てて出版社をとび出し、帰路を急いだ。震える手で一一九を押し、自宅に救急車を手配した。タクシーの運転手を急き立て、「早くっ!」とあらんかぎりの大声で叫んだ。正気の沙汰ではなかった。

 家に帰って、玄関の扉を開け、居間に駆け込んだ。駆け込んで部屋の中の様子を見た。その瞬間、僕は聴覚を失った。さっきまで聞こえていたものが何も聞こえない。聞こえるのは唯一つ、身体に反響している自分の心臓の音だけ……。美里は血まみれになって床の上に倒れていた。目に入る何もかもがまるで悪夢のようだった。これが現実だなんて誰が信じられよう? 僕はぐったりした美里に手を伸ばし抱き寄せた。僕のシャツもズボンも彼女の血でみるみる赤く染まっていく。僕は彼女の胸に耳をつけ心臓の音を確かめた。その瞬間、頭の中でキーンという音がし、聴覚が戻った。ドクン、ドクンと、ゆっくりすぎる心臓の音が聞こえた。美里の心臓は脈打っている! 彼女はまだ生きている! 僕は美里を思い切り抱きしめた。今ならまだ助かる! お願いです、神様! 彼女を連れて行かないでください! 僕は心の中で絶叫していた。美里を抱き寄せながら、ふと冷静になって見慣れた部屋を無意味に見回している自分がいた。そしてあることに気付いた。部屋はいつもより掃除が行き届いており、窓の外を見たら青空の中でいつもより多い量の洗濯物が風になびいていた。その悲しい光景は、僕の脳裏に焼きついて、一生忘れることなんかできないだろう。きっと、美里は僕の言うことなんかきかずに、いつもより張り切って家事をしていたに違いない。

 美里は到着した救急車によって病院に運ばれ、すぐに緊急手術を受けたが、三時間後に息を引き取った。自分の人生で、あれほどまでに酷く悲しい体験をしたことがなかった。なぜもっと早く入院させなかったのか、なぜ僕は美里を一人で家に置いて出かけてしまったのか、僕は僕を呪った。人生を運命を世界を呪った。後悔した。後悔しきれないほど後悔した。後悔したところで美里はもう二度と戻らないのに……。

 奇跡的に助かって、早産で生まれた彩夏は未熟児で、ずいぶん長い間、病院の保育器に入っていた。あんなに二人で子供の誕生を待ち望んでいたのに、彩夏のことをかわいいと思えない自分がいた。美里と一緒に選んだベビーベッドが家に届いても、ベッドの中に子供はおらず、その傍で笑っているはずの美里の姿はなかった。僕は一人ぼっちだった。毎日真っ暗な部屋で、一人で呆然と佇んでいた。本当は一人ぼっちなんかじゃなかったのに……。病院でがんばっている小さな彩夏がいたのに……。それなのに、僕はいつまでたっても彩夏のことをかわいいと思えなかった。

 僕は、長い間、そんな僕自身を呪い続けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ